せっかく禁煙していたのに、十か月を超えたところで崩れた。
何を言っても言い訳にしかならないが、仕事でトラブルが続き、積み重なるストレスに耐えかねて二週間ほど前につい手が出てしまった。
以前から俺が禁煙することを強く望んでいた妻や子供達には、再び吸い始めたとを言い出せず、一日数本をこっそりと吸っている状態なのだが、やはり臭いですでに気付いているのかもしれない。
しかし家族は、俺がタバコを再び吸い始めたことに気付いていることを口にすると、俺がまた家で堂々と煙草を吸い始めることを案じて、敢えて気付いていないふりをしているような気がする。
俺自身も子供達に嫌な顔をされるのは避けたいし、逆にタバコの本数が増えなくて良いこともあり、家族に再び吸い始めたことを認知させようとも思っていない。
車通勤なので、今は朝に会社へ入る前に一本、そして会社帰りにコンビニへ寄って一、二本という程度だ。
会社は敷地内が全面禁煙になっているため、昼間は吸いたくても吸えず、当然家に帰ってからも吸えないので、徐々に本数が増えていくこともなくこの状態が続いている。
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会社帰りには、だいたい夜九時頃にコンビニで一服するのだが、その日はいつも通勤に使う道路が工事中で、大きく迂回するルートを使ったため、いつもと違うコンビニへ立ち寄った。
駐車場へ車を入れるとまず店の表に灰皿があるのを確認してから店の中に入る。
最近は灰皿を置いていないコンビニも増えてきた。
聞くと煙草を吸わない他の客よりも、周辺の住宅からの苦情が多いらしい。確かに自分の家の傍にコンビニの喫煙場所があったら愛煙家の俺でも文句を言うだろう。
いつものように帰宅してから飲む缶ビールを買い、レジ袋を車の助手席へ置いて灰皿の傍へ行こうと振り向くと、そこに小柄な女性が立っているのに気がついた。
店に入る前に灰皿を確認した時は誰もいなかったはずだが、たぶんその後に来たのだろう。
そのまま灰皿の横に立ち、タバコを咥えて火を点けようとした時、その女性がタバコを吸っていないことに気がついた。
直接女性をじろじろ見ることははばかられたが、視界の隅に見える彼女はタバコに火を点けた俺の方をじっと見ているようだ。
「あの・・・」
女性に声を掛けられ、彼女の方を向いた。
茶色のセミロングを後ろで束ね、丸顔で、一見すると三十前後の若い奥さんと言った感じだ。
この女性が俺に何の用だろうか。タバコを吸っていることに文句を言うつもりなのか。
「はい?」
周りには誰もおらず、間違いなく俺に声を掛けてきたのだから、取り敢えず彼女の顔を見て少し首を傾げるようにして返事をした。
「不躾ですみませんが、タバコを一本めぐんで頂けませんか?」
サマーセーターにデニムのタイトスカートのラフないでたちだが、着こなしはしっかりしていてタバコを買う金がないようには見えない。
しかしこのような可愛い女性に声を掛けられて断るのは、よっぽどの変わり者か、相当なケチだろう。
「いいですよ。どうぞ。」
人並みのスケベ心を持ち合わせている俺は、にこにこしながらタバコの箱を差し出した。
「ありがとうございます。」
そう言って嬉しそうな顔で微笑むと、箱から細い指で一本抜き出すと口に咥え、俺が差し出したライターに顔を近づけタバコに火を点けた。
「タバコ、お忘れになったんですか?」
ふぅ~っと大きく白い煙を吐き出した彼女に声を掛けた。
「いえ、実は禁煙していたのですが、どうしても吸いたくなって。
でも箱で買ってしまうとそのまま吸い続けてしまうので、吸うのはこうやって誰かに"もらい煙草"が出来た時だけにしようって。
わがままですみません。」
「いえ、僕も二週間くらい前まで十か月ほど禁煙していたのに、復活しちゃったばかりなんです。辛いですよね。」
「そうだったんですね。良かった、似たような経験の人で。」
そう言ってにっこり笑った彼女の笑顔を見て何だかほっこりした気分になった。これでタバコ一本なら安いものだ。
