「そろそろ『吊り人』が現れる時分かなあ、、」
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「吊り人?」
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俺は、隣に座る榊原さんに聞き返した。
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襟の汚れた白の開襟シャツに、くたびれたグレーのスラックス。
年の頃は60前後の榊原さんは白髪交じりの短髪を無造作に掻くと、再び口を開く。
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「これはバス停そばの雑貨屋の店主から聞いた話なんだけどな、『吊り人』というのは魚釣りをしている人のことなんかじゃなくて、日の沈む頃になると、この鬱蒼とした林の中に現れる恐ろしい異形の者らしい。」
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樹齢百年は越えているであろう巨木の下に、俺と榊原さんは二人並び座っている。
見上げると、複雑に絡み合う枝枝の隙間から漏れる陽光が大分弱くなっていた。
聞こえてくるのは名も知らぬ鳥の不気味な鳴き声と、風で枝が揺れる音くらいだろうか。
ふと時計を見ると、時刻は午後5時になろうかとしている。
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東京ドーム10個分はあるという広大な原生林。
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ここはその豊かな自然というよりも、自殺の名所としての方が有名な場所だ。
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28年勤めた職場をリストラされ、妻は若い男を作って家を出ていき、今年20歳になる一人息子は去年家出したまま音沙汰なし。
挙げ句の果ては長年の酒浸りの生活からか、みぞおちの鋭い痛みから病院に行くと、【肝硬変】という診断を受けてしまう。
職を失い家族も失い金もなくさらにおまけに持病持ちという、四重苦でアラフィフの俺はもう生きる力を失ってしまい、死に場所を探しにやって来ていた。
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もう初春だというのにまだ肌寒い早朝に家を出て、電車を乗り継ぎ山裾の駅に着く。
それから地元の路線バスに揺られること半時間。
原生林入口のバス停に着いた頃には午後になっていた。
それから日の沈む頃合いまで、立ち並ぶ木々の狭間を夢遊病者のようにひたすら歩いていると、途中ばったり初老の男に出合う。
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それが榊原さんだった。
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榊原さんは15年間アルツハイマー病の奥さんの介護をしていたらしいのだが、自らも心臓に病を持つ彼はその心労に耐えきれず、とうとう自らの手で奥さんの首を絞めて殺めてしまった後、死に場所を探してこの原生林の中を彷徨っていたという。
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膝を抱えた榊原さんは話を続ける。
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「『吊り人』は全身が透き通るように白く、ヒョロリと背丈が高く2メートルくらいはあるらしい。
特徴的なのは、首と両腕が異様に長いそうだ。
普段はこの広大な林のどこかに潜んでいるのだが、日が沈む頃になるとその長い両腕を引き摺りながら徘徊し始め、死を覚悟した者がいると何処からともなく現れて、腰に巻いた荒縄をほどき、そこらの木の高枝に通し先端に作った輪っかに首を通すと無理やり上方に引っ張り、首吊りをさせるということだ」
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心臓の激しい拍動を喉裏に感じる。
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生暖かい汗が次々に頬をつたい、顎先からポトリと落ちた。
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「そ、そんなこと、あるはずが、、単なる都市伝説なんでしょう?」
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動揺する俺の問いかけに榊原さんは答えることはなかったが、何故か無言のまま左斜め上方を指差す。
訳が分からずその差す方に視線を移したとたんに全身が凍りついた。
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頭上のはるか上の複雑に交錯する枝枝の手前の空中に、黒い人影らしきものが浮かんでいる。
それは黒いスーツの上下という場違いな風体をした男。
地上から5メートルはあろうかという辺りでだらりと直立したまま俯き、ゆっくりと回転している。
よく見ると、その頭上の太枝に通した縄の先に首を通して、ぶら下がっていた。
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「ひ!」
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小さな悲鳴をあげながら後方にのけぞる俺の姿を横目に見ながら、榊原さんは口を開く。
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「あんな曲芸のような芸当、、、
一人では出来ないだろう」
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それからも俺たちは巨木の袂に寄りかかって、ただ時の過ぎ行くまま過ごしていた。
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やがて夜が訪れ、朝が来た。
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たまに思い出したかのように下らない世間話をどちらからともなく始めたり、二人ぼんやり無言で木漏れ日を感じたりしながら訪れた3日めの夕暮れ時のこと。
食べ物も水さえも体内に入れてないせいか、少し意識が朦朧とし始めていた。
