AtmosFear ~魔女”が”与える鉄槌~

大長編166
  • 表示切替
  • 使い方

AtmosFear ~魔女”が”与える鉄槌~

〈プロローグ〉

ポケットの中の携帯電話が震える。どうやらメールの着信があったようだ。

オレは仕事の手を止め、携帯電話を取り出した。

携帯電話の画面を見ると、やはりメールの着信だった。内容は見なくてもなんとなんとなく察しが付いている。

メールの内容は…『今夜8時。時間厳守。遅れるんじゃねぇぞ!』。

飲み会の確認メールだった。今夜、昔馴染みの友人同士で飲み会を予定しているのだ。

メールの送り主は、友達のAだ。相変わらずメールの文面が命令口調だったが、長い付き合いなので、もう慣れた。

学生から社会人になると、学生当時の友人関係は希薄になるというが、やや強引なAのキャラのおかげで、俺たちはまだ馴染みの関係を継続できている。Aには感謝している。

仕事が終われば、気が置けない友達同士の飲み会が待っている。楽しみだ。

メールの返信を済ませたオレは、「よし」と独り呟く。

その際に、オレの小声を耳にした隣の席の社員が俺をチラリと見たが、すぐに目を逸らして自分のパソコンに視線を戻す。

仕事の時間にプライベートのメールの返信をしている事は、職場の規律的には問題のある行動だろう。しかし、隣の席に同僚がオレを注意することはない。

なぜなら、みんな、自分の仕事をこなすことに精一杯だからだ。

オレ自身だって、この小休憩が終われば、また再びパソコンの画面とキーボードに向かい合わねばならない。

再び仕事に没頭するオレの願いは、ただ一つ。

今夜は飲み会があるから、早く帰りたい、である。このペースなら今日は残業にはならないだろう。

だかしかし、問題が一つあった。

今日は、会社の部署会議の日なのだ。夕方から開催されるその会議に参加せねばならない義務がある。

飲み会に遅刻はできない。然りとて会議には参加せねばならない。

プライベートの時間を割いて行われる会議。

ああ、会議なんてくだらない。早く終われ。心の底からオレはそう思っていた。

現在、19時。

オレは夜の繁華街を意気揚々とした気分で歩く。これから飲み会。仕事の疲労も吹っ飛び、気分は上々である。

残業で行われた会議は、早々と、そして滞りなく終わった。

会議なんて、クソだ。

話し合いという名目の、既に決定された事項の周知と伝達と確認だけのくだらない集まり。それが会議だ。

そんなクソな会議を、迅速に無駄なく円滑に終わらせる術をオレは知っている。

それは…、

一つ目、強いものには従うこと。

二つ目、その他大勢に立場でいること。

この二点である。

つまるところ、組織の中で『自分を出す』なんて行為は、無駄だという事である。

例えば、会議の最中…。

「え~、つまりこの議案について僕としてはね…、」

そう上司が自身の考えを述べたとしよう。そして、

「それで、皆は、どう思うかな?」

そう会議の参加者に質問を投げたとしよう。

なお、上司の案には、突っ込みどころは満載である。その上で、部下の大多数の同意を得る事で議題が決定される事が前提だとしよう。

そんな会議に参加するオレ達は、どうすればいいのか?

決まっている。

沈黙で返すのだ。そうすると「ではそれでいこう」と勝手に議題は進んでいく。

では、対応に失敗してしまう悪い返答例を紹介しよう。

「何か意見はあるか?」そう言う上司に対して。

まず一つ目。

仮に「××を××すればどうですか」と、改善案を提示したとしよう。

「ほう、君はそう言う意見なんだね。ではこの場合だと、どうだろう? え、分からない? 君はそんなことも解らなくて意見を言ったのか。そう言えば君は普段からそう追うこと適当だよね、云々…。」

自身の意見に異議を唱える無知な部下に対しての個人攻撃が行われるだろう。ごめん被りたい状況である。

次、二つ目。

「いえ、違うと思います」と、反対意見を言ったとしよう。

「へえ。君はそう思うのかね。みんなはどうだろう。彼の意見をどう扱えばいいのだろうか。では僕と彼の意見のどちらが良いか多数決で決めようか、云々…。」

自身の意見について反対を述べる部下に対しての反応。

一人の上司と多数の部下。上司の意見に反対すれば悪感情を持たれるのが明白な多数決。

参加者がオレに賛同するわけのない、勝ち筋のない多数決は、やるだけ時間の無駄な展開であり、こちらの避けたい展開である。

最後に、三つ目。

「××にしてみればどうでしょうか」と、上司の意見を超える新たな案を唱えたとしよう。

「ふん、確かにそれは良い案だ。やってみようじゃないか。責任者は発案した君だよ。後はよろしく頼むよ。」

オレが提示した意見を上司は確かに受け入れた。しかしその業務の責任を負わされ立場もないオレの孤立無縁な努力が幕を開ける。そんな面倒な状況は何がなんでも回避したい。

詰まるところ、組織の中では、結局、強い立場の人間には逆らって良い事はない。心身的・心労的の両面で面倒が増えるだけなのだ。

仮に誰も意見を述べなかったところで、話は勝手に上司の中で進んでいく。

何より、仕事への情熱も志もなく給料だけ満足に貰っているオレ達としては、上司の指示を聞いていたほうが楽なのだ。

困った展開になったら上司に報告して解決してもらえればいい。何故ならオレの苦労は仕事を指示した上司の責任なのだから。

なんと気楽な、社会人生活なのだろうか。

そうそう。後一つ。忘れてはならないことがある。

会議の後に、出来る限り迅速にやっておく作業があった。

オレはデスクに戻ろうとする上司を呼び止める。そして、

「素晴らしい案でした」「職場の皆んなもそう言ってましたよ」「これからよろしくお願いします」と賛美を贈る。

そうやって、思ってもいない事を述べながら上司に媚びを売っておくことを忘れない。

そんなオレの考えとは裏腹に「いやぁ、みんなが同意してくれて良かったよ」と、満足げな表情を浮かべ、感謝を告げる上司。

職場の皆んなとの温度差に全く気付かないまま満足感に浸る上司の姿を見ながら、オレは心の中で呟く。

オレの社会人生活は、順風満帆である、と。

もう一度言おう。

会社という組織の中では頑張るだけ無駄であり、その場の空気を読みながら「皆の中の一人」でいる方が、全くもって楽なのである。

飲み会を予定している居酒屋店の前についた。

店は事前にネットで調べてある。オレは念の為、携帯画面に映るネットの写真と店の看板を見比べる。

うん。ここで間違いないようだ。

ついでに、ネットに掲載されている食レポにも目を通す。

どうやら良い店のようだ。食レポに載せられた記事も概ね好評であり、誰が書いたかは知らない感想だったが、その文章を読んだだけでオレは満足していた。

食レポによれば、居酒屋としては、QSCAも満点に近い。

QSCAとは、Quality(クオリティー)、Service(サービス)、Cleanliness(クレンリネス/清潔感)、Atmosphere(アトモスフィア/雰囲気)の四つの指標だ。

それが高得点なら、言う事はない。

扉を開けると、空腹に響く料理の香りと、居酒屋特有の喧騒がオレの身を包む。

集合時間まではまだ三十分ある。会議が早く終わったおかげで時間的な余裕は十分だ。

居酒屋に入ると、見知った顔の男友達3人が予約席のテーブルを囲っていた。

オレが4人目。今夜の集まりには5人の予定だから、オレと既に集合していた3人、そして後一人来れば、全員集合である。


この飲み会の企画者であるAは、テーブル席の奥側に座っている。どうやら先に既に一杯やっていたようで、顔色に赤みがさしている。

他の二人はオレに気を遣ったのか、また到着したばかりなのか、まだ何も呑んでいないようだ。

オレが空いていた席に座り、「いや、遅くなっちゃったかな。ごめんごめん」と、遅刻はしていないが、挨拶も兼ねて紋切り型に詫びを入れる。

Aは挨拶代わりにグラスを掲げた。

「まだ時間も30分あるよ。全然、遅くなんてないさ。」と返事を返す。そして、そのままAは、わずかに酒気を帯びた口調で言葉を続ける。

「けどよ、お前達と違って、あいつ、今夜も来るの、遅いよなぁ。」

あいつ、とは、まだ飲み会に現れていない5人目の仲間の事だ。その5人目の名前を、仮にBとしよう。

Aは、まだ飲み会に顔を出さないBに対しての不満の言葉を続けた。

「なぁ、俺、思うんだけどさ、Bって、約束の時間、いつも守んねえよな。」

しかし、そんなAの言葉に、オレは心の中で首を傾げる。

いつも時間を守らない? Bが? 

そうだったかな。結構真面目なやつだと思うんどな。

そう心の中で呟く。少なくとも、Bは約束を平気で蔑ろにするようなタイプじゃない。そう認識していた。

だがAは、酒が入っていることもあってか、感情を隠さずに言葉を続ける。

「なあ、みんなはどう思うよ?」

と、Aはオレ達三人に返事を促す。

話を向けられたオレ達はと言うと…。

「うーん。まあ確にBって少しぼんやりしている気がするよね。」とオレの右隣りの奴が言う。

「そうだね。マイペースなタイプだよね」とオレの左隣の奴も言う。

両隣の二人とも、無難な返事を返す。

少なくとも二人とも、オレと同じく、Bがいつも約束を破るようなタイプの人間だとは思っていないのだろう。

両隣の二人に合わせてオレも「なんとなく個性的な性格してるよね。変わってるっていうかさ」と、可もなく不可もない返事を返す。

だが、オレ達の言葉を聞いたAはというと…。

「そうなんだよ、あいつ。いつも俺達とは住む世界が違うよ、みたいな表情していてさ。絶対に俺たちの事を見下しているな。本当に嫌なやつだよ。」

と、AはさらにBへの不満を露わにし始める。

「なぁ、お前らもそう思うよな?」

その言葉がAから発せられた、その瞬間。

オレ達のテーブルを囲む雰囲気が変わった。実際に形や熱や質量や変わったわけではない。しかし確かに存在している、その場の空気と呼ばれるものが、変わった。

A以外のオレ達3人は、Aが何を求めているのか、察したのだ。

仮に、Aの機嫌を損ねた場合。非常に面倒臭い展開になる事を、日頃の付き合いからオレ達は理解している。

その場に僅かな沈黙が生まれる。それは、Aの質問にどう答えれば正解か。それを考えるための時間だった。

その沈黙の後。オレの右隣の奴が口を開いた。

「そうだよね、うん、Bっていつも澄ましているっていうか、なんか俺達のところ、見下している感じがするよな。」と。

続けて、オレの左隣の奴も口を開く。

「そうそう、わかるわかる。なんかメールしてても、途中で終わったりとかさ。なんか付き合いづらい所、あるよな、あいつ。」と。

二人のその言葉に、Aはうんうんと満足気に相槌を打つ。そして、オレに目を向けた。

そのAの視線は、『お前も、そうだよな?』そう語ってる。

オレの言葉が、自分の望むものであることを期待している。そういう意思が込められている。

言うべき事は、答えるべき内容は、決まっている。この空気の中で、何を話すべきか。それは当然のようにこの場の空気によって決定されている。

しかし。

喉元に違和感を感じる。声帯にささくれた棘が刺さっているような。

オレは言葉を探し、Bの普段の様子を頭に浮かべた。

確かにBは、ちょっと変わっている奴だ。

自分のペースを崩す事はなく、いつも飄々としており、話が噛み合わない事も時々ある。

だが、約束は守るし遅刻もしない。

オレ達を見下しているなんてことは無く、悪口を口にするのも見た覚えはない。

だが、それは逆に言えば、Aのいう通り、俺達を見下していて相手にする価値もないとか思っているのかもしれない。

ああ、だからあいつとは話が盛り上がらないのか。

それどころか、話している最中、あいつはずっとオレ達を心の中で馬鹿にしているのだろう。

全部、Aのいう通りかもしれない。オレは、Bが嫌いだ。あいつとは、趣味も性格も絶対に合わないな。

そうオレは心の中で結論づけた。この間、僅か2秒程。

この場の空気を読んで、オレはAに返事を返す。

「うん。それ、オレも思ってた。」と。

その言葉とともに、喉元の違和感はすぐに消えた。

同時に、Aが満足気な表情を浮かべる姿が見えた。

「あいつ、本当に性格悪いよな。どうせオレ達のいないところで悪口言ってるんだぜ、きっと。」

ふと、腕の時計に向ける。

時刻は19時25分。

飲み会の集合時刻、5分前になった。

と、そんなタイミングでBが飲みの席に顔を出す。

現れたBの姿を目にして、オレと両隣に二人は、戸惑いを浮かべた。

が、それは1秒にも満たない時間であり、直前の会話を知っているオレでなければ見落としていた程度の変化であった。

「いや、電車が遅れちゃってさ。時間ギリギリになっちゃったよ。すまなかったね。」

と、オレと同じく、挨拶がてらの詫びを入れ、テーブル席に腰を下ろす。

「元気してたか」「久しびりだな」と何気ない素振りで、しかし確かに困惑を抱いた表情で挨拶を口にする両隣の友人2人。

その2人とは打って変わって、

「おー、B! やっと来たか。これで全員集合だ。さぁ、注文しようぜ!」

Aは、ほんの数秒前までBへの悪態をついていたとは思えない態度で、顔色一つ変える事無くことなく挨拶を返していた。

そんなAの態度に合わせるように、両隣の2人も、ぎこちなさが外れ、Bと違和感なく会話を始める。

Bが現れる前と後の会話の落差。その落差を無理やり塗り替えようとする皆の姿の姿。

その光景を見ていたオレは、再び魚の骨を飲み込んだような違和感を覚えた。が、5人での乾杯の後、酒を酌み交わし始めると、オレもその違和感を忘れていった。

Bは、先程のオレ達4人の会話を知らない。それはそれで、いいモノなのだろう。

そして、飲み会の進み中、オレの中にある感情が浮かぶ。

それは、Bに対しての優越感であった。

みんなの言う通り、Bはいけすかない奴だ。

悪口を言われて当然な奴だ。

しかしB自身は、そんなことを露とも知らない。自身が知らない中で、実は周囲の者達から実は蔑まされている。

本人が知らない中で、Bは周囲から見下されている立場になったのだ。

つまりオレはBよりも、上位の立場になったのだ。それが優越感の正体であろう。

オレは酔った頭で、仲良さげに語り合う他の4人の姿を見ながら、そんな事を思い浮かべていた。

それに何より、みんなで他人の悪口を言い合う行為は、気持ちが良かったのだ。

他人を裁き、その裁きに対して皆が同意してくれる。この感覚は、自分にとって、ある種の快楽であった。

そんな感覚を、オレは感じていた。

22時。大量のアルコールを摂取したオレ達は気分良く飲み続けていた。

「それでさ、オレ、仕事が溜まるといつもその同僚に頼むんだよ。その同僚って、会社じゃ珍しく真面目でお人好しっていうかさ、オレが困ったふりするとすぐに手伝ってくれるんだよ。」

と、酒の勢いに任せて仕事での話を皆に聞かせる。

「今日も仕事、その同僚に投げてきちゃった。」意気揚々とオレの口は語る。

そんな中、Aの携帯が音を鳴らした。

「おー、俺だ。どうした?」

Aは席に座りながら遠慮なく電話に出て通話を始める。

「ああ、はいはい、いいじゃない。おう、今から仲間連れてそっちに顔を出すよ。」

そんな内容の通話をした後、携帯電話をポケットに戻しながら、Aは皆に告げる。

「俺の行きつけのナイトクラブで、今パーティーしてるんだとさ。今から合流しようぜ。」

そう言って、Aは席を立った。

毎度のことだが、Aの提案は雰囲気的に断りづらい。しかし、もう夜も更けてきている。どうしようか。

「可愛いねーちゃん達も来てるってよ。」

よし。オレ達はそのAの言葉で行くことを決めた。

しかしBはと言うと、そんなオレ達の空気を読む事なく「俺、明日朝早いんだ。先に帰るわ。」と、同行をやんわりと断る。

「そうか、それじゃあ仕方ない。おい、お前達だけでも一緒に行こうぜ。」

そう言葉を放ち歩き始めるA。その後を追うオレ達三人。

Bは手を振り、駅前に消えていく。

そんなBの姿を、Aが冷たい目で睨みつけていたのが、オレの視界に入ってきた。

Aの行きつけのナイトクラブに顔を出したオレ達。

ナイトクラブに行った経験などほとんどなかったが、先に結論を言えば、最高だった。

気前の良い兄さんが見た事の無い銘柄の酒を奢ってくれた。

若くて可愛い姉ちゃんが身をくねらせて絡んできた。

みんな、今まであった事のない人物けれど、それを気にする必要もなかった。

店の店員も日頃の労を労ってくれた。

オレがなんの仕事をしているかも知らないのだろうが、不安に感じる理由はなかった。

皆、俺の面識の無い人達だった。が、それでもオレ達がAの知り合いだと知ると、良くしてくれた。

酒が入り軽くなったオレの口から出てくる愚痴にも、快く付き合ってくれた。

Aがオレのグラスにワインを注ぐ。

「で、Bってやつ、本当、空気の読めない奴だよな。ほんと、面倒臭い奴。」

「いっつも人のところ、見下しているような奴でさ。訳わかんねえよな。」

「遅刻なんて日常茶飯事で、他人の迷惑なんてこれっぽちも考えていないんだろうな。」

Aの注いだワインがなみなみと入ったグラスを片手に、オレとAは、Bへの悪態を肴に、酒を飲んだ。

周囲の女の子や洒落た格好の連中も、

「そうなんだ、Bって禄でもない奴だね~。」

「そんな最悪な奴がここに来なくて良かった~。」

と、オレの言葉に同意する。

きっと、ここにいる皆んなは、今までBという奴の名前すら知らなかった連中なのだろう。

だがそんなことはどうでもいい。

オレの言葉に同意してくれる周りの連中の存在に、オレは心底、気分が良かった。

時刻はすでに夜一時を過ぎている。

店内の客の熱気もやや醒めた頃。ふと、酒の入った頭が少しづつ醒めてきたオレの視界に入ってくる光景があった。

店内の端っこ。ただでさえ薄暗い店の中でも、さらに光の届きづらい場所にある一つの席に、奇妙な客の姿が目に入ったのだ。

騒がしい店の中、誰と喋るでもなく、一人テーブル席に座っているその人物。黒いパーカーを着込み、フードを被っていて顔が見えない。

が、良く目を凝らすと、その人物は文庫本サイズの開かれた本を手にしていた。まさか、この店内の喧騒と薄暗い灯の中で、読書をしているのだろうか。

うーん。人の趣味は様々だろうが、オレから見れば、変わった人物である。

興味が沸いたオレは、その人物の観察を続けた。

服装のせいで解りづらいが、良く見れば小柄な体格をしており、もしかしたら女性かもしれない。

しかし、フードで隠されたその表情は伺えない。だが、浅めに頭を覆うフードの隙間から、紺色の髪が見えた。

本のページを捲る手も白く細く、パーカーの裾からのびる素足もかなり華奢であり、おそらく若い女性なのだろう。

もしかしたら、大学生…。いや、高校生かもしれない。

しかし、何故、未成年がこんな盛り場に、しかも真夜中とも言える時間に来ているのか。

…まさか、危険な夜遊び、というやつか。

オレの背筋に背徳的な感情が奔る。

興味を持ったオレは、その女性に近づき、声を掛けた。

「こんな場所で読書とは、君は随分と本が好きなんだね。」

と、当たり障りない内容で、話し掛ける。

オレの言葉を聞き、女性は読書の手を止め、

「ええ。私、物語を読むのが好きなの。」と俺の言葉に返事をしながら、顔を向ける。

フードの隙間から紺色の髪が揺れるのが見えた。

「でもね、見ていたのは本だけじゃないんだ。」

女性は、頭に被っていたフードを外すと、

「私、さっきからずっと、あなたの事を見ていたの。あなた、とても楽しそうだったね。」

と、唐突に予想外な事を口にする。

フードの下から、癖の強そうな紺色のショートヘアと、化粧っ気のない顔が現れた。

その姿は、オレの予想通り、女の子と表現しても差し支えない。

その若く綺麗な顔をした女性は、真夜中の店には当然場違いであり…。

だが、オレはそんなことよりも、たった今女性が口にした言葉に気を取られる。

ずっと、オレを見ていただと?

少なくとも、オレはこの女性に見覚えは無く、知り合いではない。

「君、オレと会った事、あったっけ?」

と、オレは当然の疑問を口にする。

しかし、女性はオレの質問に答える事なく、

「ここは不思議な場所だよね。」

と、全く関係ない話を始めた。

「『ある私的な意見を是認する人々は、それを意見または世論と呼ぶのに、それを好まない人々は異端と呼ぶ』」。

女性の突然の小難しい言葉に、

「は?、よろ、ん?」

突然に何を言っているんだ、この女は?

オレの困惑など気にする素振りもなく、女性は言葉を続ける。

「あなたは、人の『群れ』が好き?」女が奇妙な質問をする。

「お、おいおい。群れってなんだよ。オレ達は獣じゃないぞ。」

更に続く奇妙な女性の言動に、オレは戸惑い、気圧されている感覚を抱く。

「人間なんて、皆、一皮剥けば狼。獣と同じ。」

「君はオレのことを誘っているのか?」

反射的に下品な返事を返してしまったが、それは気圧される事を拒絶したいと考えるオレのささやかな反抗であった。

既に最初の頃に抱いた興味は消え失せている。

オレの反応に、女性は微笑む。その笑顔は、確かに綺麗ではあった。

しかし、この女の…いや、女の子…娘と言っても差し支えないこの人物の言動や物腰、娘の持つ雰囲気は…、ともかく変わっていた。

真夜中の店にそぐわない見た目。

見た目にそぐわない言動の数々。

例えるなら、その場所の常識という雰囲気に囚われない人物。その言葉で表現するのが相応しいだろうか。

ともかく、その娘は逆らい難い奇妙な空気を纏っているかのようだった。

女性は言葉を続ける。

「あなた、この場所は楽しい?」

くそ。なんだってんだ。こんな娘に舐められてたまるか。

「…ああ。楽しいよ。だって楽しむために来てるんだからね。」娘に気圧されないよう、オレは返事を返す。

「私は楽しくない。だって、ここは人で溢れてるから。」 

娘の返事に、オレは若干の苛つきを覚えた。

「だったら来なければいいじゃないか。」大人気なく言葉に怒気を込め、詰め寄るように言う。

「…ごめんなさい。ちょっと昔の事を思い出しただけ。」

苛つきを込めたオレの言葉に気づいたのか、娘は態度を変える。

そんな娘の言葉を聞いて、溜飲が少し下がったオレは「別にいいよ」と言葉を返す。そして、

「この店が嫌いなら、なんで君はここにいるんだ?」

と疑問を口にした。

オレの質問に対して、娘はオレの顔を見詰め、

「さっきも言ったでしょ。私、あなたに会いに来たの。」

と口にした。

「…君はいったい誰だ? 何が目的なんだ?」

オレは再び、当然の疑問を娘に投げ掛ける。

「私はあなたを救いたい。」

…は?

娘の言っている言葉は、支離滅裂である。

しかし、何故かオレは、この娘の言葉に強く反論する気持ちが失せていた。

怒りとも、呆れとも、諦めとも違う。

「あなたはさっき、友達の悪口をたくさん言ってたよね。」

俺が、悪口を言っていた?

…確かに、オレはさっき、この店の中でBの悪口を言っていた。

「それって楽しかった?」

楽しい?

Bの悪口を言うことが楽しい?

「悪口を言っている時のあなたは、とても楽しそうだったね。」

Bは嫌な奴だ。皆んなから嫌われている。悪く言われて当然の奴だ。

「みんながそう言っているから、あなたもそう言っていたのかな。」

Bの事など、オレは別にどうでもいい。オレは、あの場の空気を読んでいただけだ。

「みんなで、一人を見下して。みんなで、言いたくもない悪口を言い合って。楽しかったでしょ。」

オレの思考を先読みするように、娘は言葉を続ける。

…オレは今、この女に責められているのか?

あの時に感じた、喉に刺さる、ささくれた棘の存在を思い出す。

その棘の正体がなんだったのか。

考えることも、馬鹿らしい。

「…オレは、空気を読んでいるだけだ。何も悪いことはしていない。」

オレは自身の苛つきを押さえ込みながら、そう言葉を返す。

雰囲気に合わせて、何が悪い。

何故なら、それが世間の常識だからだ。

みんな、その場の空気を読んで生きている。

それの、何が悪いと言うんだ。

一歩。娘がオレに近づいた。手が触れるほどの距離にだ。

「これ、あなたにあげる。」

娘が、オレに何かを差し出した。

「これは、あなたのために書いた物語。」

それは、一冊のノートだった。

ナイトクラブの暗がりの中の一冊のノート。なんとも奇妙な取り合わせだった。

「『ある私的な意見を是認する人々は、それを意見または世論と呼ぶのに、それを好まない人々は異端と呼ぶ』。」

娘は先程も言っていた呪文のような言葉を繰り返す。相変わらず意味は解らない。

「これは、とある哲学者の言葉。」

そう言った後、娘はオレに顔を寄せる。そして、

「私はあなたを救いたい。」

オレを救いたい。先程と同じ言葉を、オレの耳元で小さく囁く。

「…オレを何から救おうっていんだよ。」

オレの疑問に、娘は答えた。

「地獄から。」

と。

力強く、はっきりと。

「…じ、ごく…?」

訳がわからない。地獄だと。オレが地獄にいるとでも言うのか。

「もしあなたが、その正体を知りたいのなら、このノートの中に書いた物語を読んでみて。そうしたら真実がわかるから。」

娘が耳元から顔を離す。そしてフードを被り直し、微動だにできないオレを残して店の出口に向かって行った。

残されたのは、オレの手元にある、一冊のノートだけ。

俺は、ぼんやりと、本を眺めていた

直後、束縛を解かれたように体の自由を取り戻したオレは、店の出口に目を向ける。

しかし、娘の姿は、既にいない。

オレを探していて、オレを救いたいと言って、オレに本を残して消えた女性。

終始、彼女のペースで話をし、最終的に一冊のノートを渡されただけ。

訳がわからない。後を追いかける気も起きない。

まるで、彼女の書いた筋書き通りに、彼女が書いた物語に沿って動かされている。

そんな感覚を、オレは覚えていた。

自宅にて。徹夜明けての、朝8時。呑み会から帰宅したオレは、シャワーを浴びて、就寝の支度をする。

なんとも自堕落な朝だろうか。しかし一人暮らしのオレに苦言を述べる者はいない。

アパートの一室から、オレは外の景色に目を向ける。

東に登る陽は既に高く、今から就寝することに対して、これから働く世間の皆様に多少の罪悪感を感じる。

しかしその罪悪感も眠気には勝てない。

欠伸をしながら、アラームをかけようと携帯電話を手に取るために、鞄を探る。

…鞄を探る手に紙の束の感触があった。

それは、店で出会った奇妙な娘が残した、一冊のノート。

そのノートに触れ、酒で誤魔化していた記憶と感覚が、オレの脳裏に蘇る。

娘と別れた直後、謎の緊張が治らなかったオレは、再度アルコールの大量摂取に励んだ。

そして、翌朝…。今まで忘れようとした感覚が、逃れようとした記憶が、再びオレを染め上げる。

奇妙な戯言を言い続ける変な女。そう思い込もうとしたが、娘の印象は消えない。酔った勢いで、娘の残したノートも捨てようとしたが、結局捨てられなかった。

娘が残した、最後の言葉。

『私はあなたを救いたい』『地獄から』

『もしあなたが、その正体を知りたいのなら、このノートに書かれた物語を読んでみて。そうしたら真実がわかるから』

娘の残した言葉が、オレの脳裏に刺さっている。

真実とは、なんだ?

渡されたノートを、家まで持ち帰る気など、なかった。

娘が言った質問を、気にする必要など、なかった。

ましてや、このノートを読む事など、有り得なかった。

そう思っている筈なのに、オレは結局、娘の疑問に縛られ、ノートを捨てれなかった。

そして今。オレは、そのノートを開こうとしている。

読もうとしているのだ。

オレの意思など、無関係に。

そうすることが、もうすでにオレの物語として決定しているかのように。

窓の外の日差しは、まだ、明るい。

オレの手が、ページを捲る。ノートの中に綴られた物語の扉を開く。

ノートの1ページ目には、縦書きで文字が記されていた。

『僕らは地獄の中にいる』

これが、この物語の題名なのだろうか。

オレは再び、ノートを一枚、捲る。

新たに開かれたそのページは、文字で埋め尽くされていた。

女の子が書いたような小さな文字。それが紙を埋め尽くしている。

物語…。これは、小説なのか?

このノートには小説が書かれているのか?