ふたり、ほぼ同時に吸い終わると彼女は灰皿でタバコをもみ消した。
「どうも御馳走様でした。」
彼女は徒歩でこの店にやってきたのだろう、最後にまた笑顔をひとつ残してコンビニの建物の向こうへ去っていった。
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工事は月末まで続く予定であり、その翌日も通勤は昨日と同じ迂回ルートを使い、タバコも同じコンビニに寄ったのだが、その日は仕事の都合でコンビニに着いたのは前日よりも三十分以上遅い時間だった。
駐車場に車を入れると、案の定灰皿の所には誰もいない。
当然あの女性がまたそこにいることを心の中で期待していたのだが、もう九時半を過ぎているのだ。いるはずがない。
しかし、彼女がいる、いないに関わらず、俺はタバコが吸いたいのだ。
車を停め、ビールを買い、自動ドアから外に出てきて灰皿の方を見てもやはり誰もいない。
一旦車に戻ってビールを置くと、ポケットからタバコを取り出しながら灰皿へと向かった。
するといつの間にか灰皿の横に彼女が立ってこちらを見ているではないか。
その辺に停まっている車の陰にいたのか、コンビニの建物の陰にいたのか。
いずれにせよ、俺にとってはウェルカムなので自分のタバコを咥えると、彼女が何か言う前に黙ってタバコの箱を彼女の目の前に差し出した。
彼女は微笑むと、「ありがとう」とひとこと言って昨日と同じように一本取りだして口に咥えた。
タバコの箱をポケットへしまい、ライターを取り出して彼女のタバコに火を点け、自分のタバコにも火を点けた。
「昨日よりもずいぶん遅い時間ですけど、誰かが来るのを待っていたのですか?」
「いいえ、もちろんあなたが来るのを待っていたんですよ。」
二日続けてタバコを恵んでくれた相手に対する儀礼の言葉だと思ったものの悪い気はしない。
「そうですか。光栄ですね。えっと…もしよろしければ下の名前だけ教えて貰えますか?」
「あら、下だけでいいんですか?」
「ええ、ここでどうやって呼べばいいかだけなので下の名前だけで充分ですよね。」
「うふふっ、そう?わたし、たばこって言います。」
彼女は真面目な顔をして言った。
「はぁ、たばこさんですか。よろしくお願いしますね、たばこさん。」
冗談に違いないのだが、本当の名前を教えるつもりはないのだろう。
「やだ、冗談でもそんな名前で呼ばれたくないわ。やめて下さい。」
彼女は笑いながら顔の前で手を振った。
俺は心の中で、自分がそう言ったんじゃないかと思ったが口には出さなかった。
「本当は有紀って言います。よろしくね。」
「俺は正孝って言います。よろしく。」
タバコを吸う三分間などあっという間だ。
大体そのくらいの会話でタバコは燃え尽きていた。
そして彼女は特に名残惜しそうな素振りを見せるわけではなく、あっさりとタバコをもみ消した。
「それじゃ、正孝さん、ごちそうさま。おやすみなさい。」
「あ、ああ、おやすみなさい、有紀さん。
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俺が会社に出勤して、帰りにそのコンビニへ寄ると必ず彼女はそこに立っていた。
週末はわからないが、平日の夜は必ずなのだ。
出張や休暇などで平日にコンビニへ寄れない時、彼女が別の誰かにもらい煙草をしているかと思うと何となく落ち着かない。
彼女に会うことが確実に毎日の楽しみになっていた。
もちろん俺は彼女に会うために、道路工事が終わっても通勤ルートを元に戻すことはない。
そうして彼女とのささやかな三分間の逢瀬が一か月を超えてくる頃には、
有紀さんがまともな存在ではないことに薄々気づいていた。
まずその服装だ。
白のサマーセーターにデニムのスカートという最初に会った時のまま、毎日全く変わらないのだ。
さすがに女性に向かって、毎日同じ服ですねなどとは聞けないが、一か月は異常だ。
しかも白のサマーセーターがいつもきれいなまま全く汚れてくる様子がない。
そしてコンビニの前で会う時間。
