長編16
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深夜の訪問者

もうこのコンビニでバイトを始めてから一年になる。

自宅の最寄り駅に近い雑居ビルの一階部分が店舗になっており、六階まである上の階には居酒屋やスナック、エステ、法律事務所など様々な業種の店が入っている。

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そして深夜のシフトも随分慣れてきた。

夜十時から朝六時までの勤務になり、やはり慣れないうちは睡魔との戦いだったが、不思議なもので身体が慣れてくると睡眠時間がシフトしても、一日の睡眠時間が五、六時間取れていれば対応できるのだ。

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例えば夜十時から朝六時までコンビニでバイトし、そのまま午後三時まで大学で授業を受け、三時半から九時半まで眠る。

これで何とかなるのだ。

日ごとに切り替えるのは難しいが、一週間単位であればそれほど苦労することはない。

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真夜中に働いていると時々不思議な人達がやってくる。

郊外にあるコンビニでは、この深夜の時間帯に訪れる客は休憩を取るトラックやタクシーの運転手が多いらしいが、この店は駅の近くにあり、駐車場もないことからそのような人達はほとんど見かけない。

ヤンキーのお兄さん、お姉さん、そして酔っ払い達が夜中1時くらいまでの常連で、電車が終わるその時間からめっきり客足が減る。

そして変わった客が多いのがこの後の時間帯なのだ。

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一番多いのが非常識な”馬鹿ップル”で、他に客のいない店内で一発始めてしまうのだ。一応レジから直接見えない位置でやるのだが、その様子はミラーで丸見えだし、当然防犯カメラにもしっかりと映っている。

彼らはドキドキするスリルを味わって楽しんでいるのだろうし、こちらも他の客や店に実害がなければ特に警察へ通報したりすることはないのだが。

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他にも、店じまい後と思われる、妙に陽気な水商売のママ風のオバサンに絡まれることも少なくない。

そして一番厄介なのが、少し精神的に病んでいて、人とコミュニケーションを上手く取れずに夜中に出歩いてくる連中だ。

できるだけ優しく接するのだが、訳もなく高飛車に怒鳴ってくる奴もいるし、何を言ってもすぐに泣き出してしまう女の子もいる。

しかしこのような時間帯に店を訪れるこのような連中の顔ぶれはほぼ決まっており、数か月するうちに大体扱いにも慣れた。

そもそも人に接することが好きであまり物怖じしない性格の俺にこの仕事は向いているのだろう、そんな連中の相手をするのも意外に楽しいのだ。

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◇◇◇◇◇◇◇◇

ある梅雨時の夜のこと。

その日は雨の月曜日ということもあってか、午前二時を過ぎたあたりで客足がぱったりと途絶えてしまった。

商品棚の整理や床掃除も終え、三時前にはやることが無くなり、レジの奥で椅子に座りコーヒーを飲みながら本を読み始めてしばらく経った時だった。

ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン

来客を告げる電子音が響いた。

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「いらっしゃいませ。」

椅子から立ち上がり、店の中へ声を掛けて時計を見ると三時十五分を指している。

しかし見回しても店内には人影はなかった。

そういえば入り口の自動ドアの開閉する音が聞こえなかった。

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普段は来客を告げる電子音が鳴る前に自動ドアの開閉で客に気づくことが多い。

念のためカウンターを出て店の中を確認したがやはり誰もおらず、雨にも関わらず出入り口のマットにもそれらしい足跡は残っていない。

センサーの誤作動だったのだろう。

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レジカウンターに戻り、何気なく店内をもう一度見渡した。

すると店の奥にある角のミラーに、女性の姿が映っているのに気がついた。

時折、自分が店内を移動するのと同じペースで客が商品棚の反対側を移動するとその存在に気がつかないことがある。

さっきはそれで気がつかなかったのだろうか。

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ミラーに映っているのは、セミロングで茶色の髪をした人妻風の女性で、ピンクのカーディガンにモスグリーンのフレアスカートという服装だ。

店の一番奥にある飲み物が入った冷蔵庫の棚の前で、冷蔵庫に背を向けるようにして立っている。

そしてその鏡に映った姿を見ていて、俺は気がついた。

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その女性が立っている位置は目の前の通路の突き当りであり、レジにいる俺の真正面になる。

しかしその位置をいくら自分の目で確認しても誰もいない。

ミラーを見る限り、あの女性はこの正面の通路の一番奥でこちらを見ているはずなのだ。

(幽霊か?)

