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長編11
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お琴地蔵

そのお地蔵様は自宅からそれほど離れていない道端にひっそりと立っています。

どちらかと言えば田舎である私の住んでいる小さな町を横切る、車がすれ違うのがやっとという狭い通りの脇にある石彫りのお地蔵様は、背の高さは60センチくらいで、15センチほどの蓮の花を模った台座に立ち、そこには常に誰かがお花やお供物をお供えしています。

私の目には、そんなどこの街にもありそうな普通の小さなお地蔵様だったんです。

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いつからだったのか憶えていないのですが、私が幼稚園に通っていた頃には、もうこのお地蔵様の前を通るたびに御挨拶をしていました。

小学生の頃は、時折近所の空き地で摘んできた野花を供えたりしていたんですが、いつだったか、おそらく近所の悪ガキがお地蔵様の顔に落書きをしたのを必死で掃除したことも思い出されます。

しかし中学生になると近所で遊ぶこともなくなり、普段は通りすがりに手を合わせるだけになっていました。

それでも、学校で嫌なことがあった時やつまらないことで家族と喧嘩した時などはこのお地蔵様の前にしゃがみ、手を合わせていつも愚痴を聞いて貰っていました。

そしてそのうっすらと笑ったようなお顔が、”たいしたことはないよ。元気出しなさい。”って言ってくれているような気がして、いつもほっこりした気持ちにさせてくれるのです。

そして今年から社会人として会社勤めを始めた今でも、お地蔵様への御挨拶と愚痴話は続いています。

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ある日、会社からの帰り道、辺りはもう薄暗くなった夕暮れ時だと言うのにお地蔵様の周りにちょっとした人だかりができていました。

その向こうにはパトカーの赤い回転灯が眩しく点灯しているのが見えます。

たまたまそこにいた顔見知りの近所のおばさんに何かあったのかと聞いてみると、走っていた車が飛び出してきた人を避けてお地蔵様のところに突っ込んでしまったのだそうです。

見ると前の部分が破損した赤い車が路肩に停まっており、その横で運転手と思われる女性がお巡りさんと話をしています。

車の反対側へ回ってみると、歪んだガードレールの向こう側に跳ね飛ばされたお地蔵さまが砕けて倒れているではないですか。

その体は五、六個に割れ、その横に大好きだったお顔も斜めに割れて転がっていました。

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小学生の頃からずっと手を合わせてきたお地蔵様の無残なその姿を見て思わず胸が詰まり、涙がこぼれてきました。