普段、あまり読まない活字の小説。

さらに、二日酔いと寝不足に微睡む頭。

ノートのページを捲り、そこに書かれた物語を追ううちに、オレは奇妙な眠気に包まれていった…。

翌朝。

ベッドに横になっていた俺の耳に、ザアザアとしたノイズ音が入ってくる。

いや、これはノイズ音ではない。

…雨の音だ。

俺はマンションの窓を叩く雨の音で目を覚ました。頭痛が酷い。雨の音をこれほどまでに不快に感じるのはそのせいか。

体に障る酒の飲み方は、そろそろ控えるべきだな。

気怠い体を無理矢理に寝床から引き起こし、洗面台に向かう。

今日が例え晴天であろうと豪雨であろうと大雪であろうと、俺のやる事は変わらない。

さて、仕事へ、行くか。

「〇〇君。ちょっと、ちょっといいかね。」

俺は仕事の手を止め、俺の名を呼ぶ声の主に顔を向ける。

「なんでしょうか、部長。」

声の主は、俺の直属の上司。俺が配属されているこの部署の部長であった。

「〇〇君にね、お願いしたい、お願いしたい仕事があるんだよ。」

癖のある独特な言い回しで、部長が俺を呼ぶ。どうやら仕事の指示のようだ。

「これ、これなんだけどね。」そう言いながら、部長が俺に一枚の仕様書を差し出す。

とりあえず、俺は渡された仕様書を受け取り、パラパラと捲りながら目を通す。

「君ならば簡単な、簡単な仕事だよ。」

さっと目を通した限り、中型のコンテナの仕様書のようであった。従来の物置サイズに比べればかなり大きめのものであったが、部長の言う通りそれほど難しい仕事ではない。

「今度、今度ね、ちょっとしたコンペがあって、うちの会社も設計書の提出をする事になったんだ。」

で、その仕事を俺に回そうと言うことか。俺は部長の意図するものを把握した。

「君には、この仕様書通りの設計図を作ってくれればいいから。君なら、こんな仕事は朝飯前だと思うがね、お願い、お願いするよ。」

笑みを浮かべながら、そう口にする部長。

相変わらず、部長は俺を過大評価している。俺はただ、与えられた仕事を黙って処理しているだけだ。

「解っていると思うけど、思うけど、君達の存在一人一人の仕事が、会社を支えているんだ。君達はこれからも、これからも、自分の仕事に誇りと高い意識を持って業務に取り組んでね。」

歯の浮くような言い回しだが、部長はこれを大真面目に言っている。昔から、これが部長の仕事のスタンスなのだろうし、そのスタイルで今の役職に付いているのだろう。

対して俺のスタンスは、上司に歯向かわず、上司の言葉に意を唱えず、自分の本音は語らず、組織に合わせたふりをする。それが俺のスタイルなのだ。

会社に従順に帰属する事を誇りに思う目の前の上司と、上司の機嫌を損ねないように振る舞うだけの俺。

「じゃあ、じゃあ、私はこれから昼食に行ってくるよ。」と、俺への要件を終わらしてデスクから立ち去る部長

その部長の後ろ姿を見ながら、自分と上司の間に存在する確実な温度差を俺は感じていた。

…まぁ、いいか。

俺は指示に従うだけだ。

さて。

自分のデスクに戻った俺は、再びコンペ用の仕様書に目を通し始める。

その仕様書を見る限り、それはただの一辺が約4.2mの中型のコンテナであった。

だが、その仕様書には、一つ、条件があった。

製作するコンテナは、一つではない。数は明記されていないが、複数作る必要があること。それが仕様書に記された内容であった。

複数のコンテナの製作。

つまり、大量生産に向いた作りにしなければならないという事だろうか。

…コンテナの大量生産。一体、何に使うのだろうか。

つまり、同型のコンテナを、同時に使用する場面があるということか?

ふと、このコンテナの設計についての、あるアイデアが俺の頭の中に浮かんだ。

……。

…。

…が。俺はそこで思考を止める。

どうでもいいか。

言われた事以上の事をする必要はない。

俺は会社の指示に従うだけだ。

定時の退社時刻になり、俺は颯爽と職場を後にする。

今夜は仲間との飲み会が待っている

残業など、もっての外。仕事は仕事。プライベートはプライベート。時間外労働など、してやるものか。

それが俺のスタイルであり、社会への細やかな抵抗であった。

抵抗か…。

飲み会に向かう道中。俺はふと、思惑する。

組織に忠を尽くすふりをしている俺ではあるが、それは会社に対して拒否反応が皆無というわけではない。

部長が俺に仕事を指示してきた時。部長は言っていた。

『君達の存在一人一人の仕事が、会社を支えているんだ』と。

ふん。

一人一人の仕事が会社の経営に直結するなんてあり得ない。

俺達にそんなリスクのある責任を任せる事など、ある訳がない。

俺個人がいくら努力したところで、会社に影響なんて出るわけない。

逆に仕事に手を抜いたところで、会社を危機に晒すような事態になるなんて、絶対にありえない。

少なくとも、会社という組織が、俺という個人を大切にしているなんて、思えない。

俺は、ただの歯車だ。会社の…社会の、ただのギアだ。

俺は今の会社に数年間勤め、努力の無意味さを痛い程実感していた。

だから、仕事など適当でいいのだ。

大きなミスをしない程度の頑張る。それでいいのだ。

駅前の繁華街。夜を知らないかの如く街頭を照らす照明や、店名の描かれた看板のネオンが輝く中。街頭の色や看板の名前が変わっても、この雰囲気は昔から変わらない。

「…昔はこんなんじゃ、なかったな。」

俺は自身の過去を思い返す。

今の会社に就職する前。学生時代はそれなりに勉強もできる方だった。人間関係も良好であり、仲間もたくさんいた。

いじめとかいった学生特有の問題とは無縁の生活を送っていた。どちらかと言えば、所謂、スクールカースト的に勝ち組、という奴だったのだろう。

勉学と人間関係に恵まれていた俺は、業界では一部上場企業と言われるゼネコンに就職することができた。

こんな大手に入社できるなんて!

当時の俺は、自分が社会に認められたのだと、歓喜したものだった。

…が、その時期、この会社は事業拡大を計画しており、多くの新入社員を求めていたこともあって、本当に運良くコネ入社できたのだと言うことを、俺は後に知るのだが。

そんな事は露知らず、俺は仕事を頑張った。

少なからず、俺には建築関係といった物作りの仕事は向いていたのだろう。頑張れば頑張る程、当時の上司は俺を認めてくれた。褒めてくれた。

…が、その時は知らなかったのだが、この会社の新人教育の社風は、『若者はともかく褒めて伸ばせ』であった事を、俺は後に知るのだが。

兎にも角にも、その時期の俺は、仕事に充実感を感じていた。任された仕事を積極的に取り組んだ。やりがいを感じていた。それはなんて素晴らしい日々なのか。

…が、その充実の日々は突然に終わりを告げる。

「君にならこの仕事を任せられる。頑張りたまえ」そう上司に言われ、俺は責任のあるプロジェクトを任された。大きな仕事だった。関係者も沢山いる。

期待に応えるためにも、俺は寝食を後回しにしてでも仕事に埋没していった。

しかしそんなある時。大事な会議を控えた前日。

俺は、会社で倒れ、救急車で病院に運ばれた。

幸い、命に関わる病状ではなかったが、仕事の疲労が俺の病を重篤化させたのだった。

一ヶ月の入院中。俺は片時も仕事のことを忘れなかった。しかし、入院している身の上では何もできない。

退院後。会社に復帰した俺は、自分が任されていたプロジェクトは他の同僚が引き継ぎ、ほぼ既に完了していることを知った。

俺の役割といえば、仕事途中に倒れたことで多方面に迷惑をかけてしまった事への謝罪であった。

「君にプロジェクトを頼んだのは失敗だったね」と上司が俺に告げる。詫びは無い。

それが、組織のために身を粉にして働いてきた者への言葉か。

以来、俺は頑張ることを止めた。

頑張ることに不快感を覚え、頑張るという努力を諦め、結果、自分に手が届く範囲の努力しか、しなくなった。

そして一年後。

やりがいがない。辞めたい。そう先輩に相談したことがある。この先輩は、会社内で俺が唯一尊敬する先輩だった。

「3年は働いてみろよ。何か得るものがあるはずだから」先輩はそう言ってくれた。尊敬する先輩がそう言うのだから、辞めずにまだ働こう。当時の俺はそう思った。

それからまた半年後。その先輩は、俺とは無関係なところで、会社の女性にパワハラをしたと言われ、厳重注意を受けた。

「俺は何もしていない!」そう先輩はパワハラを否定したが、相手の女性は大手銀行の取締役の娘だったそうで、会社は事態を穏便に抑えるために、先輩がパワハラを働いたと断定し、相手の女性を庇った。

そして、先輩は会社を辞めた。「会社のために、お前が泣いてくれ」先輩は、会社にそう告げられたと言っていた。

同時に先輩は、当時俺が辞めたいと相談した時の真相を話してくれた。

会社を辞めたいと言った俺の相談を受けた先輩は、その事を当時の上司に相談した。

当時の上司は「仕事を任せて倒れたなどと言われたら、世間から何を言われるかわからない。上手く丸め込んでおいてくれ」そう先輩に指示したそうだった。

真面目だった先輩は組織の保身の為に辞めせられた。

そして、自分のやる気さえ、組織にコントロールされていた。

俺はそんな状況に絶望した。

だが、それ以上に、悔しかった。

悔しくて、会社を辞めるのも馬鹿らしいと考えた。

だから俺は、頑張るのをやめた。組織に従うふりをした『その他大勢』になろう。

そうやって、俺は組織に寄生して生きよう。

それが俺の結論であり、今の俺を形作るものとなった。

そんな考え事をしているうちに、飲み会を予定している居酒屋に到着した。

店の扉を開けると、店内に詰め込まれている客の喧騒とBGM代わりに流されているテレビの音が耳を打つ。

まさしく、居酒屋という雰囲気の店だ。

「あ、〇〇君。待ってたよ。」

店に到着した俺に最初の気付いたのは、C子だった。

「おう、悪い悪い。遅くなっちゃったかな。」

「ううん。全然大丈夫だよ。○○君が理由なく遅刻するわけないじゃん。」

気さくに答えるC子。さすがは俺の彼女。俺のことを良くわかっているし、この場の空気をよく読んでいる。

「おう。来たな○○。まぁ座れよ。」

空のグラスを手にしたA山が、俺を迎える。既にその顔は赤みを帯びている。A山は先に一杯やっていたのだろう。いつもの事だ。

A山が飲み会を企画すると、いつもこうだ。予約時間より前に店に来て、皆が集まるまで先に飲んでいる。それがA山の飲み会での拘りなのだろう。

予約されていた席には既に、A山とC子、そしてD田とE藤が座っている。

俺で5人目。今日の飲み会は6人で予定されているから、あと1人。B沢が来れば、全員集合だ。

俺は店の椅子にドサリと身を預けるように座り込む。

「○○君、なんか疲れてる?」とC子。

「まぁな。ちょっと仕事でね。やりたくない仕事はストレスが溜まるよ。」

「大手ゼネコンに勤める奴は大変だな。あ、とりあえず生でいいよな。」

A山がにやけた顔で俺の注文を確認する。

「ああ。とりあえず生で。大手は大手で大変なんだぜ。社員の扱いなんて奴隷みたいなもんだよ。」

「店員さーん、生ひとつお願ーい。奴隷かぁ。そりゃひどいな。」

「私、わかるなそれ。私の勤めるショップの先輩も、私のこと明らかに見下しててさ。あれはもう更年期だね。やだやだ。」

C子は町の衣料品店に勤めている。将来はデザイナーを志望しており、資金貯め目的で働きながら、勉強もしているらしい。

そんな仕事の話をしているうちに、

「お待たせしましたー。生中でーす。」店員が冷えたビールをテーブルに持ってきた。

「よし。乾杯しようぜ。」とA山。

仲間同士で集まって、大騒ぎするのが、A山は大好きなのだ。

俺も気の合う友達同士で集まるのは嫌いではない。だからA山とも友人でいられるのだろう。

A山の声で、俺とC子は乾杯のために飲み物を手にした。が、

「え、けれどまだB沢が来てないよ」と、D田。

「うん、もう少しすればB沢も来るんじゃないかな」とE藤。

その二人の言葉を聞いて、水を刺された気分になったのか、A山の表情が曇る。

「…俺、遅刻する奴が嫌いなのは、お前らは知っているよな。」

「でも、予定していた時間までまだ5分あるし…。」

「あと少しだけ待とうよ…。」

二人の言葉に、A山の顔が曇る。

俺は心の中で舌打ちする。二人とも、A山の性格、知ってるだろ。空気を読め。

その時。

「お待たせ。みんなもう集まってるんだね。早いなぁ。」

B沢が現れた。

「俺のこと、待ててくれたんだね。ありがとう。」

先の俺達のやりとりは聞いていなかったようだ。

「…おう。B沢。遅かったな。」

先の不機嫌さが嘘のように、B沢を迎えるA山。が、その言葉には若干の棘が含まれている。

「ははは。約束の時間5分前だから、セーフだよね。」

B沢は、A山の心情など全く気付かない。相変わらず、マイペースな奴だ。顔には出ていないが、A山の苛つきが想像できた。

「ね、ねぇ、みんな揃ったし。乾杯しようよ。B沢君も早く座って座って。」

C子が空気を読んでB沢に着座を勧める。

「おう、B沢。とりあえず生中でいいか?」俺も空気を読んでB沢に聞く。これ以上A山の気分を害すと、面倒くさい。

「ああ。俺はハイボールで。」と、B沢。

「お、おう。ハイボールね。」と、俺。Bのマイペースは揺るがない。

そうして、六人が集合しての飲み会が始まった。

6人の仲間での宴は進む。仕事の後だったこともあってか、俺の酔いも進む。

混み合う店内の人間が出す騒音のような声と、壁に備え付けられたテレビから流れるBG M替わりの音声の中。

俺はその音に負けないように、大声で仕事の愚痴を語る。

「やりがいなんて、求めちゃだめなんだよ」「俺が社会に出て学んだ事はそれだけだった」などなど、俺は皆に日頃の不満をぶち撒ける。

皆、俺の仕事への鬱憤など聞き飽きる程耳にしていた筈だ。だが、例え聞き慣れた話だろうが、酒の肴としてなら支障はない。俺自身も、場が盛り上がるならと、それを善しとしている。

「そうよね、解る解る」と、鮮やかなピンク色のサワーが注がれているグラスを手にしながら、俺の彼女のC子も同意する。

「お金の為に働いていると思わなきゃ、やってられないよね!」

「そうそう、社会なんてクソだよな。俺はいつもそう思ってるぜ!」

C子に合わせ、A山も俺の愚痴に同意する。

「そうそう」「俺もそうだぜ」D田とE藤も頷く。

みんなが俺の愚痴に、意見に、考えに、同調してくれる。俺は解放された気持ちを抱きながら、グラスビールを飲み干す。

「だから俺は働きたくないんだよ。俺みたいに、若くて力がある存在の無駄遣いなんて、させたくないからな。」

A山はビールジョッキを片手に掲げながら、そう言葉を続ける。

…ちなみに、A山は不動産を扱う資産家の息子で、働かなくても金には困らない。

まぁ、そんなツッコミを入れる無粋な存在は、この場には居ないが。

「いつも聞いているけど、〇〇君の職場は大変そうだね…。」

B沢も、日本酒の注がれたグラスを手にしながら、俺の愚痴に言葉を返す。

「…まぁ、この不況の世の中だ。働く場所があるだけでもマシかもしれないけどね。」

澄ました顔でそう語るB沢。A山の顔が一瞬、ピクリと引きついた。

…ちなみに、A山は金には困っていないが、就職活動はしている。性格上、上手くは行っていないようだが。

まぁ、その事に触れる無粋な存在は、この場には、居ない。と、思う。

「でもさ。B沢よぉ。仕事のやりがいって、大事だと思うぜ!。なぁ、E藤!」とD田。

「そうだよ。金よりも大切なものとかって、あると思うんだよね!。そうだよね、A山君!」とE藤も続けた。その二人の言葉に、A山の表情が元に戻る。

D田とE藤。よくやった!

「そ、そうだよな。働くだけが人生じゃないよな!」

A山の機嫌は、治ったようだった。

「俺は、やりがいのあることをしたいんだよ。今の社会を変えるような、でっかいことをしたいんだよな。今はその準備期間なだけだ。」

言葉を続けるA山。

…決して、B沢はA山を馬鹿にしたわけではない。B沢はただ、空気が読めないだけの奴だ。だが、A山の狼狽する姿を見ていると、B沢の言葉でA山は自身のコンプレックスを刺激されてしまったのであろうことがバレバレだった。

「よし。今日は俺の奢りだ。みんな気分良く飲もうぜ!」

場の空気を戻そうと、A山が気前良く奢りを宣言する。

「A山君、素敵~!」「ありがたいな。さすがA山!」

これで今日はタダ酒だ。人の奢りで飲む酒ほど美味いものは無い。俺たちはA山に拍手と喝采を送り、気を取り直して宴を楽しもう、そう思った。

その時であった。

『緊急速報です』

店内のテレビが、ニュース速報を告げる。

その『速報』のワードに、店の中の人間が、何事かとテレビを注視した。

一瞬の間、店内は静まり返る。

テレビ画面には、

『死刑制度見直し、閣議決定』

というワードが映し出される。

…なんだ。政治のニュースか。

静まり返った店内に、再び喧騒が蘇る。

店内の大部分の人間と同じく、俺も再びグラスを口に当てる。死刑制度だかなんだか知らないが、国のやることなど、どうせ俺たち一般人には無関係だ。どうでもいい。

だが、俺たちの中で、何故か、A山とB沢だけが、テレビ画面を見ていた。

そんな二人に合わせて、俺もグラスを置き、再びテレビ画面を眺める。

テレビ画面では、速報の続きを喋るニュースキャスターの姿が映し出されている。

『本日内閣は、死刑制度の根本的見直しを図る旨を閣議決定しました。昨今、社会世論において、重犯罪の頻発化を問題視する声があり、国会でも議論となっていました。このたび、内閣での検討を行い…』

…やはり、俺には無関係なニュースだ。

今度こそ、グラスを傾ける。と、その時。

「犯罪者が増えているのか。」

A山から不釣り合いな言葉が飛び出した。

「つまり、悪人が増えたってことだよな。こんな社会で良いのかなぁ。」そう続けるA山。

なんだ、突然?

A山の思考の変化に、俺は追いつけないでいた。

「A山くんの言う通り、息苦しい社会だよね、今ってさ。」

これまた突然、B沢がA山に同意する。

「おお、B沢。お前もそう思うか!」「うんうん」

感動するA山。頷くB沢。

さっきまでの雰囲気はどこへやら。二人は握手すら交わし、社会のおかしさについてを熱く語り始めた。

さっきの速報に感化されたのか?

まあ、せっかく二人が盛り上がっているのだから、空気を壊さないよう、俺たちは黙っていよう。

話題に取り残された俺たちは、そう目配せをし合う。

そして。A山とB沢の死刑制度談義がひと段落ついたところで。

「ところで、○○よぉ。」と、二人の話題が俺に向いてきた。

「お前も、会社の言いなりになっているだけなんて、腹が立たないのか?」

と、そんな事を言う。

腹が立つ?

は!

それどころか、俺は恨んですらいるがね。…だが、その手の葛藤は、数年前に俺の中で解決したつもりだった。

「お前もちょっとは、社会に反抗してみろよ。」

A山の言葉に、B沢も続く。

「ははは。反抗なんてのは大袈裟にしても、会社のやり方に意見を言うぐらいはいいかもね。まぁ、それは○○君が決めることだけどさ。」

そう言ってはいるが、B沢もA山の言葉に同調しているようであった。

「ははは、解ったよ。考えてみるさ。」

険悪になりやすいA山とB沢が、せっかく意気投合しているんだ。その空気を壊すのは良く無い。

俺は二人の言葉に対して、曖昧に頷いた。

飲み会の帰り道。夜は更け、駅前繁華街の店も閉店したところがあちらこちら。

灯りの消えゆく道を、俺は彼女のC子と共に歩く。

「まさか、A山君とB沢君が二人で盛り上がるとは思わなかったね。」

俺に連れ添いながらC子が俺に話題を振る。

飲み会が終わりに近づく頃。

その盛り上がった二人に「もっと社会に反抗しろよ」と説得を繰り返された。

同席していたE藤とD田も「そうだよそうだよ」「もっと頑張れよ」と同調する。

曖昧な返事のままでは、A山とB沢の二人は、…特にA山は許してくれなかった。とは言っても、無碍にはできない。

俺を鼓舞する仲間の声は、まさに圧力そのものだ。

やるのは俺だぞ、と思いながらも「ははは、そうだよね」。

お前達は関係ないじゃないか、と心中抱きながらも「うん、その通りかもね」。

他人にとやかく言われたくないよ、感じながらも「ま、そのうちね」。

といった具合に、俺は仕方なく仲間達の言葉に同調を続ける。

そんな中、B沢が発した一言が、俺の心に触れた。

「じゃあ、まずは誰にも気付かれないような、小さな反抗をしてみたらどうだい。君だって、ただ会社の言いなりになっているのは癪だろう?」

そして今。

仲間の影響で、俺の考え方は、少しだけ、変わっていた。

そう。本当に、なんとなく、俺は変わった。

仲間達の言葉を聞いているうちに、俺の中に燻っていた感情が、その場の空気によって、表に現れたのだ。

「確かにな…。」誰ともなしに俺は呟く。

「どうしたの、○○君。」俺の呟きにC子が反応した。

「確かに、このままじゃ、癪だよな。」

やってみるかな。

会社への、小さな小さな反抗というやつを。

翌々日。会社にて。

俺は自分のデスクで、設計用のソフトを起動する。

何をするか。当然、これから仕事をするのだ。

先日、今の上司である部長から渡られたコンペ提出用に依頼された、例の仕様書を見ていた時。思い付いたアイデアがあった。

そのアイデアに思い至った当初。俺はそれを「どうでもいい」と深く考えずにいた。

自らに無駄な仕事を増やすだけだと思ったからだ。

しかし、今は違う。

俺は、自らのアイデアを、これからコンペ用に書く設計図に導入する事にしたのだ。

そのアイデアとは。

コンペ用の仕様指示書に記された内容のよれば、製作するコンテナは、一つではないこと。数は明記されていないが、複数作る必要があること。

つまり、大量生産に向いた作りにしなければならないという事。

では、何の為の同型のコンテナを大量に作るのか。

おそらく、同型のコンテナを、同時に使用する場面があるということだろう。

そこで、俺は考えた。

だったら最初から、複数同時に扱いやすいコンテナを作ればいいのではないか、と。

コンテナに、同時活用の為の『拡張性』と『連結性』の機能を搭載させる工夫。そのギア…『歯車』を取り付けること。

それが、俺の頭の中に浮かんだアイデアだった。

そして俺は、この仕様指示書に無い工夫を、自身が書く設計図に取り入れた。

なぜこんな事をするか、

部長に依頼された仕様書とは異なる設計図を、コンペに提出する。

それはつまり、指示された事とは違う事を実行する。そういう事なのだ。

普段の俺だったら、絶対にしないだろう。

部長は俺のことを、指示は絶対に守るやつだと認識している。つまり、指示の通りに言われた事だけをやる人物だと思っている。

そんな俺が自分の指示とは異なることをするなど、想像だにしないはずだ。

俺は素知らぬ顔で、課長にコンペ提出用の設計図を提出する。

「おお、○○君。もう、もうできたのかね、早かった、早かったね。お疲れ様。」

部長は相変わらずの口調で、俺の差し出した設計図を受け取り、中身も見ないまま、デスクにしまう。

それが、日頃の俺への信用の成せる業であろう。

それは、誰も気づかなくても構わない程度の、細やかな工夫だった。

それは、指示と異なるものを提出するという程度の、細やかな反抗だった。

それは、なんて事はないアイデアだった。

それは、コンテナに歯車を付けた。ただそれだけの事だった。

そして。

静かに、運命の歯車が、廻りだす。

ある朝。

「おはようございます」と、欠伸を噛み殺しながら出社した俺の姿を確認するや否や、部長が俺の元へ飛んできた。

「○○君。君の、君の考えてくれた、例のコンテナな設計図がね、なんと、なんとコンペで1位を取ったんだよ!」予想だにしない部長の言葉。

「え?」部長の言葉に固まる俺。

既に出社している皆の視線が集まる。

「あのコンペはね、とある大手クライアントの、大手クライアントの企画でね。そのコンペで1位を獲得したという事は、素晴らしい、素晴らしい事なんだよ!」

天を仰ぎ見る部長。言葉とともに全身で喜びを表現している。

「クライアントの指名発注は間違いなく、間違いなく我が社に来る。全て○○君のおかげだよ!」

まさか、一位を取るとは…。たが…。

「あの、ところで、あの設計図ですが…。」

指示と違う設計図を出したんだぞ。大丈夫だったのか?

部長に聞こうと口を開くが、それより先に課長の口が開く。

「いや、それがね、君の出した拡張性と連結性機能のアイデアが、アイデアがね、クライアントに素晴らしいと評価されたんだよ!」

「あ、ありがとうございます。」

部長の評価に対して、俺は反射的に礼を口にしてしまう。

「○○君にだけは、君にだけは教えるけどね、今回の発注を受ける事での我が社の売り上げは…。」

部長が、俺にだけ見えるように試算書を見せる。俺はその売り上げの資産額に愕然とした。

「凄い額だろう。これも全て、君の発想のおかげ、おかげだよ。私の慧眼は間違って、間違っていなかったね。」

まさにそれが自分の手柄だとばかりに俺を褒め称える部長。しかし俺の頭の中は疑問だらけだった。

たかがコンテナ。それに不釣り合いなほどの会社の儲け。それはつまり、コンテナの発注者…クライアントがこのコンテナに並々ならない費用を投じようとしているということだった。

クライアントは何を考えているんだ?

翌日。夕方。

部署の社員が会議室に集められた。会議である。そして会議の議題は、例のコンテナに関わる事であった。

「今回、今回、このコンペに勝利したことは我が社にとって大変の有意意義なことである。

コンペには他の大手企業も参戦していたが、我が社は勝利した。これはひとえに君達社員の努力の結果であり私の指導の賜物である。

コンペに勝利した結果、このコンテナの開発、建築も、我が社で行う事となる予定であり、これは社内各部署を跨ぐ一大プロジェクトとなるであろう。」

主に発言をするのは部長。その発言の内容は、議論ではなくただの連絡伝達事項と大差ない。

そして、その部長の発言に真剣に耳を傾けメモをとる社員の連中。いつもの会議風景だった。

「私も過去、過去に、大きなプロジェクトに従事し、そして努力することで成し遂げた経験がある。

会社のために努力すれば、君たち社員には必ず栄光が訪れるであろう。仕事の努力は確実に君達を今より一歩も二歩の成長させる筈である。」

いつもの部長の精神論である。しかし、その部長の発言を周囲の同僚は一言一句漏らさずメモに記している。

「今後、このプトジェクトを、このプロジェクトを発端として、我が社は世界に羽ばたくこととなるであろう。

打倒、打倒、世界企業。この言葉を御旗に、プロジェクトに邁進してほしい。私の言いたいことはそれだけである。」

ふう。部長の長口弁は終わった。

と、その時。部長の長口弁を終わるのを見計らったかのようなタイミングで、一人の男性の同僚が手をあげた。質問をする気なのだろう。

「君、君。何か聞きたいことがるのかね。」

部長が質問を許すと、その同僚が口を開く。

「部長のご説明で、これが価値のあるプロジェクトであることは理解しました。

ですが、今の部長のお話の中には、私達が具体的にどのような仕事を任されれるのか、その説明がありませんでした。

いったいこのプロジェクトで、私達は何をすることになるのでしょうか。そこのところを、もう少し詳しく知りたいのですが…。」

至極真っ当な質問を、この同僚はしている。

全く正論だ。部長の言葉の大部分は感情論であり、具体的な説明はまるでない。しかし自分が何を任されるのか、早く知りたいのは当然だろう。しかし、

「今後、近いうちに、近いうちに、各部署への業務の通達がある。君達の仕事は私たち管理職が決め指示を出す。

だから君たちは安心して各自が任された業務に取り組んでほしい。」

そう。だいたい会議の後に、メールで議事録とと共に指示が飛んでくるのが通例だ。たかがメールの一文に、自分達の仕事の内容が掲載されており、管理側は議事録とメールで報告連絡相談、ついでに確認も済ましている。

社員は黙って会社に尽くすもの。それが我が会社にある空気である。

「後で指示のメールを送る。それまで待ってなさい。」質問に対する部長の説明は、それだけである。

「他に、他に質問はあるかね?」と、部長が俺達を見渡す。そして、

「うん、無い、無いようだね。」と、勝手に頷く部長。

「では、では、これにて会議は終わりとするよ。」

颯爽と部長は会議室から姿を消した。

つまるところ、この会議は、部長の仕事に対する思想を語るだけで終わり、そして結局のところ、これから俺たちは何をするのか。このプロジェクトはなんなのか。その答えは会社からのメールを待つしかない。

まぁ、いつものことである。

…部長に質問をした例の同僚が、会議室から出て行く部長の後ろ姿を睨みつけていたこと以外は。

会議の後。退社しようと鞄を手にした俺の目に、1人の男性の姿が目に止まった。

。その男性は、先ほどの会議で上司に質問していた同僚だった。

その同僚の名は、F岡。

F岡は苦虫を噛み潰したような顔をしており、俺はその表情を見て、F岡の苛ついた雰囲気を察した。

俺は挨拶だけ済ませて素知らぬ顔で出口に向かった。が、俺の視線に気付いたF岡は、仕事に使う書類の束が所狭しと置いてあるデスクから立ち上がり、「なぁ」と呼び止める。

その表情から察するに、なぜ俺を呼び止めたか、なんとなく予想できた。

おそらく、会議の愚痴だろう。

「あの部長は、いつもああなんだよな」と、開口一番、F岡はそう口にする。

なお、F岡は俺と違って、非常に勤勉に仕事に励む、真面目な奴だった。それはこいつの仕事に塗れた机を見れば誰でも解るだろう。

このF岡と違い、仕事の上では『何事も可もなく不可もなく』を信条とする俺は、他の同僚からも毒のない奴だと見られている。上司も含めて誰の敵にもならないよう常日頃から立ち振る舞っているためか、俺に愚痴を言う同僚は多い。