ミラーは斜め上のやや後方から女性の姿を映しているため顔は見えない。

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一気に恐怖が湧きあがり、背筋に悪寒を感じて固まってしまった俺は、ミラーに映った女性と目の前の誰もいない通路を目だけの動きで交互に見ていた。

どのくらいの時間そうしていただろうか。

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するとしばらくしてミラーに映った女性が、スカートを揺らすことなく滑るように前に向かって動き始めた。

つまり通路を俺の方に向かって進んできていることになる。

そしてすぐに女性はミラーの映し出す範囲を出てしまった。

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他のミラーを目で追うが、基本的にミラーはカウンターから見えない部分を映すように設置されており、レジ正面を映すミラーなどない。

もうミラーには映っていないが、女性はそのまま俺の正面をこちらに向かって進んできているのだろうか。

固まったまましばらく見えない相手をじっと見つめていた。

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ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン

来客を告げる電子音が響いた。

とにかく誰でもいい。

この幽霊と一対一の状態から解放されると思い、少しほっとして反射的に出入り口に目をやったが、自動ドアは閉まったままで誰も入ってきていない。

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しかし自動ドアのガラスに先ほどの女性の姿が映っていた。

相変わらず俺の目にその女性の姿は見えないが、女性はカウンターを挟んで俺の正面に立ち、俺をじっと見ている。

しばらくその状態が続いたが、女性は突然片手をあげると俺に向かってこっちへ来いと言うように手招きをし、向きを変えると自動ドアへと進んでいく。

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本人の姿が見えず、ガラスに映る姿だけが見えていると、まるでガラスの向こうにいる女性が徐々にこちらへ近づいてくるように見える。

もちろん手招きされてもその女性について行くわけがない。

そして自動ドアが開くことがないまま、女性の姿はガラスの中へと消えていった。

俺は自動ドアを見つめた状態のまま、放心状態でしばらく固まっていた。

しばらくして眠たそうな顔をしたカップルが店に入ってきたところでやっと我に返った。

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いったい今の女性は何だったのだろう。

結局ミラーやガラスに映った姿しか見えなかった。

どう考えても幽霊としか思えない。それとも俺は幻覚を見ていたのだろうか。

女性の顔はどこかで見たことがあるような気がするのだが、店の客だろうか。

その後も午前4時を過ぎて外が徐々に明るくなってくるまで、ミラーやガラスに映る店内が気になって仕方がなかったが、その日は再びその姿を見ることはなく、朝の交代時間を迎えた。

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その翌日も夜勤番だった。

昼間、大学で知人の女性からデートに誘われて浮かれていた俺は、昨夜の不思議な出来事などすっかり忘れていた。

梅雨の時期だけに連日の雨だったが、今夜はぽつりぽつりと客足があった。

そしてまた自動ドアの開閉音が聞こえないまま来客を告げる電子音が鳴った。

反射的に昨日の出来事が頭に蘇り、時計を見ると三時十五分。

同じ時間だ。

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ミラーに目をやると・・・いた。

昨日と同じ服装で店の奥の冷蔵庫の前に立っている。

しかし昨日とは違い、店内にはひと組のカップルがいた。

このふたりがいるおかげなのだろう、昨日よりも冷静にその女性を見ていた。

じっくり見てみると、その女性の姿は若干透けて、横の商品棚が体越しにうっすらと見えている。

やはりこの世の存在ではないのだ。

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店内にいたそのカップルは、雑誌の棚の前で何かふたりで話をしていたのだが、話を終えたのか手に持っていた雑誌を棚に戻すと商品棚の角を曲がり、女性の立っている飲み物が並ぶ冷蔵庫の前に移動してきた。

