どうやら千切られたか斬り落とされたであろう片耳を指にぶらさげてその夜、或る男が、顔の片側を押さえて血まみれで、夜のカフェテラスをよろめき躓き横切った。
壁際の席でそれを眺めていたらもうひとり、首のやけに長い女が路上に転がり出て「ごめんねえええ! くっつくよねえええ!」と叫びながら、男とは反対の方向へ、後ろ歩きで遠のいて行く。
紅茶を置いて私は、なんだか愉快な気分だったので、そんな女と男のいる舗道をのんびりと歩いてみることにした。
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* * * * * * * *
或る男の名前はK。
冬の日、詩でも創ろうかと電車に乗って私は、海を訪れた。
ひとけの無い浜辺に死体が打ちあがっている。服は血まみれだ。念のため程度に近づいて、手首の脈を取ってみると微かな拍動。緊急通報。
どうやら助かって入院することが決まった頃、私は警察署で事情聴取を受けていた。
搬送時、腹部に刺創が発見されたからだ。
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疑いが晴れて、四月。春の雪の珍しさに都内は華やいでいた。
そんな朝のカフェテラスで初めて、眼を開けて言葉を発するKを目撃した。
メールで連絡を取り合っていただけで、まだ血まみれの姿しか記憶に無かったけれど、あの死体が今では復活して、私に会いに来てくれた。
海辺で凍りついていた唇も、珈琲の香りにやわらかく笑っていた。
約束のたびに何度も同じ、壁際の席で、互いについて様々に語った。住所もさほど遠くないらしく、知らぬ間にKも店の常連になっていた。
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累々と蝉の響く夏の日、「あの海、行ってみないか?」とKを誘った。尋ねるべきことを尋ねるために。
諦めたような安堵したような、静かな承諾の返事を貰った。もしつらいなら同棲している恋人も一緒に来てもらったらどうかと勧めると、断られた。誰に対してもできなかった告白を、彼はするつもりなのだ。
なんだか勢いが必要な気がして、特に準備もせずにそのまま駅へ向かった。
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夕暮れ、海風と波音が耳をくすぐる浜辺を、Kと歩く。彼はわりと明確に、自分が倒れていた場所を特定した。そして向こうから歩いてきたんだと、近くの灯台を指し示した。
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或る女の名前はA。
いつものようにテラス席で詩を考えていると、ひとりの女性に声を掛けられた。
Aを名乗る彼女は以前からKと暮らしていると説明しながら、私が被った冤罪未遂について謝罪を始めたので、あれこれと誤魔化しながら珈琲を勧めた。
Kとの会話がどれだけ楽しくて、だから彼との出会いは幸運であって、べつに誰かに謝って欲しいことなんて何もないのだと、様々な言葉を遣って説明してみる。
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けれどAは俯いたままに私を遮り、
「あなたは真面目ですか?」
すべての嘘を拒絶する問いに感じた。なので、
「いいえ」と素直に答えてみた。
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すると彼女は、諦めたような安堵したような、静かな頷きの返事をして、
もしつらいなら同棲している恋人も一緒に来てもらったらどうかと勧めると、それだけは断り、誰に対してもできなかった告白をしてくれた。
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以前、Aはとある新興宗教の熱心な信徒だった。
それをKに打ち明けたのは付き合いはじめてしばらく経ってから。彼も次第に理解を示してくれるようになり、集会にも参加して、自発的に祈るようにさえなった。これならもしかしたら、いつまでも一緒にいられるかもしれない、と未来の展望さえ思い描いた。
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けれどKは次第に悩み始めた。勧誘のノルマに苦しみ、身の丈に合わない献金に疑いを抱き、けれど信仰を捨てることなんて今さら出来ない。
Aは彼を励まし続けた。そうしてKは、彼女が励ますほどに深く落ち込んでいった。
ある日、ふとしたことで口論になり、彼はとうとう教団への不満をぶちまけた。
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すると彼女はこんなに励ましているにも関わらず甲斐の無い彼に怒りを抑えられず、
「だったら死んじゃえばいいじゃん」と吐き捨てた。
Kはそれ以来、ほとんど何も話さなくなった。
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ある日、部屋に帰ってリビングのドアノブを掴むと、異様に重く感じた。
何が起きているのかすぐに理解して、外から窓を破って部屋に入ると、彼がドアノブで首を吊ってもがいていた。
ハサミを持ってきて、彼の首にたくさんの切り傷をつけながら助け出して、その日から祈るをやめた。
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けれどもう、Kに「生きたい」と言わせることは出来なくなった。
代わりに毎日「死にたい」と呟くようになっていた。
だったらもう、その手伝いをするしかないんじゃないか。
彼が死に損ねたその時には、自分が最期までやり遂げる。それが責任なんじゃないか。
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「今なら解るんです」とAは語った。
他の誰でもなく自分が、彼に死ねと言うこと。それは殺人だと。