「今日の会議さぁ、お前、おかしいと思わなかったか。具体的なことは何も説明されないし、これじゃ会議で集まった意味が無いよな。」

うん、それは俺も思うところであった。だが。

「まぁ、いつもの事じゃないか?」と俺は無難な返事を返す。

しかしF岡は「けどなぁ」と俺の返答を気にすることなく、言葉を続ける。

まぁ、こいつは誰かに愚痴を言いたいだけなのだろう。俺はそう空気を読み、話を聞くことにした。

俺達は場所を変える。社内の休憩室で、缶コーヒーを片手に俺はF岡の愚痴に耳を傾ける。

「あの部長はさ、聞いたところによると、過去は優秀な社員だったそうだ。昔に大規模な公共事業の開発権利を勝ち取ってきて、会社に貢献したんだ。」

それは、俺も聞いたことのある話だった。

「…まぁ、優秀というより、なりふり構わずに利益を優先しようってタイプだったんだろうな。

頑張ればなんでも乗り切れるっていう思考の持ち主でさ、実態は部下を使い潰す事に躊躇いない奴なんだよ。」

うん。確かにあの部長は、自分の体験や仕事への思いを絶対だと思っている。その想い、というか感情の結果、うちの部署の雰囲気ができているのだろう。

『お前達は管理側の言われた通りにやっていればいい。何かを選択したり何かを判断する必要は無い』。それが部長の価値観なのだ。

「俺さぁ…」と、F岡の表情に悲壮感が浮かぶ。

「以前にさ。別の部署にいた頃、あの部長の指示で、お客さんに住宅を売ったことがあったんだ。

その時も、今日の会議みたいに詳しい事は何も教えてもらえず、部長の指示に従っていた。けど実は、その住宅は欠陥住宅で、後々になって、そのお客さんとトラブルになったんだ。

俺、その住宅に問題があることに本当は気づいていたんだよ。でも言い出せなかった。だから…。」

部長の課長との経緯を話しているうちに、F岡の表情が変化した。何かを決意したかのように、真っ直ぐに前を見ている。

「俺はあの部長のやり方に、意義を唱えようと思う。」

缶コーヒーを握りしめるF岡。ペキペキとアルミ缶がへこむ音がした。

「俺達社員だって、人間だ。やりたいことを選べるはずだ。でもここは違う。

上はただ指示をするだけ、下は指示を聞くだけ。

逆らうことも、疑問すらも持たせない。

その結果、仕事への責任感は生まれず、自分が何をしているのか、自分の仕事になんの価値があるのか解らないまま仕事をする。

もしかしたら本当にそれに価値は無く、最悪、それを『良いモノ』として客に売らなければならなくなる。

それこそが、サラリーマンにとっての地獄だと思う。」

…どうやら、こいつは本気のようだ。口だけじゃなく、本当に行動を起こすだろう。

こいつは、真面目すぎる。

「それに、打倒世界企業とか言っていたけど…、このプロジェクトがどれほどの利益に繋がろうとも、さすがにそれは理想論だ。竹槍で戦車に立ち向かう旧日本軍じゃないんだぞ。」

まぁ、確かに世界を相手にするというのは、確かに部長も大袈裟だったな。

とはいえ、こいつは、部長に対して会社の空気的に『マズイ』行動を起こそうとしているのは確かだ。

「俺はこれから、部長のところに行って来る。そして部署の仕事のやり方を変えてもらうんだ!」

つまりこいつは、今の職場の雰囲気に、水を刺す、という事か。

「お前はどう思う?」とF岡が俺に意見を求める。

俺は、『これがうちの会社のやり方だ。雇われている身の上なんだし、程々に付き合っていけばいいと思ってるよ』と、無難な言葉を返すべきろう。

しかし、こいつの言っている事を、俺も少なからず理解できるし、会社への不満は俺も抱いている。

けれど…。

「そうかもな…。まぁ、頑張ってくれ。」そう毒にも薬にもならない返事を返した。

俺は身の丈を弁えている。不満はある。だが、それを怒りという形で表に出さずに立ち振る舞う要領の良さは持っている。

俺の励まし(?)を聞いたF岡は、空き缶をゴミ箱に捨て、肩を怒らせながら歩き出す。部長に直談判に行くのだろう。その姿を見て、俺は、

「なぁ。ちょっと待てよ」とF岡を呼び止める。

「なんだ、一緒に行くか?」振り向くF岡。俺はこいつに大切なことを伝え忘れていた。

「今ここで話したこと、みんなには言わないでくれよ。特に部長には。約束だぞ。」

「ん?、解ったよ。」素直に頷くF岡。

F岡の、この『マズイ』行動に対して、俺は保身を忘れない。

翌日。部長からのメールが届いた。

俺は、このコンテナの外装の設計主任となった。

つまりは、コンテナ本体を作る責任者である。

だが、このコンテナが何に使われるのか。その説明は、メールには書かれていなかった。

メールを見て新たに解った事は、二つだけ。

俺はこのコンテナを、少なくとも300個以上、作らなければならない事。

そして、このコンテナ開発のプロジェクト名。

[project Violet]。

それだけだった。

なお、部長の意見を述べに行ったF岡は、今日は会社に来ていない。急な欠勤になった、とのことだった。

数日後。

「○○君。ちょっといいかね」出社した俺を呼び止める部長。

部長の手には、数枚の書類があった。

「君に任せているコンテナについて、発注先から追加の仕様が届いた。考えてみてくれ。」

そう言い部長は俺に数枚の紙を渡す。どうやらこれが追加の仕様書のようだ。

俺は自分の席に戻り、仕様書に目を通す。

そこには、このコンテナの強度が記されていた。そして俺はその指定された強度の値を見て驚く。

それは、象が乗っても壊れない、などと硬さが可愛く思えるほどの強度であり、例えるなら空爆に耐えれる程のシェルター並の硬さ、であった。

気になる要素はまだあった。指定された仕様では、『外側ではなく内側』の強度を重点的に確保すること、そして『完全防音』であること。

この仕様は、普通ではない。怪獣でも輸送するのか。

いったい、俺は何を作らされるのか。その疑問が俺の中に初めて浮かんだ。

同時に、数日前にF岡が言っていた言葉を思い出した。

『俺達社員だって、人間だ。やりたいことを選べるはずだ。でもここは違う。上はただ指示をするだけ、下は指示を聞くだけ。

逆らうことも、疑問すらも持たせない。その結果、仕事への責任感は生まれず、自分が何をしているのか、自分の仕事になんの価値があるのか解らないまま仕事をする。

もしかしたら本当にそれに価値は無く、最悪、それを『良いモノ』として客に売らなければならなくなる。

それこそが、サラリーマンにとっての地獄だと思う。」

…[project Violet]。これがなんなのか。もっと詳しく部長に聞いた方がいいかもしれない。

そう思い立ち、俺は席を立ちかけた。…その時、ふと、例の同僚…F岡のデスクに目を向ける。

F岡の机は、相変わらず仕事の書類の束に埋め尽くされて、…なかった!

俺は目を見張る。

F岡の机の上から、書類の束が消えていてのだ。各自に支給されているはずのパソコンすら無い。辛うじて有るのは、数本のボールペンといった文具類のみである。

つい先日まで、F岡の机は仕事で埋め尽くされていた。しかし今、その机は綺麗さっぱりと整理されている。その光景はまるで、『仕事』とF岡が『切り離された』かのような感覚を俺は抱く。

F岡が辞めたとか、異動したとかは聞いてはいない。

なら何故、あいつの机から『仕事』が消えたのか。

そういえば最近、俺はF岡の姿を見ていない。最後に会ったのは、数日前の会議の後だろうか。俺に仕事の愚痴を言った後、部長のところへ向かって…。それから…。

まさか。

先程考えていた仕事への疑問は、いつの間にやら消え失せていた。

F岡がどうなったのか。疑問はその日のうちに答えを得れた。

社内のローカルネットワーク、つまり、いわゆる噂話に耳を傾ければ、F岡の現状が把握できたのだ。

ここ数日。俺は自分の仕事に没頭していたため、あまり周囲の同僚とコミュニケーションが取れていなかったのだが、その気になって聴き回れば、断片的ではあるがF岡の情報は入手できた。

簡単に言えば、F岡は、『部長と揉めて部署内で孤立した』状態であったのだ。

噂の中では、今回のプロジェクトについて部長に意義を唱えたF岡は、部長から注意という名目の指導を受け、プロジェクトの仕事を外された、という状況だった。

「社員のやる気を削ぐような言動が目立つ奴だったから注意されて当然」

「やる気の無い存在は部署には不要である」

「他社に遅れを取ることはビジネスの社会において致命的だ」

「会社の方針に逆らう者は社内にいらないということだ」

「やり方に従わない者はプロジェクトに必要ない」

F岡について、そんな噂が流れていた。

さらに、「F岡は過去に大切なお客様に欠陥住宅を売りつけ、その尻拭いは当時の部長が行った。会社に迷惑をかけても平気な顔をしている奴」といった、過去の失敗までも噂で流れる始末であった。

だが、その噂話についての真実を、俺はF岡から直接聞いており、F岡も心底、悔やんでいる事も知っていた。しかし、流れてくる噂話は、その真実とは随分と異なる。

そのことからも、これらの噂の出所は、おそらく部長自身だ。

俺の予想通り、部長に対してのF岡の『マズイ』行動が、裏目に出た結果となったのだ。

そんな中、俺の心中に一抹の不安がよぎる。

会議の後、俺はF岡の愚痴を聞いた。そしてその時。俺は言葉少なめにではあったが、F岡の意見に同意してしまった。

F岡の奴、部長にあった時に、俺の事まで言ってないだろうな。

自分のデスクに戻り、パソコンを操作するふりをしながら、俺はそんな不安に駆られていた。

と、その時。俺は背後の気配を感じた。

その気配を察して後方を振り返った俺の目の前には、…部長が立っていた。

視界に映る部長の姿に、俺は目を見開く。しかしそれは0.1秒にも満たない(と思う)一瞬であり、俺の動揺は悟られていない(と思う)。

「ああ○○君、。仕事は、仕事は順調かね。」

「はい部長。仕事は、仕事は順調です。」

考え事をしている最中での、突然の部長の来訪に驚き、不覚にも俺の返事は部長の口癖と同じになってしまった。

「それは良かった。何か、何か困っていることはないかね?」

笑顔で俺に言葉をかける部長。その態度に変化はない。

部長にとってみれば、俺はプロジェクトの重要メンバーであり社内のエースなのだ。部長の笑顔から、俺への認識に変化がないことを、俺は読み取る。

という事は、律儀なF岡は、部長に俺の事を喋っていないのだろう。俺は真面目なF岡に心の中で感謝する。

「うん、〇〇君。どうか、どうかしたのですかね?」

自身の保身が叶った事に安堵した俺は、今朝方に部長に渡された、例のコンテナの追加仕様の一件を思い出す。

『部長。俺達は何を作っているのでしょうか。』

今朝、俺はその疑問を部長にぶつけるつもりであった。

しかし、だ。

部長は、自身のやり方に意を唱えたF岡から、仕事を取り上げた。情熱を持って仕事をしていたF岡にとって、仕事を取り上げられることは、まさに地獄だろう。

そして社内に流れるF岡を誹謗する噂の数々。

おそらくは噂の出所は、部長本人。その理由は容易に想像できる。部長自身が作り上げた、この部署の雰囲気を維持するためだろう。

そんな状況で、俺が仕事についての価値観を聞いたところで、返ってくる返事は「君は会社の指示に従えばいい」であり、その裏には「逆らえば酷い目に遭わせる」という感情があるのは明白だ。

F岡と同じく、俺も会社への反抗心はあった。そして実際に、誰も気づかないような小さな反抗を企てた。

…結果、それが会社の利益に繋がったのは予想外であったが。

もう、会社に反抗するのは、止めよう。

せっかく成果も挙げれた。このまま、部長のお気に入りでいよう。

今まで通り、会社に寄生して、甘い汁だけ吸っていよう。

F岡への処遇は、俺に改めてそう思わせるには充分であった。

「大丈夫です。困っていることは何もありません。」

愚直という名の仮面を被り直し、俺は部長にそう返事を返した。

翌日。

今日もF岡は職場に顔を出さない。

聞いたところによると病欠だそうだ。体調が良くないらしい。

心配ではあるが、俺の保身の為にも、これ以上F岡とは関わりたくないので、ちょうどいい。これで、俺の社会人生活は、元通りである。

…と思っていたのだが。

その日。俺のパソコンに、一件のメールが入ってきた。仕事用のアドレスに送られてきたということは、送り主は会社の人間だ。

誰からだろうか。俺はメールを開ける。

「うわ…。」そう俺は嘆く。メールの送り主は、F岡だった。

『話があるから、会社裏の喫茶店まで来てほしい』

病欠だったはずのF岡からの、メール。

見なかったことにしたい。

だが、無視もできない。

仕方ない。話だけ聞きに行こう。そう思い、俺は職場を抜け出し、会社裏の喫茶店に向かった。

喫茶店に着くと、F岡は既に席に座っていた。病欠だと聞いていたが、驚くことに、F岡はスーツを着ている。しかしその雰囲気は鬱々としており、覇気はない。

その姿からは、『仕事に悩み仕事に疲れたサラリーマン』特有の雰囲気を感じさせる。

そしてこれらからこいつは、俺に対して『お前にしか語れない悩み』といったような重々しいテーマの話をするのだろう。

そして、話の内容は案の定であった。

F岡が話した事を要約すると、

曰く「今、俺は過去の仕事の責任を取るために、自主退社しろと言われている」

曰く「あの時の失敗を掘り返されて、お前は会社の癌だと言われた」

曰く「俺は何も悪いことはしていない。全部、部長のせいだったのに」

曰く「誰も俺の話を聞いてくれない」「お前にしか話せない」

曰く「毎朝、仕事に行こうと支度をするんだ。でも、会社に辿り着けない」

曰く「部長の顔を思い浮かべると、吐き気がする」

こんなところだった。

そして最後に、F岡は言う。

「今日、会議があるだろ。俺はその会議に、何がなんでも参加しろ、と言われている。」

今夜の部署会議にF岡が出るのか…。

当然、会議の主催者は部長である。

考えるまでもなく、嫌な予感が過ぎる。

「なあ、俺、間違っていたのかな…。」

顔を伏せ、テーブルの上の生温くなったコップを凝視しながら、F岡はそう呟く。そんなF岡にかける言葉を、俺は思いつかなかった。

夕刻。会議の時間となった。俺達部署の十数名は、いつも通り、社会の会議室に集合する。

会議そのものも、いつも通り、滞りなく行われた。

基本的には、[project:violet]の進捗状況等の報告であり、部長の指示した仕事が滞りなく進んでいるかだけを確認するだけの、議論も反論も検討も存在しない、いつもの会議風景であった。

だが、その光景の中で、普段と異なることが一つだけあった。

それは、F岡の存在である。

会議の中に彼の居場所は、存在しなかった。今、F岡は独り、皆から離れた会議室の後方の椅子に腰掛けている。

その姿は以前のF岡からは想像できないほど、小さく見える。

F岡の手元に会議の資料は無い。意見を求められている事も無い。F岡は既にこのプロジェクトからは外されているからだ。

そんな会議も終わりに差し掛かる頃。

「さて。皆さん、皆さんに、ぜひ意見を聞きたいことがあります。」

意見を聞きたい? 俺は部長の言葉に驚く。あの、一方通行の指令しかしない部長が、俺たち部下に意見を聞きたいとは。何事だ。

「誰の事とは、誰の事とは、言わないが…。」

一瞬、課長の視線が会議室の後ろにいるF岡に移る。…そのF岡に送る視線には、侮蔑の色が見えた。

「例えばだが、例えばだが、大切なお客様に欠陥のある住宅を買わせ、かつ、そのミスの尻拭いを会社がしたとする。

そのような、会社に直接的な損害を与えた者がいたら、君達はどう思う?」

…ああ、これは。まさか。 

「これは君達の普段の頑張りが、無駄にされる事態だ。売り上げも減り、君達が貰うべき給料やボーナスにも響くかもしれない。

もしその責任を負うべきが君達自身だったら、その責任は、どう取ればいいと思うかな?」

…嫌な予感が、的中した。

部長のその言葉に、俺達は皆、顔を見合わせる。ついでに言えば、敢えて会議室の後方を振り返ることはない。

皆、部長のその質問の意味を理解していたからだ。

部長の言葉の意味。

そして、この部長の質問がF岡の事を指していること。

また、ここ数日で噂になっている、F岡への処遇。

皆、解っているのだ。

何をすれば部長にとって正解かを。

会議室に集まる部下全員を舐め回すような部長の視線。

それは、自分が望む返事を俺達に期待する、眼。

「君はどう思う?」その視線は、まず会議室の端の席に座る同僚に向けられた。

「…辞めたいくらいショックでしょうね。」と一人目の同僚が答えた。

「君はどうだね?」質問が二人目の同僚に向けられた。

「…会社が指示した責任の取り方をすべきでしょうね。」と二人目の同僚が答えた。

「君は?」そして3人目。

「僕なら会社にクビを差し出しますね。」と三人目の同僚が答えた。

そうやって、部長は会議室の中にいる全ての同僚に「君はどうだ?」と質問を繰り返す。

一人目は、部長からの圧力に同調し、二人目は、一人目の言葉に同調し、三人目は、一人目と二人目の言葉に同調する。そうやって、四人目も、五人目も、『F岡は間違っている』という趣旨の返答を返した。

これはもう明白な、同調圧力である。暗黙のうちに多数意見に合わせるように、部長によって誘導されているのだ。

その同調圧力は、とうとう10人目である俺の元に到達した。

「○○君。君はどう思うかね?」

部長の返答に答えるまで一瞬の間。俺は思考を巡らす。

『お前達は言われた通りにやっていればいい。何かを選択したり何かを判断する必要は無い。黙って指示を聞けばいい』

部長は、いやこの組織は、それを言いたかったのだ.それは非常に強くて絶対的な支配力を持つ判断の基準であり、そこに論理も倫理も無い。そして組織の判断の基準に逆らえば、組織から排除される。

F岡は、そんな空気読めなかったんだ。

F岡は正しかったのかもしれない。しかしそれが、F岡の最大の失敗だった。

「辞めるでしょうね。」

短く、簡潔に、俺は答えた。

部長が満足げな表情を浮かべる。

その日のうちに、F岡は、辞表を会社に提出した。それは、自主的な退職の形であった。

余談だが、今日以降、俺の知っている限り、部長や会社のやり方に異議を唱える者は、一切存在しなくなった。今回のF岡への処遇、そしてこの会議での出来事を鑑みれば、当然だろう。

F岡は、この会社の空気に対して水を刺した。

結果、会社に内包する空気は、より濃くなったのだ。

F岡の自主退職の辞令が張り出された翌日。

俺のアドレスに、F岡からのメールが届いた。

その内容は、俺への恨み節などではなく、別れの挨拶といったものであった。

『俺には、見えていないものがあったんだ。敢えて見ないようにしていたか、それとも見たくなかったのか』

『社会の因果というか、…たぶん、会社の中にある臨在感というやつに俺は負けたんだ』

『お前は悪く無い。誰も悪くない。悪いのは、俺だ』

『世話になった。ありがとう』

…ここまでメールを読んで、解ったことがある。

F岡は、最後まで真面目なままで、良い奴だった。

この文章を見ればそれが分かる。

画面をスクロールすると、メールの文章はまだ続いていた。

『最後に一つ。〇〇。お前は、ゾンダーコマンドには、なるなよ』

…ゾンダーコマンド?

そのワードに俺は聞き覚えはなかった。

その日の夜。

俺はF岡のメールにあった『ゾンダーコマンド』という言葉の意味を調べた。

調べて解ったのは、『ゾンダーコマンド』とは、ドイツのアウシュビッツ、そして悪名高きホロコーストに関連するものであることが解った。

アウシュビッツ。

それは、かのナチスドイツが建設した強制収容施設である。

民主主義の思想が現在以上に過激だった時代。白人は世界で最も優秀な人種であり、ユダヤ人との混血で汚す事は許されない。当時そう考える人々が多く存在していた。

その時代の中、ナチスドイツは、国内の志気を向上させることや、労働力の確保を目的に、ユダヤ人を強制収容施設アウシュビッツに収容した。

そして、過酷な労働とともに、ホロコーストと呼ばれる大量虐殺を行ったのだ。

さらに酷いことに、虐殺された遺体の処理を既に収容済みのユダヤ人によって行なわされたのであった。

その上、大量虐殺の事実が外部に漏れるのを防ぐために、遺体処理を行った人々も周期的に毒ガスで殺害していたという。

その残酷な殺戮行為と遺体の処理の中に、ゾンダーコマンドという言葉があった。

先述の通り、施設の中で死亡した者の遺体の処理は、労働として基本的に同じ境遇の被収容者に命じられた。

そして、これらの労働をした者が、ゾンダーコマンドと呼ばれる者達であった。

この『同胞の遺体を埋める』役割を持つ者達は、施設に収容されている者たちの中では比較的良い待遇が与えられていたと言う。

これらゾンダーコマンドと呼ばれた人々も、数カ月ごとに処分され…入れ替わる方式を取られてはいたが、わずかな安寧と引き換えに同胞の墓を掘ることを希望する者達は少なからず存在していた。

これはある意味、自分自身の墓を掘らされる事と同義であり、それほどに残酷な環境が、現実としてアウシュビッツには存在していたのだ。

午前中に穴を降らせ、午後にはその穴が自分自身の墓になる。それはまさに、この世の地獄であったであろう。

『俺達社員だって、人間だ。やりたいことを選べるはずだ。でもここは違う。上はただ指示をするだけ、下は指示を聞くだけ。

逆らうことも、疑問すらも持たせない。その結果、仕事への責任感は生まれず、自分が何をしているのか、自分の仕事になんの価値があるのか解らないまま仕事をする。

もしかしたら本当にそれに価値は無く、最悪、それを『良いモノ』として客に売らなければならなくなる。

それこそが、サラリーマンにとっての地獄だと思う』

自分たちで自分たちの墓を掘る。

これは極めて合理的な労働である。まさに残酷な、皮肉だ。

F岡はそれを言いたかったのだろうか

その日。俺は眠れなかった。

「やっぱり、大きな組織に逆らうというのは難しいよ。まさか文句一つ言うだけで辞めさせらるとはな。」

今は仲間との飲み会の席である。酒も入って口も軽い。俺は仕事の愚痴を仲間にぶちまけていた。

場所はこの前と同じ店。店内の席の大半は埋まっており、客や店員の声が飛び交い、うるさい程の喧騒に包まれている。

飲み会のメンバーも変わらず、俺と彼女のC子、A山とB沢、そしてD田とE藤の6人だ。 

「みんなに励まされて、俺なりに頑張ってみたけど、全く不甲斐ない。」

と、酒の入った席ではあるが、仲間達の俺への思いに対しては、感謝はしている。

「いやいや、お前は社会にに対してしっかり反抗したんだ。すげぇよ。俺も負けてらんねぇな。」

謝る俺を労うA山。それに続いて、C子やB沢も、

「大変そうだな。良くやったよ」「ほんとほんと。私なら無理だよ」と賛辞をくれる。

D田やE藤も、他の仲間の言葉に頷いている。

確かに、俺は会社に対して小さな反抗をした。結果は予想外の評価であったが、多少なりとも満足感は得ていた。プロジェクトの責任者になった事も、嬉しくないわけではない。

しかし、そのプロジェクトに関連する問題で、同僚のF岡は会社を去っていった。その事に俺は少なからず後ろめたさを感じていた。

成功と悔恨。両者交わるその複雑な気持ちの憂さを晴らそうとしているのが、今の俺である。

参加した仲間達に、プロジェクトの詳細やF岡の事を詳しく話したわけではない。しかし、何かのストレスを発散したいという事は察してくれている。

だから、酒と愚痴に付き合ってくれている。

そんな仲間達に、俺は心の底から、感謝していた。

この都会の社会の中で、俺は本当に運良く、仲間に恵まれた。みんな、良いやつばかりだった。

会社のような一方通行の人間関係じゃない。コミュニケーションと相互理解の上での、平等で、心の通った人間関係だ。それがなんと素晴らしい事か!

俺は、この関係性を、雰囲気を、これからも大切にしたい!

酔いの回った俺の脳味噌は、仕事での出来事と、今夜の仲間との語らいを比較し、仲間がいるという価値観を、自動的に美化していた。

と、その時である。

『緊急速報です』

店内のテレビが、ニュース速報を告げ、店の中の人間が、何事かとテレビを注視した。

何事かと店内は静まり返る。

『先日より検討されていた、重犯罪者の増加に伴う死刑制度見直し案について、国会での決定が成されました。

既に法務省を始め関係者間での調整を行なっている段階であり、野党からは国会での承認が行われる前に調整を開始していることは越権や癒着ではないかとの指摘もあり…』

…また政治のニュースか。雰囲気を壊すなよ。

既視感のあるこの状況に俺は心の中でため息を漏らす。

犯罪者が増えたとか、死刑制度見直しとか、俺たちには全く関係ない。その上、政治家の癒着とか…。本当にくだらないニュースばかりだ。

「世の中みんな、俺たちみたいに、仲間を大切にするような『良いやつ』ばかりだったら、いいのにな。」

俺はそんな夢想を、口にした。

その時。バン!と、大きな音がした。

A山が、テーブルにビールジョッキを力強く置いたのだ。

「そうだ。その通りだ。そうだ、それだよ!」

テーブルに握り拳を置き、一人しきりに頷くA山。その顔は紅く、興奮している。酒のせいではない。

「どうした、A山?」

その突然の変化に驚く俺達に構う事なく、A山は言葉を続ける。

「○○のいう通りだ。世の中、みんな『いい奴』になればいいんだよ。俺達で、世の中を変えようぜ!」

…? A山は何を言っているんだ?

「世の中の人間が全員、『いい奴』になれば、犯罪も減るし、戦争だって起きない。俺は前から、今の社会を変えるような、でっかいことをしたかった。そして今、○○の言葉で、俺のやりたいことが決まった!」

確かに、A山は以前から『今は世の中を変える為の準備期間だ』とか、そんな事を言っていた。だからと言って、いきなり過ぎる。

しかし、その目の輝きには見覚えがある。かつての同僚、F岡が課長への反抗を決意した時と同じ目。

A山は、本気なのだ。

そんなA山の言葉に、返す反応が見つからない俺達だったが、その時、口を開いた奴がいた。B沢だ。

「えっと、A山君。具体的には、どうやって世の中を変えるんだい?」

さすが、空気を読まないことに定評のあるB沢だ。こんな時はありがたい。

「えっと、具体的にはだなぁ…。」

答えに窮すA山を見て、B沢は冷静に助言を始める。

「世の中を変える。つまり社会を変えるという事だなんだろうけど、当然、社会を変えるのは簡単じゃない。」

「わ、解ってるよ、そんなこと。」

「社会を変える最もシンプルな手段は、政治家になって、法律や制度を変える事だろうね。A山は政治家になるつもりかい?」

「お、俺が政治家? それはちょっと…。」

「または、いわゆる社会活動…ロビー活動やデモ運動を行う方法もあるけど…。」

「ロビー運動?」

「簡単に言えば、権力のある政治家に直談判する手段だな。しかし、当然、俺達には政治家にコネなんてないから、今すぐになんて、無理だ。」

「けど、俺は今すぐに世の中を変えたいんだよ!」

B沢は至極真っ当なことを言っている。無茶を言ってるのはA山のほうだ。

「た、例えば団体を立ち上げて、国会前でスピーチするとか…。」食い下がるA山。

しかし、「デモ活動だね。それも難しいんじゃないかな」とB沢はそれを一蹴する。

「確かに、近年、学生が反戦を命題に掲げて政治団体を組織し、抗議デモを中心に政府への働きかけを行ったけど、これも、組織として数年の下地があったからこそ、実現できた事だ。組織力の無い僕らには難しいだろうな。」

「じゃあ、どうすればいいんだよ!」ついにA山は苛つきを隠さなくなった。

A山の態度を見ていると、B沢の横槍は、逆効果だったかも知れない。

「もしA山が真剣に政治運動をする気があるのなら、まずは『命題』が必要だろうね。」

「命題?」

命題とは、政治運動で例えるなら、反核、反戦といったような、活動方針となる綱領のことだろう。別の言い方をすれば、テーゼというところか

「そう。組織を作るなら、その組織の根幹のテーマとなるような、強烈なフレーズが必要だ。何か思いつく?」

命題をどうするか。

そのB沢の質問に、しばし思案するA山。そして…。

「『友達を大切にしよう』…とか。」

「それはイマイチじゃないかな。小学生じゃ無いんだから。一般の大人の人の心には響かないよ。」

ダメ出しするB沢。A山の顔がまた一つ、不機嫌になる。

そんな中、俺はB沢の言う命題の重要性について、一理有ることを感じていた。

例えば、企業だって、商売上の利益や、組織としての増進などの目的があって、纏まっている。

命題とは、思想も背景も異なるバラバラな人間達の集団を取りまとめるために、必要な要素なのだろう。

それは、時に実際の活動や行動よりも、重要なエッセンスとなる。B沢はそれを言いたいのだ。

しかし、否定続きのB沢の言葉によって、苛つきの増したA山には、B沢の助言の意味は届かない。だが、B沢の助言は続く。

「やっぱり、いきなり政治運動は無理だよ。相応の準備期間が必要だ。勢いや浅薄な思いつきで始めるのは、良くない。」

追い討ちを掛けるB沢。悪気はないのだが。

「うるさい! 俺は今すぐにやりたいんだ!」ついに、A山の怒りが頂点に達した。

「でもね、せっかくだから、ここは慎重に…、」

そう諫めるB沢の言葉は、すでにA山には届かない。

「B沢、お前は能書きと理屈ばかりだ、結局何にもする気はないんだろう! やる気もないし、俺の役に立たないなら、出て行け! もうお前は仲間じゃない!」

そのA山の言葉に、B沢の表情が一瞬、固まる。まさかそこまで言われるとは思っていなかったのだろう。

しかしB沢。すぐに平静を取り戻す。

「解ったよ。少なくとも、今回の君の『やりたいこと』とやらには、僕は付き合えない。帰るね。」

そう言って帰り支度を始めるB沢。

「でもね、一応、言っておくけれど…。社会を変えるのは簡単じゃない。多くの人を巻き込む可能性だってある。

だから、君の活動が、社会にとって正しい行動であることが必要になる。だからこそ、命題は深く考えて決めなければならない。それが指針となるからね。

僕はそれが言いたかったんだ。」

B沢の伝えようとしていることは、理解できる。B沢の言う通り、A山は間違いなく、単なる思いつきで発言している。

「御託はもうたくさんだ。」しかし、A山の態度に変化はない。

「じゃあね。僕が必要になったら、呼んでくれ。僕は君達のことを仲間だと思ってるし、この飲み会の雰囲気も嫌いじゃないよ。」

そう言い残し、B沢は店から去っていった。

残されたのは、苛つきの治らないA山と、事の成り行きに口を挟めたかった俺達4人。

そして、なんとも言えない暗い雰囲気であった。

席に座り直した俺達は、酒を片手に宴を再開する。が、会話は明らかに減り、誰もが目を泳がしている。いわゆる、微妙な空気、という状況だ。

C子は、言葉無く、まるで時間を潰すように、手に持ったグラスをちびりちびりと飲んでいる。

D田とE藤も、A山の顔色を伺いながら、誰かに助けを求めるようにキョロキョロと挙動不審な態度を取り続けている。

はぁ。B沢め、余計なものを残していったな、くそ。俺は心の中で毒付く。

さっきまで楽しかった飲み会が、このままでは、こんな微妙な空気の中で終わってしまう。特にA山の機嫌を損ねたままにしていたら、これからの関係に響く。

…俺が、この場の空気を変えよう。

そう思い立った俺は、まず、この微妙な雰囲気を醸し出している根幹であるA山に声を掛ける。

「なぁ、A山。俺もあんたの活動に付き合うよ。」と口火を切ると、他の四人は驚いたように俺に注目する。

「だって、A山は、世の中を良くしたいんだろ?」

「あぁ。そうだ。断じて自己満足なんかじゃない。」

だいぶ、B沢の言葉を引きずってるな…。A山の思考の方向を変えねばな。

「俺だって、この社会がおかしいことは解っている。うちの会社を見れば、そう感じる。だから、俺も、A山のやりたいことに協力するよ。」

俺の同調の台詞にA山の表情が変わる。

「お前たちも、そう思うよな?」と俺は傍らのD田とE藤に質問を投げ掛ける。振られた二人は、当然、「うんうん」「俺たちもやるよ」と同意する。

「お前ら…。ありがとう。」

A山の顔色が戻る。いつもの尊大な、A山の表情だ。

だが、ここまでは単なる仲間同士の同調だ。 

「でもよ、B沢はあれだけ否定したんだぞ。コネが無いとか組織力がないとか…。お前ら、本当に、世の中を変えるなんて、俺にできると思っているのかよ…。」

うむ、思った以上に、B沢の言葉はA山の神経に刺さってるな。再び場の空気は冷え込む。

だが、B沢の発言は的を得てはいるのだ。人を纏めるには、命題が必要なのだ。ここはそれを利用するしかない。

「なぁ。命題を決めよう。」そう、俺は提案する。

命題。テーゼ。マニフェストやスローガンとも言い換えられるだろうか。

B沢の言う通りなら、命題を考えられれば、その言葉をきっかけに、皆はまとまる。

訝るA山ではあったが、俺は説得を続ける。

「B沢の意見を鵜呑みにするわけじゃ無いけど、やっぱり、A沢のやりたい事を一発で世間に知らしめるような、かっこいいフレーズがあった方が格好いいと思うんだよな。」

「…そう、なのか?」

「そうそう。」

「みんなもそう思うか?」

「思う思う。」

A山と傍の皆の、同意と確認が繰り返された。

「命題、か…。○○よぉ。何か思い付くか?」

よし。ここでA山のお気に召す命題があれば、空気を戻せるな。

俺はしばし、思案する。

世の中を変える。

それって、世の中のおかしい部分を治す、ってことだよな…。

俺だって、今の社会がおかしい事は理解している。

このままではだめだ。大袈裟でないにしろ、何か、良い方向に変わってほしいと思っている

…良い?

