佐伯は虫歯による耐え難い痛みで一睡も出来ず、最悪な朝を迎えた。
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横に寝ていた妻の未奈もさすがに気付いていたようで、ベッドの端に片頬を押さえて座る彼に、
「ねえ、大丈夫?」と肩越しから心配げに語りかける。
「左の奥歯が凄く疼く。今から病院行ってくる」
と言って彼はベッドを降りると、クローゼットの前でさっさと外出着に着替え始めた。
その間もズキズキと奥歯が痛んでいる。
すると、
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「今日は日曜日だけど」
背後から未奈のあっけらかんとした声がした。
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最後の上着を取ろうとした佐伯の手がピタリと止まる。
そして振り向き、今にも泣きそうな顔で妻の顔を見た。
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すると彼女は無言で携帯を手に取ると素早く操作し、
「休日診療してる歯科医院は隣県にあるみたい。でもここからだったら車で2時間はかかると思う」と無慈悲なことを言う。
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「2時間!?」
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佐伯はそう言ってガックリ床に座り込むと、頭を抱えた。
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─2時間だって?、、、
そんな長い時間この痛みに耐えられるはずないじゃないか確か歯科医院というのはコンビニの数より多いとどこかで聞いたことがあるが、どこか他にないのか?
もっと近くに、、、
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痛みに耐えながら必死に考えを巡らす佐伯の脳裏に、突然とある歯科医院のエントランスの風景が浮かんだ。
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─そうだ!
確かこの住宅街の外れに小さな歯科医院があったはずだ。以前散歩していて前を通りかかった時、入口ドアに年中無休という看板がぶら下がっていて、へえ年中無休の歯医者もあるんだと感心していたことを覚えている。
あそこだったら、ここから歩いても10分ほどのはず!
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佐伯夫婦が郊外の山あいにある住宅街の一軒家に引っ越してきたのは、ちょうど3ヶ月前のこと。
この住宅街は昭和の終わり頃に山を削って計画的に造成されたものだから、住宅街を抜けた辺りにはあちこち林や竹藪、沼とかが点在している。
越してきて当初、佐伯は休みの日になるとよく住宅街周辺を散歩していたのだ。
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彼は勢いよく立ち上がると、妻に「歯医者行ってくるわ」と言うと真っ直ぐ歩き寝室のドアを開けた。
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「ちょっと、いったい、、、」
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背後から叫ぶ妻の声を振り切り、佐伯はサンダルを引っ掛けて外に飛び出す。そして玄関横にある自転車にまたがると、自宅前の狭い路地を一気に走り出した。
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自転車でおよそ5分ほどのちょうど住宅街を抜けたところにある林の辺りに、やはりその医院はあった。
石造りの門柱には「日蔭歯科医院」という古ぼけた看板が掲げてある。
見上げるとモダンとはとても言い難い三角屋根の古びた建物の白壁は薄汚れていて、あちこち蔦が走っている。
入口に続くエントランスは腰高くらいの雑草に覆われていた。
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佐伯は門柱の傍らに自転車を停めると、進路を邪魔する雑草を払いながら歩き進み、年季の入った入口ドアの前に立つ。
ドアには記憶のとおり「年中無休」という札がぶら下がっていた。
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ギギ、、、
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軋む音を響かせながらドアを開き院内に入ると、上リ口にはビニールのスリッパが3つ並んでいて、リノリウムの床の先に受付カウンターがあった。
カウンターの向こうには、ナースキャップを被る白衣の看護師が座っている。
マスクをしているので表情はうかがいしれない。
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スリッパに履き替え看護師の前まで歩き「あの、昨晩から虫歯が痛くて」と片頬を押さえながら言うと、看護師はいきなり「では、どうぞ」と言った。
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─え?初診なのに保険証の確認とかないのかな、、
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と戸惑いながらふと後方の待合室を振り向くと、長椅子には誰も座っていない。患者は佐伯一人のようだ。
受付カウンターに沿って奥に廊下があり、どうやら診察室に続いているようだ。
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彼は薄暗い廊下を真っ直ぐ進み、突き当たりのドアを開く。
8帖ほどの室内の中央辺りには、治療用の黒いリクライニングシートが2つ並んでいた。
佐伯が右側のシートに座っていると、いつの間にか白衣姿の医師が立っている。
ただこの人もマスクをしてるので顔は分からない。
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「どうされました?」
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医師が低い声で尋ねる。
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「あの、昨晩から奥歯が痛んで」
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と言うと医師は彼の顔にライトをあててから、
「では口を大きく開けてください」
と言う。
佐伯はライトの眩しさに目を閉じると、言われたとおりに大きく口を開いた。
医師はしばらく彼の口内をミラーで見ていたが、やがてまた直立姿勢になり、あっさりこう言った。
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「抜きましょう」
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「は?」
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あまりの急展開の診断に、佐伯は思わず驚きの声を漏らす
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「いや、他にいろいろ調べないんですか?レントゲンとか」
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医師は相変わらず憮然とした態度のまま、
「調べる?
