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中編6
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我歴 - gareki -

10年ぶりに歩く砂浜は、あの日の事がまるで嘘であったかのように見晴らしが良く、とても綺麗だった。

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聞こえて来るのは、静かな細波の音と、春風の音。

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ふと、子供の頃は名前から春一番は陽気な暖かい風だと思い込んでいた事を思い出す。

今では、春一番と言えば冷たくコートを突き抜ける程強い風のイメージがある。

だけど、今も昔も、何となくその風は白く透明な色をしているように感じてしまう。

それはきっと、僕にとっての春一番は初恋の彼女を思わせるからなのかも知れない。

何もかも変わってしまったこの場所で、そんな事を思う。

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……かつてここは、泥に塗れた瓦礫に埋め尽くされていた。

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僕はこの広い砂浜に1人座り、彼女の為にと作ったケーキを傍らに置いた。

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ケーキは5号ほどのホールケーキで、僕がこの10年で積み重ねてきた技術を結集させたものだ。

エスプレッソの染みたフィンガービスケットに、マスカルポーネとマルサラ酒のティラミスクリーム、ココアをふるいかけて出来たティラミス層に、その上1センチ程のクランベリームース。

その断面はアイスケーキのようだが、それよりもずっと柔らかく、とろりとしている。

ボドム(土台)にはホワイトチョコを染み込ませたクランククッキーを敷き、大人びた味のティラミス層と甘酸っぱいクランベリーをホワイトチョコの落ち着いた味で繋ぎ止めている。

それらを甘すぎないグラサージュショコラで包み、飾りには一見乱雑にみえる割れた板チョコや、葉っぱや枝の形を模したチョコレート細工、そしてプラリネされたアーモンドダイスが積み上げられていた。

プラリネにはひとつまみの塩が入れられており、塩キャラメルのような細やかな塩味が、口の中でねとわりがちなチョレートの重さをキッと引き締めていた。

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10年越しの、君への想いを込めたホワイトデーの

お返し。

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「サキ姉、喜んでくれるかな……」

その呟きは波の音より小さくて、小さな潮風に攫われ、流された。

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◯◯◯

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10年前、その頃僕はまだ小学生の中学年くらいで、生意気にも近所に住む従姉妹のサキ姉に恋をしていた。

当時サキ姉は高校生で、そんな彼女からすれば、僕は年の離れた弟のような存在でしかなく、だから僕はサキ姉に対等に見て貰いたくて、子ども扱いされるのをよく嫌がっていた。

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その年、世間では手作りバレンタインが流行り出していて、クラスの女性同士でも友チョコだと言って互いにお菓子を作りあっては、交換するように渡し合うのが流行していた。

サキ姉も高校生らしくその流行に乗り、友達に配るんだとチョコレートブラウニーを大量に作っていて、それを近所に住んでいた僕にもプレゼントしてくれた。

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僕はそれが本命じゃ無い事なんて子供ながらに分かっていたが、ただただ単純に、大好きなサキ姉からのバレンタインチョコをもの凄く喜んだ。

しかも、貰ったお菓子は、サキ姉が友達に渡していたのと同じようにちゃんとラッピングされていて、高校生の友人達と変わらない扱いを僕にしてくれていたと思い、それはもう天にも昇るはしゃぎようだった。

絶対大事にする!って渡してくれたサキ姉に言っては、「ちゃんと食べてよね」と笑われてしまった事を、よく覚えている。

僕はその笑顔と恥ずかしさに顔が熱くなってしまって、「ホワイトデーのお返しは3倍返しだからね」と悪戯っぽく微笑む彼女の冗談にさえ、元気な返事で真に受けてしまっていた。

弟みたいに僕を可愛がる彼女が、僕に何かをせびる事なんて一度も無かったし、全然本気で言った事じゃなかったんだろうなと、今の僕なら分かるけど、

子供らしく純粋に素直だった当時の僕は、これは大人だと認めて貰う為の試練なんだって、えらく張り切ってしまった。

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絶対にサキ姉を喜ばせてやるんだと、ホワイトデーの3日前には、風邪をひいたと嘘まで吐いて学校を休み、共働きの両親が居ない隙にこっそり、デパートまでケーキの材料を買いに出掛けた。

サキ姉から貰ったのが手作りのバレンタインだったから、どうしてもお返しは手作りにしたかった。

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思わずニヤニヤしてしまう表情をぶら下げて、市の図書館で調べた材料を、少し迷いながら買い集めていく。