つまり、正しいこと。正しい行動。

正義…。

そうだ!

「『正義は勝つ』。」

「うん?」

「正義は勝つ!、なんてどうだろうか?」

頭に浮かんだ言葉をA山に伝える。

正義は勝つ。

それは、耳触り良く、万人が共通して受け入れられる、フレーズ。解りやすくて、何よりヒーローみたいで格好いい。

このフレーズが響かない奴は、いないであろう。

案の定、A山も、「素晴らしい命題じゃないか!」と上機嫌である。

「正義。そうだ、それがいい! 

凶悪な犯罪者が減らないのも、戦争なんて間違いが起きるのも、社員を大切にしない会社があるのも、それに、B沢みたいに否定ばかりで仲間を蔑ろにする奴がいるのも、全部、正義がないからだ!」

A山のテンション上がる。

「正義は勝つべきである。正しいものは報われるべきである。 社会に正義の味方は存在する。俺たちが、正義だ! 正義は勝つ。なんと素晴らしい命題であろうか!」

どうやら俺の提案した命題に、A山はご満悦のようだ。

そんなA山に、迅速に同調する俺達。

「A山に相応しい命題だな。」

「俺達がついてるぜ。」

「焦らずにゆっくりやっていこう。」

各人、思い思いの言葉で場の雰囲気を盛り上げる。

「そうだな。最初は、大学のサークルやクラブ活動みたいな規模から始めよう。」

目論見通りA山はやる気を取り戻す。同時に多少は冷静になっているのが、どうやら先程までの、『思い立ったら吉日』状態にはなってないようだ。

「よし。この活動組織の名前を決めよう。」とA山。

「うーん、正義の人の集まりだから…『善い人クラブ』とかは?」とD田。だか、

「クラブだと、なんか子供っぽくないかな。」とE田が否定。

そこで俺はお洒落な名前を思い付く。

「…ソサエティ。」

「え?」

「『善人ソサエティ』とか、どうだろう?」

ソサエティ。意味としては、協会や社会と同義だが、なんだか響きが洒落ている。

「『善人ソサエティ』! いいじゃないか!」

俺の考えた名称に、A山の太鼓判が押された

「よし! 『善人ソサエティ』の命名と誕生に、乾杯!』

A山、D田、E岡、そして俺の四人は、活動組織『善人ソサエティ』の降誕に、祝いの盃を酌み交わす。

…そんな中、C子だけが、俺達四人の盛り上がりに混じる事無く、冷めた目をしているのだった。

組織の活動本心たる命題が決まり、その組織の名前も決まった。そのままの勢いで盛大に酒を飲み、今夜の飲み会は解散となった。

ちなみに、活動の内容は全く不明のままである。きっと、A山が何かしら考えるんだろう。後はA山に任せよう。

うん。良い雰囲気の飲み会だった。

そして帰り道。他の仲間と別れた後。

「いやー、今日の飲み会は大変だったなぁ。」

俺は連れ立って歩くC子にぼやく。大変とは言いつつも、その言葉の中身は、疲労を伝えるためではなく、労ってほしい気持ちの表れだったが。

「…うん、そうだね。」そう答えるC子の声は小さい。

…そう言えば、飲み会の最中から、C子の表情は冴えない。一体どうしたんだろうか。

「何かあったのか?」と俺はC子に尋ねる。

「うん。今日の飲み会での話題、私にはついて行けなくて。」

「だから、あまり話に加わらなかったのか。」

「そう。命題とか、組織の名前とか、みんな、形の無いモノに拘っててさ。私には理解できなかったんだ。だから黙ってた。」

まぁ、確かに場の雰囲気に任せて盛り上がったことは否めない。

「それに、〇〇君、みんなの気持ちを汲んで一所懸命に飲み会を盛り上げていたけど、大変だったでしょ。疲れたでしょ?」

まぁ、疲れはあるな。

「私、〇〇君の仲間を大切にしようとする気持ちはとても大事だと思う。でもB沢君のいう通り、A山君の我儘に振り回されているところもあると思う。

だから、A山君やみんなを盛り上げる為に、そこまで疲れる事する必要があったのかなぁって、思うんだ。」

疲れ…か。今まで意識せずに「疲れた」と口にすることはあった。しかしそれは一種の陶酔感から生じる言葉であり、生々しい疲労を感じたことはなかった。

しかし、C子の言葉で、俺は始めて疲弊を意識した。

…いや。この感覚は、疲れだけじゃない。

それは、仕事で感じる疲労とは全く異なる、プライベートの中での人間関係を維持しようとする事への疲れ、…言い換えるのであれば、『面倒臭さ』。

人間関係の面倒臭さを、俺は確かに、感じ始めていた。

始まりは、A山の単なる思いつきと、B沢への当て付けから始まった。

そんなことをきっかけに、本当に世の中を変えるなど、できるわけではない。

しかし、あの時の俺は、場の空気が守られた事こそ、重要だと感じていた。

なんとなく。そして責任感など何一つ感じることなく、その場の空気に合わせた発言をきっかけに、俺があの場の空気を作ったのだ。

その時、また一つ。誰の隣にもあるような些細な理由をきっかけにで、人生の歯車が狂い始めた事を、俺は後に知ることとなる。

『善人ソサエティ』の誕生の翌朝。

会社にて。仕事までのミーティングの時間。

「あ~、皆さん。皆さん。」部長が部署の社員全員に向かって話しかける。

「もう耳にしている人もいるかと、いるかと思いますが…。」

なんだ、改まって。

「以前までこの会社に勤めていた、F岡君が、亡くなりました。」

…は?

「亡くなりました。自殺、自殺とのことです。」

部長がF岡の悲報を、律儀に繰り返す。

…自殺? なんで? F岡が?

一瞬、俺の頭がパニックになる。

なんでF岡が自殺するんだよ。…とその理由は、あらためて考えるまでもない。

パニックになったのは、俺だけではない。

会社を辞める以前の、F岡の働きぶりと真面目さ。

そして、自主退社していった過程。

かなり高い確率で、仕事を辞めさせられたことが原因だ。

それを連想できる人間全てが…、部署内の人間全てが、沈黙というパニックを引き起こした。

当然だ。あの時の、F岡に退社を強要させるに等しい会議。その雰囲気には、部署の全員が加担しているのだ。しかも、直接、言葉で、F岡を追い詰めた。その記憶は生々しい。

誰もが感じたはずだ。F岡の自殺は、己のせいかもしれない、と。

沈黙という名のパニックが支配する一室。

その時、その沈黙の空気を統制しようとする者がいた。

「皆さん。落ち着いて、落ち着いてください。」部長である。

部屋の中にいる人の数の倍の瞳が、課長を凝視した。

「今、君達は、君達は、F岡君に対してなんらかの不安を感じているかもしれません。しかし、君達がそれを不安に感じる理由は、全くありません。」

その部長の言葉で、部屋の中の空気が変わった。

「何故なら、何故なら、君達がF岡君について、なんの責任もないからです。」

責任が、ない?

「F岡君が辞めたのは、F岡君の事情です。むしろ、中途半端な時期に辞めた彼に対して、会社が、ひいてはこの部署が迷惑したのです。彼の無責任さの被害に遭ったのは、こちらの方なのです。」

その部長の言葉によって、部署の雰囲気が軽くなる。

「だから、彼の無責任に、君達が責任を感じることなど、皆無、皆無です。」

この部署は、良くも悪くも、課長の意思とやり方が絶対視されている。

それはつまり、部長の感情の絶対化によって、部署がまとまっている、ということだ。そういう空気が浸透しているのだ。

だからこそ、部長の言葉は、良くも悪くも、皆に深く響き、強く作用する。

「彼が会社を辞めたのも、自殺したのも、彼の問題です。君達に責任は、ありません。

水辺にロバを連れては行けても、水を飲むのはロバの自由であり、ロバの責任です。皆さんはそこを間違えないように。

さぁ、今日も仕事に精を出しましょう。」

部長の話は終わった。そして、皆は自分の仕事に没頭し始める。

もう、皆にパニックは無い。そんな空気は、すでにもう、皆無であった。

それは俺も同じだった。

F岡の死に対して、一瞬にして俺の中に渦巻いた負の感情。俺の行いは、正しかったのか。間違っていたのか。動揺した俺は、それすらも判断できなくなっていた。

が、部長は言う。F岡の自殺は、彼自身の問題である、と。

その部長の言葉を聞いて、俺は判断を止めた。正確には、苦しい判断を、部長に委ねた。

結果、俺は平常心を取り戻した。恐らく他の皆も、多かれ少なかれ、同じような気持ちだっただろう。

この部署は、この場所は、ここの空気は、部長によって完全に管理されているのだ。

後の話になるのだが、部長から聞かされた話がある。

「こんな話を聞いたことはあるかな。群れから外れた一匹の狼がいた。彼は毎日離れた群れに向かって遠吠えを繰り返していた。彼はきっと群れに戻りたかったのだろう。

やがて群れが彼を迎えに来た。しかし群れは彼を殺した。群れの中では彼にはもう役目がないと判断されたのだ。群れの中にはそれぞれに役割分担があり、誰かが足を引っ張れば、群れは飢え、他の群れに敗北するかもしれない。

もともと彼が一匹狼になったのも、彼に何か病気などの欠陥があったのだろう。それを理解していなかったのは、当のその狼だけだった。

だから、その狼は孤立したのだ。この話は、人間にも当て嵌まる。」

それが、部長の価値観の中での、F岡という存在なのだ。

だが、その部長のある意味では安定した強い感情が、この部署に揺るがない強固な空気をもたらしていることは事実だろう。

では、俺自身はどうであろうか。

先日の『善人ソサエティ』の一件の通り、仲間の我儘や諍いによって雰囲気が壊されないよう、俺は四苦八苦しながら立ち振る舞った。

あの時はそれが役目だと思っていたが、C子の指摘で、プライベートの人間関係に疲労と煩わしさを感じるようになった。それこそ、空気に振り回されている証拠だろう。

しかし、部長は違う。職場の混乱を、一言でまとめ上げた。それって、驚異的な事じゃないだろうか。

いや、驚異的なのは、それだけじゃない。

そもそも、この会社という組織そのものに、人間の感情や関係を統率する仕組みがあるのだ。

プライベートの人間関係は、基本どこまでいってもそれは横の繋がりである。

しかし職場という環境では、基本それは縦の関係に集約される。

そして、そのシンプルかつ機能的な人間の関係性に、俺は初めて、憧れを抱いていた。

その日。俺は社内に通路を、奇妙な集団が移動しているのを目にした。

きっちりとスーツを着た男が数人。それだけなら問題ない。

問題は、その男達と連れ添って歩く、幾人かの人物だった。

葬式で見かけるような大層な袈裟を纏った、坊さん。

教会の神父のような整った黒いローブを身に付けた異国人。

ターバンを頭に巻きクルタを着た、モジャモジャの髭面の男性。インド人だろうか。

社内には似つかわしくない格好の者達だった。

建築関係の技術者だろうか。いや、それとは雰囲気が違う。

その集団は、そのまま社内にある会議室へ入っていった。

見慣れない彼らが何者なのか。好奇心が湧くが、流石に会議室に入っていくわけにはいかない。

会議室から付かず離れずの位置でうろうろしていると、タイミングの良いことに、会議室にお茶を運ぶ女性の後輩を目にした。

ちょうどいい。俺はその後輩が会議室から出てきた時に、室内のも人達が何を話していたのか、聞いてみることにした。

俺の質問に、後輩が答える。

曰く「なんか、人が死んだらどうなるのか、とか話してましたよ」

曰く「宗教の話ですかね」

曰く「インド人の方も、ヒンドゥー教の人みたいです」

曰く「後、判事さんとか検察官さんとかもいたみたいです」

宗教家に、判事に検察官だって? 

なんで、そんな人達が、会社に出入りしているんだ?

休憩室で缶コーヒを片手に、俺は思案に耽る。

見慣れない訪問者達。

そして『人は死んだらどうなるのか』という会議の議題。

うちの会社は、一体何をやっているんだろうか。まさか、これも[project Violet]に関係しているのか。

今までも何度か感じていた、プロジェクトへの疑問が、再び俺に中に浮かぶ。

俺はこのプロジェクトのコンテナにおける外殻、つまり外側の製作を担当している。

しかし、ただのコンテナに、『死』とか『宗教』とか、そんなものが関係するわけがない。

そこで俺に中に、新たな疑問が浮かび上がる。

コンテナとは、器物であり、容れ物だ。つまり、中に『何か』を入れるために在るのだ。

そして俺は、その『何か』を知らないまま、コンテナの製作を担っている。

このコンテナの中に何を入れるのか。そもそも、このコンテナが何に使われるのか。

俺は何一つ、知らないままである。

と、その時。

「○○さんですね。」

俺に声を掛ける者がいた。

声のする方向に顔を向けると、知らない男性が立っていた。

先の訪問者と同じく、見慣れない人物だったが、先の異国人達に比べれば、決して目立つ出立ちでは無い。しかし、何か人を惹きつけるような異質な雰囲気を持つ男性だった。

痩せ型で高い背丈と、その細長い体格に誂えたかのような真っ黒なツーピースを着こなした男で、歳は俺と同じくらいだろうか。黒髪をオールバックで纏め、爽やかな笑みを浮かべた青年だった。

喪服、とまではいかないが、黒ラインの入ったネクタイが目を引く。

「なんですか、いきなり?」

俺はその見慣れない青年、『黒ネクタイの男』に問い返す。

「貴方が『箱』の設計者の○○さんですね。」その青年は質問に答えず、俺への問いかけを繰り返す。

「…はい。俺が○○です。あなた、どなたですか?」と、返事をしつつ、俺も再びその『黒ネクタイの男』に質問を返した。

「私は霞ヶ関のほうから来た者です。」

霞ヶ関。つまり、政府の関係者だろうか。確かに、この青年の格好は高級官僚と言っても差し支えない。

「貴方の設計した『箱』は、素晴らしいものですね。」

「箱?」

「あぁ。私達は、貴方が製造しているコンテナを『箱』と呼んでいるのですよ。」

つまりこの男も[project Violet]の関係者ということか。

奇妙な男ではあったが、設計を褒められて悪い気はしない。

「『箱』製造の責任者である貴方に、お伝えしておきたい事があります。」

そう俺に話しかける男の表情は変わらず、その顔には笑顔が貼り付けられている。

先程の俺は、その笑顔を、爽やかな薄笑いと表現した。だが、今、その表情を改めて目にしたとすれば、薄気味悪い微笑み、と喩えた事だろう。

その薄気味悪い微笑みのまま、男は俺に語る。

「貴方には、この『箱』を製造する責任があります。それは、この『箱』製造に関わる人人間達の群れの責任者でもあるという事です。

つまり、貴方はこの群れの形…群れが形成する『箱』を創造する立場も担っている、という事です。そのことを是非、強く意識しながら、お仕事を為さって下さい。

私が貴方に伝えたかったのは、それだけです。」

…『黒ネクタイの男』が語る言葉は、俺には難解だった。一体何が言いたいのだ?

「この仕事は、貴方にとって、とても貴重な体験になることでしょう。」俺の戸惑いなど意に返さず、男は言葉を続ける。

「あんた、一体何を…、」そう言いかけた俺に突然、強い既視感が浮かんだ。俺はその激しい感覚により、男から目を離し、顔を伏せる。

おかしい。

俺は、この男を知っている? 

初対面のはずなのだが、どこかで会った事がある?

いや。この男というより、この男が語る言葉…その雰囲気に覚えがある。

…だめだ。思い出せない。

頭を振り、その奇妙なイメージから抜け出し、顔を挙げる。

…その僅かな時の間に、『黒ネクタイの男』は、俺の前から消えていた。

一体なんだったんだ。あの男は、俺に何を伝えたかったんだ?

訳のわからない男の戯言。そう捉えることもできたかも知れない。

どうでもいいと割り切り、仕事に戻ることもできたはずだった。

しかし、できなかった。

『箱』を作り『完成させる責任』。

『箱』を作る『組織への責任』。

先程の既視感がきっかけとなったのか、俺は男の語った言葉を頭の中で強く反芻した。

『箱』を作る責任者である俺が、『箱』を作る人達、つまり組織の部署という名の『箱』の形を作る。

その『箱の形』とは、つまり、組織のスタイル…『雰囲気』ということなのだろうか。

組織の、雰囲気を、作る。

その組織の雰囲気とは、F岡の訃報を知った俺達部署の人間を、課長の感情の絶対化によって容易に統制せしめたといったような、『会社の空気』、ということなのだろうか。

すっかり冷めた缶コーヒー。休憩時間はとうに過ぎている。

どこの会社にもあるようなので、簡素なベンチに座ったまま、今、俺の価値観は揺さぶられている。

今日、目撃した、見慣れぬ来訪者たち。

その来訪者と『箱』の関係性。

それらは確かに気にはなる。

しかし、俺の興味は既に、『黒ネクタイの男』の言葉に囚われていた。

組織に寄生して生きるほうが楽である。それが俺の俺の働き方であり、仕事への期待値であり、責任への向き合い方だった。

そのスタイルは、会社から見れば、膿も同然だろう。部長が知れば、F岡のように辞職に追い込まれかねない。

そんなことは解っていた。薄氷を踏むような働き方であることを、俺は十分、理解していた。

いつも、不安だった。だから、上司に媚びを売り、人間関係の空気を読み続け、俺なりに苦心して今の立場を維持し続けた。

しかし、俺は今、仕事に対して大きな責任を担っている。政府から一目置かれるようなプロジェクトを任されてる。

能力を認められ、部長からも期待されている。数年前のように『君に任せたのは失敗だった』などと言われ、その責任を無為に取り上げられる事もない筈だ。

そして、このプロジェクトでは設計者として、俺が組織の人間達に指示をする立場となった。

今までは、部長の、組織の指示に従えばいいというだけの立場に嫌気がさしていた。

しかし今は違う。部長と同じく、俺が指示をする立場なのだ。

立場。つまり、組織という群れの中での、俺の立ち位置が変わったのだ。

仕事への向き合い方が変わる事は、仕事の価値観が変化することと同義である。

今までは、仕事の向き合い方にストレスを感じ、プライベートに逃避していた。

しかし今は違う。

俺の中の価値基準が今変わった。煩わしく複雑なプライベートよりも、仕事に向き合うことの方が、上位となったのだった。

「『善人ソサエティ』の活動を始めるぞ。世の中を俺達の手で変えるんだ!」

A山から、連絡が来た。どうやらA山は、本当に世直し活動を始めるらしい。

その連絡に従い、俺とC子は、A山が指定した第一回『善人ソサエティ』集会の開催会場へ向かう。

連れ添って歩くC子の表情は冴えない。彼女は先日の『善人ソサエティ』発足の時、その雰囲気に抵抗感を示していたのだから、当然だろう。

それでもA山の誘いに従うのは、C子の真面目さというか、日頃からの付き合いの流れでの断りづらさという雰囲気によるものだろう。

…俺も同類だが。プライベートの人間関係に煩わしさを感じてはいる。しかしそれが、A山達との関係を断絶する理由にはなり得ない。それはC子も同様なのだと思う。

俺はC子に対して、いつも以上に共感の感情を抱いていた。

A山が指定した集合場所。それは、とあるビルの一室だった。会議室を貸し切っているようだ。

不動産を営む親のコネで、貸しビルの一室を借りたらしい。

しかし、驚いのは、その一室に集合した人の数である。

30人はいるだろうか。野球どころか、ラクビーで対戦が出来そうな人数が集まっていたのだ。

『善人ソサエティ』発足時にいたD田やE藤の姿は当然、その2人以外でも、A山との付き合いを通して見知った顔の人たちも、ちらほらいる。

しかし、その大半の人間達とは、俺もC子も初対面である。

「さっき、A山が独り言で呟いていたんだけどさ」とD田。

「『どうだ、見たか、B沢!』だって」とE藤。

A山の、B沢に対しての自尊心…というか虚栄心は凄まじいな。

と、そこへ紙袋を手にしたA山が現れる。

「おう、○○に、C子。よく来たな。お前達も、これを身に付けてくれ。」

そう言ってA山は、紙袋の中から小さなプレートを取り出した。

どうやらそれは、バッチのようだ。正面には『善』と記されている。

はっきり言って、ダサい。

後で聞いたところ、今日の参加者全員に配布しており、このバッチが『善人ソサエティ』の仲間の証になるらしい。しかし、容赦なく身に付けさせるところが、強引なA山らしいやり方だ。

ちなみに、このバッチの作製費用は、A山のポケットマネーで賄っている。

こういった強引さと、金銭的な羽振りの良さ、そして、性格と資金が生み出すコミュ力。今日、これだけの人数を集めたのは、A山の行動力と日頃の仲間作りの賜物だろう。

確かにB沢も、ここまでは予期できなかっただろうな。

バッチを配り終えたA山は、部屋に設置されていた台に乗り、マイクを手にする。

その姿は、街角で選挙運動を行う候補者のそれだった。

壇上でマイクを手にしたA山が、今日ここに参加した者達に向かって声を張り上げる。活動声明を行うのだろう。

「今日もどこかで虚しい争いが起きている。世界で。紛争地帯で。国境で。それだけじゃない。会社で、学校で、地域で、悲しい争いが起きている。

それは何故か。社会に『悪』がいるからだ。他人を害し、傷付け、蔑ろにし、その行為にほくそ笑む、悪人が存在しているからだ。他人を自分の利益のためだけに利用するような、虫唾が走るような邪悪な奴がいるからだ。

そんな害悪がいる限り、社会は良くならない。ならばどうするか。我々が、『正義の味方』になればいいのだ。ここに集まった者達は、俺が認める『善人』達である。

その善人である我々が、まず世に示すのだ。正義はここにある。悪は滅ぶべし。我々こそが正義の味方であり、最後に『正義は勝つ』のである。」

A山の声明は、最初は静かに厳かに、途中から言葉に熱が入り…、

「だから皆、俺に協力してほしい。世の中を良くするために、正義のために、『善人ソサエティ』として、行動を始めようじゃないか!」

そして、最後は熱い情熱を込めて、A山の活動声明は終わった。

A山が声明を語り終えた後。部屋の中に、沈黙が訪れる。

なお、『善人ソサエティ』誕生の経緯を知る俺には、A山の声明は空虚な言葉の束にしか聞こえない。

だが、その沈黙に耐えかねたように、一瞬、A山の視線が動く。その先には、D田とE藤がいる。

視線に気付いた2人が、互いに視線を交わした後…。

「素晴らしい!」「俺も一緒にやるよ!」と口を揃えて叫んだ。

そしてA山の視線に反応したのは、その2人だけではなかった。

A山が視線を送った先から、口々に、A山の言葉に同調し、エールを送る。

自身の隣の者が同調する。その反対にいる者も同調した。だから自分も同調しよう。そうやって沈黙していた人達も、その圧力の成果で同調の声を挙げる。

そして、ここに集まった全ての者達が、A山の言葉に、『善人ソサエティ』に、同調を示した。

ここはまるで、ロックミュージシャンのライブ会場。

集まる者達は、ロックミュージシャンのファン達。

そしてライブ会場は、ファンの歓声の包まれた…かのような錯覚を覚える光景であった。

元々、この集団は、A山の息のかかった者達ばかりだ。その上で用意周到なA山の事だ。おそらく念のためにサクラを仕込んだのだろう。D田とE藤の行動を見れば解る。

それに気付いてしまった俺は、先日からのA山に対しての抵抗感も手伝って、目の前の集団の熱狂に乗り切れない、場違いなライブ会場に来てしまったような、そんな距離感を感じていた。

「活動を始める前に、皆んなに言っておきたい事がある。」

壇上に立つA山の言葉は続く。

「活動をしていくにあたって、もう一つ、重要な事があるんだ。それは、俺達同士での絆を作る事だ。」

またA山が言葉触りの良いことを言い始める。会場の一同はA山の言葉に耳を傾ける。

「正義とは、仲間を大切にする事。隣人を守り合うこと。俺達は一つにならなければならない。その為にやっておきたい事がある。」

壇上のA山が、俺に向かって手招きをした。その理由が解らなかった俺は一瞬驚く。しかし、A山が手招きしていたのは、俺の隣に立っていたC子の方であった。

呼ばれたC子も驚きの表情を浮かべている。

「C子。こっちに来てくれ。」

A山の取り巻きと思われる者達に手を引かれ、壇上に導かれるC子。

なんでC子を…。しかし、それをA山に問う時間はなかった。

「俺達の結束をより強くする為に、C子に、この組織のユニフォームを作って貰おうと思っている!」

おぉ!と湧き立つ会場。

「このC子は今、デザイナーという夢を叶えるために社会と闘っている。そんな彼女に我々が社会と戦う為のユニフォームを作って貰うのは、価値のある事だ。良いよな、C子?」

いいぞ!素晴らしいものを作ってくれ!と、再び湧き立つ会場。

最初は戸惑いと羞恥の表情を浮かべていたC子だったが、会場の集まる集団の熱い視線と声援を聞き、その顔が紅潮する。

「ユニフォーム作成の資金は俺が出す。安心してくれ。C子は、自分の才能と夢を、この場所で活かしてくれるだけでいい。」

そのA山の言葉が決め手となったのか、会場内に湧き立つ集団の声援にも押されたのか、C子は皆に向かって頷くのだった。

集会の帰り道。俺は連れ立って歩くC子を問いただす。

「なんで、組織のユニフォーム作りを引き受けたんだ?」

「うーん、服のデザインとか、私、好きだし…。私、一応デザイナー志望だし…。」

「それだけなのか?」

「それに、あの会場の雰囲気の中で、断るのも皆んなに悪いしさ。」

C子の言葉を聞いて、俺は心の中で溜め息をつく。

それは、C子が以前に気にしていた、仲間同士の雰囲気とか勢いに振り回される状態だぞ。

そう思ったが、才能を活かす機会を与えられたC子の満更でもない表情を見ていると、それを口にする気持ちにはなれなかった。

後日。C子のデザインによるユニフォームが完成した。

真っ白いワイシャツ風のパーカーであり、大きめのフードが付いているデザインだった。

C子のデザインをもとに作られたユニフォームをA山の資金で大量生産し、2回目の集会で皆に配布した。

そのユニフォームを見た参加者は、C子に賛辞を送る。

かっこいい!

