度重なる元カレのストーカー行為に耐えられなくなった24歳の西田希実は、とうとう初秋のある日に、こっそり引っ越しを決行した。
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移転先は、
都心から北へ10キロほどのところの山あいにある、市営マンションの6階。
都心に仕事場のある彼女にとって相当不便なところだったが、家賃の安いことと、元カレとの関わりを完全に断ち切ってしまいたいという気持ちから、思いきって移った。
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引っ越し業者の方の協力で何とかその日の午後には引っ越しを終えることが出来た希実は、1人リビングのソファーに座り汗を拭きながら、「やれやれ、これで静かな生活が出来る」と一息ついた。
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すると何処からだろう?奇妙な音が聞こえてくる。
それは盛の付いた猫の鳴き声のような声、、、
いや赤ん坊の鳴き声?
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─お隣さんに赤ちゃんでもいるのかな?
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ふと携帯を見ると、時刻はもう午後3時になろうとしている。
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─あ、そういえば、今日の晩御飯、何もなかった!
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今のうちに近くのスーパーに買い物でも行こうと、パーカーを羽織り、玄関から廊下に出ると、たまたまお隣の扉が開き、小太りの中年女性と鉢合わせになった。
丸顔で愛嬌のある容貌の人で、上下ピンクのジャージ姿をしており、希実に気付くと、軽く会釈する。
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希実は一応挨拶だけはしておこうと、
「あの、今日からこちらに住むことになりました西田と申します。よろしくお願いいたします」と言ってペコリと一礼する。
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すると女性の方も「岡田です。こちらこそよろしくお願いいたします」と言ってにこやかに微笑んだ。
それから二人は一緒に廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。
扉が閉まりしばらくすると、岡田さんは唐突にこんなことを言った。
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「まあ、以前の人はいろいろあったけど、あなたはあまり気にせず頑張ってくださいね」
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─え、、、以前の人?
いろいろあった?
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希実が訳が分からずしどろもどろにしてる間に、エレベーターは1階に到着し、岡田さんは「それでは」と、さっさと歩いて先に行ってしまった。
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買い物を終えた希実はマンションにに戻ると、パンパンに詰めた買い物袋を両手にさげてエレベーターに乗り、6階で降りる。
エレベーターを中心に左右に伸びる廊下に沿って各部屋が並んでいて、彼女の部屋は右手の一番奥だ。
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希実が廊下を歩きだそうと一歩を踏み出した時だ。
彼女の耳にまた、あの声が聞こえてきた。
盛の付いた猫のような、
赤ん坊の鳴いているような声。
その声は右の方から聞こえきている。
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希実がそちらに目をやった先。
それは廊下の一番奥。ちょうど彼女の部屋の扉前。
人が立っている。
少し距離があるのではっきりとは見えないが、女が立っているようだ。
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長く黒い髪に白い顔。
赤いドレスを着ている。
両手で大事そうに何かを持っている。
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希実は立ち止まったまま目を凝らした。
そしてようやくその顔に焦点があった途端、驚きで思わず買い物袋を落としてしまう。
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女の顔はまるで火傷の後のように、あちこちケロイド症状を起こしていて、目や鼻や口は本来の位置から不自然にずれている。
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すると女はいきなり手すりから身を乗り出すと、そのまま逆さになりながら、あっという間に闇の向こうに消えた。
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え!?
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希実は慌てて走り、部屋の扉前まで行くと、手すりから下を覗き込む。
そこからはマンション棟裏手が見下ろせるのだが、夜のせいか、暗くてよく見えない。
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彼女は荷物を床に置くと、再びエレベーターまで戻り、1階まで降りた。
それから入口を出て、さっき上から確認したマンション裏手の方に回る。
そこには住人用の歩道があり、あとは、それに沿って植え込みや駐輪場があるだけで、これといった異常はなかった。
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─幻でもみたかな?
今日は朝が大変だったからなあ、、、
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その夜、希実は寝床についてから、なかなか寝付けなかった。
暗闇の中何度となく寝返りをうち、ようやく意識が微睡みの沼に浸かろうとした時だ。
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shake
ピンポ~~~~~ン、、、
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突然、ドアベルが部屋中に鳴り響いた。
咄嗟に彼女は枕元の携帯を見る。
午前2時10分。
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─こんな時間に誰?
でも私が引っ越したことを知ってるのはまだ誰もいないはずだから、恐らく間違いだろう。
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そう決めつけて、彼女はまた目を閉じた。
すると、
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shake
ピンポ~~~~~ン、、、
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また鳴った。
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しょうがないから布団から出ると、電気をつけて玄関口まで歩く。
扉の前に立つと、「どちら様ですか?」と尋ねた。
だが何の返事もない。
希実は恐る恐るドアスコープを覗く。
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「え!?」
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瞬間背筋が凍りつき思わず後ろ側によろけ、尻餅をつく。
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丸い覗き穴の真ん中には、
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ただれた皮膚の狭間にある血走った人の目があった。
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彼女は尻餅をついたまま勇気を出してドアに向かって叫ぶ。
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「だ、誰なんですか!?警察呼びますよ!」
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するとドアの向こうから、何かボソボソと呟く声がする。
希実は四つん這いでドアまで行くと、そっと耳をあててみた。
聞こえてきたのは、嬉しげな女の声。
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「ほら、赤ちゃんよ、まだ生まれたてよ、こんなにちっちゃいのよ、ほら、あなたもご覧なさいよ、ほら、、、」
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「ひ!」
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彼女は小さく悲鳴をあげると立ち上がり、小走りで布団のところまで戻ると、中に潜り込み、芋虫のように丸くなって震えていた。
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翌日の月曜日。
仕事を終えた希実は電車を乗り継ぐと、最後は駅から路線バスに乗り、ようやくマンションに着いた頃には午後9時になろうかとしていた。
エントランスを進むと、1階奥でエレベーターを待つ。
しばらくするとチーンという音と同時に、目の前の金属の扉が重々しく開いていく。そしてやれやれと俯いた顔を上げた瞬間、ゾクリと背中に悪寒が走った。
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正面奥の姿見の前に女がうつむいたまま立っている。
こちらに背中を向けて。
女はか細い体躯にあの赤いドレスを着ていて、1人で何やらぼそぼそと呟いていた。
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ひ!