もっとも愛する人間と共にもっとも信じていたはずのものから、Kは存在の否定をされた。
人間を救うはずの信仰から完全に見放され、なおかつ死を勧められてしまった。それも自身の力の無さから。
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自分なんていないほうが誰かのためになる。彼はそう考えたはずだと。なぜなら彼女も今、そう考えているからだと。
彼を救えない人間として、これから存在していかなければならないからだと。
失敗してしまったからだと。
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私からも、ひとつ、尋ねておくべきことを尋ねた。
「彼があの海に居た日、何をしてましたか?」
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あの冬の日、Kはまず灯台を目指し、禁止区域の柵を乗り越えて、崖に辿り着いた。
覗き込んでみると、飛沫を上げる岩場が見える。あれに頭部から落下すれば確実だ。
数歩、下がって、景色を眺めてみる。凍った雲が海を渡り、この世の果てまで続いている。あしもとを観察すれば、こんな真冬の岩場にも、名前もわからない小さな草が点在している。
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命も幸福も、どこにでも、どこまでも広がっている。
けれど、自分のものじゃない。
自分さえいなければ愛する人が救われるのなら、それでも良い。
あの人がこのまま苦しみ続けるくらいなら、もうこれで終わりで構わない。
決定的な言葉も貰った。何度も試して、何度もやめた。けれど、そろそろ良いだろう。
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崖っ縁から5歩を計って、瞼を閉じてまっすぐ、カウントダウン。
1歩、2歩、3歩…幼い頃からの記憶が蘇る。小学校で叱られたこと、中学校で必死だった部活、高校での苦い恋愛、就職、それから、さまざまな失敗。
4歩…彼女との同棲、たくさんの幸せとそして…
5歩……誰だこれ? 知らない男がいる。覚えてない。あ、これで最期か。まぁいいか。
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次で終わり、と踏み出した刹那、浮かんだのは、輝く銀杏並木を歩く老夫婦。
舞っては舞う葉と葉とが彼と彼女へと降っては降り、鮮やかな光が街路を吹き渡っている。
さんざめくその景色はそこに在る喜びまでをも滲ませて、このふたりが誰であるか理解した彼は、
眼を開けて、地に残る片足で跳ねて後ろに倒れ込み、崖っ縁から這って逃れた。
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外見的特徴には今と随分違うところがあったけれど、あの老夫婦は確かに自分と彼女だった、とKは語り終えた。
誰に刺されたかまでは言及しなかった。私も敢えて、問わなかった。
彼が誰と一緒に灯台を目指していたかは明らかであるにせよ、すでに赦されていることについて今さら、何を言うことがあるだろう。
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けれどまだ気になる点がある。
「5歩目で見た知らない男って誰なんだろうな」
海と陽に耳を晒して彼は、
「わかんないかなぁ」と笑った。
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秋になると、Kは彼女と一緒に国内の様々なところを訪れた。
おもに、銀杏並木の美しいところを選んで。
あのテラス席のある喫茶店で見かけることもたまにあって、私と彼らとで話せる機会もあった。
彼には辿り着きたい未来があった。けれどそれと反比例するようにAは落ち込んで行く。奇怪な行動が目立ち始め、とうとう首吊り自殺を試みた。
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頸椎を痛めて、首にコルセットを巻いた。やけに首が長く見えた。
完全に取り外すことはもう出来ないだろうと診断された。Kはさほど慌てていなかった。
あの走馬燈で自分の隣にいた彼女の首にも、似たようなコルセットが巻かれていたからだ。
彼女の心はまだ闇の中にあった。けれど、彼は焦らずに治療を進め、彼女を連れてまた色々な景色を眺めた。
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夜のカフェテラス、詩集を読んでいたら店内から叫び声。
どうやら千切られたか斬り落とされたであろう片耳を指にぶらさげて或る男が、顔の片側を押さえて血まみれで、よろめき躓き横切った。
それを眺めていたらもうひとり、首のやけに長い女が路上に転がり出て「ごめんねええ! くっつくよねえええ!」と叫びながら、男とは反対の方向へ、後ろ歩きで遠のいて行く。
どうやら私には気づいていないようだった。
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走馬燈の銀杏並木についてKは以前、コルセットを巻いたAと並んで歩く自分には、何故か片耳が無い、どうしてだろうとも語っていた。
いつかなにもかもうまくいく、そう、心配なことは何も無い。
少なくとも今夜は。
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紅茶を置いて私は、なんだか愉快な気分だったので、そんな女と男のいる舗道をのんびりと歩いてみることにした。
どんな夜でも、どこにでも、私達にはいつも、すべてが与えられている。未来さえも。
と、信じてみることにした。
少なくとも今夜は。
作者肩コリ酷太郎
初めての場所でも、そこを知っているような気がしたり、
あるいは遠く離れた過去のどこかに今も自分がいるような気がしたり、
そんな感覚、あなたにはありませんか?
約束された走馬燈、生きながらの輪廻、そんなお話です。