中編5
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未練

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ふとすれ違いざまに漂って来たのは、フランス製のタバコGitanes Caporalの香りだった。

女は、慌てて振り返り、鰹節と枯れ葉を燻したような独特の香りが、どこから放たれているのか探した。

日は既に落ち、家路を急ぐ人の群れの中に、それらしい香りを放つ人物を見出すことは出来なかった。

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駅正面 改札口の斜め上にある丸い大きなアナログ時計は、午後5時を指している。

大学病院の診察を終えた女は、ジャケットの襟を立て、私鉄への乗り換え口に向かって足を早めた。

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あ!

女の肩越しに、再びあの香りが漂う。

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「あの、すみません。ちょっと、いいですか?」

真後ろに、50代後半から60代前半と思しきスーツ姿の男が立っている。

サイズが合わないにもかかわらず、無理やり着込んだのかパツパツにつんつるてん状態。

今にもボタンは弾け飛び、ズボンは破れ尻が覗きそうな有様だ。

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男は、両手に余るほどの真紅のバラの花束を大事そうに抱えて立っていた。

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左手首には、高級腕時計OMEGAの文字が見える。

うわっ。悪趣味。珍妙なアンバランスに、女は思わず絶句する。

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「あのー、 あなたは、野原バラさんですよね?」

男はおもむろに話しかけてきた。

「いえ、違います。私は、野原バラという名前ではありません。」

「そうでしたか。それは、残念です。最後に別れてから、30年以上も待っているのに、まだ会えないんですよ。」

男は、そう言うと、がっくりと肩を落とし、項(うな)垂(だ)れたまま黄昏の闇に呑み込まれていった。

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女は、コートのポケットからタバコMarlboroを取りだし、口に咥えた。

「Marlboro」

「Gitanes」とは、ある意味真逆に位置するタバコの銘柄である。

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30年前の私…。

数々の黒歴史を重ねて生きていた。

とにかく生きるために、生き抜くためには何でもした。

若気の至りではすまぬことも たくさんしでかした。

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そんな中、作家志望の男と出会った。

世間知らずのボンボンは、私を野原バラと名付け、一生愛すると誓った。

当時は、あんな不細工ではなかったはず。

いや、当時から、あんな奴だったようにも思う。

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あんまりやりきれなくて、強引に記憶を書き換えたのかもしれないと思う。

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朝から晩まで変な香りのするタバコを吸い続け、時間にルーズで、いつも締切に間に合わず、紙くずとなった原稿用紙の山に埋もれて暮らした男。

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こんな生活嫌だというから楽にしてやったのに。

男が書いた売れない小説の筋書き通りに実行した。

ぬかりのない「完全犯罪」のつもりだった。

なんで今更…。

あんな姿を晒しても、

こんな私のような女のところに現れる。

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そういえば、つい二時間ほど前、医者から告げられた言葉を思い起こす。

「もってあと一年ってとこですかね。動けるうちに会いたい人には逢っておいてください。」

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「会いたい人に逢っておいてください。」

最近の医者は、残酷だ。

私には、会いたい人なんて、ひとりもいない。

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カルテを見れば分かるだろ。

家族の「家(か)」もない天涯孤独の身だってことぐらい。

病気は診るが、人間は見れねぇんだな。

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皆てんでバラバラ。死んじまった奴もいる。

牢屋や閉鎖病棟の中に入ったきり。

一生出られない… そんな奴もいたっけ。

けれど、30年経った今、幽霊になっても、バラの花束両手に抱え、私に会いに来る男がいるとは夢にも思わなかったね。

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ったく、迷惑な話だ。

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わるいねぇ。

せっかく、会いに来てくれたんだろうけど。

私は、昔から あんたが大嫌いだったんだ。

タバコの銘柄も、食べ物も、外見も 性格も 価値観も 何もかも。

どれをとっても、一つとして似かよっているところはなかったはず。

なのに…。

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とうとう、貯金が底をついた日が私の誕生日と重なって。

毎年真紅のバラを100本プレゼントしていたからと、大事な父親の形見の時計を質屋にいれちまったって言われた時は、もう言葉がなかった。

どんな高級腕時計も 質屋の手にかかったら二束三文だって知らなかったのかねぇ。

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なんかなぁ。

怒る気力も 詰(なじ)る元気もなかったよ。

ただ、夜になって、床(とこ)に横になった時、なぜか急に汗のようなしょっぱい涙が ぼろぼろ流れてきてしまって。

枕を しっぽり濡らしたことだけは、よくよく覚えているよ。

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OMEGAだか、Gamera だかしらないが、時計を質屋から取り戻すまで、何ヶ月かかったと思う?

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ふぅ

溜息とともに タバコを吐き出す。

立ち上る紫煙に惹かれるように、また、さっきの男が闇の中から現れた。

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「ジャジャジャジャーン」

薄ら笑いを浮かべ、滑るようにやってきた男は、

「やっぱり、あなたが野原バラさんですよね。雰囲気が変わっていたから、びっくりしましたよ。タバコの臭いでわかりましたぁ。はい、これ。」

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両手に抱いたバラの花束を、強引に手渡して来た。

「だったら何?命でも取りに来た。」

女はタバコを地面に落とすと、ぐりぐりと踏みにじった。

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「あぁぁぁ、もったいない、タバコ、今吸ったばかりなのに。……違いますよ。その逆です。生前、日の目を見ることなく終わってしまった僕の小説を熟読してくれて。挙げ句に、トリックどおりの完全犯罪まで実行してくれてありがとう。リアリティに欠けるって言う理由で、いつも最終選考から漏れていたから。でも、そうじゃないってことを、僕は、君の手によって、身を持って体現出来たってわけです。それも、これも、君がいたから出来たこと。ひとこと感謝と御礼を言いたくてね。」

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「……」

「それと、バラの花束をお渡ししたかったんですよ。今日は、ハッピーバースディ お誕生日おめでとう。それと、僕の父さんの形見の時計。質屋から取り戻してくれてありがとう。」

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「あんたさぁ、馬鹿じゃないの。ホント、馬鹿は死ななきゃ治らないって嘘だね。馬鹿は、どこまで行っても馬鹿。馬鹿は、死んでも治らない。」

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ひんやりとした空気が 女の身体を優しく包み込む。

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バラの花束も 男の姿も 煙のように消えてしまっていた。

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目の前を おかしな格好をした若者たちが、ニヤニヤと相好を崩しながら、通り過ぎていった。

そうか、今日は、10月31日か。ハロウィンの宵祭が私の誕生日だったな。

世間に疎いのは、私もさ。

そういえば、幽霊は、黄昏時に一番現れやすいって言ってたね。

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「ねぇ、ハロウィンって 外国のお盆みたいなものなの?」

問いかけてみるも、返事はない。

一陣の風が 吹き渡り、枯れ葉が一枚通り過ぎていった。

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「…ちがうか。ちがうよね。」

フッと笑みがこぼれた。

ー馬鹿は私。そう、私のほう…。

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完全犯罪なんかじゃなかったんだよ。

警察には、バレバレでさ。

情状酌量の余地ありで、3年間半の執行猶予はついたけど、

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前科モンだよ私。

何も知らないで。

このボンボンが。

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あと一年の命か。

いや、もうひとふんばり 生きてみようかな。

未練たらしく 生に執着しながら生きてみるのも悪くないか。

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女は、買ったばかりのMarlboroを箱ごと駅のゴミ箱に投げ捨てると、私鉄の改札口を抜け、電車ホームのある地下二階まで一気に駆け下りた。

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