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これは、とある男性が出張で港町にある支社を訪れ、帰り道の途中で古びた漁村を通りがかった時の話だ。
もう日はだいぶ傾いており、天候も荒れそうな気配を見せていた。
次の日から3日間休暇だったこともあり、この辺りで宿を取ろうと考えた。
漁村であれば海の幸を味わえるかもしれないと思い歩いていると、折りよく海沿いの道に歴史を感じさせる3階建ての旅館を見つけた。
彼は旅館に入り部屋が空いてないか尋ねると、ちょうど3階の見晴らしがいい部屋が空いていたので、今夜はここに泊まることにした。
男が旅館の露天風呂で仕事の疲れを癒やし部屋に戻ろうとした時だった。
旅館の玄関先に珍しいものを見つけたのだ。
△の形に編まれた縄の角にそれぞれ鈴が付いており[きがん]という札が吊るされている。
男は旅館の主である男性に『これは風鈴ですか?』と訪ねると、その鈴について話してくれた。
『これは…きがんの鈴と申します。
この辺りは昔から漁業を営んでおりますゆえ、何人もの漁師が荒れた海に飲まれ、帰らぬ人となりました…
そして、海で亡くなった魂が海から家に、家から天国へ向かえるようにと…お盆の時期になると、この鈴を軒先に吊るすようになったのです。
△の左角が海、右角が家、上角が天国に繋がる道とされ、海から家の間の部分に[きがん]と書いた札を吊るすのです。
[きがん]というのは、帰ってきて欲しいという願いの祈願と、魂が海から岸に帰ってくる帰岸という2つの意味を兼ねておるのです。』
男もそんな風習は初めて聞いたものだった。
その後、海の幸を中心とした美味しい夕食をいただいた男は、この【きがんの鈴】の話を自らの手帳に書き留めた。
夜になると外は嵐が近づいているのか、雨が降り始め風が強くなっていた。
夕食にいただいた地酒の酔いもあり、男は早々に床についた。
だが、男は夜中に目を覚ましてしまった。
時計を見ると深夜の2時を過ぎた頃であった。
窓を打ちつける雨と風の音で目が覚めたのだろうか?
こうなると音が気になって寝付けなくなってしまったので、もう一度酒を飲んでから寝付こうと思い、冷蔵庫からビールを取り出して飲み始めた。
外は吹き荒れる雨と風の音が凄まじく、かなり天候が荒れている事がわかった。
場合によってはもう一泊する事になるかもしれないな…と思った時であった。
雨と風の音に混じって別の音が聞こえてきたのだ。
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ザッ…ザッ…ザザッ…ザザッ…
リーン リーン リーン
何人もの足音、それに…鈴の音か?
嵐で飛ばされないよう、旅館の主が軒先から外しているのかと思った。
だが、そう思った次の瞬間に男はそれがおかしいことに気付いた。
まず、足音の数がおかしい、明らかに数十人はいるであろう数が聞こえる。
いや、それ以前に…旅館の3階のこの部屋に…
あんな小さな鈴の音がこれほど鮮明に聞こえるはずがない。
ましてや雨と風の音がこれだけ大きいなら尚更だ。
男は窓から外の様子を伺ったのだが、外の光景を見て背筋が凍りついた。
なんと、海から旅館に向かって何十人もの人らしき何かが1列に歩いているのだ。
そして、旅館の軒先辺りで薄くなり…消えていくのだ。
男は眠気も酔いも一気に覚め布団に包まり震えながら朝を迎えた、翌朝には嵐は完全に過ぎ快晴であった。
男は旅館をチェックアウトする際、旅館の主に昨夜の事を聞いてみた。
『はて?昨夜は嵐で外に人など出てはいなかったはずでございます。
昨日はお客様以外に当旅館を訪れた方はおりません、雨や風の音を聞き間違えたのではないでしょうか?』
やはり旅館の主も知らないと言う。
しかし、何かひっかかるので更に食い下がろうとしたが
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『お客様、昨夜は何もありませんでした』
と旅館の主にきっぱりと釘を刺されてしまい、それ以上聞くことは出来なかった。
旅館を出る際、主の目が"これ以上詮索するな"と言っている気がして寒気がしたと、後に語っている。
作者死堂 鄭和(しどう ていわ)