「真美ちゃんはこのお地蔵さまが小さい頃から大好きだったからね。」

この近所のおばさんはお地蔵様の前にいた私のことを見ていたのでしょう、そう言って変わり果てたお地蔵様の前に立ち尽くしている私の背中に手を置いて慰めてくれました。

「でも、こんな姿になってしまって・・・良くないことが起こらなければいいけど。」

私の背中をさすりながら、おばさんが呟くのを聞いて私は凄く不安な気持ちになったのを憶えています。

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◇◇◇◇◇

「早く帰らなくちゃ。」

高部路子は血だらけの服の上にスプリングコートを着て、車を運転していた。

たった今、不倫相手の奥さんを刺し殺してきた。

まだ胸の動悸が止まらない。

勝手口から侵入し、柳葉包丁で心臓のあたりをひと突きするとあっけないくらいにあっさりと動かなくなった。

家に侵入するところも、出て行くところも誰にも見られなかった。

近所の防犯カメラの位置も予め確認してある。

完璧だ。これであの人は私のもの。

顔に笑みが浮かんだその時だった。

自宅まであと少しというところで、夕闇が迫るフロントガラスの向こうにいきなり見知らぬ黄色い和服姿の女性が飛び出してきた。

「危ない!」

急ブレーキを踏み、その女性を避けようと急ハンドルを切った。

幸いそれほどスピードは出していなかったため、大きな事故にはならなかったが、ガードレールに接触し、路肩に立っていた石の地蔵へ突っ込んでしまった。

ドンという衝撃音に続いて、ゴン!という音が響き、ボンネットの上を地蔵の首が転がってきた。

地蔵の首はフロントガラスの前でこちらを向いて止まり、一瞬その顔が今刺し殺した女の顔とダブって見えた。

「ひえっ!」

一瞬心臓が止まるかと思ったが、よく見れば目の前にあるのは石の地蔵の首だ。

高部路子が車を降りて、周囲を確認したが和服の女性の姿は何処にも見当たらない。

「何なのよ、いったい。」

車の前を確認すると地蔵は台座を残し、見事に倒れて砕けている。

しかし車の損傷はそれほどでもなかった。

とにかくこの場から逃げなければ。

フロントガラスの前に乗っている地蔵の頭を掴むと台座の辺りへ放り投げた。

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ガコッ

台座にぶつかった頭は、顔を斜めに横切るようにふたつに割れてしまった。

高部路子の脳裏に子供の頃友達と一緒になってこの地蔵の顔にマジックで悪戯書きをしたことが浮かんだ。

そういえば、近所の女の子が懸命に洗い流していたっけ。

単なる石の塊に何を必死になっているのか、鼻で笑ったことが思い出された。

「まったく、昔からこの地蔵は気に入らなかったのよね。」

そう呟いて周りを見回すと、数人の人影がこちらを見て近づいてくるのが見えた。

そして誰かが連絡したのか、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

このまま逃げるのは逆にマズい。

血だらけの服は完全にコートで隠れている。

高部路子は腹を括ってパトカーの到着するのを待った。

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◇◇◇◇◇

翌日、私は会社を休んでお地蔵様を修復することにしました。

父親の工具箱からコンクリート用の接着剤、そして添え木用の木材や針金、ペンチなどを持ってお地蔵様のところへ歩いて行くと、砕けたお地蔵さまは誰かが夕べの内に元あった場所に集めてくれていました。

台座は無傷のまま元の位置にあったので、その上にお地蔵様の体を下から順に接着剤で貼り付けながら積上げるのですが、この時にこれまでは全く気がつかなかった、と言うよりも見えなかったのですが、足の裏の平らな部分に大きく『鎮』の文字とその下に『琴』という文字が彫ってあるんです。これは一体どのような意味なのでしょうか。

しかしここで考えていても仕方がないので、そのまま淡々と作業を進め、接着した胴体は重みで崩れないように添え木や板を当てて針金で縛って固定しました。

幸い接着剤は濃い灰色だったのであまり目立ちません。

そして最後に斜めに割れたお顔を固定するのですが、大好きなお顔にはできるだけ傷を残したくなかったので、まるでお化粧をするような気分で合わせ目の僅かなヒビへ指先で丁寧に接着剤を塗りこんで傷がわからないようにしました。

そして接着剤が固まるのを待ち、それから三日経った週末に針金を切って添え木を外しました。

大半を添え木、当て板で覆われていたお地蔵様がそのお姿を現しました。

割れて縁が細かく砕けてしまった合わせ部分はどうしようもありませんでしたが、遠目には全く分らない程度に直っています。そして特に丁寧に仕上げたお顔は、近くで見てもほとんど分からない位に仕上がり、私には元のお顔よりもさらに微笑みが優しくなったような気さえしたくらいです。

そしてその日の夕方、買い物の帰りにお地蔵様の前を通りかかると、たくさんのお花やお供物が供えられていました。

おそらく私と同じように普段からお地蔵様を拝んでいた近所の人達でしょう。

それを見てお地蔵様を修理して本当に良かったと嬉しくなり、いつもに増してゆっくりとお地蔵様に手を合わせていました。

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◇◇◇◇◇

それは、奥さんを刺し殺し、地蔵を壊した夜だった。

高部路子は、単なる物損事故として警察の聴取が終わったことにほっとしていた。

ほとぼりが冷めるまでしばらくあの人には逢えないが、これですべて上手く行く。

しかしその日の夜、夢を見た。

車を運転する目の前のボンネットに刺し殺した女の生首が乗っている。

それを見て息を飲んだ次の瞬間、その顔に斜めの線が入ったかと思うと、その線に沿ってその頭がずるっと崩れた。

悲鳴を上げて目を醒まし、夢であったことにほっとし、あの地蔵のせいだと舌打ちしたところで、目の前に何かがあるのに気がついた。

薄暗い部屋の中、枕元を見上げると頭の上に山吹色の地味な着物姿の女性が立っていた。

あの女だ。

無表情でじっと高部路子を見下ろしている。

高部路子にとっては全く知らない顔だが、日本髪を結っており、前時代の人間ではないかと思わせる。

そしてよく見ると胸に包丁のような刃物が突き刺さっており、胸の辺りは真っ赤に染まっているではないか。

自分が刺した奥さんの姿、そして驚いたように大きく見開いた目で私を見ていた顔が強烈に浮かんでくる。

思わず逃げようとしたが、何故か体は全く動かない。

「誰よ!あんた!」

必死に絞り出した高部路子の問いに答えることもなく、じっと彼女を睨むように立ち、その胸元からあふれ出てくる血が顔に垂れてくる。

そしてその女は無表情のまま「ゆるさない」と繰り返し呟くのだ。

その着物姿の女との睨み合いは外が明るくなるまで続いた。

そしてその日以来、毎夜その夢と枕元に立つ着物姿の女が高部路子を苦しめるようになった。

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◇◇◇◇◇

お地蔵様の修復が終わってから一週間ほど経ったある夕暮れ時、会社からの帰りにいつも通りお地蔵様の前で立ち止まり手を合わせていると、不意に後ろから肩を叩かれました。

振り返ると先日の近所のおばさんでした。

「真美ちゃん、この前ここで事故を起こしてお地蔵様を壊しちゃった女の人がいたでしょ?憶えてる?」

あの時お巡りさんと話をしていたあの女性のことでしょう。

おばさんがいきなり事故の話を始めたのを不思議に思いながらも頷きました。

「あの女の人、隣の小川町の人なんだけど、あの事故以来おかしくなっちゃって、おととい自殺しちゃったのよ。」

脳裏にもう一度あの女性の姿を思い浮かべましたが、あの時は特に取り乱した様子もなく、淡々とした様子でお巡りさんと話をしていたように見えましたし、そもそも単なる物損事故なので、とても自殺する原因になるとは思えません。

「おかしくなっちゃったって、どういうことですか?」

おばさんの話によると、その事故を起こした女性が、ふと夜中に目を覚ますと目の前に着物姿の女が枕元に立ち、体を動かそうとしても全く動かない。

そしてその日本髪を結って着物を着た女性の胸元は真っ赤に血で染まり、そこから寝ている自分の顔にぽたぽたと血が垂れてくる。

そしてその女は、無表情で「ゆるさない」と繰り返したそうです。

そしてそれが毎晩朝まで延々と繰り返されるようになり、寝る場所を変えても必ず現れ、その女性は数日でノイローゼのようになり、家族が出かけていた昼間に庭で首を吊っていたということでした。

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嫌な話。

まるでこのお地蔵様が自分を破壊されたことに恨みを持って、それを晴らしたように聞こえてしまう。

私はそんなことをするようなお地蔵様だとは思いたくない。

「おばさん、その話は何処から聞いたの?」

もし情報源があやふやな単なる噂話なら無視してしまいたかった。

「実はその女の人ってこの近所に住んでいて、私の従弟の義理のお姉さんなのよ。明日がお通夜なの。」

遠縁とはいえ身内の話であればかなり信憑性の高い話としか思えなかったのですが、しかしそのおばさんが言った次の言葉の方が私にはショックでした。

「やっぱりこのお地蔵様はお琴さんの怨霊を鎮めるための地蔵だったんだね。」

ずっと優しく静かに見守ってくれているとばかり思っていたのに。

心の中で違うという思いが湧きあがってくるのですが、お地蔵様を修理した時足の裏にあった『鎮 琴』の文字からしてこのおばさんの言うことはおそらく正しいのでしょう。

「おばさんはそのお琴さんという女性のお話はご存じなんですか?」

「詳しくは知らないけど、お琴さんは旦那の浮気相手の女に殺され、その恨みで化けて出てくるようになったのを有名なお坊さんがここに納めたって聞いているわ。」

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そのお琴さんの話をもっと詳しく知りたいと思い、私は翌日近くの図書館へ出かけました。