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彼女は小さく悲鳴をあげると、その場から逃げ出し、入口横手にある非常階段を駆け上がる。
6階まで息をきらせながら駆け上がると、廊下を小走りに進み、お隣さんである岡田さんの部屋のドアブザーを押した。
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しばらくすると「は~い、どちら様?」という間延びした声がしたので、「あの、隣の西田です。」と希実が応えると、しばらくしてから解錠する音がし、ドアが開く。
ドアの間からピンクのガウンを羽織った岡田さんが姿を現し、「西田さん、こんな時間にどうしたの?」と心配げに言う。
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希実が「こんな夜分にすみません。実はお聞きしたいことがあって」と言って馬鹿丁寧に頭をさげると、「まあ、私に聞きたいことって、いったい何かしら?」と、岡田さんは少し驚いた様子で言った。
それで希実は、昨日エレベーター内で岡田さんが言った言葉のこと、そして突然現れた不気味な女の話をした。
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岡田さんはしばらく深刻に考えるような素振りをしていたが、やがて口を開いた。
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「西田さん、本当はあなたにこのことは言うまいと思っていたの。でも今の話を聞くと、そうも言ってられなくなっているようだから話すわ」
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岡田さんが希実に話してくれた内容は次のようなことだった。
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希実の部屋には今年の初めくらいまで、24、5の若い男が住んでいたみたいなのだが、いつの間にか姿を消してしまい、とうとう夏には空き部屋扱いになったという。
色白で茶髪を後ろで結び、シルバーのピアスをした長身の男だったそうだ。
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男は、都心の繁華街にあるホストクラブに勤めていたらしく、ホストということで生活パターンが普通の人と真反対で、夜にマンションを出て昼前くらいに帰ってきていた。
職業柄、女性関係もだらしなかったようで、若い女性が部屋を出入りしているところを、岡田さんもよく見掛けたそうだ。
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そしてそれは去年の末頃のこと。
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日の沈む時分になると、6階の廊下をうろつく赤いドレスを着た女の姿を、ちょくちょく見かけるようになったらしい。
最初のうちはたまに見かける程度だったが、やがてその姿は頻繁に見られるようになったという。
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そんなある日の深夜。
岡田さんが寝室で寝ていると、呼び鈴が何度も鳴らされる音が聞こえたそうだ。
それは隣のあの男の部屋からだった。
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そしてそれは数日続き、とうとう堪らなくなった岡田さんが玄関の扉を開けて廊下の様子を伺った時、ゾクリと背筋に冷たいものが走った。
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頭のてっぺんから足元までぐっしょり濡れた赤いドレスの女が両手に何かを抱き、呆然と立ち尽くしている。
辺りは油臭い匂いが漂っていたという。
岡田さんは慌ててドアを閉じると鍵を掛けて、寝室に戻ると、ベッドの中で震えていたそうだ。
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その翌朝、マンションエントランスに救急車が1台停まっており、辺りは騒然としていた。
岡田さんが1階に降り、そこにいた住人の1人に尋ねると、黒焦げになった女の遺体が、裏手の駐輪場の前にあったらしい。
夕刻に岡田さんの部屋に聞き取りに来た警察の人間の話によると、亡くなっていたのは40歳前後の女性だったようで、両手には赤ちゃんの人形を抱いていたということだった。
女は昨日の深夜、隣の部屋前の廊下で自ら灯油をかぶり火をつけたまま柵を乗り越え、飛び降りたらしい。
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ほどなくして、ホストの男が任意同行された。
男は最初から亡くなっていた女との関係を否認していた。
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彼の話では、
去年の12月時分から、赤いドレスを着た知らない女が自分の部屋の前辺りをうろつくようになり、気味が悪かったということらしい。終いには深夜に呼び鈴を鳴らすようになって、それでもとことん無視していたらしい。
深夜の呼び鈴は数日間続き、ちょうどクリスマスの深夜、とうとうあのような行為に及んだらしい。
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警察は、男の勤めるホストクラブに聞き込みにいったところ、女のことを知ってる者は誰もいなくて、それどころか、女が過去入店した事実もなかったそうだ。
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女の遺体は損傷がひどく、容貌はもちろん、指紋さえも採取が困難だったらしく、結局女は何者で、何の目的であのような行為に及んだのか?
未だに全てが謎だそうだ。。
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ただその後、あのホストの男はマンションには立ち寄らなくなりホテル住まいをしていたのだが、やがては奇行が目立つようになり、仕事も休みがちになり、あげくは精神に支障をきたし、今は、とある神経科の病院に入院しているという。
面会にきた近しい者にはただひたすら「ほら赤い女がそこに、、、赤ちゃんもいるよ」と繰り返すだけということだった。
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その後希実は、しばらく友達の家に寝泊まりしていたが、最後はまた都心にあるアパートに逃げるように引っ越したという。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう