ホーチミンのトラウマな夜

長編8
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ホーチミンのトラウマな夜

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あの光景が脳裏を離れない。

寝ているときも、目が覚めていても。

事ある毎に瞼の裏をフラッシュバックする。

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仕事を休んで今日でもう4日になる。

その間ずっと薄暗いリビングの片隅で体育座りし、一睡もしていない。

食事も水さえも摂らず。

何故かって?

瞼を閉じると、あの恐ろしくて悲しい光景が現れるんだ。

昨晩からはいよいよ意識が朦朧としだしていた。

そろそろ肉体的にも精神的にも限界を迎えようとしているみたいだ。

このままここで朽ち果ててしまうくらいなら。

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そう思って決心した俺は部屋を出て、ふらふらとしながらマンションの屋上まで行くと、安全柵を乗り越えコンクリートの緣に立つ。

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雲は血の色に染まっていた。

今日という日が死を迎えようとしている。

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その時

あの一週間前のベトナム旅行での忌まわしい記憶が、まるで16ミリの映写機が映し出すセピア色の映像のように脳内で再生されだした。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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ベトナム、ホーチミン市のタンソンニャット国際空港に到着したのは、午後6時過ぎ。

そのままタクシーで市内にあるホテルに直行し、6時30分頃にチェックインする。

会社の有給を利用しての、今回通算5回めになるベトナムへの旅行だ。

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一泊二日の旅程は過去4回の時と変わらず、

ホテルにチェックインした後近くのレストランでベトナム料理を食べ、その後はタクシーで10分のところにある市民公園に行き、現在そこの敷地内で行われている地元で有名なサーカス団の曲芸を見学することだ。

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部屋で軽くシャワーを浴びた後、軽装に着替えホテルを出ると、歩いてすぐのところにあるベトナム料理のレストランに入った。

日本の大衆食堂を思わせるようなレトロな店内は、結構賑わっている。

地元の人間と観光客は半々くらいだろうか。

奥の方にある安っぽいテーブルに通された後、ビールと後は適当に料理を注文をする。

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ビールを飲みながら店内の喧騒をボンヤリ眺めていると、

5年前のことがつい最近のように思われる。

2歳下の28歳だった妻【未稀】との新婚旅行で訪れたのが、初めてのベトナムだった。

この席ではなかったが、初めて入ったベトナム料理のレストランがここだった。

もちろん今日チェックインしたホテルも。

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俺はこの店で彼女と2人楽しく会食した後、地元で人気のサーカス団を観に行った。

そう、今日これから俺が行くところだ。

5年前、その場所で未稀は忽然と姿を消した。

全ての出し物が終わり、会場が明るくなって、他の観覧者とともにぞろぞろと出口に向かう途中のことだった。

館内アナウンスを何度となくしてもらったが、ダメだった

地元警察にも来てもらい、テント内やその周辺を捜してもらったが見つからなかった。

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新婚旅行は一週間の滞在を予定していたが、残りの日程の全てを妻の捜索に費やした。

だが最終日になっても見つかることはなく、俺は地元警察に捜索の継続をお願いし忸怩たる思いで帰国する。

その後毎年8月になると俺は、有給休暇を利用してベトナムを訪れる。新婚旅行の時と同じホテルに泊まり、同じレストランに行き、同じサーカス団を観るためだ。

最初のうちはもちろん観光などではなく、何か未稀の見つかる手掛かりがないかという切なる思いの旅行だったが、ここ最近は、単なるセンチメンタルジャーニー(傷心旅行)になってしまっていた。

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レストランを出る頃は午後7時30分くらいになっていた

その後はタクシーに乗り、ホーチミン市郊外にある市民公園に向かう。

タクシーを降りた後、緑豊かな広大な敷地内の遊歩道を5分ほど歩くと急に視界が広がり、広いグランドの真ん中辺りに巨大なテントが一つ。隣に中規模のテントが一つ並び建っている。

これからあそこで地元で人気のサーカス団が興行するのだ。

恒例の8月興行は毎年日曜日に行われていて、朝と夜に一回ずつだ。

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テント周辺には様々なキッチンカーが営業していて、家族連れやカップル等たくさんの人たちで賑わっていた。

俺は夜の部8時からのチケットを財布から出すと、ゆっくりとテントに向かった。

入口には派手な格好をしたピエロが2名立っていて、チケットの確認をしている。

5年前も同じだった。

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俺はチケットの半券を受け取ると、会場の中に進んだ。

すり鉢状の会場は八分ほどの入りだ。

指定された席を探し、そこに座る。

やがて辺りが暗くなり、スポットライトが中心を照らし出した。同時に賑やかなマーチが会場を盛り上げる。

いよいよショウが始まるのだ。

歓声と拍手が沸き起こり、会場内のボルテージが一気に上高まった。

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ショウはきっちり1時間あった。

ピエロによる寸劇に始まり、動物たちの可愛い曲芸。

そしてお馴染みの綱渡りや空中ブランコ。

いつもながら人間離れした技の数々に何度も目を奪われる。

最後はメンバーが全員揃って挨拶をした後、ショウは無事終了した。

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俺はぞろぞろと帰路につく観客たちに紛れて出口に向かった。5年前この短い数分の間に妻は消えた。

会場から外に出ると、いつの間にかパラパラと雨が降っていた。

ふと背後に何となく気配を感じた俺は思わず振り向く。

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ぞろぞろと会場から出てくる観客たち。

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そして、

その後方に見え隠れするのは、

テント入口辺りに立つピエロ。

ピンクのアフロヘアーにピンクのツナギのズボン姿をしている。

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何故だろうその時俺は、5年前のあの時にもあのピエロにじっと見詰められていたような気がした。