この純白さが正義と潔白を示している!

皆の喜びの声を聞き、ユニフォームに袖を通す者達の姿を見て、C子は満足げな表情を浮かべた。

動機と理由はどうあれ、彼女が喜んでる姿を見るのは、悪くはない。自身の努力が世間に認められ、それに喜びを示すことは、純粋な気持ちだ。

C子が喜んでいるなら、俺もA山のやりたいことに、付き合おう。

…と、その時の俺は思っていた。

「みんな。聞いてくれ。『善人ソサエティ』最初の活動を発表する。」

会場内の壇上に立つA山が声を張り上げる。

「まず最初にやることは、この『善人ソサエティ』の周知だ。世の中に、正義のためのこの組織があることを知らしめるんだ。」

おぉ!と湧き立つ会場。そのノリは前回と変わらない。

『正義』の文字が刻まれた、プラカード。そのプラカードを持って、この街の中心とも言える駅前で『善人ソサエティ』の存在をアピールする。それが次の活動内容だった。つまり、デモ活動を行うのだ。

「必要なのは、俺たち皆の団結力だ。今この場で、皆の団結を示そうじゃないか。」

と、A山は当日のデモ活動の練習を指示する。

お揃いのユニフォームを着て、並び立つ俺達集団。

「足踏みを始めろ。」

A山の指示。その場で足踏みをする集団。

「足の動きが揃っていない。隣の者と、隣人と、仲間と、足踏みを揃えるんだ!」

その声で、まばらだった各自の集団の足の動きが、次第に合わさっていく。

「もっと音を立てろ。」

足踏みの音が大きくなる。

「もっとだ。もっと大きく。社会に俺達の足音を響かせろ!」

さらに飛ぶA山の檄(げき)。それに呼応するかのように、床を壊すのではないかという勢いで、靴底を地面に叩きつける。

「正義と叫べ!」

「正義」「正義」「正義」

もっとだ。今この場から俺たちの存在を世界に示すと思って、叫べ!」

「正義!」「正義!」「正義!」「正義!」「正義!」

足音をビルに轟かせ、正義の名を叫ぶ集団。

皆、汗だくだった。

A山の指示に従って足踏みをしていた俺だったが、ふと、隣に立つC子の姿に目をやる。

C子は、笑っていた。汗だくのまま、息を切らせながら、笑っていた。

その笑顔は、さっきの自身の努力の成果であるユニフォームを皆に賞賛された時と変わらないままの、純粋な笑顔であった。

その時。

俺は、この集団の異様な姿に気付いてしまった。

いや、本来なら、気付かないわけがないのだ。

しかし、集団で同じ動きをしているうちに、隣の者全てが同じ行動をしている姿を見ているうちに、自身もそれに合わせているうちに、その異様さに無意識に目を瞑ってしまっていたのだ。

もともとこれは、A山の我儘な思いつきから始まったこと。そしてこの集団は、正義という曖昧で荒唐無稽な思想の為に集まっている。

そもそも始まりがおかしいのに、今やその集団は、同じ格好、同じ動き、同じ叫びを発する、一つの生物みたいになっている。

隣の彼女の笑顔は変わらない。努力を認められた時の純粋な喜びの笑顔のままである。

俺はその事に、違和感を覚えたのだ。

彼女の表面は、変わらない。

変わろうとしているのは、その中身なのだ。

目の前の人間がその場の雰囲気に合わせて変化しようとしている姿は、俺に恐怖を感じさせた。

この雰囲気に飲まれたくない。

彼女の笑顔は、そしてこの集団の在り方は、それを俺に、心底感じさせたのだった。

デモ活動当日。駅前に集まる集団。

皆、お揃いの純白なユニフォームを見に纏っている。

こころなしか、先日よりも集団の人数が増えているように感じる。

A山との付き合いや、C子への不安もあって、俺もデモ運動に参加はしている。

しかし、心中ではすでに、『善人ソサエティ』の活動…というか、集まりに不快感を感じていた。

この集団の空気に染まりたくない。

そう思っていた俺は、ユニフォームを着なかった。

俺と同じことを感じる者もいるだろう。そんな気持ちでこの場に来てみたが、俺以外の参加者は皆、残らず真っ白なユニフォームを着用している。

俺だけが、自前の服装だった。

デモ活動が始まった。先のビルでの練習と同じく、一才の乱れも無く、正義と刻まれたプラカードを手にして、正義と叫ぶ集団。

振り返る通行人が視線を向ける。しかし、『善人ソサエティ』にそれを恥ずかしいと感じる者は皆無であった。

今回のデモ活動本番を迎えるにあたり、当日、A山から一つの指示が下されていた。

それは、ユニフォームのフードを被って顔を隠せ、というものであった。

顔を隠すから、恥ずかしくない。それを狙っての、ユニフォームだったのだ。

当然、ユニフォームを着ていない俺だけが、素顔のままだった。

「〇〇くん、先日の、先日の仕様変更についての対応、素晴らしかったよ。」

早朝。職場で部長が出合頭、俺の仕事の成果を賞賛する。

「君あっての、[project Violet]だからね。これからも、これからもよろしくね。」

『善人ソサエティ』の活動に疲労を感じていた俺だったが、その部長の一言で、俺の中に生気が湧いてくる。

今まで、こんなオッさんの褒め言葉なんてどうでもうよかったんだけどな。

だが今は、仕事の成果を周囲が認めてくれることが何より嬉しかった。

さて、今日も仕事を始めよう。

デスクに腰をおろし、パソコンの操作を始める俺だったが、一つ、気になることがあった。

先日、後輩に依頼していた仕事が、まだ未提出だったのだ。俺は、その仕事を依頼した後輩の席に向かう。

「この前に依頼した仕事、どうなってる。締め切りは昨日だぞ。」

と後輩に質問すると、後輩は、

「すみません、まだ途中です。せっかく先輩が任してくれた仕事なのに、解らないことが多くて…。」と返事をする。

言葉では申し訳なさそうだったが、特に悪びれた様子はない。

くそが。仕事の遅れを指摘してるのだから、反省してくれなきゃ困る。こいつの仕事が遅れれば、俺の評価にも響いてしまうんだぞ。

「解った。後でやり方を書いたメールを送るから、俺の指示どおりにやってみろ。」

「了解です。ありがとうございます。」

デスクに戻り、仕事の指示を細かくまとめ、今まで培った自分の仕事のノウハウも添えて、例の後輩にメールで送信する。

結果、後輩に任せた仕事は、その日の中の終わったのだった。提出された内容を確認するが、申し分ない。俺の指示通りだ。

…ああ、なるほど。

俺の中に、閃くものがあった。

俺は今回、後輩に仕事を『任せた』。任せたから、ダメだったんだ。

『任せる』のではなく、こうやって仕事のやり方を細かく『指示』すれば良いんだ。そっちの方が、効率的であり、時短にもなる。

仕事ができない奴に、仕事を任せてはいけない。やり方を考えさせてはいけない。自由にやらせてはダメなんだ。

部下に脳味噌は不要だ。俺の手足となって行動してくれればいいのだ。

そうすれば、仕事は万事、上手くいく。

それに、この会社にはすでに、上意下達で仕事を指示する事をよしとする環境が整っている。誰も迷惑だとも思わず、反論もない。

なんて素晴らしい事を思いついたのだろうか!

と、その時。

自身の革新的な発想で興奮する俺に中に、棘のように引っ掛かるモノがあった。

それは、F岡の最後のメールであった。

職場を辞めた後。F岡は俺にメールをくれた。

そこに記されていた事。

『社会の因果』『会社の中にある臨在感』『俺はそれに俺は負けた』と。

臨在感。聞きなれない言葉だった。

それはつまり、臨在する感覚。すでにそこに存在している、目に見えない感覚。それが臨在感ということか。

F岡は、その臨在感が自身を追い詰めたのだと言っていた。

しかし、その臨在感に自分を合わせれば、苦労して空気を読む必要も、人間関係に悩む必要もない。

それは、苛つきと戸惑いと、そして不快感をもたらすプライベートでの付き合いに比べて、素晴らしいもののように感じる。

職場の雰囲気を、正確に形作られた箱とするなら、プライベートの雰囲気は、これから形を作ろうと踠いてる軟体のスライムのようだ。

そのどちらが素晴らしいかなど、明確じゃないか!

F岡は、言っていた。

自分でさえ、自分の仕事を信じられずに、かつ、それを強要されること。それは地獄であると。

しかし真実は違う。自分自身が自分の仕事を疑うと、逃げ場がなくなる。会社から逃げても、自分からは逃げられない。

だから、F岡は自分を追い詰めてしまった。安心とはほど遠い状況になった。

だから、F岡は、社会に負けたんだ。

だったら、俺はその臨在感を受け入れよう。臨在感を疑わず、会社の雰囲気やスタイルに、自分を合わそう。

また一つ。俺の価値観は、変化した。

仕事への不安は、皆無となった。

[project Violet]の進捗も、順調である。

新たな仕様として、コンテナに探知装置を設置できる機能が欲しいとの意向がり、追加した。それは、加圧・振動や音声、接触どころか分子運動までも探知できる最新機器だった。

コンテナ内部の装甲についての意向もあった。実装すれば火葬炉並の高熱や絶対零度にも耐えれる剛性を得ることになる。

密閉度についても意向が聞かれた。これで内部はガスも一切逃さないほどの密閉空間となるだろう。

…相変わらず、奇妙な注文だった。

しかし、俺がその事を気にかけることは、もう無かった。

『善人ソサエティ』の活動は続く。

A山のコネもあって、人が人を呼び、関係者が関係者を連れ、組織に属する人間も徐々に増えていった。

発足の瞬間の5人から、その数は1回目の集会の時点で30人程に膨らみ、今や潜在的な人数を合わせれば100人程の集団になっただろうか。

増員に対応するために、拠点も一部屋の会議室から、事務所を構えるビルに移した。

これも、A山のコネの恩恵だ。

ホームページも作られた。そこには『善人ソサエティ』の理念が厳かに刻まれている。

曰く『隣人に尽くせ!』

曰く『一人は皆の為に、皆は一人の為に!』

曰く『正しい者は報われる!』

曰く『正義は勝つ!』

そんな美辞麗句が並んでいる。

揃いのユニフォームを身にまとい、フードで顔を隠しての街頭運動も継続している。最近では、募金活動も行なっている。

なぜ、正義などという曖昧な行動指針で人が動くのか。

隣人に尽くせ。一人は皆の為に。正しい者は報われる。正義は勝つ。どれも、どこかの誰かが、どこにでもあるドラマやアニメの中で作った陳腐な言葉である。どれも綺麗事である。そんなことは皆、理解しているはずなのだ。

それなのに、どうして人は、綺麗事な言葉を受け入れるのか。

それは、『綺麗だから』だ。人間は誰だって、綺麗なことが、綺麗事が好きなのだ。だから世の中から、正義というワードは無くならない。

正義は勝つ。

その命題に人は集まり、触発され、『善人ソサエティ』の活動は進展していった。

基本、この組織はA山を中心に動いており、活動についてはA山の了解を得なければならない。

先日のことだったが、A山と組織の活動について話をしている者がいた。聞こえてきた二人の会話の中に『自警団』とか『報復』といったような物騒なワードが聞き取れた。

その三日後。街の中、繁華街の裏手で傷害事件が起きた。犯人はフードを被っており顔がわからず、まだ捕まっていないそうだ。

嫌な予感がする。この組織は、当時想定もしていない過激な方向に向かっているのではないか。

不安を感じた俺は、A山と直接、話をすることにした。

「先日、街で傷害事件が起きた。この組織とは、関係ないよな?」

「当然だ。あるわけないだろ。」俺の問いに迷わずA山は答える。

「それに犯人はフードを被っていたんだろ。顔がわからなくちゃ、犯人の探しようがないよな。顔を隠して活動するってのは、本当に便利だよな。」

続くA山の回答は、まさに語るに落ちている。

フードで顔を隠していれば、例えデモ活動に参加しても、恥ずかしさを感じることはない。

しかし、顔を隠す目的がそれだけではない。A山は、もっと違うことを企んでいる。もっと過激で、もっと暴力的な何かを。

『善人ソサエティ』のユニフォームは、C子が作った。そのユニフォームを着て犯罪を起こせば、C子にも迷惑が及ぶ。それだけは、だめだ。

「なんでC子に、顔を隠せるユニフォームを作らせた?」

「ああ、いいアイデアだろう。顔を隠せば、その人物は誰でも無くなる。素性を隠せば、人は自由になれる。なんでも言えるし、なんでもできるし、罪にだって問われない。」

A山の理屈はめちゃくちゃだ。しかし、素性を隠す…つまり匿名性の効果を最大限に用いて発展した文化も確かに存在する。

インターネットだ。

インターネットの掲示板などを見れば、本名を語らずハンドルネームやIDを用いて、どんな言葉でも好き放題に、無責任に語り合う事など、日常茶飯事だ。

だが、インターネットと現実は違う。警察に捕まる事態もある。直接危害に遭う事だってあり得る。そしてこの組織の中心であるA山には、皆の行動に対しての責任があるのだ。その事を、A山は理解しているのか。

それを俺はA山に問い掛ける。その俺の疑問に、A山はニヤニヤとした笑いを浮かべて答える。

「人間はな、みんなで集まって、みんなが顔を隠せば、強くなれるんだ。勇気が湧くんだ。それって良い事じゃないか。」

その言葉に即座に俺は反論する。

「それは勇気じゃない。ただの匿名性の集団心理だ!」

俺はA山の言葉を否定する。しかし、A山の不遜な態度は崩れることはない。

「集団心理だろうが、匿名性だろうが、そんな事は俺には関係ない。俺は、俺のもとに人が集まれば、それでいいんだよ。みんなが俺のやりたい事に賛同して、認めてくれれば、それでいいんだよ。」

…社会に自分の存在をアピールしたい。思えばA山の主張は、最初から一貫していた。

そんなA山に俺の声が届くはずがない。

俺は、A山の説得を諦めた。

結局、A山は自身の承認欲求が満たされれば、それでいいのだ。

翌日。C子から電話があった。

A山から、新たなユニフォームのデザインの依頼があったそうだ。

「私も『善人ソサエティ』の仲間の為に頑張るよ!」と張り切るC子の声が、電話から聞こえた。

その無情な歓喜を語る声に、俺は返す言葉を持っていなかった。

『善人ソサエティ』初の、国会議事堂前でのデモ活動が行われた。

いつもの正義のプラカード。いつものお揃いの純白のユニフォーム。

並び立つ『善人ソサエティ』の集団が叫ぶ。

「世の中の全員が善人ならば、犯罪は起きない。死刑制度もいらない!」

「戦争だって起きない。第二次世界大戦だって起きなかったはず!」

「戦艦大和みたいな戦争の道具だって作られなかった!」

「大量虐殺もホロコーストも存在しなかった!」

世間の者よ、皆、善人であれ。国会議事堂の前で『善人ソサエティ』は叫ぶ。

その活動は、少なからず、世論に些細な変化をもたらした。

若者を中心にした、正義を叫ぶ団体『善人ソサエティ』。

世間は、その団体を嘲笑う事はせず、むしろ、新世代の若者達の希望の光だと、センセーショナルに報道した。

確かに、政治に興味がないと思われていた『若者』が『集団』で『積極的』に『正義を語る』など、前代未聞か、または学生闘争時代以来の出来事だろう。

お茶の間を賑わすニュースとしての話題性は十分にある。世間が注目するのも理解できる。

その社会の動きに呼応するかのようなニュースが流れた。

『善人ソサエティ』が語るところの、死刑制度反対の声に影響を受けたのか、昨今、世間を賑わしていた、重犯罪者の増加に伴う死刑制度見直し案について、再検討が行われるそうだった。

ニュースキャスターは語る。「政府は公式には認めていませんが、この死刑制度の更なる見直しには、先日国会前で政治運動を行った団体の存在が関連しているのではないかという声が聞かれます。

こういった活動がブームとなった背景には、若者の善行を推奨しようという流れが存在している事であり、まさに世の中が平和な時代にまた一歩近づいたということの現れではないでしょうか…」云々。

テレビ画面に映されるニュースキャスターの言葉を聞いているうちに、思い出した事があった。

それは、バナナである。

たかが、バナナの話である。

昔、子供の頃、あるテレビ番組に出演していた著名人が、「バナナは体に良い」と言った。

翌日から数日間。バナナは飛ぶように売れた。「バナナは体に良い」と信じる集団が、バナナを買い漁ったのだ。

人は、仲間同士や会社といった組織的な繋がり以外の、例えば「バナナは体に良い」という情報だけで繋がり、集団になれるのだ。

『善人ソサエティ』に、新しくデザインされたユニフォームが支給された。

今までの、潔白を示す純白のユニフォームではない。

闇夜に吸い込まれるような漆黒の色をしたユニフォームだった。

当然、顔を隠すフードは備わっている。

それと同時に、『善人ソサエティ』の活動内容に変化が現れた。それは好ましくない変化だった。

自警団活動が始まったのだ。

それは『善人ソサエティ』による自発的な取り締まりであり、市中の見回りを行い、悪行を行なっている者を見つければ注意を行う、といったものである。

しかしそれは表向きの話であり、実際は、組織と価値観が合わない者への、制裁活動だった。

仮に組織の者が、悪行を働いている『ように見える』者を見つけたとしよう。

しかしそれが真に悪なのか、それを裁定する権利は、組織の誰にもないのだ。

同じ頃、街の中で障害事件が幾度かみられた。

やはり犯人は、フードを被っており、その上、真っ黒な格好をしていたそうだ。犯人は捕まってはいない。

しかし同時期、集会の時に「俺の仲間を虐めた奴に報復をしてやった」と誇らしげに語る者がいた。

組織の活動が過激な方向に向かっている。その事を俺は予期していた。この組織の変化は非常にまずい事態だが、しかし俺の心配はそこではなかった。

『善人ソサエティ』の一員として暴力行為を行う者が着ているユニフォームは、C子が作ったものなのだ。もし組織から逮捕者など出れば、C子が危ない。

その危機を察し、俺は急ぎ、C子の自宅へ向かった。

そこで俺は、信じられない光景を目にする。

C子の自宅の庭。そこでC子は、自分が持っていた服を全て燃やしていたのだ!

デザイナーを目指すC子は、普段からの格好にも拘っていた。自分で服を作ることもあった。俺が服を褒めると、まんざらでもない様子だった。

そんなC子が、自分の服を燃やしているのだ。今まで集め、そして自分が精を込めて作ってきた数十着全てをだ。これが異常事態であることは明白だった。

「何をしているんだ!」叫ぶように俺はC子を問いただす。

「うん、いらないから燃やしてる。私には、これがあるから。」

そう言って、C子は自分が今着ている服を指差す。

それは、純白のユニフォーム。

「デザイナーになるのが夢じゃなかったのか…。」

「うん。でももっと大切なものができたんだ。」

「…『善人ソサエティ』か。」

「そうだよ。」

「なぁ、C子。もうあの組織から抜けないか。あそこにいると、俺はおかしくなってしまいそうだ。」現に、C子は変わった。それも、決して良くはない方向に。

「なんで? 『善人ソサエティ』は素敵だよ。」

「お前だって解っているだろ。あの組織は、A山の我儘で生まれたんだ。B沢への当て付けが動機だったんだ。

あれはA山の承認欲求の現れで始めたことだ。お前だって、最初はあんなに嫌がっていたじゃないか。」

その俺の言葉に、C子は首を傾げる。

「それって、違うよね。」

「何がだよ。」

「『善人ソサエティ』は、○○くん、君が作ったんだよ。」

「…は?」C子は何を言っているんだ。

「『正義は勝つ』。その命題も、『善人ソサエティ』の名前も、みんな、○○くんが考えたんだよ。」

…確かに。確かに、そうだけど。

「○○くんも、『善人ソサエティ』の責任者。私はそう思っているよ。」

「違う!」俺は叫ぶ。

自分が、あんな集団の責任者であるものか!

「俺は名前を付けただけだ。それにあの時だって、あの場の雰囲気に流されて…」

途中で、俺の言葉が止まる。

そうだ、俺は、確かにあの時、あの場の雰囲気に流されて、組織の命題を考えた。名前を名付けた。

これでは、ユニフォーム製作を頼まれた時のC子と同じだ。嫌だったはずなのに、雰囲気に流されて変わってしまったC子と同じだ。

「それに私、もう組織の誕生のきっかけなんて、どうでもいいの。『善人ソサエティ』で正義の為に活動している今が、とても楽しいの。」

「しかし、今、組織が暴力を肯定する方向に向かっているのは、気づいているだろ。それにA山は、お前が作ったユニフォームを、その暴力の為に利用しているんだぞ!」

その言葉を聞いて、C子の表情に初めて苛つきが現れた。

「A山くんの事を悪く言わないで!」

「え…。」

「彼は、君と違って行動力がある。やりたいことをやりたいとはっきりと言える。嫌なことは嫌だと、はっきり言える。流されてばかりの君とは、全然違う。」

「な…。」

「それに、仲間の事を悪く言うには、善人じゃない。君は『善人ソサエティ』失格だよ!」

そこで、俺の気持ちは、C子への共感の感情は、ぶつりと切れた。

彼女の今までの日常と夢は、服を燃やす炎と共に消滅し、今の彼女は『善人ソサエティ』に完全に染まりきっている。

そんな彼女に、俺が自分の考えを伝えたところで、もう届くわけがないのだ。

『赤信号、みんなで渡れば怖くない』。

そんな言葉を聞いたことがあるだろう。

ふざけた言い回しであり、洒落にも聞こえるが、実際にこの言葉は、群集心理をよく現している。

『善人ソサエティ』の自警団活動は悪化の一途を辿っている。既に自制が効かない状態となっている。

組織が自ら、犯罪者(と思われる者を)を見つけ出し、闇討ちでリンチを行う。その中には、完全に無実の者に対して報復と称して暴力を行使したケースもあった。

死刑制度の見直しという、国を動かしたという実績を得た『善人ソサエティ』の規模は、更に巨大となった。

この規模の集団を統制するのは、簡単ではない。A山中心で成り立ってはいるが、徐々に統制が効かなくなっているのは明白だった。

その頃。『善人ソサエティ』の中で、一つの事件が起きた。…少なくとも、俺はそれを事件だと思っている。

仲間同士で組織の在り方をめぐって、諍いが起きた。過激になりつつある自警団活動に意を唱える者達がいたのだ。

しかし、組織の雰囲気はすでに過激な運動に赴きを置く事を重視する雰囲気になっており、意を唱える者たちは皆、組織を去るか、考えを改めるかの選択を強要される展開となった。

結果、数人の者達が組織を去ることとなった。

集団から放逐された数人の者達に送る、大多数の人間達の視線。

そこには三つの感情が込められていた。

一つは、意見が合わない少人数の者達への、侮蔑と蔑みの優越的な感情。

二つ目は、自分達は間違っていない。間違っている側を裁いた、という達成感。

そして三つめの感情。それは、蔑みを受け放逐される者を見て「自分は安全圏にいる」「自分らこいつらのような立場ではない」「大多数に属していて良かった」と感じる安堵の感情。

俺はそんな組織の中の歪な雰囲気を肌でひしひしと感じるのだった。

ある時、A山がこっそりと俺に見せてくれたモノがあった。

それは、拳銃だった。

曰く「いざともなれば、こいつがある。」

曰く「ちらつかせれば皆黙る。」

今や、『善人ソサエティ』は、外側どころか、その内側ですらも、爆発寸前のダイナマイト。ただの暴力の装置でしかなくなっていた。

俺はもう、この組織の空気には耐えられない。

俺はもう、この組織から離れよう。

しかし、『善人ソサエティ』との訣別を、簡単に決断できない理由もあった。C子のことだ。

C子とは、先日の諍いが尾を引いて、その関係はギクシャクしたままだった。『善人ソサエティ』を離れるのであれば、C子とも話をしなければならばならないだろう。

俺は意を決して、C子に会いに行った。

「何か用事?」

「あ、あぁ…。」

さて、どう話を切り出したものか。

「俺は今、大きな仕事を任されている。」

「ふーん。」

「[project Violet]という名のプロジェクトなんだけど。」

「それで?」

「これからは、組織の活動に参加するのは難しくなるだろう。」

「そうなんだ。」

「C子と会える時間も減ると思う。」

「なんだ、別れたいんだね。いいよ。」

「…。」

その短いやりとりと、C子の一言で、俺と彼女の10年来の関係は終わりを告げた。

C子と別れるつもりはなかった。しかし、C子は既に俺に見切りを付けていた。訣別も時間の問題だったのだろう。

…もう未練はない。

その日から、俺は、組織と本格的に袂を分かったのだった。

『善人ソサエティ』と、そしてC子と別れて、三ヶ月が経過した。その間、俺は団体の集会にも顔は出さず、C子とも顔を合わしていない。もちろん、かつての仲間であるA山達とも会う機会は一才なかった。

プライベートの付き合いは、一切ない。

今の俺には、仕事しかない。今、自分が打ち込めることは、それしかないのだ。

…自覚はしていなかったのだが、それは、自転車の肩輪が壊れたようなバランスの悪さだった。

今まで当たり前にあったものの損失。仕事とプライベート。俺の生活の均整は、その二つで辛うじて保っていた。

今は、その肩輪を失った虚しさを埋めるために、自身の気持ちを保つために、残された肩輪を一緒懸命に漕ぎ続けて前進していなければならなかった。

そして俺は[project Violet]の完遂に向け、邁進する。

残業も積極的に熟した。世間から見ればブラック企業と言われても仕方ない働き方であったが、俺はそれを厭わない。

仕事を指示できる部下も増えた。みんな、働け。残業代は会社が出してくれる。

だから黙って働け。俺はそうしている。だからお前達も、そうしろ。

出来の悪い部下がいた。指示と違うことばかりする。

その癖、仕事が滞っても澄ました顔をしてやがる。俺はその才能のない部下から仕事を取り上げた。

お前が働かないなら、違う奴に任せるだけだ。「君に仕事を任せたのは失敗だった」。

そう告げた部下は「そんな…。一所懸命にやり方を考えます。だから俺に成長の機会を与えてください」と宣う。

お前の成長など俺には関係ない。意識ばかり高い無能は、黙って指示すら聞けないらしい。

「辞めたい」と言う新人がいた。

辞めるのは勝手だが、俺の評価に傷がついては困る。

「昔からみんないうだろ、3年は働けって。これも試練だと思って頑張ってみろよ」。そうやって説得するように部下に指示した。

今、その新人は俺の手足になって働いてくれている。

ある時、部下が俺に訊ねた。「私達は何を作っているのでしょうか」と。「お前達は管理側の言われた通りにやっていればいい。何かを選択したり何かを判断する必要は無い」。そう俺は答えた。

徹底した管理の結果、組織内は居心地良く、完全な融和と調和が保たれている。

組織の中に既にある空気に染まっていれば、何にも悩む事はない。管理されている事の、なんと楽なことか。

この空気を破る事など、絶対に許されるはずがない。

俺にとって仕事を頑張るとは、この組織の中にある空気に合わせ、考え、思慮し、指示し、統制し、最大限合理的に仕事を完遂することだった。

今、ここにある空気を信じられない者、臨在感を破るような者がいれば、F岡のようになるだろう。空気はF岡を許さなかった。

それは、決して、誰の為にもならない事だ

そして、プロジェクトは終結に近づく。

「やぁ、こんにちは、久しぶりですね。」

会社の休憩室のベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら一息付く俺に声をかける者がいた。

聞き覚えのある声。俺は声の主に目を向ける。

そこにいたのは、『黒ネクタイの男』だった。

数ヶ月ぶりに姿を見る。確か、こいつは、政府の人間だった筈だ。

「貴方は、『善人ソサエティ』という組織の名前を聞いたことがあるかな?」

男のその言葉に、俺はギョッとする。

俺が袂を分かった後も、『善人ソサエティ』は活動を続けている。巷で噂になっている傷害事件がこの組織に属する人物が関係しているのではないかと、警察が関わりを持ち始めているとも耳にしていた。

もちろん、俺は無関係だ。

しかし、なぜ、この『黒ネクタイの男』が、俺に組織のことを聞くんだ?

「…まあ、知っていますよ。」

これだけ世間を賑わしているのだ。知らないと答える方が不自然だろう。

「それが何か、俺に関係あるんですか。」

俺は眉を潜める。関係ないというか、もうあの組織とは、無関係でありたいのだ。

「数ヶ月前に、あの組織団体が国会前でデモ活動を行っていたんですが、知ってますか?」

「…戦争反対とか、言ってましたよね。」

「あの時、彼らは、第二次世界大戦や戦艦大和建造のことを引き合いに出していました。それについて、貴方はどう考えますか?」

「は?」質問の内容が突然すぎる。この男は俺に何を話させたいんだ?

