中編4
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騒音被害

 ああ、今日もだ。今日も――。

 俺は両手で耳を塞いだ。両耳が痛くなる程、強く。

 しかし。

 『それ』は指の僅かな隙間を無理矢理こじ開けて入ってくるのである。

「いい加減にしてくれ…」

 俺は布団で全身をくるみ、その暗闇の中でそうぼやいた。

「…もう2時だぞ」

 頭痛がどんどんと強くなっていき、喉元に何かが込み上げてくる。

 吐きたい。しかし、吐いたところで、何も解決はしない。そのやるせなさがまた俺の気分を落ち込ませる。

 銃声と怒号、そして不愉快な笑い声――それが俺を悩ませている元凶である。

 少し前までは全てが平穏だった。しかし、今年の4月に引っ越してきた恐らく大学生であろう男のせいで俺の日常は壊されたのである。

 その男は夜な夜な――というか酷いときは一日中、何らかのゲームをやっている。大抵、やっているのは戦争ゲームである。俺はゲームにあまり詳しくないので、具体的なゲーム名などは分からないが、そのゲームの銃の音とキャラの声が毎日、隣室に鳴り響いているのである。それに加え、どうやらそのゲームを友達とやっているらしく、喋り声と笑い声、そしてたまにあり得ないぐらいの声量の大声が聞こえてくる。

 そいつは夜中だろうが、お構いなしである。今も夜中の2時だというのに、五月蠅い銃声と話し声が聞こえる。

 マンションやアパートに住んでいる以上、隣室の生活音やある程度の話し声が聞こえてくるのは仕方がないことであろう。俺だってまったく音を発さないわけではないし、隣人だって音を出さずに生活をするのは不可能である。そこが『お互い様』であるのは重々に承知している。

 しかし。

 そういう範疇を超えている。

 最後に、充分な睡眠をとれたのはいつだろう。仕事で身体は疲労しているのに、騒音が俺を現実の世界に引き戻す。

 最近、気絶するように眠ることが多くなった。しかし、そんな睡眠では何も休まらない。

 こんな生活に耐えられる人など何人いるのだろうか。俺はもう限界である。

 管理会社や大家にも相談した。警察を呼んだことだってある。しかし、何も改善しなかった。管理会社や大家はあまり協力的でないし、警察は民事不介入とかで、精々注意するだけである。

 バカには何言っても分からないのだ。

 引っ越しも検討しているが、正直俺が引っ越す意味が分からない。新しい住居を探す手間や引っ越し代を何故俺が負担しなければならないのだろうか。

 心身ともに疲弊はしているが、なぜだかそういう意地が俺にはあった。

 今住んでいる所は、会社への通勤も便利だし、立地も良い。何より、部屋の感じがよく、家賃が安いのである。これ以上の物件にはなかなか出会えないだろう。

 ただ、隣人だけが。

 この隣人だけが、最悪なのである。

「もう…ダメだ」

 気づけば俺は身体を起こして、部屋の中を歩き回っていた。それで音が抑えられるわけではないが、幾分か気が楽になる。

 ぷつん、と俺の中で糸のようなものが切れた音がした。足取りが軽くなり、まるで宙に浮いているかのような気分になった。

 すぅ、と突然、耳の中に何かが入ってきた。しかし、あまり気にならない。すべてがどうでもいいのである。

 どうにでもなれ。

 その異物は耳の中をどんどんと進んでいる。形容しがたい不快感が耳の中を襲う。

 気づけば俺の左手は菜箸を握っていた。しかし、なんでそんなものを持っているのかとか、それで今何をしているのか、などを考えることはしなかった。自分ではない何かにすべてを任せることにした。

 俺は今空気なのだ。空気が意思を持つことなどない。

 不快感を纏ったそれは最深部に到達したらしい。頭を締め付けるような痛みが耳の奥から感じられた。

 つん、と膜のようなものに菜箸の先が当たる。

 ああ――。

 ぷちっとあまりにも呆気ない音がした。どろりと、生暖かい液体が流れ出る。そして、その液体は耳の中を伝って、外に這い出てくる。

 結局、その後、どうなったのか自分でも分からない。

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 なぜだろう。

 手が暇だったので、血がべっとりとこびり付いた菜箸と撫でながら、ぼんやりと考えた。

 他の音はまったく聞こえなくなったのに、あの音だけが頭の中に鳴り響いている。それは頭の中で反芻しているというよりは、今も尚、隣の部屋から聞こえてくるのである。

 おかしな話であるが、あまり気にならなかった。

 ――ずっと経験してきたことである。

 3日前に潰した鼓膜の痛みはもうなくなった。

 俺はふらふらした足取りで、風呂場に向かう。浴槽に置いてある頭を手に取り、思い切り地面に叩きつけた。

 それは腐敗したトマトのようにぶよぶよだった。

 7日前に殺した男は恨めしそうに俺のことを見上げていた。

 風呂場に居ても音が聞こえてくる。俺に逃げ場はないのだろう。

 結局、何をしても解決しないのだ。俺は風呂場から出て、布団に戻る。それから、布団で全身をくるみ、力強く耳を塞いだ。

「もう夜中の2時だぞ…」

 そして、暗闇の中でそうぼやいた。

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