これは私が体験した話です。
その日は仕事が早く終わり、きっちり定時で上がれたため、同僚と適当な居酒屋に飲みに行くことにしました。
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一時間ほど経った頃でしょうか。
すっかりできあがった私たちに男が話しかけてきました。
いかにもくたびれたサラリーマン風の格好で、ビジネスバッグを持った、どこにでもいそうな男です。
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男は「一人で飲みにきて退屈だから一緒に飲みませんか?」と聞いてきました。
普段なら断っていたと思います。しかし気分良く飲んでいてテンションが上がっていた私たちは男と一緒に飲むことにしました。
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どうやら男は営業の仕事をしているそうで、話し上手、聞き上手で10分もすると私たちの輪にすっかり馴染みました。
飲みも終盤になってきてそろそろお開き、というところで男が突然話し始めました。
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「これは私の友人の話なんですがね。
ある朝友人はいつものように職場に行こうとしました。
いつも通りの時間に起き、いつも通り顔を洗い、いつも通り朝食をとり、いつも通りの時間に家を出たそうです。」
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「しかしその通勤中に車に轢かれてしまい、入院したそうです。その時からおかしなことを言い始めました。
自分が本当に自分であるのかの自信が持てない。実は自分は車に轢かれた時に死んでいて、今の自分は同じ記憶と同じ体を持った別の人間なのではないか。」
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男がなぜ急にこんな話をし始めたのかわかりません。
私はスワンプマンの思考実験を思い出していました。
先ほどまで楽しそうに話していた男の顔は陰り、目は虚で遠くを見つめていました。男の話は続きます。
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「周囲の人間はそんなことがあるわけがないとまともに取り合おうともしてくれませんでした。
退院してから車に轢かれる前の自分を知っている人を訪ね、同じことを話したのですが、全員ありえないと言ってきました。
その全員が、前と変わってないよとか、全く同じだよとは、言ってくれませんでした。きっと自信がなかったんでしょうね。」
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話を聞いていて気付きました。いつの間にか友人の話ではなく男の話にすり替わっていたのです。
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「だから全員死にました。」
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嫌な予感がしました。
男は変わらずそのまま淡々と話しながら、床に置いていたビジネスバッグを持つとカバンの中を探り出しました。
カバンの中からかちゃかちゃと刃物が擦れ合うような音が聞こえました。
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もう男の話を聞いている余裕はありませんでした。私たちは男を置いてお金も払わず逃げるように居酒屋から出ました。
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結局その後も怖くてあの居酒屋に行くことはできず、あの男はなんだったのか、あの話が本当なのかもわかりませんでした。
以上が私の体験したことです。
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ただ、
一つ疑問があります。
この話は、本当に私が体験したんでしょうか。
作者栗介