このふたりに女性の姿は見えているのだろうか。

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その様子を注視していると、冷蔵庫の中を覗きながら女性の方へと進んだ彼氏はガラスぎりぎりを歩いていたため、ガラス棚から一メートルほど離れて立っている女性の立ち位置と被ることはなかったのだが、彼氏と手をつないで歩いていた彼女は、迷惑そうな顔をして冷蔵庫の前に立っている女性を避けたのだ。

どうやらあのカップルにはあの女性が直接見えているようだ。

俺にだけ見えないのだろうか。

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そのカップルがレジに来た時に、思い切って彼女に聞いてみた。

「あの冷蔵庫の前に立っている女性をご存じですか?」

すると彼女は首を横に振った。

「いいえ、全然知らない人ですけど。」

やっぱり見えていたのだ。

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ところがそれを聞いていた彼氏が不思議そうな顔をして俺と彼女の顔を見た。

「はあ?お前ら何言ってるの?店の中には俺達しかいないだろう?」

俺はちらっとミラーを見たがもうそこに女性の姿は映っていなかった。

「あらいるわよ。何言ってるの?」

そう言って冷蔵庫の方を振り返った彼女が悲鳴をあげた。

「きゃっ!」

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咄嗟に俺は自動ドアのガラスを見た。

ガラスには、レジカウンターの中に立つ俺、そしてその前に並んで立つカップル、そして振り返ったふたりのすぐ目の前にあの女性が立っていた。

その場に座り込んでしまった彼女を全く気に留めていないように、その女性はまた俺に向かって手招きをするとそこで向きを変え自動ドアの方へ進み、

昨日と同じように電子音の後自動ドアのガラスの中へと消えていった。

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「なんだ今の女は!おい、あれは幽霊か?」

彼氏にもガラスに映る姿は見えたのだろう、真っ青な顔をして俺に問いかけてきた。

「わかりません。俺にもガラスや鏡に映った姿しか見えないんです。でもあなたの彼女さんは直接見えたようですね。」

「なんだよ、それ。気味の悪い店だな。おい、帰ろう。」

彼氏は座り込んでいる彼女の腕をつかむと買物をカウンターの上に置いたまま、逃げるように店を出て行ってしまった。

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その女性の幽霊は、その次の日も、その翌日も現れた。

しかし何をするわけではない。他の客がいる、いないに関わらず三時十五分になると電子音と共に店の奥のミラーの中に現れ、しばらくするとカウンターの前で俺に手招きをして店の外へ消えていく。

それだけなのだ。

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しかし何故に突然その幽霊が現れるようになったのだろうか。

決まった時間に決まった場所で、ということであれば地縛霊と呼ばれるものかもしれないが、もちろん店内であの女性が死んでしまうような事件や事故などは起こっていない。

全く思い当たる節がないのだ。

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◇◇◇◇◇◇◇◇

そして金曜の夜。

午前三時を少し過ぎた頃、あのちょっと病んだ泣き虫の女の子が店に入ってきた。

女の子と言っても二十歳前後、俺よりも少し年下くらいの年齢だ。

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おそらく対人恐怖症などだと思うのだが、最近になって少し慣れてきたのか、通常の買い物の会話程度では泣かれることはなくなり、

通常より小さめの声でいらっしゃいませと声を掛ける俺へ笑顔を返してくれるようになってきていた。

しかしこの時間に現れるということは、他には誰も会いたくないという基本的なところはあまり改善していないのだろう。

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店に入ってくる時は外から店の様子を観察し、他に客がいないのを見計らって入ってくるのだが、

店に入った後に来客を告げる電子音が鳴ると一旦店の奥へと逃げ込み、入ってきた客の動きを見ながら顔を合わさないように避けて商品棚の陰を移動するのだ。

彼女は必死なのだろうが、レジからその様子を見ていると、小柄な彼女が小動物みたいで、どこかかわいいと思ってしまう。

今日は今のところ彼女の他に客はいない。

だから彼女は店の中に入ってきたのだが。

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しかし間もなくあの幽霊が現れる時間だ。

彼女の姿を目で追いながら、頭の中ではさっさと買い物を済ませて早く帰って欲しいという気持ちと、彼女にはあの幽霊が見えるのか確認してみたいという気持ちが交錯していた。