ふと隣に目をやると、榊原さんは両膝に顔を埋め微動だにしない。
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「さ、、榊原さん、、、」
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恐る恐る声をかけると突然、うわ言のように喋りだした。
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「郁代、、、すまん、、、
もう少しすると、俺も、俺もそっちに、、、」
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それからどれくらいが経った頃だろう。
夜空に浮かんだ満月が、絡み合う枝の隙間から怪しい光を放ち出した頃のこと。
いつの間にか辺りは、怪しげなドライアイスのような白い霧がユラユラ漂っていた。
しばらくその幻想的な眺めに目を奪われていると、何処からだろうか何かを引き摺るような音が聞こえてくる。
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─ズズ!ズズズ、、ズズ!ズズズズズズ、、
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その音は少しずつ、こちらに近づいてくるみたいだ。
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─ズズ!ズズズ、、ズズ、、ズズズズズズ、、ズズズ
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そして終いにはガサリガサリという枯れ木を踏みしめる音が、すぐ背後から聞こえてきた。
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激しい心臓の動悸を喉裏に感じる。
そしていよいよ、その気配が真後ろに迫った時だ。
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一瞬で背筋が凍った。
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それは右隣に座り俯く榊原さんの横顔。
そこからいきなりニュッと奇妙な顔が現れた。
爬虫類のように青白く濡れ光るその顔は、まるで無邪気な幼児のようで無垢な笑みを浮かべている。
そいつは異様に長い首を蛇のように器用に動かしながら白目のない洞穴のような瞳でまじまじと榊原さんの顔を覗き込むと一つ大きく頷き、枯れ木のように細く長い指を器用に動かしながら、荒縄で作った輪っかを榊原さんの首に通した。
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「や、、止めろ、、、」
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俺は心のなかで繰り返しながら懸命に止めようとするが、金縛りになったかのように身体はびくともしない。
すると、
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ギシリギシリという縄の軋む音とともに上方から引っ張られる榊原さんの身体はゆっくり持ち上がりだし、最後は足先が地面を離れると同時に、ビクンビクンと数回足先が痙攣した。
それと同時に微かに鼻をつくアンモニア臭。
そして終いには視界から消え失せた。
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それからしばらくすると今度は俺の右肩越しにヒョッコリと、あの不気味な幼児の顔が現れた。
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体が金縛りにあったかのように動かない。
恐怖心は極限に達し、身体がガタガタと震えていた。
奴はまた大きく一つ頷くとおもむろに、細くて長い指で俺の首に縄を通した。
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─もう、ダメだ
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─ギシ、、、ギシ、、、
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少しずつ首が絞まりだし、息が出来なくなっていく。
そしていよいよ覚悟して強く目を瞑ったその時だ。
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shake
ピピピピ!ピピピピ!
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胸ポケットに入れた携帯から着信音が鳴り出した。
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音は10秒ほど続くと、止んだ。
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ふと気が付いた時には不思議なことに、首に通された縄は無くなっていた。
身体も普通に動かせたので、よろけながらもゆっくり立ち上がった。
辺りにはもう人の気配はなく、見上げると地上からかなり上方で、直立した姿勢のままの榊原さんが両手をだらりと垂らし、ゆっくり右に回転している。
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俺は榊原さんに向かって合掌し、しばらく念仏を唱えると胸ポケットから携帯を取り出し、画面に視線を移す。
驚いたことにそれは、消息を絶っていた息子からのラインだった。
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オヤジごめん
明日だけど、家行っていいかな?
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なぜだろう、頬に熱いものが流れるのを感じる。
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─まったく、いつまで経ってもガキなんだからな、、、
しょうがない、もう一度、生きてみるか。
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俺は一人呟き久しぶりに笑顔を取り戻すと、また歩きだした。
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう