Yの母には戦時中、結婚を約束した「健一」という男性がいた。しかし「健一」は戦地で亡くなり、終戦後、彼と友人であった父と関係を深め、結婚した。父と「健一」は同じ戦地に赴いていた。Yの両親が互いの関係を深めたきっかけは、「健一」が亡くなる前、母への伝言を父に託したからだった。
父と母は初対面だった。健一の死を明かされた当初、母は悲しみに打ちひしがれた。けれども優しく寄り添う父に惹かれ、結ばれた。
父は明るく快活な男だった。「だった」と言うのもYが物心ついた頃には、口数も少なく大人しい性格になっていたからだ。歳を重ねたものとは違う。まさに人が変わったようだと周囲は話していた。そんな父の変化に最初に気づいたのは母だった。
見た目は変わっていない。ただ仕草や癖、言動など、以前の父とは違う。母はYに「お父さんが健一に似てきた」と話し、次第に父の事を「健一」と呼ぶ様になった。何故か父もそれを受け入れていた。それは周囲の大人達も巻き込み始めた。皆、父の事を「健一」と呼び、接した。違和感を持ったのは、その時、両親の過去を知らないYだけだった。
ある日、珍しく酔っ払っている父が、戦争での体験を話してくれた。父が向かった戦地は特に壮絶で、食糧を確保するのも至難だった。仲間達は食糧がなく、1人また1人亡くなったそうだ。父も「食べられる物」は何でも食べたと話していた。続けてYは「友達だった健一さんは、どうして亡くなったの?」と質問した。以前から疑問に思っていたからだ。
すると父は「俺が健一を食べたんだ」と薄笑みを浮かべ答えた。その言葉と表情は、とても冗談とは思えなかった。Yは額から汗が吹き出る程の恐ろしさを感じた。そして我慢できず、咄嗟に会話を変えた。その後も「健一を食べた」と言う言葉と、戦地での「食べられる物は何でも食べた」という言葉が組み合わさり、Yの脳裏にこびりついた。それは父とYだけの秘密の話だった。子供ながら、誰にも話してはいけないと理解したそうだ。
そして歳を重ねるごとに、父の姿は変わっていった。母は老年期の父の姿を見て、初恋を思い出したかのように、いつもはしゃぎながら「健一、健一」と父に笑い、語りかけていた。それから、しばらくして父は他界した。今は遺影の中だ。しかし、遺影にはYが覚えている父の姿はない。そこには薄笑みを浮かべた、「健一」の姿が飾られている。
作者夕暮怪雨