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雨宿りも兼ねて出口そばにあるキッチンカーに立ち寄り、車側面の飾りテント下にある長椅子に座ってビールを飲んでいると、日本人とおぼしき初老の男が隣に座る。

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中肉中背。

Tシャツの上にジャケット、ジーパンという出で立ちの平凡なタイプだ。

男はビールを注文すると、おもむろに話し掛けてきた。

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「ショウは楽しめましたか?」

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俺は男の横顔をチラリと見ると「まあ、そこそこは」と答える。

彼はしばらく黙っていたが、やがて会場テント隣に並ぶ中くらいのテントの方を指差しながら

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「あそこのテントで今、ちょっと面白いショウをやってるみたいなんだけど、もし良かったら一緒にどうですか?」

と言う。

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「ショウ?」

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「はい。日本円でおよそ1,000円ほど掛かるみたいなんですけどね、結構面白いみたいですよ」

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どうせこの後はホテルに帰って寝るだけだ。

妻の手掛かりになるようなこともなかったし、せっかくだから男の話に乗ってみるか。

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俺は「面白そうですね」と言って男の横顔を見た。

「よし、じゃあ行きましょうか」

と言って立ち上がったので俺も一緒に立ち上がった。

そして彼はキッチンカーを離れると、先ほどの会場テントの横に建つ小規模のテントに向かって歩き始める。

俺も彼の背中に従う。

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テントの入口前には大手ハンバーガーショップのイメージキャラのようなピエロが立っていて、男はそいつにお金を渡しているようだ。

しばらくすると彼は微笑みながら私の顔を見て、手招きした。

それで小走りでそこまで走り彼に金を手渡すと、後に従いテントの中に入って行く。

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中はだだっ広くて薄暗かった。

どこか寒々しい雰囲気が漂っている。

ただ5メートルほど前方辺りにポツンとある四角いケージにはスポットライトが照らされており、そこだけが明るくなっていた。

ちょうどテントの真ん中辺りだ。

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透明のパネルに囲まれているようなのだが、周囲には黒いカーテンが掛かっており、中は見えないようになっている。

幅3メートル、高さ2メートルくらいだろうか。

奥行きはよく分からないが結構ありそうだ。

ケージの前には痩せたピエロが1人立っていた。

既に5名ほどの人が列を作って並び、順番を待っている。

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俺は男に従い最後尾に並んだ。

「あの黒いカーテンの隙間から見学するみたいです」

そう言って男が指差す先では、

カーテンの隙間から最前列の白人2人がケージの中を覗き込んでいた。

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「Oh.Jesus!」

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「My gods!」

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次々悲痛な叫び声が聞こえてくる。

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─あんなに叫んで、中にはいったい何があるんだろう?

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いろいろと想像しながら並んでいると、いよいよ順番がきた。

目の前には閉じられた黒いカーテン。

傍らに立つピエロが不気味に微笑み一言二言何か言うと、手を伸ばしてゆっくりとカーテンを開いていった。

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中はコンクリートに囲まれた、薄暗く殺風景な空間だった

うなぎの寝床のように縦長になっており、その一番奥まった暗がりに何かが固まり、黒い影が蠢いている。

時折気だるげに頭をもたげる姿は爬虫類?いや哺乳類系の動物か?

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するとピエロが何かぶつぶつ呟くと、ケージ手前にある金属のダスターに麻袋を入れて、がしゃんと閉じた。

袋はどさりとコンクリートの床に落ちる。

しばらくすると袋の口から、ミミズのような生き物たちがウジャウジャと這い出てきた。

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その時だ。

奥で蠢いていた生き物たちの一匹がそれに気づいたのか、暗がりからゆっくりこちらに近づいてくる。

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俺はその異様な姿に、はっと息を飲んだ。

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そいつは何と言ったら良いのだろう。

全長凡そ1・5メートルはある、まだら模様のヌメヌメとした長い体躯をしていて、その体を器用にくねらせながら近づいてくる。

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巨大なナメクジ?

いや違う。

というのはその頭部には触角が無く、ツルツルしている。

そしてなによりその顔は、、、

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【人間】そのものだった。

ヌメリ光る薄茶色の顔面部には、人と同じ優しげな2つの目、鼻、そして口がある。

残りの奴らも同じように体をくねらせながら近づいてきていた。

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合計で3頭が目前で、無数のミミズのような生き物を無心に貪り喰う様子を眺めていると、俺は何度となく吐きそうになる。

それでも頑張ってその様子を見続けていると、ふとその中の1頭が顔をもたげた。

そいつを見た俺の背中は一瞬で凍りつき、一気に心臓が激しく脈打ちだした。

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「嘘だろ?、、、

未稀、、、未稀なのか?」

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震える声で尋ねると、そいつはしばらく悲しげな目でじっと俺の顔を見ていたが、やがてまた何かを思い出したかのように目の前のごちそうを無心に食べ始めた。

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その後ケージの前にひざまずき狂ったように泣き叫んでいた俺は、ピエロと男から無理やり外に連れ出され、後は男の肩を借りて歩き、ふらつきながらタクシーに乗った。

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秋を知らせる冷たい風が、俺の顔に吹き付けている。

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見上げると、朱色に閉まった千切れ雲がどこまでも続いていた。

その下はまるでパノラマのような街の景色が拡がり、彼方には灰色の山の端が連なっている。

俯くと、足先の遥か下に白い線で区画された灰色の駐車場が見え隠れしていた。

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「これで、

これでやっと悪夢から解放される」

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俺は大きく1つ息をつくと、奈落に向かって一歩前に歩を進めた。

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fin

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Presented by Nekojiro

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