答えに迷う俺に構うことなく、男は言葉を続ける。

「貴方に伝えておきたい話があります。少し長くなりますが、聞いてください。」

そう前置きして、『黒ネクタイの男』は語り始める。

「貴方に伝えたいのは、戦艦大和の真実です。

戦艦大和。それはかつての大日本帝国海軍が第二次世界大戦の際に建造した世界最大の戦艦。

そして沖縄特攻で撃沈しました。

その建造費は当時の価格でおよそ1億4000万円。

現在の価値なら約三兆円という莫大な費用をかけて作られた巨大戦艦は日本の切り札として期待が寄せられていました。

ところが主たる戦場が海から空へ変わっていったことで、大和に相応しい出撃の機会はいつまでも訪れず、ただ時間だけが過ぎていきました。

そして1944年。

日本の敗戦色が濃くなり始めたころ、戦艦大和の処遇について激しい議論がなされました。

その会議の結論として、沖縄特攻が決定したのです。

沖縄特攻の前に、サイパンへの特攻も検討されましたが、明らかに成功確率が低いと、科学的データに基づき合理的な判断がされ、サイパン特攻は実現しませんでした。

では、その化学的データに基づいた上で、沖縄への特攻がどうだったか。

実は、当時でもサイパン特攻よりも成功確率が低いことは判明していました。そに上、時期としては日本の敗北はもはや確実と言う状況だったのです。

にもかかわらず、戦艦大和は沖縄特攻せざるを得なかった。結果は歴史が語っています。

なぜ、航空機の護衛もつけずに、破壊され撃沈されることを十分に解っていながら、大和を沖縄に向かわせたか。

実行部隊の責任者は、軍司令部に抗議しました。作戦は確実に失敗し、多大な無駄死にが出ると。しかしその抗議は無駄でした。

なぜなら、軍司令部もその作戦が無駄に終わる解っていたからです。

作戦の失敗よりも、国民に多大な負担を敷いて、莫大な費用をかけて建造された戦艦大和が全く稼働しないまま敗戦し、破壊または米軍に拿捕されたとあっては、軍司令部の責任問題として発展しかねない。

それだけは避けたいという軍司令部の空気が、そう、空気的判断が、戦艦大和を沖縄に向かわせるべきであるという指示を下したのです。

出撃した大和は、軍司令部部の誰もが予想した通り、米軍機の猛攻を受けて、沖縄にたどり着く事なく、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没し、…乗組員約3000人が犠牲となりました。

戦艦大和だけではありません。これは空気的判断のたった一事例に過ぎず、そもそも太平洋戦争そのものが、空気的判断の結果でした。

戦後、連合艦隊司令長官は、「戦争の終結後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論表に対し、私は当時、ああせざるを得なかった、と答える以上に弁疏のしようがない」と述べたといいます。

そして「その時の空気を知らないものの批判には一切答えないことにしている」と加えました。

軍事的合理性以上に、組織内の融和と調和が重視され、その結果、忖度や人情論が優先された。

空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気で決定される。

空気的判断。

これだけで、いったい、幾人の日本人が殺されたのでしょうか…。」

『黒ネクタイの男』の話は終わった。

戦艦大和の悲劇の話は解った。

大変に痛ましい犠牲だと思う。

しかしだ。

「なぜ、俺のそんなことを話すんですか。その話が、俺に何か関係があるんですか。」

と俺は至極真っ当な返事を返す。

「貴方は自分の矛盾に気づいていますか?」

そう言い残し、『黒ネクタイの男』は去って行った。

俺がこの仕事に関わって半年後。

ついに[project Violet]は完遂された。

4.2m四方のコンテナ。

それが1000個。

一千個の『箱』の製造。これが、俺の成した仕事。これが[project Violet]である。

実のところ、これで終わりではない。追加の発注があれば、この『箱』は随時量産される仕組みだ。

しかし、ひと段落はついた。俺は今、仕事の完遂に大きな満足感を得ていた。

[project Violet]。

この『箱』が何の為に作られたのか。

また、この『箱』が何に使われるのか。

そして、この『箱』の中に何を入れるのか。

更には、この『箱』の発注者が何処の誰か。

それすらも、俺は未だに、知らない。

最後の歯車が、完成した。

歯車は噛み合い、運命が回り出す。

[project Violet]。

violet。即ち、紫色の意味。

しかし、それはこのプロジェクトの真の意味を隠す隠語でしかなかった。

このプロジェクトの真名は、

[project Violence]。

violence。即ち、…『暴力』。

Atmos Fear 後半

[project Violet]とは、何なのか。

何気ない日常の中の、一般向けのニュースで、俺は自分が作ってきた『箱』の真の姿を知ることとなった。

会社から教えられたわけではない。ニュース番組という第三者的存在によって、俺は初めて[project Violet]の全容…、真の目的を知ったのだ。

テレビ画面の中に映っていたのは、見覚えのある『箱』。

クライアントが指定した郊外の空き地に、俺が製造してきた『箱』が積み重なっていた。

その数、一千個。その一千個の箱が積み重なり、正方形に組み立てられ、巨大なCUBEを形作っていたのだ。

ニュースキャスターが、その『箱』についての説明を行う。

その内容は、『箱』の製造者である俺自身ですら把握してないものだった。

ニュースキャスターが『箱』の使用用途を簡潔に告げる。

「これが、本日、政府が発表した新たな死刑執行専用施設、通称[Violet]です。今、この[Violet]をめぐり、世論は荒れています。」

…は?

…政府?

…死刑執行専用施設?

唐突に並ぶ言葉。それは俺の理解の範疇を超えていた。

『箱』が、死刑の為の施設だった?

チャンネルを変えると、何処の放送局でも、この『箱』をめぐる議論がなされていた。

俺は、とある放送局で組まれていた『箱』に関する特別報道番組を、瞬きを忘れる程の勢いで凝視する。

特別放送番組に中で。

[project Violet]、そして『箱』の概要が語られた。

それは、昨今増加する重犯罪の抑止力として開発された、司法機関管轄の死刑囚の死刑執行の為の専用の施設。

それは、法務省が管轄し『増える凶悪犯罪に対して、迅速に極刑を与える事で社会秩序を守る為に開発』された施設。

そして、その施設の最大の特徴は、多種多様な死刑の手段を選択可能な事だった。

なぜ、このような死刑執行専用施設が建造されたのか。その経緯もテレビの特番が教えてくれた。

通常、我が国の死刑の手段は、絞首刑である。

しかし、とあるテレビ番組に中で、識者が言い放った言葉があった。「絞首刑では、生ぬるい」と。

同意した医学的識者もそれに同意した。「絞首刑の大半は苦痛を伴わず一瞬で死に至る」と。

それを知った社会は声を上げた。「もっと犯罪者が震え上がるような罰を与えるべきである」と。

これらの世論が与党を動かしたのだ。

社会の中に生きる大半の市民にとって、重犯罪者の生死など対岸の火事ではあった。

しかし、死刑制度の見直しというセンセーショナルな話題と、世論が望む死刑制度の強化は、党の票に繋がる。

そう判断した与党は、死刑制度の見直しに積極的な姿勢を見せる。しかし野党は人権の尊重を主張。国会はおおいに揉めた。

そんな中、政府与党の一部強硬派は、国会での決定を待たずに企業に施設を作る為の依頼やコンペを行っており、これも国会での論争の種火となった。

結果、時間はかかったが、新たな死刑制度の導入は概ね国会で認められ、制度の検討と施設の開発が進められる運びとなったのだ。

特番の中で写された映像の中で、この施設の建造に携わった関連企業の名前の一覧が提示された。そして、その関連企業一覧の中に、俺の会社の名前があった。

そこで俺は、やっと事態を理解した。

[project Violet]とは、新たな死刑制度に関わる法律改正や企業を巻き込む死刑執行専用施設の建造計画の全てだったのだ。

コンペを行ったのも、『箱』製作のクライアントも、政府そのものだったのだ。

俺が製造してきた『箱』は、この死刑執行専用施設の根幹となる装置だったのだ。

…これが、俺の仕事。

確かに、最近、死刑制度の見直しがニュースで話題になっていることは知っていた。

しかし、まさか、俺の仕事が関係していたなんて…。

そんなこと、誰も教えてはくれなかった。

今までずっと、俺は人を殺す為のモノを作っていた。

その事実に放心する俺の目前で、テレビの中の特番では、この死刑執行専用施設[Violet]の更に詳しい概要が説明されていた。

[Violet]とは、死刑を執行する為のシステムそのものであり、その死刑囚に最も相応しい死刑の手段を用意する事ができるという。

そして、その死刑の手段は、『地獄』をモチーフに作られているのだという。

罪人が、最も相応しい地獄で、最大限苦しんで死ねるように。

それこそ、[Violet]の最大の特性であった。

わかりやすく言えば、『箱』の中一つ一つに、凝縮された『地獄』が詰め込まれているのだ。

地獄。それは、死後の世界の共通概念であり、国の数だけ、文化の数だけ、宗教観の数だけ、地獄は存在する。

例えば、仏教における地獄。又は、奈落。

等活地獄。熱い糞尿の湖に落とされ、虫に食いつかれ皮を破り肉を喰われ、

鉄壁の中で猛火に包まれ大雨のような鉄板が放り注ぎ、豆を煎るように鉄の甕で熱され、

大嵐に身を弄ばれ、炎の口をもつ獣の群れに食われ、鉄の棒で全身を貫かれる。

黒縄地獄。鉄の板に押し付けられ、鉄の縄で縛られ、鉄の斧で網目状に体を切り裂かれる。

衆合地獄。四方から迫る巨大な壁に推し潰され、刃が枝にように生えた樹木に体を切り刻まれる。

叫喚地獄。大鍋の中に入れられて何度も煮られて、最後に獣に食い尽くされる。

大叫喚地獄。熱鉄の鋭い針で、口や舌を死ぬまで何度も刺し貫かれる。

灼熱地獄。鉄鍋で炙られながら全身を熱鉄の棒で打たれたり叩かれる。

大焦熱地獄。炎の刀で体の皮を剥ぎ取られ、沸騰した熱鉄を体に注がれる。

阿鼻地獄。言葉には出来ない程の苦痛を言葉を失う程の数だけその身に浴びる。

例えば、キリスト教における地獄、ゲヘナ。そして、インフェルノ。

ゲヘナの如く、燃え尽きることのない硫黄と炎の池。それは遺体すらも残さず完全に抹消する第二の死。

第九圏、裏切者の地獄コキュートスの如く、首まで氷につかり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。

インフェルノの第一圏辺獄(リンボ)の如く、暗闇の中で飢えに苦しみながら死ぬまで閉じ込められる。

例えば、ヒンドゥー教における地獄、ナラカ。

それは苦痛を表す28の地下世界を永遠に彷徨い続ける地獄。

例えば、北欧神話における地獄、ヘルヘイム。

そこでは巨大な怪物の番犬に引き裂かれ泥濘の中でのたうち回る地獄。

例えば、イスラム教における地獄、ジャハンナム。

終末の審判により灼熱の攻め苦を与えられ続ける地獄。

これらの地獄が、最先端技術を用いて、『箱』の中一つ一つに再現されている。

そして、罪に見合った地獄が『箱』によって罪人の前に運ばれてくる。

『箱』に入れられた罪人は、『箱』の中の地獄によって、燃やされ、切り刻まれ、刺し殺され、ガスで窒息され、押し潰されるのだ。

これが、『箱』に駆動の仕組みをとり入れた理由。

これが、耐熱耐寒耐圧装甲と完全防音の理由。

これが、社内に宗教家が出入りしていた理由。

これが、最先端テクノロジー導入の理由。

俺は、地獄を詰め込む為の『箱』を作っていたのだ。

頭をガツンと殴られた気分だった。

全てを投げ打って、会社に尽くして、作っていたモノが、こんなモノだとは。

いまの今まで、テレビ番組が教えてくれるまで、俺は自分が作っていたモノの正体に、全く気づいていなかった。

外殻だけ作っていた自分には、この『箱』の使い道を知るすべは無かったのだ。

全部、会社の指示でやっていただけの俺に、知る由は無かったのだ。

[project Violet]。そのセンセーショナルな話題に世間は注目する。

政府が建造した、新たな死刑制度の為の専用施設。その実態が発表されたことで、世論、世間、社会の意見は、そっくり変化を遂げる。

『残酷すぎる』。

世論は[Violet]に実装されたシステムが、残虐すぎると批判を始めた。

新たな死刑制度を検討する旨が国会で決まった当初は、「これで世の中の犯罪が減る」と好意的な意見が散見する雰囲気であったが、実際に[Violet]の実態が公開されたら、世間はすぐに掌を返した。

『いったい国は何故、こんな殺戮兵器を作ったのか!』

[Violet]への、そして製作を指揮した行政への風当たりは、概ね批判の空気に染まっていた。

弁明を求められた為政者は、記者会見を開く。結果[Violet]の稼働は保留となり、今後の活用方法については慎重な検討を行ってから決める、云々と釈明した。

「[Violet]建造の経緯については、実際に稼働ことも含め、政府でも意見が割れています。

これはあくまでも抑止の為、重犯罪者対策の為に、緊急的措置として建造したものであり、実際に使用することは現状のところ見通しはなく…」等々、全く持って結論の曖昧な公式発表であった。

更に、記者会見の場で為政者はこうも告げていた。

「政府としましては、あくまでも抑止の為の施設の建造を関係企業に依頼したのですが、その結果、何故このような残虐極まるモノが生まれてしまったのかを、内部調査する予定です」と宣った。

死刑執行専用施設[Violet]の稼働運用は、保留。

そして、何故、こんな残酷な施設が世に生まれたのか。それを詳しく調査する。

それが政府の公式見解であった。

ところが、社会の一部では、稼働中止に反対意見を持つ者も一定数存在していた。

[Violet]を建造するための資金は税金である。このままでは、費やした費用や人材が無駄になる。また税金で作られた無意味なハコモノが増えるだけではないか。

更に、稼働における人材雇用も進められていたため、稼働中止によって職を失う者もいる。世論も一枚岩ではなかった。

その上、費用捻出の為に諸外国の援助もあったことが発覚した。

多数の視点での意見が交錯し、[Violet]の今後の運用手段については未だ混迷の中であった。

政府曰く、何故[Violet]という残虐極まる殺戮施設が建造されてしまったのか。

政府は公式会見の場で、その理由を『建造を依頼した企業の暴走』と発言した。

「私達は国民の為に正しく税金を用いて、その善意に従い、施設の建造を企業に依頼しました。結果、完成したのは、私達の善意とは全く逆の悍ましいモノが生まれました」云々。

「私達も、このような邪悪な施設が作られることは想定外でした」云々。

「依頼した企業が私達の指示を全く聞かなかったのです」云々。

更に、この内部調査の結果は、ニュースや新聞、為政者と繋がりの深い評論家などを用いて、大々的に発表した。

結果、社会の雰囲気は、政府の発表した『暴走した企業』を批判する方向に傾いていった。

これら為政者側の動きには、間違いなく恣意的なものがあり、徹底的なイメージ戦略を行い、政府への風当たりを少しでも回避しようという、ある種のシビリアンコントロールが機能していたのは、言うまでも無い。

早朝、6時半。

俺は会社に向かう電車の中、携帯でニュースを視聴する。

[Violet]の初報道を聞いてから、ニュース番組に目を向ける機会が圧倒的に増えた。

毎日、更新され続ける[Violet]関連の話題。

世間では未だ[Violet]についての報道が続いている。

最新のニュースは、[Violet]を建造した建築会社への社会的責任を追求していく、というものであった。

その世間が注目する建築会社は、言わずもがな、俺が務める会社である。

こんな早朝に出社するのも、日中に会社の前で行われるデモ活動に出くわさない為だ。

今、世間は、俺の会社を『社会の敵』だと非難している。

政府の公式見解の後。連日、俺の会社の前には、会社を弾劾する集団が押し寄せていた。

『悪の企業滅ぶべし!』

『正義は我に有り!』

そんな文字の書かれたプラカードを持つデモ集団が並んでいるのだ。

そのデモ集団の中には、見慣れた白と黒のパーカーを着込んだ者達も散見している。

白と黒のパーカー。お馴染みの『善人ソサエティ』のユニフォーム。俺自身は既に関係を絶っているが、活動は今も続いている。

うちの会社が、かつての友や彼女が所属する活動団体に目をつけられているというのは、気持ちのいいものじゃない。

最近はその活動内容も更に過激になり、噂によれば、恐喝行為や器物破損といった案件も横行しているらしい。

だが、うちの会社を敵視しているのは『善人ソサエティ』だけではない。世間全体からバッシングを食らっているのが、現状なのだ。

そんな世間に対して、今のところ会社は沈黙を貫いている。この苦境をどう乗り越えるかを管理側が検討しているのだ。

「あー、○○くん。ちょっと、ちょっといいかな?」

小さな仕事を細々としていた俺に、部長が声を掛けてきた。

「こっちに来てくれ。」そう言って、部長は俺を個室に呼び入れた。

「あー、今ね、例の[Violet]について、うちの会社としてどう世間に責任を示していくべきかを検討していたのだがね…。」

「はぁ…。」

何か妙案が思い付いたということか。

俺は部長の発言に耳を傾ける。

だが、部長の発言は、俺の予想外のものであった。

「[Violet]は、君が考えたもので、君が建造の責任をとっていた。だから、管理側としては、君の責任にする方向でまとまりつつある。」

は?

何を言っているんだ、この男は。

「いや、だって、あれは部長の指示で建造したものじゃないですか。なんで俺の責任なんですか!」

当然、俺は反論する。俺は上司の指示に従っていただけなのだ。責任なんてあるはずがないのだ。

「責任なら、指示をした部長がとるべきでしょう!」

俺は初めて、部長に反論した。

「それに、なんで[Violet]が、死刑の為の施設だって俺に教えてくれなかったんですか。もし[Violet]が死刑の為の物だと知っていたら、俺は仕事を引き受けませんでしたよ!」

そう俺は反論を続ける。

部長は[Violet]が何なのか、知っていて俺に指示をしていたんだ。だったら責任は部長にだってあるはずなのだ。

しかし、部長の言葉は意外なものだった。

「わ、私だって、あれがなんなのか、知らされていなかったんだよ。」

は?

また、何を言っているんだ、この男は?

「私も上司の指示に従っていただけ、いただけんなだよ。」

部長自身、会社での立場が上の管理職の指示に従って、部下に指示をしていただけだというのか!

「私は、会社の空気に合わせて働いていただけだ。そこに責任なんてあるわけが、あるわけがないじゃないか!」

部長のその台詞は、どこかで聞いたことのあるものだった。

「それに私は、上からの指示をいつも逐一部下の伝えていた。会議だって開いて、社員の同意を得ながら仕事を指示していたはずだ。」

確かに、部長の行動は一貫していた。だが、それが同意と思われるのは、おかしいだろう!

部長の言葉は続く。

「会議の中では、誰も私の意見に反対しなかった。だから私は、君も、部下の皆も、私に同意して働いてくれていると思っていたんだ。」

「しかし、あの時の会議の空気の中で、俺達部下が反対なんて出来るはずがないじゃないですか。俺たち社員は、部長の意思を想像し、頷き従うしかなかったんです。

だからやりたくない仕事を引き受けさせられて、あんな『箱』を作ってしまったんですよ!」

「わ、私の意思だって?」

「そうです。部長はいつも『お前達は俺たちに言われた通りにやっていればいい。何かを選択したり何かを判断する必要は無い』。

そう俺達に言っていたじゃないですか!」

「わ、私はそんなこと、一度も言っていない。それは君の思い込みだ。勝手な忖度だ。それに、その言葉は、君自身が部下に言った言葉だろう!」

…え?

…忖度?

…俺の、言葉?

一瞬、頭が真っ白になる。

「私は、君達が会議で一言も反対せず、素直に指示に従ってくれていたから、君達皆が、仕事への責任を意識しながら企業努力をしてくれていると信じていたんだ。

今更、『本当はやりたくなたかった』なんて意見が通ると思っているのか!」

そして、俺と部長の堂々巡りの責任のなすり付け合いは、俺の沈黙で終わりを告げた。

部長との口論の翌日。俺は会社を休んだ。理由は病欠。実際に頭は痛かった。

頭の中がごちゃごちゃだ。思い返すまでもない、最近の自分の仕事への向き合い方。そして、遠い昔のように感じる過去の自分の仕事への向き合い方。

比較するまでもない。

俺は、自分が成りたくない自分に、自分で成っていたのだ。

その事実は、苛つきと怒りと、自己嫌悪を抱かせ、気持ちは滅入るばかりである。

気晴らしに、俺はテレビを点けた。

『緊急速報です!』

テレビの画面に、マイクを持ったリポーターの姿が映る。

『先程、地下鉄の駅で異臭があると通報があり、警察が捜査したところ、なんと人体に有害なガスが散布されている事が解りました。駅構内でガスを吸ったと思われる何人かの人が病院に搬送されています!』

それは、俺が住むこの街にある地下鉄駅でのニュースだった。

毒ガスが散布!

この只事ではない事件に、俺は食い入る様にテレビ画面に注目する。

それから一時間ほど経過した。

ニュースによれば、通勤で混み合う時間だったが、ガスの発見が早かったことで死者は出ていないらしい。

しかし街の混乱は酷く、完全に交通網は麻痺しているそうだ。

今日、俺も会社に行っていたら、この騒動に巻き込まれた可能性は高い。

世間の者には申し分けないが、安堵に胸を撫で下ろす。

『なお、これは大量の死者が出る可能性の極めて高い明確な殺人未遂と警察は断定。悪質なテロ組織によるものであると推測されています。』

テロか。確かにこれは殺害を目的とした、テロ行為だ。

『更に、警察は、今回のこのテロ活動には、昨今世間の注目を浴びている組織団体『善人ソサエティ』が関係しているものと発表しています。』

リポーターの言葉に、俺は腰が浮くほど仰天する。

『最近になり、この組織団体は過激な活動が目立っており、顔を隠しながら暴行や器物破損といった事件を繰り返していると警察も警戒していました。

今回、ガス発生装置を駅構内に設置したと思われる不審な人物が駅内の防犯カメラに映っており、身元の特定を急いだところ、この人物が『善人ソサエティ』と関係の深い人物だと確定。今回の大量殺人未遂事件との関係を警察は追及する構えです。』

リポーターの言葉とともに、防犯カメラに映されたという人物が画面に出る。

…A山だった。

大量殺人未遂。テロ。『善人ソサエティ』との関係。そしてA山。

はぁぁぁぁぁ…。

連続する情報に、頭の処理が追いつかず、俺は長い溜息を漏らす。

♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪!

突然、携帯電話の着信音が鳴り響く。

我に返った俺は、携帯電話を手にする。

コール画面に表示された者の名前は…。

元彼女の、C子だった。

C子とは、長らく会話していない。別れたっきり、会ってもいない。電話なんて、何ヶ月ぶりだろうか。

「…もしもし。」若干の警戒を抱きながら、俺は着信に応じた。

「あ、〇〇くん。久しぶりだね。」

「…ああ。」

「私、今、あなたにとっても会いたい気分なんだ。」

「…え?」電話口から聞こえるC子の甘えた声に、俺は驚く。

「今から、君の家に行ってもいいかな?」

…彼女との別れ方は、決して気持ちのいいものでは無かった。ずっと俺の中で蟠(わだかま)りは燻っている。仕事に没頭する事で未練を断ち切っていたが、今の俺には仕事を逃げ場所にできない。

もし、寄りが戻るのなら、それは俺にとって凄く嬉しいことだ。

「解った。今、家にいるから、待ってるよ。」

「ありがと!」

そう言って、電話は切れた。

それから30分後。

C子が俺の自宅に訪れる。

そして、開口一番「君にお願いがあるんだ。一緒に来て。」

そう言って、C子は半ば強引に俺の手を引き、家を出る。

到着した場所は、見覚えのある場所だった。

そこは、かつて『善人ソサエティ』一回目の集会が開催されたビル。

現在『善人ソサエティ』は活動拠点を別のビルに移しており、今はここは使っていないはずだ。

一体、何故C子は俺をここに連れてきたんだろうか。

「入って。」

…嫌な予感がする。今更だが、俺の予感は、結構当たる。

C子に促され、俺は会議室のドアをくぐる。

ゴリ。側頭部に硬い金属を押しつけられる音がした。

「久しぶりだな。○○よぉ。」

そこには、手にした拳銃を俺の頭に押し付ける、A山がいた。

…ああ、悪い予感だけは、当たるんだ。

テレビのニュース通りなら、A山は地下鉄に毒ガスを散布した大量殺人未遂のテロの犯人だ。

そして、A山は、警察から逃れるために、このビルに身を隠しているのだ。

俺は、C子に連れられて、そこにノコノコとやってきてしまった。

「俺に何か用なのか?」そうA山に問う。

「ああ。お前に会いたかったよ。」不敵に笑うA山。俺の側頭部の拳銃はそのままで。

「なんで、俺に銃を向ける。俺が『善人ソサエティ』から抜けたことがそんなに許せなかったのか?」

「この拳銃は、お前を撃つためのモノじゃない。友達を撃ち殺したりはしないさ。」

「じゃあなんで、俺に銃を向ける?」

「俺がお前に銃を突きつけているには、お前が『悪』だからだよ。」

悪?

俺が?

「な、何を言っているんだ、A山。俺が何か悪いことをしたか?」

「ああ。俺は知っている。あの大量殺戮兵器[Violet]を作ったのは、お前なんだってな。」

びくり。俺の胸の鼓動が高まる。

「C子から聞いたよ。その[Violet]を作ることを、偉そうに自慢していたってな。」

俺が[project Violet]に携わっていることを伝えたのは、C子だけだ。A山がそれを知るには、C子から聞く以外、あり得ない。

自慢などしたつもりはなかった。しかしC子には、そう映ってしまったのか。それが苦惜しい。

だけど。

「俺が[Violet]に関係していることと、お前がテロ事件を起こした事と、何か関係があるのか。」

「ああ。大有りだぜ。」

A山が俺の正面に回る。拳銃は俺の眉間を捉えたままだ。

俺を睨みつけるA山の視線は憎悪に染まり、狂気を孕んでいた。

「A山…。一体何があったんだ。」そう俺は問う。

「全部、世間が俺の正義を信じなくなったからだ。」

正義だと。

世間が正義を信じなくなったから、こいつはテロを起こしたというのか。

「俺が作った『善人ソサエティ』は、国に意見できるほど強い力を得ていたはずなんだ。だが、今や警察が『善人ソサエティ』の活動を警戒している。

それは、社会が俺達を認めなくなってしまったということだ。なぜだ。

何故、俺達はまた、社会に蔑まされる! 

何故、世間は俺達を見下すんだ! 

誰が俺達を見下しているんだ! 

働いている奴はそんなに偉いのか! 

夢もなく社会の歯車になって他人の指示ばかり聞いている奴の方が偉いのか!

俺はそんな奴らが許せない。

奴らこそ、悪だ! 悪を滅ぼすために、俺は正義の味方として『活動』した!」

「…その『活動』とやらが、地下鉄への毒ガス散布だというのか! 大勢の人間が死ぬところだったんだぞ!」

正義なんて曖昧な概念で自分を縛り続けてきた結果が、組織の暴走であり、A山の凶行なのだ。しかし、コンプレックスを拗らせた当のA山自身は、そのことに全く気づいていないのだ。

「苦労したんだぜ。だが、これだけの努力をしても、世間は全然解ってくれない。」

当たり前だ。大勢を危険に晒して享受できる正義なんて、在る筈がない。

「けれどな、正義を示す方法はある。『真の悪』を断罪すればいいんだ。そうすれば、社会は目覚めるはずだ。俺の正しさを、正義の存在を、再び理解するはずだ!」

「真の、悪だと?」

「そうだよ。『真の悪』を断罪すれば、『善人ソサエティ』は再び、正義の集団になれるんだ!」

「その『真の悪』っていうのは、まさか…。」

「そう。〇〇。お前だ。今世紀最凶の殺戮兵器[Violet]を作ったお前こそ、『真の悪』に相応しい。」

こいつは、狂っている。

その時、突然、俺の両腕が何者かにがっしりと掴まれる。

「な、なんだ!」慌てる俺だったが、掴まれた両腕を振り解くことはできない。

俺の両腕を拘束しているのは、古くからの友人であったD田とE藤だった。

「お、お前ら、手を離せ!」

抵抗する俺だったが、

「許してくれ、〇〇。」

「A山の命令なんだ。大人しくしてくれ。」

二人が拘束を緩めることはない。

もがく俺の耳元で、二人が小声で耳打ちする。

「A山もな、組織の為に一所懸命やってきたんだ。でもこんな結果になって、信頼を失いつつある。困ってるんだ。お前もそこのところ、忖度してやってくれ。」

「それにな、組織がなくなっちゃうと、俺達も困るんだ。他に俺達の居場所はないんだよ。だから、お前もいつも通り空気読んで、黙って指示に従ってくれ。」

二人に言っていることは、支離滅裂だ。

なんで俺が忖度しなきゃいけない!

なんで俺が空気読んで指示に従わなきゃいけない!

こいつら、みんな、狂っている。

正常の判断ができなくなっているんだ!

「お前ら、行くぞ。」

そう言って、A山は部屋から出ていく。

俺をどこに連れて行こうというのか。

「C子!」

俺は事に成り行きを黙って見ているC子に声を掛ける。

「C子、助けてくれ! こいつら、みんなおかしくなってしまった!」

しかし、C子は無言で俺を一瞥し、A山に寄り添って部屋から出て行ってしまった。

D田とE藤に拘束された俺も、A山の後を追う形で、部屋から連れ出された。

A山達に連れられて行き着いた場所。

それは、俺にとって馴染みの深い場所。

俺の会社の前だった。

時間は正午を迎えようとしている。

そこにあるのは、昨日と同じ光景。

『悪の企業滅ぶべし!』

『正義は我に有り!』

俺の会社を『社会の悪』と断ずる集団…正義を掲げるプラカードを持つデモ集団が並んでいる。

そして、その集団の大半は、白と黒のパーカーを着た『善人ソサエティ』で構成されている。

今、悪い意味で『善人ソサエティ』は世間の注目を集めてしまっている。

そんな組織が行なっているデモ活動を映像に収めようと、スクープ狙いに報道陣も集まっている。

A山にとってこの場所は、顔見せのリスクはあるが、自身の正義を掲げる為の格好のステージなのだ。

拘束された俺を連れ、A山がデモ集団の前に躍り出た。

「A山さんだ!」「我らがリーダー!」「今までどこに行っていたんですか!」

A山の登場に湧き立つ集団。未だ『善人ソサエティ』でのA山の影響力は大きい様だった。

デモ活動の報道に来ていた報道陣も、A山の登場に盛り上がる。

「『善人ソサエティ』の皆んな。そして、[Violet]稼働反対のデモに参加した皆さん。聞いてくれ。

俺たちは正義を掲げて組織を作った。俺たちは正義を掲げて社会を変えようと努力してきた。正義は勝つ。その命題を至上の使命として活動してきた。」

A山が、デモに参加する集団と、報道陣に向かって声を張り上げる。

デモ参加の集団は、リーダの力強い言葉に耳を傾け、報道陣はスクープ映像を狙いカメラを回す。

「俺たちが、『善人ソサエティ』こそが、正義なのだ。俺たちこそが、正義の味方なのだ! 