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「あの・・・すみません・・・」

女の子が珍しく声を掛けてきた。

珍しく、というよりも彼女が自ら声を掛けてくるのはこれが初めてかもしれない。

この子には極力声をかけないほうがいい。

俺は黙ったまま精一杯の笑顔を作ると、女の子の顔を見て首をかしげて見せた。

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「あの・・・アイスクリームのピノのジェラートが新しく出たって聞いたんですけど・・・」

今日は早い時間から同じ質問を何度か受けた。

人気のアイスであり、もうこの時間では残っていないかもしれない。

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内心はダメだろうなと思いながら、俺は微笑んで頷くとアイスクリームのボックスの前に行った。

やはり人気の限定商品だけにパッと見たところ、もうボックスの中に見当たらない。

しかし探してみると、幸運にも下の方に埋もれていた最後のひとつを見つけた。

「あったよ。最後のひとつだ。よかったね。」

つい声が出てしまったが、それを渡すと女の子はそれを手に取って嬉しそうに微笑んだ。

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その時、店の中に電子音が響いた。

ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン

咄嗟に店の壁に掛かった時計を見ると、三時十五分を指している。

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女の子は誰かが来店したと思ったのだろう、素早く俺の陰に隠れるようにして店の自動ドアの方を伺っている。

しかし案の定、誰も入ってきた様子はない。

俺は何が起こっているのか知っているのだが、それを知らない彼女はきょろきょろと辺りを見回している。

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「誰も入ってこなかったみたいだね。他に何か買うものはあるの?」

それを聞いて少し安心したような表情を浮かべた彼女は、首を縦に振ってまだ買うものがあるという意思を示した。

俺はそのままレジに戻ると、店の奥のミラーを見た。

案の定そこにはあの幽霊が映っていた。

しかし今日の彼女はこれまでと少し違っていた。

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これまでは冷蔵庫の前に立ち、正面のレジにいる俺の方を向いて立っているのだが、

今日は横を向いていた。

その視線の先には冷凍食品の棚を物色しているあの女の子がいる。

そして女の子が冷凍食品の棚を離れ、中央の通路に入ってきたところで幽霊が動き出した。

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女の子には幽霊の姿が見えていないのだろう。

その幽霊は小柄な女の子の背後から覆い被さるように抱きつくと、そのまま消えてしまった。

ガチャン

手に持った買い物カゴを落とし、女の子が崩れるように倒れた。

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俺は慌ててレジから飛び出すと、倒れた女の子の傍に行って彼女を抱き上げた。

苦しんでいるような様子はなく、彼女はうっすらと目を開けているのだが、

その焦点は定まっていない。

意識はあるのだろうか。

「大丈夫か?救急車を呼ぼうか?」

声を掛けるとぼんやりした表情で俺に顔を向けた。

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女の子はわずかに口を動かし、普段の彼女とは全く異なる声を発した。

「・・・よんかいの・・・といれ・・・にいるの・・・たすけて・・・」

彼女は同じ言葉をもう一回繰り返した。

声もそうだが、女の子の言葉ではないのは間違いない。

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そんなことが本当にあるのか信じ難かったが、

あの幽霊が彼女に乗り移っているとしか思えない。

あの幽霊は、自分が憑依できる相手を待っていたのかもしれない。

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彼女が言った四階はこのビルの四階のことだろうか。

このビルの四階は改装工事中なのだが、オーナーの金銭的なトラブルか何かで工事は中断したままだと聞いている。

そこのトイレにいると言っているのか。

助けてと言われても、こうやって幽霊となって現れるのであれば、

彼女はもう既にこの世の人ではないということになる。

しかしこの状況を警察に通報しても信じてもらえないだろう。

あと三時間で交代の時間だ。

そうしたら四階のトイレを覗いてみればいい。

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「おい、大丈夫か。しっかりしろ。」

腕の中の女の子を軽く揺さぶると、ぼんやりと薄目を開けていた彼女の目がぱっちりと開いた。

そしてその目が俺の顔をじっと見つめると、みるみる涙が溢れてきた。

俺は、しまった、また泣かせてしまった、と思いながらも、彼女が正気に戻ってほっとした。

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すると彼女はいきなり俺に抱きついてきて、わんわん本格的に泣き始めた。