仕事が安定している時は、大体夜の九時前後になるのだが、何か用事があって遅くなる時もある。
時には日付が変わる寸前になる時もあったのだが、彼女はそこにいた。
こんな時間まで待っていたのかと聞くと、他に誰もタバコをくれなかったからと笑っていたが、どう考えてもおかしい。
俺のような多少のスケベ心のある男は沢山いるはずだ。
彼女にタバコをねだられて誰も相手にしないなんて、とても考えられない。
それなら俺の事だけを待っているのかとも思うが、それにしてはいつも言葉少なにタバコを吸い終わるとさっさといなくなってしまう。
一度だけコンビニの裏手に去っていく彼女の後を追ってみたことがある。
通りに面したコンビニの裏手は一戸建てが並ぶ住宅地になっている。
俺の十数メートル前を歩く彼女がコンビニの建屋を回り込み、その姿が建物の陰になり見えなくなった。
そのまま彼女に続いて建物の陰に回ったが、目の前には一戸建ての門扉が並んでいるだけで彼女の姿は何処にもなかった。
その時はその周辺の一戸建てのどれかに帰ったのだなと思ったのだが、門扉を開閉する音もいも聞こえなかったし、独り暮らしのアパートならともかく、一戸建てに住む奥さんか娘さんが毎夜ひとりでで歩けるものなのだろうか。
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そしてひと月半ほど経った夜、その疑問は彼女によって解かれた。
いつものように俺が差し出した箱からタバコを抜き取ると、俺が差し出したライターに顔を近づけて火を点けた。
彼女は、ふ~っと大きくひと息、煙を吐き出すと珍しく自分から話し掛けてきた。
「正孝さん、いっぱいもらい煙草してすみませんでした。」
でした?
ということはこれで終わりということなのだろうか。
「いや、俺は全然気にしていないから大丈夫ですよ。」
彼女がもらい煙草を続けていることを気にして、これでやめると言い出したのかと思い、俺は慌てて言葉を返した。
彼女はそれに対し、どこか悲しそうな顔でタバコを吸いながら続けた。
「実は今日が私の四十九日になるので、どうやら虹の橋を渡って向こうの世界へ行かなければならないようなんです。」
驚きはなく、やっぱりそうだったのかという気持ちが強かった。
そのまま彼女は言葉を続けた。
「すい臓癌で倒れて病院に担ぎ込まれた時はもうダメだったの。
それから一週間で死んじゃったんだけど、私、ヘビースモーカーだったから病院のベッドの上でずっとタバコ吸いたいって思ってたのよ。
そうしたらこんな状態になって、ここにいれば誰かにタバコを貰えるかなって思って待っていたのに、私のことが見えるのはあなただけだったの。」
「禁煙の辛さを噛みしめた同士でシンクロしたのかな?」
俺がそう言って笑うと、有紀さんも一緒に笑いながら頷いた。
「そうね。考えてみればこの灰皿のところに来る人は、基本的に禁煙していない人ですものね。」
そうして最後の一服が終わり、タバコをもみ消すと彼女は俺に向かって手を差し出した。
「本当にどうもありがとう。」
「どういたしまして。」
彼女の手を握るとそれは普通の人間と何も変わらない感触だった。
「虹の橋の向こうでもタバコが吸えるといいね。」
「そうね。」
そして手を握りしめたまま、彼女はその場で消えていった。
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翌日もそのコンビニへ行ってみたが、彼女は現れなかった。
言った通り、本当に虹の橋を渡ってしまったのだろう。
俺も翌日から通勤ルートを元に戻した。
そしてまた禁煙した。
作者天虚空蔵
初めての投稿になります。
行の折り返し表示などの感覚がよく分からないので読み辛い部分があるかも知れませんが容赦下さい。
心底煙草が嫌いな人にはわからない感覚だと思います。もしそうであれば読み飛ばしてください。
実際、禁煙中に書き始めて、書いてる自分が吸いたくなって書くのを途中でやめてしまい、再びタバコを吸い始めて再開した文章になります。
禁煙しなきゃ…