今さっき調べたじゃないですか。
だからすぐ抜きましょう」
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と言うと椅子の横にある台の上に並ぶいくつかの鋭利な器具から、一つを手に取った。
それを見た途端、佐伯の背筋は凍りつく。
医師は右手にヤットコのような器具を握っていた。
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「はい、大きく口を開いて」
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「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、待って下さい!」
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そう言って佐伯は必死の表情で医師の顔を見る。
医師はそんな彼の様子に全く動じることなく、
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「さあ、早く!
痛むんでしょ?」
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と言って顔を近づけてくる。
佐伯はそれを避けるように反対方向を向き、
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「あの麻酔とか、そんなのはしないんですか?」
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と必死に訴えると医師は、
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「麻酔?
うちでは、そんなことはしません。」
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ときっぱり言い「さあ」と再び顔を近づけてくる。
佐伯は相変わらず口をしっかり閉じたまま、首を横に振っていた。
そんな彼の狼狽えぶりに医師は「しょうがないな」と呆れた様子で呟いた後、「お~い!」とどこかに向かって声をだす。
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しばらくすると先ほどの看護師が診察室に入ってきて、医師の傍らに立った。
受付に座っている時は分からなかったが、看護師はかなりガタイが良く、背丈は天井に届くか?というくらいだ。
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医師は看護師に何かひそひそと耳打ちした。
すると彼女は大きくうなずき、椅子にあらかじめ設置されている革のベルトで、素早く佐伯の腕を固定し始めた。
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「おい、ちょっと、あんた、何を」
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そう言いながら彼は必死に抵抗しようとしたが、看護師の力はかなり屈強で、あっという間に彼の手足と首を革のベルトで固定した。
それから佐伯の髪の毛を掴み思い切り後方に引っ張って顔を上向きにすると、嫌がる彼の鼻をつまみ顎先を掴んでぐいと引っ張り、無理やり口を開けさせようとする。
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た、助けて、、、
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悲痛な訴えも空しく、僅かに出来た彼の口の隙間に医師は器具を素早く滑り込ませて、左の奥歯をガチリと挟むと思い切り力を込めた。
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「アガガガガ、、、」
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佐伯のくぐもった叫びとともに、ミシミシという嫌な音が聞こえ始める。
今まで体験したことのない強烈な痛みが彼の口内を直撃した。
一気に心拍数はマックスになり、次の瞬間、
佐伯は意識を失った。
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…
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……
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………
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…………
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蒸せるような草いきれとズキズキという奥歯の痛みで、佐伯は目が覚めた。
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彼は延び放題の雑草に囲まれた所に倒れている。
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未だ半分朦朧とした意識のまま、佐伯はゆっくり立ち上がった。
辺りをキョロキョロ見回すと、そこはただ雑草だけに覆われた更地のようだ。
見上げると、空には朱色に染まった鰯雲が彼方まで拡がっている。
どうやらもう夕刻のようだ。
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─夢?、、、夢だったのか?
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彼は何がなんだか分からず、左の頬を片手で押さえながらフラフラ歩きだした。
するとすぐ前方の草むらに、乗ってきた自転車が横倒しになっているのに気付く。
佐伯は近づきハンドルを掴んでそれを起こそうとした時、
傍らに大きめの古びた木片があるのに気づいた。
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彼は思わず自転車を倒してしまう。
木片の表面には黒文字で「日蔭歯科医院」と書かれていた。
彼は呆然としてその看板を眺めていた。
そしてふと顔を上げると、
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前方に2つの人影が見える。
人影はどんどん近づいてきているようだ。
それは妻の未奈と見知らぬ初老の女性だった。
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未奈は佐伯の姿を見つけると満面の笑みを浮かべながら、
「あ~、やっと見つかった」と言ってホッとした顔で歩み寄り彼の両手を握る。
そして「いったいどこに行ってたのよ?」と少し怒った表情で佐伯の顔を覗く。
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彼は家を飛び出してから歯科医院に行った話をした後、
「それで気が付いたら、この雑草地に寝転がっていたんだ」
と不思議そうな顔をしながら話し終えた。
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すると突然もう一人の女性が口を挟んだ。
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「確かに昔、ここに歯科医院がありましたね」
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佐伯が訝しげな顔で女性を見ると、慌てて未奈が説明しだした。
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「ああ、ごめんなさい。紹介してなかったわね。この方ね、住宅街の自治会会長さんをされている中村さん。
一緒にあなたを探してくれていたのよ」
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未奈の話の後、中村さんが佐伯に深々とお辞儀をする。
佐伯も慌てて頭を下げると、
「すみません、ご迷惑お掛けして、、、ところで、さっきおっしゃった嘗てあった歯科医院の話を詳しく聞かせていただけませんか?」と言って中村さんの方を見た。
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銀髪をまとめた上品な顔立ちをした中村さんは「はい」と一言言った後、淡々と語りだした。
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「この場所に日蔭歯科医院が忽然と建てられたのは平成の半ばくらいだったと思います。
確か貧相な顔をした日蔭という中年の男性医師と看護師の大柄な奥さんの二人で、切り盛りされていました。
当時近くに歯科医院がなかったということもあり、開院した当初はかなり繁盛してました。だけど1月経ち、3ヶ月経ち、どんどん患者さんの数が減っていったんです」
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「どうしてですか?」
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佐伯が尋ねる。
中村さんは一つため息をつくと、再び続けた。
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「めちゃくちゃな治療をしていたようなんです。
ろくすっぽ検査もしなかったり、患者が痛がっているのを無視して強引に治療したり、挙げ句の果ては虫歯ではない健康な歯を間違って抜いたり、麻酔もかけずに抜歯したりしていたみたいです。
それであまりにも酷いということで、住民の一人が地元の歯科医師会に問い合わせたところ、驚くべきことが分かったんです」
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ここで中村さんは一呼吸置いて佐伯と未奈の顔を交互に見ると、また口を開いた。
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「医師会にこちらの医師の氏名を照会したところ、そんな者は登録されていないということだったらしいのです」
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「え!」
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佐伯と未奈は同時に驚きの声を出した。
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「つまり無免許で医療行為をやっていたということですか?」
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未奈の問いかけに中村さんは深くうなずくと、続ける。
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「日を待たずして医院は閉院しました。
そして警察が本格的に動きだし、ある日突然刑事が医院を訪ねたそうなのですが、、、」
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ここで中村さんは一度うつむき再び顔を上げると、緊張した面持ちで口を開く。
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「日蔭さんと奥様は奥の診察室で亡くなられてたそうで、現場は凄惨な状況だったそうです。
白衣姿の夫婦は折り重なるようにして床に倒れていたのですが、二人の顔も白衣も血で真っ赤に染まっていて辺りも血の海だったということです。
そして後々の現場検証から分かったのは、日蔭さんは歯科治療用のドリルを作動させ、まずは奥様のこめかみを突き刺し、最後は自らもこめかみにドリルを刺し亡くなられたということでした。
その後警察は二人の身元を調査したのですが、不思議なことに彼らがそれまでどこに住んでいて何をしていたのかも、そもそも何者だったのかさえも全く分からなかったそうです」
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ここで中村さんの話は終わった。
佐伯はしばらく呆けたように立ち尽くしていたが、やがてふと口を開けると左の一番奥に人差し指の先を差し入れてみる。
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そこには奥歯はなかった、、、
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう