深緑に囲まれた山奥の村に旅にきた。「旅にきた」というよりは「たどり着いた」という方がふさわしいかもしれない。
私は気の赴くままに一ヶ月ほどの旅を楽しんでいて、旅程の多くは偶然によって決められた。この村もまた、大自然に魅せられ鉄道に流されるうちに、いつのまにかたどり着いていた秘境のひとつだった。
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山の合間にひっそりと家屋が立ち並ぶこの村は、歩いてみるといっそう閑散としていた。駅を降りてから聞くのは川のせせらぎや鳥の声など自然の音ばかりで、人の姿を見つけるのに三十分ほど費やした。
私はある売店を見つけたのだった。そこには年老いた店主がひとり、カウンターの奥で腰を曲げて座っていた。
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私が店の扉を引くと、カウンターの奥で見え隠れする老人の顔が花開いたように笑った。おそらくこの村に旅行客が来るのは珍しいことなのだろうと思った。
私はまるで常連客のように迎えられ、取り留めもなく話し出す老人の話にしばらく耳を傾けていた。しかし訛りが強いうえに早口だったため、話の内容の一割も聞き取れなかった。
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この村について聞いてみたいこともあったが、老人の楽しそうな顔を見れただけで十分だと思うことにした。話がひと区切りついたところで、記念に何か買っていこうと店内を見回した。店のいちばん奥に、ひときわ私の目を惹くものがあった。
それは美しく渦を巻く貝殻だった。青い海と白い砂浜がお似合いな綺麗な貝を、緑ばかりの山奥で見つけたことに心躍った。値段も三百円と手頃だったので、私は迷うことなくそれをレジへと持っていった。
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そしてリュックサックから財布を取り出そうとした時、
「お金はいらんよ」
老人の口から、はっきりとした拒否の言葉を聞いた。
その口調はさっきまでの仄々とした雰囲気ではなく、何か迫ってくるようなものを感じた。
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私は老人に押されるような気持ちで、その言葉に甘えることにした。貝殻を財布と一緒にしまい、店を出ようとした時、出入り口の横に一冊のノートを発見した。
机の上にボロボロの大学ノートが置いてあった。表紙には何も書いていなかったが、このノートの意図を私は知っていた。というのもこれまでの旅先で、いくつもこのようなノートを見てきたからであった。駅の構内や店先などに置いてあって、訪れた旅行客が日付とコメントを書いていくこのノートのことを、私は「旅人ノート」と呼んでいた。
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そして旅人ノートを見つけたからには自分も何かを書いていくというのが、気ままな旅における唯一といっていい決まり事だった。私は机の上に筆記具がないことを気にしつつも、まずはノートを開いてみた。
自分が書くこと以上に、人の書いたコメントが目に飛び込んでくる瞬間が好きだった。しかし、開かれたノートに記されたそれは、楽しいはずの旅にはふさわしくない言葉ばかりだった。
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なんで俺たちがこんな目に。助けてくれ。私の子どもが流されていったの。走れ!息ができない。苦しい。そこにつかまれ。私たちの村を返して。それでもここから離れない。ここは自分の故郷なんだ。やめろ。助けて。思い出までは流されていない。もう逃げたい。馬鹿か?息ができない。苦しい。これは終わりではない、始まり。苦しい。苦しい。もう嫌だ。苦しい。
乱雑な、しかしさまざまな筆跡の言葉の群は、すべて同じ日付で書かれていた。
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私は体中を虫が這うような悪寒に襲われ、ノートを閉じると足早に店をあとにした。この村で何があったのか。もしかしたらここに留まることは危険なのかもしれない。そう考えるとさっきの老人の楽しそうな顔が急に怖いものに思えてきた。
途中ちらりと売店の方を見てみたが、カウンターに隠れてしまったのか、老人の姿は見えなくなっていた。私はそれきり振り返ることもなく、誰ひとり他の村人に会うこともないまま、元来た道のりを走っていった。
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その夜、山の麓の街で宿を借りた私は、料理を運んでくれた女将に例の村について訊いてみた。目の前には質素ではあるが上品な料理の数々が並んでいて、私の意識はそちらに向かいつつも、恐る恐る昼間のことを話した。
「あの村に行ったのですね」
しかし私が話し合えると、女将の目の色が変わるのがわかった。それまで自分をもてなしてくれた穏やかな表情は消え失せ、強張りながらも整っているその顔に、まるであの時の老人のような、迫りくる何かを感じた。
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「あの村で何かあったのですか?」
それから私は不気味なノートのことも話した。女将は用意していたお櫃を下げて私のそばに腰をおろすと、沈むような口調であの村の凄惨な過去について話し始めた。
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その村は山間(やまあい)という立地のせいか、昔から幾度となく大洪水に見舞われていた。毎年産まれてくるよりも死ぬ人の数の方が当然のように多く、老年化によって労働人口が減り村を維持するのもひと苦労だった。
それでも村を愛している住人たちは、自然の脅威に抗いながら細々と、しかし団結して和気藹々と暮らしていた。
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しかしある日、その村一帯にダムを建設するという話が国から出た。洪水しやすいその土地は、ダム湖として水を貯蓄するのにぴったりだった。当然、村人たちは一斉に反対の声を上げた。村長をはじめ村人全員が、たとえいくらお金を積まれてもなびかなかった。
そんな頑なな態度を嘲笑うかのように、ダムの建設は勝手に進められた。ついには了承を得ないまま、村人もろとも湖の底に沈めてしまった。彼らの多くは大量の水が流れ込んできてなお、村から離れようとしなかった。
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「それで、今ではあの村はダムに沈んでいるということですか」
「ええ。ただ、お客さまのようにその村に行ってきたという人は、時々おられます。おそらく、村とともに沈んでしまった村人たちは、自分たちの声を聞いて欲しくてたまに旅人を誘い込んでいるのではないでしょうか」
いくら大声で訴えようと、無視され続けてきた悲惨な声を。
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女将の声は暗く落ち込んでいた。彼女はわずかに顔を伏せながら、お櫃を温め直すと言って部屋から出ていった。
私は売店で見たあのノートの、本当の意図に気づいていなかった。あのノートは旅人が書いたものではなく、旅人に向けられて書かれていたのだ。縁ともただの偶然ともいえる何かに導かれて、私は彼らの想いを受けとった。誰もいないと思っていたあの村には、たしかに村人たちの魂が揺蕩っていた。
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あの売店の老人は、おそらく村長だったのだろう。久々の旅人を前に嬉しそうに話すしわくちゃな顔を思い出して、もっと親身に話を聞けばよかったと後悔した。
ふと、老人から受け取った貝殻のことを思い出した。リュックサックから取り出して貝殻を耳にあててみると、文字では表すことのできないさまざまな人の声が、水の音と一緒に聞こえてきた。
私は今でも旅を続けている。
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旅先でノートを見つけると、今は存在しない村の話を書きながら、どこともなく遠くへ歩き続けている。
作者退会会員