「いまね・・・いきなりね・・・うしろからね・・・誰かが抱きついてきたの・・・

他には誰もいないと思っていたのにいきなり・・・怖かった・・・

そしたら・・・そしたらね、急にふわっとして・・・

何もわからなくなっちゃったの。怖かったよお・・・」

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この子がこんなに話をしてくれるのは初めてだ。

女の子は再び俺の胸に抱きつくと、そのまましばらくしゃくりあげていた。

幸い夜が明けるまで他の客が来ることはなく、彼女は外がすっかり明るくなった五時前に帰っていった。

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◇◇◇◇◇◇◇◇

「それじゃ、お先に失礼します。」

六時に早番のオバサンと交代して店を出ると、俺は人目を避けてビルの裏に回り、非常階段を上がっていった。

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四階まで上ると、目の前のスチール製の扉には「工事中 関係者以外立入禁止」という紙が貼られている。

ドアノブに手を掛けようとしてはっと気がついた。

この中には死体があるかもしれないのだ。指紋を残してはいけない。

俺は犯罪者ではないが、余計な嫌疑を掛けられるのは嫌だ。

ハンカチを出してドアノブを握るとそこには鍵が掛けられていた。どうやらこちらからでは入れないようだ。

それであればやはり正面から行くしかないか。

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非常階段を降り、ビルのエントランスホールへ入るとエレベーターに乗り込んだ。

四階のボタンの上には工事中と書かれた紙が貼られている。

その紙の上からボタンを押すと、紙の裏でボタンが明るく光り、エレベーターが動き始めた。

そして四階で停止しドアが開くと、コンクリートの壁がむき出しの薄暗いフロアが視界に広がり、

目の前に張られている黄色いテープがここは工事中だから入るなと主張している。

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エレベーターを降りた瞬間に俺は気がついた。

強烈というほどではないが、明らかに腐敗臭が漂っている。

背後でゆっくりとエレベーターのドアが閉まると、更に周辺が暗く感じられたが、周囲を確認するのに不自由ない程度の明るさはある。

あの幽霊が言っていたトイレはどこなのだろうか。

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それはすぐに判った。

薄暗いフロアの中、右手一番奥に見える扉の前に、ぼんやりとあのカーディガン姿の女性が立ち、俺に向かって手招きしていた。

彼女の姿を自分の目で直接見るのはこれが初めてだ。

そして彼女の立つ、あの扉がそのトイレに違いない。

ここまで確認すれば充分だ。

腐敗した女性の遺体など見たくない。

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そのまま踵を返すと一階へと降りるために再びエレベーターへと乗り込んだ。

そしてもう一度フロアを振り返ると、閉まりつつあるエレベーターの扉のすぐ前に

あの女性が立って俺をじっと見つめていた。

きっとよろしく頼むと言いたかったのだろう。

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◇◇◇◇◇◇◇◇

俺はそのまま駅に向かうと駅前の公衆電話に飛び込み、警察に電話を掛けた。

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「すみません。池上線の○○駅前にある△△ビルの四階で、何かが腐ったような凄い臭いがするんです。調べてもらえませんか?