手持ちのお小遣いでは高い食材は買えないけれど、それでもなんとか一回だけお菓子を作る分は揃えられる。

デパートの店員さんは「どうしてこんな平日の昼過ぎに子どもがいるんだ」って顔をしていたけど、それさえ気にならならいほど、ウキウキと僕は店内を闊歩していた。

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…しかし、その時だった。

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突如、それまで経験の無いもの凄い揺れが、僕らの町を襲った。

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グラグラと立っていられないほどの激しい揺れで、デパートの商品棚が、滅茶苦茶に崩れた。

周りにいた大人達でさえパニックになっていて、色んな人がひたすらに叫ぶ声が飛び交っていた。

僕は初めての事態にどうすればいいか分からなくて、暫くして揺れが収まっても必死に近くの柱にしがみついたまま動く事が出来なかった。

ただ、怖くて怖くて、店内の照明が割れて暗い空間で、怒鳴るように早く逃げるんだと叫ぶ大人の怒号や、怪我をして動けない誰かの助けを呼ぶ悲鳴が、地獄のように恐ろしかった。

だけど、周りの人達が皆んな、必死になってフロアの出口へと走り出して、僕はこんな暗い場所に取り残されると思うと怖かったから、ぐちゃぐちゃになったデパートの中をとにかく置いていかれまいと泣きながら走って付いて行った。

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忘れられない、衝撃的な記憶。それは、2011年の3月11日の、あの大震災の出来事だった。

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歴史的なこの大地震は、大きな揺れが何百キロ先まで伝わり、震源地の近くではその後発生した津波によって、生活の全てが崩れ去っていった。

僕の住んでいる町は海の近くだったから、本当に何もかも、全部壊れて、無くなってしまった。

学校も、家も、デパートも、家族も、友達も、そして、サキ姉も……

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後に残ったのは、泥に塗れた瓦礫だけ……

僕の歴史は、そこで終わった。

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◯◯◯

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この10年間の僕を縛り付けていたのは、渡したくても渡せなかった、サキ姉へのホワイトデーの未練だった。

大好きだった彼女へのお返し、あの時形のあるものは全て流れてしまったけれど、サキ姉への想いだけは、僕の心に、ずっと残っていた。

震災が明けて最初の年は、町中まだ滅茶苦茶で、それどころじゃ無かった。

帰るべき故郷は放射能汚染で人が入れる場所では無くなっていたし、遺体の見つからない行方不明者の捜索も、全然進んではいなかった。

それから少しずつ復興が進んでいって、世間もゆっくりゆっくり余裕が出来はじめてきて、僕はようやく、サキ姉へのお返しに取り組む事が出来るようになった。

だけど、彼女への想いは時の流れの中で大きくなってしまっていて、初めて作る下手くそな手作りのお菓子では、全然納得のいく出来栄えにはならなかった。

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もうその頃の僕には、このホワイトデーのお返ししか無かったから、何度も何度も作り直して、考え直して、気が付けばもう、今日で10年が経過してしまっていた。

当時小学校中学年だった僕は、いつの間にか、高校生だったサキ姉を追い越してしまっていた。

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そして今、ようやく出来上がったこのケーキを、僕は、居なくなってしまった彼女へ渡す。

波打ち際で1人、かつて瓦礫に埋もれた彼女の遺体が上がったというこの場所で。

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びゅおお…と、冷たい春風が、小波を立てる。

僕は、高温の珈琲を入れた魔法瓶を取り出した。

そして、その熱いままの珈琲を、傍らのケーキにゆっくりと掛けていく。

これが、最後の仕上げだった。

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10年前、この町を津波が襲ったように、丁寧に作り上げられたケーキはぐちゃぐちゃに崩れていく。

上に飾られたチョコレート細工や乱雑に重ねられた割れた板チョコ、アーモンドダイスをコーティングするプラリネも溶けてなくなり、バラバラと溢れていく。

ケーキを覆うグラサージュショコラも溶けて崩れ、クランベリームースも、ティラミスクリームも、跡形も無く消えていく。

元々エスプレッソが染みたフィンガービスケットも、波打つ珈琲の勢いで簡単に散り散りになり、最後の最後に残ったのは、ホワイトチョコが染みた、白骨のようなクランククッキーのみだった。

このケーキは、サキ姉を想い続けた僕の人生、僕の歴史、そのものでもある。

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僕から彼女への、愛の証。僕と彼女が、ここに居た証。

あの災害から止まってしまっていた時間は、今、ようやく溶け始めた。

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砂浜に滴るケーキは、やがてこの土地へ染み込み、瓦礫と共に流れた彼女達と同じく、広い太平洋へと流れるだろう。

僕はその最後を春風と共に見送り、ゆらりと揺れる細波ようにその場から消えた。

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