そして郷土史の本を片っ端から調べ、ようやく『お琴地蔵』という非常に分かりやすい見出しの文章にたどり着いたのです。

お地蔵様の立っている場所の紹介と共に紹介されていたその話は次のような内容でした。

江戸時代末期にこの辺りの農家に琴という娘がいた。

気立てが良く、村の中でも人気者だった彼女は、親類の紹介で村の地主の息子と結婚した。

しかしその男は元来の遊び人で、家族は琴と結婚させれば落ち着くのではないかと思い、琴を嫁に貰ったのだ。

しかしそのような家族の期待も空しく、琴を嫁に貰ってからも旦那の女遊びは続いた。

耐えかねた琴が、あのお地蔵様のある場所の近くに住んでいた相手の女のところへ文句を言いに行ったところ、こともあろうにその浮気相手の女に刺殺されてしまったのだ。

しかしその事件は何故か通り魔の犯行とされ、その女は罪に問われず、結局その浮気相手の女は旦那と夫婦になった。

噂では地主である男の父親が裏で手を回したということだが、真偽は定かではない。

しかし琴の死後、女と旦那との間にできた子供がすぐに流産し、そしてその女の親族までもが数か月の間に次々と事故や病で死んでいった。そしてそれは旦那を更生させようと必死になっていた琴へのその仕打ちに対する彼女の怨念の仕業だと噂された。

それに恐れおののいた旦那は慌てて大枚を叩き有名な石仏師に頼んで鎮魂の地蔵を作って貰い琴の怒りを鎮めようとしたのだが、この地蔵が完成し魂を入れる直前に琴を殺した女は井戸に落ちて死んでしまった。

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そしてその後、偉いお坊さんによる地蔵の魂入れを行った後、旦那は出家し、その後事件は起こらなくなったという話でした。

近所の人達によってあのお地蔵様に供えられた花々は、お琴さんの怒りが自分達の方へ向かないようにお願いするためだったのでしょうか。

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その夜、夕食の後で祖母の部屋に呼ばれました。

母の話では祖母は今日まで私があのお地蔵様を修理したことを知らなかったようです。

わざわざ祖母に部屋へ呼び出されたということは、余計なことをしたと怒られるのではないかとびくびくしながら部屋に入ったのですが、祖母は穏やかな笑顔で良いことをしたねと褒めてくれたんです。

そして琴という女性について話してくれました。

祖母の話の大半は、図書館で調べた内容と同じでした。

そしてあのお地蔵様は琴の旦那が彼女の魂を鎮めるために建てたものなのですが、気立ての良い、村人達に好かれていた琴を祀ったお地蔵様ということでずっと村人に愛される存在だったそうです。

祖母にお地蔵様を壊した女性が自殺したという話をすると、祖母は琴が悪意のない車の過失事故でそんなことをするとは思えない、きっとその車を運転していた女性に何かあるよと言って顔をしかめました。

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後日、自殺した彼女が実は女性を刺し殺した殺人犯であり、被疑者死亡のまま起訴されたというニュースを聞きました。

道路上にあるNシステムという車の走行を記録するデータから彼女が容疑者として浮かび、車の中から若干の被害者の血液反応が出たそうです。

お琴さんは自分を刺し殺した女と同じような事をしたあの女性を許せなかったということなのでしょうか。

優しく皆に好かれるお琴さんと、怒りによって誰かを自殺へと追い込むお琴さん。

百歩引いてみれば、お琴さんもそのような感情のある人間だったということなのでしょう。

私が勝手に心の中で、仏様のようにすべてに寛容な存在と思い込んでいただけ。

でも、あの修復が終わった日の夜、お琴さんと思しき山吹色の着物を着た女性がにっこりと笑って私に深々と頭を下げる夢を見たんです。

あの時はそれが誰だかわからなかったのですが、今思えばお琴さんに間違いないのでしょう。

小さい頃から手を合わせてきたお琴地蔵には、これまで通り、この町にいる限り手を合わせ、愚痴を聞いて貰おうと思います。

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そして、私は今お付き合いしている男性の奥さんには決して手出しをしないと心に誓っています。

FIN

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