中編4
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透明肌

僕には一年ほど付き合っている女性がいる。同じ製薬会社の事務をしている人で、同僚の紹介で二人だけで会うことになったのが馴れ初めだった。

彼女を初めて見た時、透き通るような人だと思った。絹のような滑らかな肌は混じり気のない砂浜のように白く、艶のある黒髪が頬にかかったりする時、煌びやかな海の光景が連想された。

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彼女とは趣味や価値観が概ね同じだった。何回か食事をともにするうちに、僕たちは共通の話題で盛り上がることができるのを知り、自分にはこの人しかいないのだと思い、三回目のデートの時交際を申し出た。

そうして晴れて彼女と付き合うことができたわけだが、一年たった今でも全然その実感が湧いてこない。ふわふわとした感覚で毎日は過ぎていったが、その日々はたしかに幸せだった。

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しかし、彼女についてひとつ不可解な点があった。最近、彼女の姿が透けて見え始めたのだ。透き通るような肌は今では形容でなく事実を表していて、自分の目の問題かと思って眼科にも通ったが何の異常もみられなかった。

彼女はいずれ透明人間のようになってしまうのかという心配は、少しも湧いてこなかった。僕はそれ以上に、彼女の体が見えてしまうことに危機感を感じていた。

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正確にいえば、"見えすぎてしまう"ことに、大切な人が病に蝕まれるのを黙って見ている時の、どうしようもないやるせなさを感じた。彼女の肌は透き通りすぎて、今では骨や内臓まで見えてしまっていたのだ。

薄い肌の下で流れる血液や拍動を続ける心臓、さらには身体中に蔓延る神経系の類まで確認することができ、彼女は世界一精密な人体模型となって、人目にさらされなければならなかった。

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彼女は部屋から出てこなくなり、僕だけがそばにいることを許された。僕が持ってきた食事を、彼女は見ないで欲しいといってひとりで隠れて食べた。

内臓系まで透けているはずはないのに、彼女は口から入った食べ物の行方を見られたくないと言ってきかなかった。それでも食べてくれるならまだよかった。次第に彼女は食事を摂らなくなり、もともと細かった体はあっという間に痩せ細った。

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「海を見に行きたい」ある日彼女は突然にそう言った。彼女が前向きな願望をあらわすことはこれまでになかったから、僕は二つ返事で承諾した。翌日のまだ薄暗い朝方、僕は彼女を乗せて車を走らせた。

海の前に立った半透明な彼女を、僕は世界一綺麗だと思った。体中を駆け巡る血潮が穏やかに押しては引く波のリズムと重なり、水平線から登る朝日は新たな生命の誕生を予感させた。

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彼女から目が離せないでいた僕は、人はみんな海から産まれてきたのだと思った。だから、彼女が海に向かって歩き出した時も、それを咎めようとはしなかった。ひとつの命が、海へと還っていく。彼女の半透明な体は波の間に溶け込み、次に瞬きした時には見えなくなっていた。

彼女は完全に、透明になった。

いや、ちがう。

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彼女は今日から、いつでも、どこでも、僕のそばにいるようになった。

その日の夜、僕は夢を見た。深く暗い海の中を、大きな海月が漂っている夢だ。外側からそれを見ている自分は宇宙服を着ていて、ここは海の中ではなく宇宙なのだと思った。

彼女は大きな海月であり、大きな海月のような、地球そのものでもあった。

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今の製薬会社に勤めて一年目、新人研修の時に聞いた講師の話を思い出す。「人体は、小さな宇宙なのです」

昔まだ電気すらない時代、自然現象のほとんどは理解されていなかった。ましてや地球を含めたこの宇宙の存在は人間にとって未知の領域だった。私たち人間はそんな宇宙から生まれた存在で、その体にもまた、小さな宇宙が宿っているのだと。

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そしてその講師は、人体の機能や性質を地球の各所になぞらえて説明した。水の循環は血流であり地表を覆う大地は皮膚であり火山噴火は汗、地球のコアは心臓、フンによって植物の種を運ぶ鳥は神経系、生き物は人体たる地球を守る酵素や細胞であり、地球を破壊する細菌でもある。

いつのまにか薬ではなく、地球環境についての講義になっていた。海は人間を産んだ母なる海ではなく、僕たちそのものが海や自然の一部分なのだと改めて気づいた。

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自然を破壊したり汚染する行為は、自然を人体に置き換えて考え直されるべきだという講師の言葉が夢の中で反芻された。夢の中の宇宙に漂う大きな海月は、半透明なベールを纏いながら、こちらを見ているような気がした。

僕は時々現実の空を見上げては、彼女のことを思い出す。彼女の中の小宇宙は外側にある大きな宇宙とつながり、今では宇宙と一体になって僕たち人間を見守っている。

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通勤途中、道端にタバコが落ちていた。僕はそれを拾うと、持ち歩いているゴミ袋に入れた。僕は自分自身が地球にとっての薬でありたいと思った。その薬はいくら摂っても副作用がないから、世界中の人が地球に優しい薬になればいいと思った。

しばらく歩いていると、僕は突然の雨に降られた。その雨はスーツの体を濡らすとともに、地表のゴミや喧騒を少しずつ洗い流していった。

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きっと彼女が泣いているのだ。部屋に閉じこもっていた時の彼女は、涙だけは僕に見せなかった。その時の分まで今泣いているのだと思うと、自分の頬にも同じ水分が伝うのがわかった。雨の日は決まって、古傷がずきずきと痛み出す。彼女を失った心の傷だけが、誰にも見えないところで、自分にも見えないところで、疼いていた。

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