そして今、真の社会の害悪を成敗する時が来たのだ。悪を滅ぼすことこそ、我ら正義の味方の使命なのだから!」

俺は、A山の隣、デモ集団の前に連れ出される。

俺を拘束するD田とE藤の腕は緩むことはなく、逃げ出すことは叶わない。

集団の前に晒される俺の姿を見て、A山は満足げな表情を浮かべる。

「では、悪とは何か? いや。悪とは、誰なのか。俺は知っている。真の悪の姿を!」

A山が俺を指差す。

「こいつだ。」

集団の前で、俺の罪を告発するA山。

「今、社会で問題となっている[Violet]、あれこそ大量殺戮兵器そのものであり、度し難い悪である。

そして、その悪の兵器を作った者こそ、真の社会の悪である!」

A山の言葉は続く。それは既に、デモ活動として言葉を発するというレベルではなく、その影響力は苛烈なテロ組織へのアジテート(扇動)と遜色なかった。

「こいつは〇〇。あの大量殺戮兵器[Violet]を作った人間。即ち、悪の権化なのだ! 正義の味方であるお前達は、こいつを許しておけるか!」

集団を煽るその煽動者の声に、煽られた集団が声を挙げる。

「NO!」

「NO!」

「NO!」

「正義の味方の旗印のもと、こいつを断罪すべきか!」

「YES!」

「YES!」

「YES!」

俺の断罪を望む怒声と足ぶみが、空間を支配する。

「悪滅ぶべし!」

「悪滅ぶべし!」

「悪滅ぶべし!」

集団の怒りが、その場の空気を飲み込み、巨大なナニカに変貌していく。

その光景を見て、A山の表情は、笑顔に歪む。

「俺はかつて、この男と友情を築いていた。しかし、こいつは俺を裏切り、正義の道を外れ、悪の兵器を作る側になってしまった…。

かつての友であるお前を裁くのは辛い。だがこれもリーダーの役目だ。解ってくれ、〇〇。」

目の涙さえ浮かべるような勢いで、A山は自身への同情を誘う。

俺を拘束するD田とE藤の目も涙目になっている。

なんだ、なんなんだ、この集団は!

狂っているにも程がある!

雰囲気と勢いだけで、人はここまで喜怒哀楽を揺さぶられるというのか!

まずい。本当にまずい。

今すぐこの状況を変えなければ、この集団は本当に俺をリンチしかねない!

俺はその雰囲気を変えるべく、反論を行った。

「あ、あの施設を作ったのは、俺の責任じゃない! 俺は関係ない。俺は会社の指示に従っただけなんだだ!」

責任を逃れる為に、大声で叫ぶ。

「は! 仕事だと! 仕事だと言えば、なんでも許されると思っているのか!」

俺の反論に、A山が過敏に反応する。

そして、俺だけに聞こえる声で、冷たく突き放したような口調で、憎しみを込めて、囁く。

「お前は、自分がやりたい事やれているんだ。やりたい事を仕事にできていたんだ。やりたい事をやれている奴はいいよな。やりたい仕事を選べる奴はいいよな。

やりたい事やって、それで金が貰えているいるんだから。世間に認められているんだから。

くそが! やりたくない事をやらされる仕事なんて、ある筈ないだろうが! お前は、いつも苦労していますなんて顔して、自分が世界で1番大変なんですなんて自慢げにして! 

贅沢言ってるんじゃねえぞ!」

…コンプレックスを拗らせたA山には、何を言っても届かない。決定的な温度差がそこにあった。

A山が、再び集団に向かって声を張り上げる。

「こいつだけは、許してならない。そして、俺たちには正義の味方としてこいつを捌く権利がある。さぁどうしたい!」

集団を煽るA山。その声に、

「死刑!」

「死刑!」

「死刑!」

集団が呼応する。

俺の不幸を願う暴徒と化した集団。

それはまるで一つに生き物であり、醜く身をくねらせる巨大な大蛇のように、俺を飲み込もうとしている。

なんで、こいつらは、俺を裁こうとするのだ!

お前たちにとって、俺など、無関係か他人なんだぞ!

しかし、俺はその理由に、論理無き理屈に、思い至る。

他人の罪を裁く。その行為は、悦楽感や万能感を人にもたらす。誰しもが、裁く側に回りたい。なぜなら、判断することが気持ちいいからだ。

他人を裁く行為は、人に強い悦楽を感じさせる。

人間は、目の前の物事を解った気になって、結論が出せた気がすると、安心するのだ。

判断することで認められた気分になるのだ。

自分は間違っていないと思いたい。だから他の人にも同意を求める。

判断したい。自分は正義だと信じたい。そうやって形成されたのが、この集団『善人ソサエティ』なのだ。

そんな集団にとって、自分は『悪』だと認知されている。

この集団にとっての価値観に合わない自分が、この集団に許される訳がない。

浮かぶF岡の顔。かつて集団と雰囲気に殺された同僚。

強い恐怖と、既視感が俺を包む。背筋が凍る。

俺は恐怖から逃れる為に、再び反論を試みる。

「みんな、聞いてくれ! この『善人ソサエティ』は、俺達が居酒屋で思いついただけの、A山の承認欲求を満たすためだけで作られた組織なんだ! 

みんなが信じる命題だって、俺の単なる思いつきなんだぞ! そんな始まり方をした組織を、皆んなは信じられるのか!」

そんな俺の暴露に対して、

「悪人の戯言だ、耳を貸すな!」

と、A山は一笑に伏す。

「この崇高な『善人ソサエティ』が、単なる酒の席の雰囲気で生まれる筈がないだろう!」

…あぁ、A山の解っている。俺が真実を告げていることを。痛いところをついていることを。

組織の始まりは、B沢への単なる当てつけ。A山の自己満足。そこをA山は十分に理解している。

しかし、その事実すらも、今、捻じ曲げようとされている。

「こいつは嘘つきだ。この崇高な断罪の場ですらも、平気で嘘を吐く真の悪だ!」

結果、集団の怒りはさらに倍増した。

なんだこれは。まるで魔女裁判だ!

犯してもいない罪で裁判にかけられ、否認すれば罪人として処刑される。

魔女は水に浮かない。だから水に沈めて溺死すれば無罪。死ななければ魔女として死刑。

そんな制度がまかり通っていた時代に逆戻りしたかのようだ。

言葉で納得させるのは不可能だ。俺は力いっぱいに身を捩り、拘束から逃れようとする。

しかし、抵抗する俺に、A山がテレビカメラの死角になる位置で銃を突きつける。

「無駄だ。諦めろ。」

A山が、そう囁いた時。

その時。

A山に変化が訪れた。

A山の視線が、俺から外れた。

そして一言。

「B沢ぁ…。」

A山の視線の先には、俺やA山の共通の友人、B沢が立っていた。

俺を断罪する集団から外れた位置に、B沢は立っている。

A山の承認欲求からの当てつけで、俺達の集まりから追い出されたB沢。

半年以上の間、俺はB沢と顔を合していなかった。

『善人ソサエティ』との関連もなかったはずだ。

そのB沢が、突然、このタイミングで現れたのだ。

「いやぁ、凄い騒ぎだね。」飄々としたB沢。

「B沢! なんでここにいる!」

この事態に最も驚いたのは、かつてB沢が袂を分かった原因を作ったA山自身であろう。

『善人ソサエティ』は、もともと、B沢への当てつけで始まったのだ

A山が、目の前に現れたB沢を意識しない筈がない。

「どうだ、B沢 ! これが俺の力だ!」

興奮したままの感情をそのままに、A山はB沢に言葉を放つ。

デモ集団を一暼するB沢。

「これが君の作った集団か。凄いじゃないか。」

B沢の賛美に、A山がニヤリとする。

しかし

「でも、なんだか雰囲気が悪いね。警察に睨まれているんだろ?」

そのB沢の言葉に、A山の顔が歪む。

「ふん。今はな。だがこの悪魔○○を世間の差し出せば、組織は安泰になる!」

A山の思考は変わらず支離滅裂だ。しかしB沢は、そんなA山の勢いに飲まれない。

「悪魔は彼だけじゃない。それを許していいのかい?」

不可解な発言をするB沢。何が言いたいんだ?

「まだ悪魔がいるだと!誰が悪魔だ!」

吠えるA山。そんなA山に、B沢は言葉を続ける。

「君だよ。君が悪魔だ。君は嫉妬に狂っている。まるで嫉妬の悪魔リヴァイアサンだ。そのせいかな、この組織は暴力に塗れている。それで正義の味方とは…。ちょっと品がないんじゃないかな。」

「な!」

「言っただろう、命題は大切だって。それが組織の雰囲気になるからね。この組織には未来がない。」

「貴様!」

「適当な命題で無秩序に膨れ上がった組織が、何かを為すなんて、無理に決まっているだけじゃないか。

所詮、世の中の決まり事は、管理側が決定権を握っているんだ。その秩序を変えないと、世の中なんて何にも変わらない。

言っただろ。世の中変えたければ政治家になればいいじゃないか、と。」

「な、なんだと!」

B沢は、組織の雰囲気に、A山の勢いに、正論で水を刺す。

その場違いな発言。空気を読まない。まさにいつものB沢だ

しかし、そんな正論ではA山は止まらない。

空気で膨れ上がった風船の中身は、既に歪んだプライドとコンプレックスと、空虚な命題で作られた鉛が支配していたのだから。

空気が、凍りつく。

俺を拘束する腕も、いつの間にか緩んでいた。

「貴様ーーー」

興奮したA山が、B沢に銃口を向ける。

まずい! Bが殺される。

「やめろーーー!」

A山の凶行を止める為、俺はA山に飛びかかり、拳銃を持つ手を抑える。

しかしA山は銃口をB沢に向けようと必死でもがく。

A山から拳銃を奪うしかない!

俺は必死でA山の手から拳銃を取り上げた。

しかし、A山は拳銃を俺から取り戻そうと、乗り掛かってくる。

俺とA山がもみくちゃになって拳銃を奪い合う中。

偶然、俺の指が、引き金に触れた。

そして、押さえつけたれた勢いで、引き金を、引いてしまった

拳銃から飛び出た初速1500kmの弾丸は、

Aの頭を、

直撃した。

脳漿が飛び散る。

脳細胞の混じる鮮血が、俺の全身を染める

その光景に、俺の脳味噌は、ショートする。

…。

「いやーーーーーーーーーーーーー!!!!」

気がつけば、俺はA山に縋りつき、泣き崩れる彼女を見ていた。

「止めようとしたのに。ごめん」と誰かに謝るB沢の声が聞こえる。

…。

血と脳漿の血溜まりが広がるその光景を見た集団の中から挙がる声はない。

その暫しの静寂の後。

彼女が一言。

ぽつりと一言。

「こいつが殺したんだ。」

…え?

「隠し持っていた銃で、撃ったんだ。」

…は?

「そうでしょ、みんな!」

C子が、皆に涙目で訴えかける。

「そうだ、こいつが殺した。」

「A山さんを、こいつが殺した。」

「我らのリーダーを、こいつが殺した。」

「こいつが殺した。」

「こいつが殺した。」

「こいつが殺した。」

先程までの昂りが盛り返してきたかのように。

その場にいた集団が、叫び出す。

俺がA山を撃ち殺した、と。

それは、その場にいた全員が、俺の犯行だと証言したと同じだった。

集団が叫ぶ光景と、既に顔もわからないA山の遺体を見ながら呆然としていた俺は、そのまま、なすがままに、警察に捕まった。

A山の死から数日後。

俺は警察に拘禁されていた。

なんで俺がこんな目に遭っているのか。

考え出したらキリが無く、それを完全に受け入れられる理屈は思い浮かばない。

しかし、過程はどうあれ、俺が撃った拳銃で、A山は死んだんだ。警察に捕まるの事は仕方ないと思う。

だから俺は、大人しく禁錮され、事情聴取にも素直に応じた。

罪を犯した事は間違いないが、正当防衛だった部分も確実にある。情状酌量の余地は充分にあると思っていた。

しかし、予想に反して、取り調べの際の刑事の声は厳しく、「なぜ殺した?」「動機は!」「昔から憎かったのか!」といった具合に、完全に殺人犯のそれだった。

禁錮されたままでの、ある日。

会社の上司、部長が面会に来た。

面会を許された俺は、部長と数日振りに顔を合わす。

「誤解もあって今は禁錮の身です。会社にも迷惑をかけていますかね…。」

申し訳ない気持ちを込めて、俺はアクリル板越しに部長に声をかける。

「ま、それはそれだ。今日は会社として、会社として君に伝えたいことがあってきた。」

…ここまで来て、仕事の話か。

「[Violet]の件ですか。その後、[violet]はどうなりましたか?」

俺の質問に対して、部長は淡々と答える。

「稼働は保留されている。しかし、しかしそんなことはどうでもいい。問題は、責任だ。」

嫌な予感がした。先日の部長との口論を思い出す。

「世間では、「Violet]建造の責任が我が会社に有るという風潮なっている。それは知っている、知っているね。」

「…はい。」

「しかし、それはとんだ誤解なのだ。我が社は、我が社は全く悪くない。」

…それはそうだろう。会社だって、国に指示されて作ったんだからな。

「我が社の方針としてはだね、管理側は、十分な時間をとり、十数時間にも及ぶ会議を重ねた結果、[Violet]建造の全責任は君に有るとして、事態にあたることが決定した。」

え?

「いや、ちょっと待ってください。なんでそうなるんですか!」

俺のいないところで話し合い? ふざけるな!

再び先日の興奮がぶり返す。

「最終的には管理側の多数決で、満場一致で決定したと聞いている。」

いや、待て待て待て。

多数決? 

当事者に何の確認も無く?

「君個人の暴走の結果として [Violet]が建造された。つまり会社は君の暴走の被害者だ。もちろん、君の暴走を容認した監督不行き届きな部分があったことは、我が社の反省点であるがね。」

ふざけるな!!

「俺は会社の指示に従っていただけです!」

声を張り上げる。アクリル板が俺の唾で汚れる。

「私は、私は君の味方をしようとした! しかし、君は私に責任を転嫁しようとした。」

…先日の口論のことを言っているのか。

「君は私を、私を裏切ったんだ。私は君達部下のモチベーションを維持するために必死だった。

泣く泣く仕事から逃げる部下に引導を渡したこともあった。それも全て会社と部下を守るためだ。

しかし君はそれも全て、私が悪いと言うのだろう。そんな部下を私はもう擁護できない。」

…な!

これが、これが部長の視点だと言うのか。

…一つ、腑に落ちたことがある。

あぁ、この人は単なる中間管理職なんだ。裏はない。誰よりも真面目なだけなのかもしれない。だから、この人にもう何を言っても、無駄なのだろう。

それでも一言。俺は反論を試みる。

「[project Violet]って、何かおかしいと、思っていたんですよ…。」

「だったら会議で反論しろ! その反論は議事録にも残る。議事録とメールを見て、会社は君の責任だと判断したんだ。反対しなかったのはお前の責任だ!」

その部長の言葉で、面会は、終わりを告げた。

戻された鉄柵の中で。

俺は気づいたことがある。

真に邪悪だったのは、会社という集団なのだ。

自分たちは何ら責任を取ろうとすることなく、話し合いと言う名目のもと、多数決と言う平等のもと、弱い立場の者に、その責任を全て押し付けたのだ。

俺は、会社に見捨てられたのだ。

それは、社会への供物…。生贄に、されたのだ。

鉄柵の牢の中。

会社に見捨てられた俺が思う事は、仲間の事だった。

C子や、D田。E藤達は、『善人ソサエティ』は、今、どうしているだろうか。

俺の無罪を証明するために、奔走しているの者もいるのだろうか。

そんな夢想をする。

「面会だ。」

獄に繋がれた俺に、再び面会者が訪れた。

誰だろうか。

面会室のアクリル板の向こう側にいたには、友人であるB沢だった。

「B沢!」と、俺は友達が会いに来てくれたことを喜ぶ。

「『善人ソサエティ』は、今、はどうなった?」

と、B沢に気掛かりだったことを質問する。

「あぁ。リーダーが死んだことで、空気が萎むように『善人ソサエティ』は解散したよ。しかし、警察はまだ事件の詳細を追っているらしい。」

「…そうか。」

「まぁ、あんな悲劇があったんだ。当然だろうね。」

リーダーか。俺は死んだA山を悼む。

「なぁ、B沢。俺は、あの悲劇を止めれたのかな?」。

「ああ。君なら止められたね。」

俺の質問に、B沢は即答する。

「君は、あの集団の始まりの場所にいた。あそこで止められれば、こんな悲劇は起きなかった。君だって、今、この獄にはいなかったはずだ。」

それはそうだ。でも…。

「でも、でも、俺はあの時の空気では、ああせざるをえなかったんだ!」

「それは今更だ。言い訳にしか聞こえないね。」

B沢は、俺の心中に忖度することなく、はっきりと言い放つ。

「それはそうと、君には伝えた方がいいと思うことが有って、ここに来たんだ。」

「なんだ?」

「A山殺害の事情聴取で、C子や他の者達は皆、君が『善人ソサエティ』の創始者だと証言している。その上で、創始者を差し置いて組織を運営していたA山を、君が嫉妬に狂って殺害したとも証言している。」

「ま、待てよ。確かに、俺は『善人ソサエティ』の名付け親だったかもしれないが、組織の運営や活動には無関係だぞ!」

「しかし、活動初期の頃、君は素顔を晒してデモ活動に参加していた。動画も撮影されていた。君のその反論に耳を傾けるものはいないだろうね。」

活動初期…。組織に抵抗感を感じていた俺だけが、フードを被らずに顔を隠さなかった、あと時か…。

「僕は、君が極めて不利な立場にある事を、伝えたかったんだ。」

積み重ねてきた歯車の数々が噛み合う音がした。

極めて残酷な死刑執行専用施設建造計画[project Violet]の責任者。

大量殺人未遂に手を染めた過激テロ組織『善人ソサエティ』の創始者。

その二つの歯車が、一つとなった。

これが、○○の辿る運命の歯車だったのだ。

そして次の段階。

地獄の歯車が、回り出す。

方や大手建築会社を悪用して殺戮兵器を建造し、方やテロ組織を創り市民への大量殺人を実行した犯罪者として、○○は、戦後最大の『悪』として報道される。

その『悪』の存在が、再々度、世論を変える。

『悪』は、やはり実在したのだ。

殺戮兵器とテロ組織を同時に創り上げるような、吐き気を催すような最低の悪が。

「悪人は確かに存在したんだ」

「○○に罰を下さねばならない」

そんな考えが、世論に浸透する。

その世間の雰囲気の下地になっていたのは、奇しくも『善人ソサエティ』の理念であり、皮肉な事に、その下火をつけ土台を作ったのも彼自身だったのだが。

そして、悪を罰すべきと言う風潮と同じく、以前から燻り続けてきた、[Violet]の稼働を望む声…、費やした税金や掛かった経費に対して費用対効果を望む市民の声や、[Violet]稼働の為に雇われた雇用者達の声が噴出する。

「これだけ莫大な費用を費やしたのに」「税金がもったいない」とメディアが叫ぶ。

「[Violet]で働く予定だった。自分は雇われただけ。仕事を失った。誰のせいだ」と一般人が叫ぶ。

それらを受け、[Violet]稼働の声が高まっていった。

密閉された面会室の中。

アクリル板越しに、禁錮された俺と、面会に来たB沢の声が響く。

「世論であれだけ反対されていたのに…。なんで[Violet]が稼働するんだよ…。」

「図らずも、A山くんの言った通り、君を悪として社会の空気は変わった。世間の空気は、君を悪だと判断している」

「そんな馬鹿な…。」

そんな。空気で悪だと判断されるなんて…。

「…空気的判断。戦艦大和…。」

俺は、いつか耳にした、第二次世界大戦の悲劇、戦艦大和の建造と使用についてを思い出した。

「今は、戦時中じゃないんだ。今の世は、そんなに愚かではないはずだ。俺は政治家を、国の為政者を信じる!」

「それは、果たしてどうだろうか…。」

ここは、国の事実上トップが集まった場所。

国会対策会議室での会話である。

「例の[Violet]運用の声が世論で高まっている。」

「では、運用しようではないか。世間がそう言っているんだ。我々が判断を下す必要はない。」

「雇用問題でも、経費問題でも、運用した方が全て丸く収まる。」

「もともと、運用するために作ったのだから。」

「そして、その後の運用についても、社会の声に任せよう。」

「死刑は裁判で決まる。しかし、死刑の執行には、為政者の責任が伴う。」

「死刑執行には大臣の許可がいる。しかし大臣が積極的に殺害の指示をしたいという人はいない。それは大臣の精神的な問題。、宗教観、哲学の問題、理由は様々だが、つまるところ、誰も責任を負いたくないのだ。」

「しかし、真の抑止力は、一度は運用しなければ意味がない。核兵器と同じだ。抑止力という見えない雰囲気で世界は平和なのだから。」

「だから、我々の役目は、この抑止力をどのように社会に浸透させるかを考えようじゃないか。」

「だが、[Violet]が残酷だという世間の声がある。さてこの空気をどうすべきか。」

「その空気も、市民に変えてもらおう。」

「民間の考えを取り入れよう。」

「政府の御用記者から、お誂え向きのテレビ局を紹介してもらおう。」

「世間は熱い話題を欲している。昨今の『善人ソサエティ』とやらのような、人を熱狂させるものをだ。我々もその流れに便乗使用じゃないか。」

「うむ。これで、我々は、死刑制度という思い社会の責任から逃れられるな。」

政府は、[Violet]の正式稼働を公式発表した。

正式稼働。それはつまり、死刑囚の死刑の執行、罪人を実際に殺す、と言うことだ。

そして、稼働の初日に、10名の罪人の死刑を執行することが決定された。

ここは、とあるテレビ局の、企画会議室。

『つきましては、御社の卓越した娯楽的感性を存分に導入できるようアイデアを取り入れたく企画会議に掛けて頂き、かの施設のシステムの一環として取り入れたく存じ上げる次第で…』

「ってな政府からの相談が、うちのテレビ局に持ち込まれたんだけどね~。」

「つまり、その死刑施設に、バラエティ要素を入れたい、と?」

「そうそう、その通り~。」

「でもコレ死刑専用の施設でしょ。不謹慎で問題にならないの?」

「オッケオッケ。国家のお墨付き、今なら何言っても許される雰囲気ってやつだから。」

「ヨッシヨッシ。いっちょ面白いアイデア、出してやろうじゃないの!」

結果、民間のアイデアを活用したバラエティ要素が、死刑執行専用施設[Violet]に搭載されることとなった。

「当然、死刑は一般公開だな。ネットやテレビで、市民が見れるようにしよう。

「エンタメ要素で見た目だけでも残虐に見えないようにしなきゃな。うちが叩かれたら嫌だし。」

「まず誰を殺すかだけど、ネット投票でいいよな。」

「そうだ、有名動画コンテンツみたいにコメントも反映される仕組みにしようぜ。」

「死刑執行の瞬間は、アトラクション風な要素を取り入れよう。」

「市民が死刑の方法を直前に選ばれるとか、面白くない?」 

「そうそう、それで、その死刑から逃れたら別の箱に再挑戦。最後まで生き残れたら、助かるとか。面白そうじゃん。」

「せめて死刑囚にも希望をもたせよう、ってか。でも実際に死刑から逃れるなんて無理だよねそれ。」

「被害者との対談とかも面白いかもな。」

「この施設を作った奴も、今捕まっているんだろ? そいつに自分が作った施設で人がどう死ぬのかを見せつけるのも、エンタメじゃない?」

「国民投票の結果、○○君、君が[Violet]初稼働の最初の10人のうちの1人に選ばれた。」

面会に来たB沢から、[Violet]の本格稼働と、自分が最初の死刑執行対象者に選ばれたことを知る。

「なんでそんな、雰囲気だけで話が進んでいくんだよ!」

「情報の統制…不都合な真実は闇に閉ざされ、特定の人物だけが都合のいい空気になり、そして世論が形成され、社会の歯車が回っているのかもしれないね。」

「なぁB沢。お前なら、俺の立場を理解してくれるよな? 俺が無罪だって証明してくれるよな? 俺は真面目に仕事していただけなんだ。なんとか助けてくれないか!」

「…君は、アイヒマンを知っているか?」

「アイヒマン? 確か、ホロコーストの責任者だったけか?

「戦後、彼はホロコーストで大量虐殺を指示したとして、国連裁判に掛けられた。しかし近年、彼の行動は見直され、ただ『服従の心理』に忠実だっただけの、上の指示に従っただけの、当時の彼の国の空気に従っただけの、まじめなサラリーマンだったと、その立場は変わってきている。しかし、世間は彼を許してはいない。どれほどの識者が、どう分析しようが、社会の感覚では、受け入れられない。被害者感覚になれば、それは到底受け入れられない感覚だ。」

「…。」

「…。」

「B沢。お前も、俺が許せないか?」

「…。」

「お前も、俺の敵なのか? 俺に石を投げるのか?」

「…。」

「今、俺は周囲の全てが敵になってしまった。お前だけが、友達だ。お前だけが、空気に罪を着せられた俺に会いに来てくれている。せめてもの慰めに、俺はお前だけには理解してほしい。お前なら解ってくれるだろう…。」

「…。」

「なぁ、B沢。お前も、俺が許せないか?」

「…うん。許せないね。僕は君が嫌いだからね」

「そうか。…ん?」

「…。」

「今、なんて言った?」

「僕は君達皆が、嫌いだ。我儘なA山も。取り巻きの皆んなも。雰囲気に合わせて僕の悪口を言い合う奴らも。空気に合わせて人を蔑む、君もだ。僕が気付いていないと思っていたのか? 君のしてきた事が罪じゃないわけないだろう。」

「いや、確かに俺は、かつてお前を『空気を読めない奴』だと思っていたけど…。このタイミングでそれをカミングアウトするのか!」

「本当に、君は最低だけど、面白い奴だね。」

「お前、ちょっとは俺の空気を読め!」

「ああ、言っておくけど、僕は、空気が読めないんじゃない。敢えて空気を読まないだけだよ。」

「…じゃあ、なんで俺達に付き合っていた?」

「ただで酒が飲めるからかな。みんなの雰囲気は好きだった。観ていて楽しかったよ。まるでエンターテイメントだ。」

俺は、B沢の生き方を、改めて実感する。

B沢のような存在は、俺は今まで見た事ない。

異質だった。

だが、一つだけ理解できることがあった。

こいつは、遊んでいるだけなんだ。

こいつこそ、悪魔だ。

俺は誰からも見離された。

俺に残された時間と、死刑執行までの時間は一緒だった。

神よ…。

もう、俺は神に祈るしかない。

死刑前日。

俺は神に祈る。

この運命から助けてくれ、救ってくれ。

そして、祈りを捧げたまま。

俺は眠りに落ちた。

…。

音がした。この真夜中に。静寂包まれた牢獄の中で。

俺は音がした方向に目を向ける。

そこには、黒づくめの格好をした者がいた。

その出立ちは、まるで神父だった。

ああ、神が俺の声を聞いてくれたのだろうか。

幻でも構わない。

俺を、救ってくれ。

祈りを続ける中で。

神父の声が聞こえた。

「君は、ヨブ記を知っていますか?」

よ、ぶ、き?

「君に聖書の話を聞かせましょう。」

聖書…。

「君は、世の中で最も読まれ続けている世界最古の小説を知っていますか。それは聖書です。旧約聖書。ヨブ記は、その中の一説です。この時代、一定の人々にとって神は世界の規範そのものでした。」

そして、その神父の格好をした者は、俺に、そのヨブ記とやらを読み聞かせる。

「これは、神に従い続け、そして神に裏切られ、それでも神を信じろと強要され、最後に神に頭を垂れた者の物語。

世界で最初に正義を唱えた者。それは神だ。

善なる者は報われる。信じる者は救われる。これぞ世界最古の究極の命題であろう。

ある時。悪魔サタンが神に疑問を呈した。神を信じる者は、本当に救われるのか、と。

それを証明するため、神は、善人なる者ヨブに試練を与えた。

その試練とは、強大なる獣リヴァイアサンを遣わし、ヨブの幸福を奪うことだった。

リヴァイアサンによりヨブは家を失い、財産を失い、皮膚病にかかり、町を追われ、ごみ捨て場に座り陶片で体中の瘡蓋を搔くような状態となった。

神が何故、ヨブにこのような残酷な試練を与えたか。その理由な何か。

その理由は単なるの戯れであり、神が自身の定めた命題を証明するためだけの承認欲求だった。

しかし、人の身であり、神を信じるヨブは、自らに降りかかる災いと不幸、その苦しみの意味を求め、自らを悔い入り続けた。

そのヨブの姿を見ても、神はヨブを許さなかった。

ある時、ヨブを見舞いに、三人の友が訪れた。

友人であるヨブを心配し、三人の友は、ヨブに助言を与える。

「何か罰せられる心当たりはないか」

「神は絶対に善人を苦しめる事はないはずだ」

「自分の犯した罪を懺悔すれば許されるはずだ」

友人はそうヨブを諭す。

それは慰めの言葉のようであり、親切な忠告をしているつもりなのだろうが、それは実に恐ろしい言葉でもある。

「正しい者は必ず報われるのだから、こうなったからには、お前には隠している罪悪があるに違いない。この状態から脱れるには、まず素直にそれを認めることが先決だ」

すなわち神の裁きは正しいのだ。友人達はそう繰り返す。

しかし純粋なる善人ヨブがいくら考えても、神に与えられた試練によって苦しめられなければならない理由は思いつかなかった。

なぜなら、そのヨブの苦しみも試練も、全て神の気まぐれに過ぎないのだからだ。

初めは優しさから助言を行っていた友人達も、いつまでも自らの罪を認めないヨブに対して、次第に苛つき、強く批判する。

「神は間違えない。ヨブ。お前こそが過ちを犯しているのだ」と。

「考えてもみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者がいるか。 どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者がいるか」と。

ヨブがこれに対して抗弁をする。私は神を信じる純朴な信徒である。その私になぜ、神はこのような試練を与えるのか、と。

「いつまでもお前は、そのようなことを言うのか。 お前の口の言葉は荒い風ではないか。 神は公義を曲げられるであろうか。 全能者は正義を曲げられるであろうか。

お前の子らが神に罪を犯したので、 彼らをそのとがの手に渡されたのだ。 お前がもし神に求め、全能者に祈るならば、 お前がもし清く、正しくあるならば、 彼は必ずお前のために立って、 お前の正しいすみかを栄えさせられるはずだ」

その後も、友人達は、果てしない罵倒をヨブに繰り返す。神は正しい。お前は間違っている。

そして、ヨブ記は最後を迎える。

神と直接対話をしたヨブは、その神の偉大さに悔い改め、偉大なる神に頭を下げ続けた。「私こそが間違っていた」「生涯貴方様に忠誠を誓います」「だから、もう一度、貴方様の傍らに仕えさせて下さい」と。

そして、ヨブは再び家族を持ち、財産を得て、ハッピーエンド。

これがヨブ記だ。」

ここまで黙って俺は神父の語る話を聞いていた。

しかし、俺はその長話に、そして神父の語る話に苛つきを覚え、静かに疑問を口にした。

「なぜ、ヨブは神を信じられ、なぜ友人は、ヨブに石を投げつけられる?」

「登場人物の誰もが、その社会に臨在する空気を絶対化していたからです。」

「なぜ、ヨブも友人も、神を疑わない?」

「その社会に生きる誰もが、神の作る命題を常識であると絶対化していたからです。」

「なぜヨブは、神を再び受け入れた?」

「それが例え神の戯れであったとしても、神の感情は絶対だったからです。」

「なんて、めちゃくちゃな物語なんだ!」

俺は呆れかえる。そんな事がまかり通ってたまるか!

「この時代。一定の人々にとって神は世界の規範そのものでした。

これは、神という世界のルールに従い続け、そして神という世界に裏切られ、それでも神という世界を信じろと強要され、最後に神という世界に頭を垂れた者の物語。

全ては、空気的判断によりなされ、それは神話の時代から今に至るまで、変わりはない。

この話で君が理解すべきところは、今そこにある空気、その場を支配する者の感情、そして人々が信じるに足る命題が絶対化された時、社会の規範が定められる、ということです。

つまり、正義も不幸も、誰かが勝手に作った空気によって作られる。

時にそれは、『誰か』ではなく『群衆』ですらも、社会を地獄に導ける。

ヨブは、神と神を信じる社会が作った空気に振り回された、犠牲者です。

君もそうです。

何処かの誰がが勝手に作った空気に振り回されて、それに従って、その結果、今君は、ここにいる。

果たして、君はハッピーエンドを迎えることができるのでしょうか?」

そこで初めて、俺は目の前の黒づくめの男性を凝視した。

こいつは、神父じゃない。幻でもない。

「あんた、誰だ。」

「私ですよ。」

それは、いつか見た『黒ネクタイの男』だった。

「お前は、政府の者じゃないのか?」

「違いますよ。私はこの物語の中で、君に気づきを与えるための存在です。」

「は?」

「いわば、魔女の手先ですね。」

「魔女、だと…。」

「この君の物語の結末を、そして現実での顛末を、『二人』で見さしてもらいますね。」

突然、目の前の『黒ネクタイの男』の影が滲む。

蜃気楼のように掻き消える男の姿が、目の錯覚か、一瞬だけ、かつての『空気を読まない友人』に見えた。

意識が途切れる。

そして、目が覚める。

牢屋には、誰もいない。

神父も、いや、『黒ネクタイの男』も。

やはりこれは、夢なのか。

いや。これは紛れもない、現実だ。

俺の脳味噌は、そう認識している。

11.

violetの初稼働日。それは、戦後最悪の犯罪者○○の死刑が執行される日でもあり…。

そして、国内初の、公式公開処刑が実行される日でもあった。

俺の目の前には、地獄があった。それは紛(まご)う事なき、地獄であった。

敢えてこの地獄を別の言葉で代用するとすれば、…システムであろうか。

地獄。

奈落。

六道。

インフェルノ。

ゲヘナ。

ヘルヘイム。

ジャハンナ。

その呼び名は人種や宗教、世界観を共にする集団によって変わる。

唯一つ、統一された概念があるとすれば、それらは全て、人が死を迎えた後に訪れる場所であること。

人は死んだら、あの世に行く。

それが罪人ならば、地獄に堕ちる。

それは、世界に共通する理の一つ。

そして、もう一つ。世界に共通する認識がある。

人は死ぬ。

人は死からは逃れられない。

死は全ての者に、平等に訪れる。

孤独にって、

絶望によって、

破壊によって、

老いによって、

狂気によって、

強欲によって、

憤怒によって、

虚無によって、

人は死ぬ。

それが世界の道理である。

そして、人は殺せる。

人は地獄を作れない。

しかし、人を殺すことはできる。

刺殺で。

銃殺で、圧殺で。

毒殺で、撲殺で、殴殺で。

射殺で、薬殺で、焼殺で、溺殺で。

飢殺で、爆殺で、絞殺で、扼殺で、轢殺で。

縊殺で、鏖殺で、屠殺で、錮殺で、焚殺で、謀殺で、

様々な手段を用いて、人は人を殺せる。

その『殺人』を、現代文明が得た最新のテクノロジー全てを用いて凝縮したモノがあるとしよう。

それが『箱』である。

人は、ついに、地獄をその手で作り出したのだ。

今日。

その地獄が稼働する。

俺の眼前に、一台のモニターがあった。

そのモニターに映るのは、9人の罪人の死の姿。

箱の中を映すその地獄の映像を見せつけられることが、俺に与えられた責任。

俺の罪の名は、「責任」。

俺は今、地獄を作った「責任」を負わされているのだ。

俺の目の前のモニター。

そこに映る内容は『箱』によって行われる極刑執行の瞬間の全て。

そしてこの映像は、様々な映像媒体を用いて国内全ての国民に向けて放送されている。

モニターの中で、道化のような格好をした司会者が、場を盛り上げていた。

「さぁ、これから始まる国内初の、国が認めた公式の、死刑の瞬間の生放送。画面の前の皆さんは、この世界初世紀のエンターテイメントを、刮目してご覧ください。」

…これが狂気でなくて、何なのだ!

関連企業の関係者が注目する中で、

家族が食事するリビングのテレビで、

移動中のサラリーマンが覗き込む携帯の画面に、

一人部屋のパソコンの中で、

9人の罪人の死刑が実行された。

残虐に。残酷に。無為に希望を抱かされ、無惨に殺されるた。

1人目の罪人は「希望を捨てるな」と言われながら箱に入れられ、豆を煎るように鉄の甕で熱され鉄の棒で貫かれて、殺された。

2人目の罪人は「お前はまだ終わりじゃないよ」と言われながら箱に入れられ、鉄の板に鉄の縄で縛られ鉄の斧で網目状に体を切り裂かれて、殺された。

3人目の罪人は「お前には残された人がいる」と言われながらと箱に入れられ、煮えたぎる油の入った大鍋の中で何度も煮られ、最後に獣に食い尽くされて、殺された。

4人目の罪人は「お前は故郷に帰れるんだぞ」と言われながら箱に入れられ、熱鉄の鋭い針で、口や舌を死ぬまで何度も刺し貫かれる

5人目の罪人は「勇気を持って困難に挑め」と言われながら箱に入れられ、暗闇の中で身を削る大嵐に身を弄ばれて、殺された。

6人目の罪人は「恐れず歩みを止めず前に進め」と言われながら箱に入れられ、鉄鍋で炙られながら全身を熱鉄の棒で殴打を受けながら、殺された。

7人目の罪人は「君はまだ必要とされているんだ」と言われながら箱に入れられ、氷が浮かぶ冷水に首まで浸かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らしながら、殺された。

8人目の罪人は「うんまぁまだなんとかなるんじゃ無いか」と適当に言われながら箱に入れられ、炎の刀で体の皮を剥ぎ取られ沸騰した熱鉄液を体に注がれて、殺された。

9人目の罪人は「君に何を言えばいいか判らないけどとりあえず諦めると」と更に適当に言われながら箱に入れられ、燃え尽きることのない硫黄と炎の池の中で遺体すらも残さず完全に抹消されて、殺された。

地獄に押し込められる側の人間は、仮初の救いの言葉を聞かされながら、箱の中で死の間際に希望など存在しないのだと絶対の真実を突きつけられ、殺される。

その希望の言葉も、途中から適当な語録に成り果てていたのを、俺は目にしている。

希望を齎す言葉は価値を失い、地獄を構築するパーツと成り果てた。

意味の重みも価値も皆無。ただの戯言の羅列。そこに死に逝く者への敬意も憐れみも、死を与える側の責任も存在しない。

ならば何故、こいつらは、わざわざ無為な希望を抱かせたまま、無残な死を与えるのか。

答えは明白であった。彼らは皆、笑っている。

楽しんでいるのだ。幾多の命が目の前で失われていく事に。

何故、こいつらは、死を楽しむのか。何故、笑えるのか。

この社会で、他人の死を執行する行為は、ナニに変革されたのか。

…エンターテイメントだ。

死刑制度は、それを観る側に愉悦を与える…娯楽をもたらすだけの行為となったのだ。

今、目の前で残酷に葬られた人達が、なぜ極刑と審判されたのか。俺は知らない。

もしかしたら、冤罪である者、または極刑になるほどの罪でない者もいたのかもしれない。それらの者は、ずっと解放を求めていた筈だ。

死刑の直前に、仮初の希望を抱かされ、『箱』の中の死から逃れ続ける事が出来れば、解放を約束されていた筈だ。

少なくとも俺は、そう教えられている。

以前、国外の死刑制度において、絞首刑を耐えられれば無罪放免になるという都市伝説があった。

しかしそれは単なるデマだった。耐えられたら無罪なんて、被害者側から見たら許されるはずがないのが理屈だ。

それに、俺は知っている。『箱』を作っていた立場だから知っている事がある。

それは、作られた『箱』の数だ。

その数、一千個。

箱の数だけ、地獄があるのだ。しかも、容易に増産が可能なシステムとなっている。

その全てから逃れられるはずなど、絶対に不可能だ。

そして、『箱』の中に詰める地獄の数すらも、人間が考えた地獄の種類の分だけ、増やす事が可能なのだ。

人間に地獄を想像する力がある限り、『箱』は無限に作れる。

逃れられる筈が、ないのだ。

「さて、前座はここまで。次に控えし10人目の死刑囚は、世紀の大罪人!、戦後最大の悪!、○○の番です。乞うご期待!」

道化姿の司会者が、俺の死刑を煽る。

そして、司会者の言葉に反応するように、モニターに言葉の羅列が表示される。

『サイキョーの悪キター』

『殺戮兵器ってこいつが作ったんだよ』

『狂人キタコレ』

『罪人は死刑』

『死んで当然』

『犯罪なんて犯さずにおとなしく生きてればいいのにねぇ』

『コイツらオレ達と違う。コイツらは人間のク~ズ~』

これが、この地獄のシステムの根幹を支えるもう一つのもの。

それは、『言葉』である。

そのモニターに映るのは、9人の罪人の死の姿だけではない。

今、このモニターに映し出されている映像は、インターネットやテレビ中継を通じて、全国に放映されている。

しかし、モニターに表示されるのは、箱の中の映像だけではなかった。

映像とともに画面に表示されるのは、…『言葉』であった。つぶやき、又はコメントと表現される文字の類。

俺の前に死を迎えた9人の断末の瞬間にも、これらのコメントがずっと流され続けていた。

そして、このコメントは、視聴者がリアルタイムで発信したものである。

『犯罪者の考えるコトなんて理解できない』

『ねぇなんで殺す前に生温いコト言ってるの?』

『どうせ殺すのに意味ないよな』

『笑』『ww』

『犯罪者の分際でまともに死ねるわけないよね』

『映画みたい!リアルー!』

『キモい』

『本当に不要な人間は消えてよし』

『死刑妥当』

『グロー』

『犯罪者、ざまぁ』

『ギモ”ヂワ”ル』

『ねーし』

『日頃のストレス吹き飛ぶわ~』」

『大変に気持ち悪く不快になる映像です』

『あれさ、もうちょい力入れとけばもっと派手に殺せたんじゃないかな~』

死刑の執行と共にモニターに映されるのは、多種多様なメッセージ。

それは、モニターの向こう側で繰り広げられるエンターテイメントへの個人の所見であり、その所見は匿名性ゆえに、無秩序でカオスとした制御不可能な感情の畝りとなっていた。

そのコメントの大半は、まるでバラエティ番組でも鑑賞しているかのような感覚で、目の前の人間の断末魔に直情的な感想を述べていた。

それらのコメントから感じる雰囲気は、死刑囚という社会的底辺の立場にいる者への見下し、自身が『こちら側』の安全圏にいる事の確信と愉悦、遊びの延長線上にあるものを鑑賞しているかのような発言。それらの混じり合った、屈託なく楽天的で邪悪な方向に純粋であった。

全てのコメントは薄っぺらく、その発言には、死を見守る者の責任は皆無である。

少なからず、『箱』に対して抵抗を覚える意見もあった。

もしかしたら、いわゆる国民感情と呼ばれる感覚の中で、『箱』に賛同する者の意見の実態は数%程度のものでしかないかもしれない。

この新たな死刑制度というセンシティブナな話題に対して、ほとんどの者は反対すべきか擁護すべきかで悩んでいる無言の人々であり、サイレントマジョリティーなのかも知れない。

つまり、答えを求めている物が圧倒的であり、それ故に、答えを示す共感性の高い回答…明確な雰囲気があれば、多くの人がそれが正義と思い込む。これだけ注目されている状態ならば、世の中の意見もまるまると上書きされてしまうのが、現状なのだ。

モニターの中に流れるコメントの中で、『箱』に批判的な意見が、それ以外の大半のコメントの奔流に消えていく様を目にしていると、いかに集団が、『大多数の言葉』に流されていくのかが、嫌でも如実に理解できる。

それこそが、この地獄のシステムを支える二つ目の要素であった。

『さぁさぁ、モニターの向こう側の皆さん。10人目の罪に相応しい『箱』をお選びください!』

道化の司会者の言葉で、俺にふさわしい処刑の方法が投票されている。

俺の目の前で『箱』に殺害された9人の受刑者も、国民のコメントによって決められてきた。

『箱』の備わるシステムが、画面上に表示されるコメントの傾向を分析し、そのコメントの累計によって、自動的に受刑者の目前に、選ばれた地獄の『箱』が運ばれて来るのだ。

罪人の死の形は、国民の選択によって決定される。これも、『箱』に人々を熱狂させる為のエンターテイメントの一環なのだ。

つまり、国民という集団が、罪人の裁きの手段を決めるのである。

それは、無関係の者達が罪人と呼ばれる、ある種、弱い立場の者を一方的に裁く行為。

しかし、その罪人が極刑に至る経緯を詳しく知る者は、モニターの向こう側の視聴者の中にはほとんどいないだろう。少なくとも、俺は死刑にあたるほどの罪は犯してない。殺人だって正当防衛に近い筈だった。

しかし裁く側には、その経緯すら知る責任はなく、ただの感覚で死刑の手段を選択しているのだ。

安全圏の大多数にとって、罪人の死刑は他人事であり、むしろ、自分は安全圏という安堵感という愉悦を感じながら、他人を殺す地獄を選んでいるのだ。

他人を裁く、という行為は、悦楽感や万能感を抱きやすいものであり、それは気持ちが良いものだ。

自分の無関係な者であれば、それは尚更である。

誰もが第三者に『いいね』を貰いたがる。

誰しもが、裁く側に回りたい。他人の悪口や批判を言う事、つまり裁くという行為は、人に快楽を齎すのだ。

倫理の破綻に支えられ制御を放棄したテクノロジー。

その行使を保障する巨大な組織機関。

機能的に組み立てられたその仕組みは、まさに地獄という名の歯車であった。

そこには、このシステムの巨大さに反比例するように、己達が為している事への無責任さが散見し、死の仕組みとその執行には、死を取り巻く人々の無責任な言葉の暴力があった。

まさしくそれは、空気と群衆心理で作られたシャーデンフロイデ。

今、俺の尊厳は、死の形は、群れた狼の集団の心の理に握られている。

「ではここで、希代の犯罪者との対談のために、お呼びしたお二人を紹介します。」

モニターに向こう側で司会者が鬱陶しく喚く。

対談だと。これも、エンターテイメント性というやつなのか!

もうどうでもいい。うんざりだ。何も話すことなど無い。

俺は諦観による沈黙を決めた。

しかし、モニターの向こう側に映る2名に対談者の姿を見て、目を見開く。

そこにいたのは、元彼女のC子と、かつての友人であるB沢だったのだ。

「お名前は伏せますが、この二人は、犯罪者○○によって人生を狂わされてきた被害者なのです。女性の方は、最愛の男性を殺害され、男性の方は古くから○○によって蔑みを受け続けたとう不幸な過去をお持ちなのです。」

紹介された二人の顔には悲壮感が浮かんでいる。

C子は俺のことを、A沢を殺害した人間だと思っている。…いつのころからC子がA沢と愛し合う仲になっていたのかは、想像したくはないが、その恨みは純粋に深いのだろう。それは、俺を憎しみの詰まった瞳で睨み続けている事を見れば、嫌でも解る。

しかし、B沢はどうだろうか。表面上は悲痛な面持ちをしているが、きっと心中では全く異なる感情があるのだろう。

「では、お二人に今の気持ちをお聞きしようと思います。」

マイクを向けられたC子。

「私はこの男に愛する人を殺されました。今でも、彼を無惨に撃ち殺したこの男の顔は忘れられません。私は、この男が心の底から苦しんで死んでくれることを、願っています。」

…もう、俺の知っている彼女は、いないのだ。

「violetが、地獄の業火でこの悪人を塵芥一つ残らず灼いてくれる事が、今の私に残された最後の楽しみです。」

その発言に、視聴者のコメントが殺到する。

『人間の屑。死んで謝罪しろ』

『生まれてきたことを後悔しろ』

『生きていて恥ずかしくないの』

『お前が消えたらみんなが喜ぶ』

『生まれてきたことを反省しろ』

『シンプルに、死ね』

『まぢ死んだほうがこの世の中のためぢゃないかなwww』

俺への責め言葉。それはそのまま、このシステムへの賞賛と同じなのだ。

「では、もうひと方、B沢さんはいかがでしょうか?」

「当時、私は、この社会に真の悪人はいないと思ってきました。この男に迫害され続けても、善はあると思っていました。しかしこの男は善ではなかった。方やテロ組織を創設し多くの被害者を出し、方や企業と国民の税金を用いて殺戮兵器を作った。これほどの悪が今まで行ったのでしょうか。彼は善ではありませんでした。しかし真の善は違うところにありました。この箱、violetこそが正義なのです。この正義が、これからの社会で悪への抑止力となる。なんと素晴らしい。これがあれば、こんな悪が二度とのさばらない社会にになる事でしょうね。」

B沢の発言に、コメントが殺到する。

『いいこと言った! 正義とは悪の抑止力なり』

『これ見たら犯罪なんて犯す気、失せるよな』

『どうやって死ぬのか、楽しみ』

『マジ平等な社会。民主主義バンザイ』

『国も珍しくいいモノ作ったな』

『正義はここにあった』

これらのコメントは全て、[violet]というシステムの継続を願うものだった。

[violet]の運用に友好的な発言が多ければ、今後も[violet]の運用が続けられる可能性があるということだ。

あぁ。B沢の目的が解った。

こいつは今、世間の俺へのイメージを公衆の面前で固定したのだ。

何のために?

こいつは、空気の中で遊んでいるだけなんだ。

このエンターテイメントを全力で楽しんでいるのだ。

システム[violet]は究極の暴力である。

その暴力の使い方は、群衆に委ねられた

そして群衆は、この地獄の継続を望んでいる。

制度とは、国の形だ。

しかし社会は、制度の判断基準に群衆心理を選択した。

為政者は、集団心理に人間の運命を託してしまった。

本来、地の底にあるはずの地獄が、制度と言う集団を縛る規則の名を借りて、地上に生み出された。

今、この国は、未来は、地獄と化したのだ。

モニターに映る男女に向かって、俺はつぶやく。

「そんな曖昧な空気に、国の運命を託していいのか…」と。

俺のつぶやきに、男女は口を揃えて答える。

女性は、行き違いの果てに生じた私怨で、

男性は、本音を隠し無関係を装う顔で雰囲気を楽しみながら、

「「これが、君の作った社会だ。」」

そう告げた。

思い出した事がある。

F岡が会社を辞めた時。

それは、ゾンダーコマンドについて、ホロコーストについて調べた時に目にした文章だった。

当時のドイツ人はホロコーストの存在を知っていたか?

知っていたはずである。知らないことなどあり得ないのだ。

労働者不足の中において、働く関係者と関わらないなどあり得ない。

醸し出す死の煙を認識できないなどありえない。

絶えず死体を焼く場所から出る煤煙とおうけを催すような悪臭は、アウシュビッツ全地域に充満し、周囲に住む住民の誰もが強制収容所で虐殺答えたことを知っていた。

しかし誰もがそれを口にしなかった。話題にしたかった。その話題を故意に避けていた。支配と恐怖が作った空気によって。

今、俺の目の前にあるモノは、支配でも恐怖でもない。

今、俺の目の前にあるモノは、群衆が作る空気だ。

それは多分言葉にするなら、群衆心理、と言うものであろうか。

隣が言っているから、私もそれでいい。

市民は自分に負担がかからないことであるならば、簡単に選択できる。いや容易に選択してしまう。そしてその容易とは、周りに合わせる、ということである。

君たちに責任を負わしたい。いやいやそれは嫌だから、みんなに相談して決めよう、皆に合わせよう。

つまり、それが、無責任だ。

仮に話し合いがあったとしても、話し合いは、自分たちを犠牲にすると言う結論を導く事は絶対にない。

多数決は平等では無い。

俺たちは公正な世の中が健全だと思っている。しかし実は違った。公正も健全も作り出せるものなんだ。正しくそれは、社会集団の中で追い詰められた人間にとって、地獄だ。

「俺は…いや、俺達は、群衆心理によって、自ら地獄の仕組みを作り上げていたんだ」

「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー--ー!!!」

俺はありったけの空気を搾り出し叫ぶ。

今、俺の目の前に『箱』が運ばれてきた。

中にあるのは、まさしく地獄の責め苦であり、絶対に逃れられることのない死の形であった。

今、俺は恐怖を感じている。しかしその恐怖は『箱』にでも、目前に迫る死にでもない。

俺は今、『空気』という化け物に、初めて、底知れない恐怖を覚えたのだ。

目の前の2人に、実況者に、モニターに、モニターの向こう側にいる群衆に、そして自分を取り巻く全ての空間に、俺は巨大な怪物の影を感じた。

空気とは、集団に対して、論理的な判断基準を超越する絶対的な支配力を持つ『判断の基準』なのだ。そんなもの、まさしく怪物そのものじゃないか!!

かつての友人を事故とはいえ自身の手で殺害してしまった事実はある。だから、罰を受ける覚悟として、ここまで冷静を保ち、みっともなく抵抗し喚きたい思いを我慢してきた。

しかし、自分をがんじがらめに縛る巨大な怪物の存在に気づいた瞬間、俺の心の均整は砕け散ったのだ。

強い怒りの感情が、自分の中に沸き立つ。

誰に怒りを感じているのか。

空気に、だ。

俺は、自身を取り巻く空気が、許せなかったのだ。

今、自分は、空気によって地獄に堕とされようとしている。納得など、出来るはずがない。

怒りに任せ、俺は叫ぶ。

「みんながみんな、責任を空気のせいにしている!」と。

「誰もが責任が無いと感じている!」と。

「その先にあるのは、この地獄だ!」と。

「みんな、空気に殺されるんだぞ!」と。

「俺にも責任はない!俺はあの時、ああせざるを得なかったんだ!」と。

「俺は『そちら側』の人間だ!」と。

「俺も『そちら側』へ入れてくれ!」と。

必死で叫んだ。

…。

少ない時間の沈黙の後。

声が聞こえた。

その声の主は、対談に来たC子なのか、B沢なのか。

それとも、それは既に『誰』でもない一般社会に属する集団の中の一人の声なのか。

「君の罪が許されることなんて、ありえないよ。

だってそんなの…、

。」

『空気が許さない』という理屈の通じない感覚。

それは論理的な判断基準を超えた、空気が許さないという空気的判断の基準なのだ。

そこに論理は関係なく、まさしく人外のモンスターそのものであった。

空気とは判断の基準である。非常に強くて絶対的な支配力を持つ判断の基準である。

もしそれに抵抗しようものなら、容赦なく異端とされ、まるで犯罪者のごとく社会に抹殺されてしまう。

空気とはまことに大きな絶対性を持った怪物である。

そして、

俺は、

皆の願いと期待に応え、真の地獄で残酷に殺されていくのだ。

〈エピローグ〉

「『彼』の容体は?」

長身の黒いスーツの男が医師に尋ねる。

「大変に珍しい症例ですね。ソシオフォビア(社交恐怖症)に近いのでしょうが、人への拒絶反応が過剰過ぎます。」

「過剰?」

「はい。まるで近づく全ての人物が彼を殺しにかかるといった妄想に取り憑かれているようですね。」

「ふむ。取り憑くとは、言い得て妙だね。」

「は?」

「『彼』が恐れているのは、人ではなく、集団でしょうね。」

「は、はぁ…。」

「ところで、『彼』が保護された部屋は、どのようになっていましたか?」

「凄い荒らされようだったようですよ。自分でやったみたいですが…。保護するまでに数人の警察官が必要でした。」

「部屋に、何か異常なモノはありましたか?」

「いえ、麻薬とかいったモノは何も。携帯とかノートとかがあったぐらいですね。」

「ノート?」

「はい。これです。」

「そのノート、私が預かってもいいですか?」

「構いませんよ。これが症状に関係しているなんて事はあり得ませんから。」

「…そうですか。で、結局『彼』の、この…発狂は、何が原因だと思いますか?」

「皆目見当も付きませんね。恐らく脳に何らかの変化が生じていると思われますが…。外傷も無いのに…。奇妙な事です。」

「直接、『彼』と話をしても良いでしょいか?」

「拘束されていますし、危険はないでしょう。構いませんよ。私は他の仕事があって同伴できませんが、何かあればコールして下さい。」

出ていく医師。残された黒スーツの男は『彼』に近付く。

男が手にしたノートを見て、『彼』は震える。

「”オレ”に近づくなーーー!!」

『彼』が叫ぶ。

『彼』にとって、近づく全ての人間が、自らの死を望む害悪なのだ。

「今の君には、何が見えますか?」

男の質問に、『彼』は辛うじて答える。

「は、箱だ。箱と、み、みんなが、オレを殺しにくる!」

「それは夢です。しかし、現実の続きでもありました。」

「あ、あんた、どこかで見たことあるぞ。あんた、オ、オレに何をした!」

「僕が君を選んだんだ。君の経歴。君の人生。君の交友関係。君はこの実験に相応しい素養を持っていた。」

男は再び、『彼』に、○○にノートを見せる。

「この本は、君の脳味噌を揺さぶる為に書かれたもの。

これは、君が世界の真実を知り、どう変化するかを知る為の実験だった。結果は、予想以上だった。

”私”は君にヨブ記の話を聞かせたはずだ。群集心理とは、集団の中に芽生える不条理。

それは、戦時中だけでなく、神権政治蔓延る時代よりも遥か昔、創世の頃から人々の中に植え付けられた心理。

つまり空気そのものであり、

即ちそれは、

人間が息をしないと生きられないと同じく、

絶対に、逃げられない。

空気(Atmos)の恐怖(Fear)からは逃れられない。

そう言う事だ。

僕は、それを君らに理解して欲しい。

君の変化こそが、僕らの求める理想郷、その一歩目だ。」

巨大なビル建ち並ぶ街の一角で。

黒スーツの男が、紺色の髪の小柄な女性にノートを渡す。

フードに隠れた女性の顔は窺い知れない。一言も喋らず、笑ってるのか、泣いているのか、それすらも判別がつかない。

男が彼女に語る。

「彼は貴重な犠牲だった。

むしろ、救われたのだよ。

あれだけ集団に混ざり合う事を是非としていた彼が、これだけの変貌を遂げた事こそが僕らの成果。

彼は夢を見ただけ。真実を知っただけ。犠牲は実験に必要なのだ。」

彼女が、長身の男を仰ぎ見る。

「最初の一歩は成された。あとは続けるだけ。この先に理想郷がある。その後の世界は僕が想像しよう。」

彼女は頷く。それは、彼への同調の証。

「夢を見させる事ができる存在。それが私の信じる魔女。

君はイマジネーションの魔女。

君こそが、憎むべき一冊の回勅[魔女に与える鉄槌]という群集心理の暴力によってその身と愛する隣人を焼かれたセイラムの魔女の再来。

しかし、怪物として異端と蔑まれ堕とされながらも、君は自身の能力を復讐では無く世界の再生の為に使うことを願った。」

彼女が、彼の向こう側にある遠くを見つめる。

「さあ、次の実験を続けよう。人が空気の恐怖(AtmosFear)などという群衆心理に基づく曖昧なモノの支配から脱却できるように。」

視線を合わせぬまま、しかし手を引かれることを望むように彼女は手を差し出した。

「僕達こそが、争いの根源たる『万人の万人による闘争』を統べる唯一つの『リヴァイアサン』になるだから。」

そして、小さな魔女と理想に身を焼く黒い騎士は、群衆犇めく街に姿を消していった

Concrete
コメント怖い
0
2
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