ええ、そこは工事中なんですけど、夕べ酔っ払っていて間違えて四階で降りちゃったんですよ。

あの臭いは絶対死体か何かがあると思います。もし違ったらごめんなさい。」

それだけ言うと、自分のことは何も告げずに電話を切った。

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このまま帰ろうかと思ったが、やはり事の成り行きが気になる。

数十メートル離れた位置にあるハンバーガーショップに入ると、朝食のセットを購入してビルが見える二階席の窓際に陣取った。

すると五分もしないうちに一台のミニパトがビルの前に停まり、ふたりの警察官が中に入っていった。

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そしてそれからさらに十五分ほどすると、

数台のパトカーがサイレンを鳴らして駆けつけてきたのだ。

コンビニの自動ドアからは、さっき俺と交代したオバサンが何事かと顔を出している。

「やっぱりね。」

警察が彼女の遺体を発見したのはもう間違いない。

俺はほっとして冷めかかったコーヒーをすすった。

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◇◇◇◇◇◇◇◇

その日の夕方のニュースで事件のことが報じられていた。

亡くなっていたのは近所に住む三十五歳の主婦だった。

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死後五日が経過しており、死因は頚部圧迫による窒息死、ロープのようなもので首を絞められて殺されたらしい。

女性は五日前の月曜日の夕方に自宅を出たまま行方不明となり、

家族から捜索願も出されていた。

月曜日は俺があの幽霊を始めてみた夜だ。

つまりあの時は、本当に彼女が殺された直後ということになる。

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おそらくあのトイレで殺されたのは午前三時頃であり、

その直後の三時十五分に店に姿を見せたのだろう。

そしてコンビニの店外に設置されていた防犯カメラには、深夜零時頃に大きなスーツケースを持った男がビルの中へ入って行き、そして明け方にビルを出ていく姿が映っていた。

おそらく昼間に警察が店を訪れ、防犯カメラの映像を手に入れたのだろう。

防犯カメラには男の顔がはっきり映っており、犯人は間もなく逮捕されるはずだ。

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そしてニュースの画面に映し出された被害者の顔を見て思い出した。

このバイトを初めてまだ間がない頃、深夜に風邪薬がないかと尋ねてきた女性だ。

その時の彼女はパジャマにガウンを羽織っただけのスッピンだったため、

すぐには彼女だと気がつかなかったのだ。

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彼女は、子供が熱を出したと駆け込んできたのだが、

基本的にコンビニに解熱剤は置いておらず、こんな時間に開いている薬局などこの近所にはない。

しかし聞いてみると、熱は三十八度ほどでどうやら単なる風邪のようだ。

俺は祖母から聞いていた生姜湯の作り方を教え、家にないという材料を揃えて女性に渡した。

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そして翌日彼女が店に現れ、言われた通りに作って飲ませたところ、朝には熱が下がっていたと礼を言われたのだった。

生姜湯が効いたのかどうかは分からないが、そんな事もあって彼女は俺を頼ったのかもしれない。

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◇◇◇◇◇◇◇◇

今夜のコンビニのバイトは夜勤からの切り替えで休みだったのだが、どうしても気になり午前三時過ぎにコンビニへ顔を出した。

「おう、どうした、こんな時間に。」

店に入ると、今夜から俺と入れ替わりで夜勤シフトに入った同じ大学の友人がカウンターの中から声を掛けてきた。

「いや、眠れないからちょっと出てきた。」

そう言って雑誌コーナーで立ち読みをしながら三時十五分を待った。

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そしてその時刻になった。

しかし電子音は鳴らない。

自分を見つけて欲しくてここに来ていた彼女はもう現れないのだろう。

ミラーやガラスを見てもその姿はない。

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よかったと思いながらも、何故こんなことになったのか分からないが、

子供を残したまま殺された彼女が成仏できるのかを考えると少し物悲しい気分になった。

しかし、取り敢えず、あの見えない幽霊の一件は決着したようだ。

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そして手に持っていた雑誌を棚に戻した時、目の前のガラスの向こうにあの泣き虫の女の子が俺に向かって手を振っているのが見えた。

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彼女はレジカウンターの中にいる友人を気にしながらも店の中に駆け込んでくると、

満面の笑顔で俺の腕にしがみついた。

小動物のようなこの姿は、文句なくかわいい。

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しかし強度の対人恐怖症の女の子という、

社交的な俺にとっては、

非常に厄介なモノに取り憑かれてしまったのかもしれない。

どうしよう。

◇◇◇◇

FIN

Concrete
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