それはちょうど帰省ラッシュの始まった日の夕暮れ時分のこと。
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そこは九州北部にある古い住宅街の一角にある、築28年のありきたりな二階建ての一軒家。
その一階奥まったところにあるのは8帖ほどの畳部屋。
その真ん中にある黒光りする座卓の前には、
渋い作務衣姿の初老の男が正座していた。
虚ろな目をしながらやや左に顔を向け、何やらブツブツ独り言を呟いている。
その声はその風体からは想像もつかないような低く掠れた女性の声。
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「あんた、本当にちいちゃんは来るとね?」
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すると今度男は右を向き、その言葉に答えるかのように低い男性の声で呟く。
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「ああ、昨晩真結美から連絡があったけんな」
そしてまた男は左を向くと
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「寂しかあ、、はよう(早く)会いたかあ、、はよう会いたかあ」
とさっきの女性の声で恨めしげに呟くと、また右を向き男性の声で
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「ああ来るばい、きっと来るから待っときんしゃい」
と言いゆっくり立ち上がり、襖のところまで歩くと開いて隣の居間にフラフラ歩いて行く。
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その日の晩、羽田空港のチェックインカウンター前には長蛇の列が出来ていた。
その前辺りにはお揃いの白いワンピース姿の真結美と娘の千鶴が並び立っている。
真結美の携帯の着信音が鳴る。
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「ああ、お父さん?
あのね午後8時ちょうどの福岡行き107便に乗るから、そっちには、そうねえ……午後10時頃には着くと思う。
え?千鶴?もちろん一緒よ。
今ここにいる」
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今年8歳になる千鶴が真結美のスカートの裾を引っ張りながら、早く電話に代われとせがんでいる。
真結美はやれやれという顔をしながら千鶴に携帯を渡した。
今年36歳になる真結美は今は娘と二人東京の下町で懸命に暮らしている。
というのは10歳年上の旦那は4年前に癌で亡くなり、今は女手一つで娘の千鶴を育てているのだ。
千鶴は携帯を小さな耳にあてると
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「あ、もしもし、じいじ?」
と少し恥ずかしそうに尋ねる。
すると携帯から聴こえてくる初老の男の声。
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「おお、ちいちゃん元気ね?」
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「うん、元気だよ。ばあばはもう病気治った?」
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千鶴は「ばあちゃん大好きっ子」なのだが、ばあちゃんは去年の冬に心筋梗塞で倒れた後は寝たきりが続いていた。
しばらくすると年老いた女の声がする。
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「ちいちゃん、ばあばやったらもう良うなったけんね。
そいけんが、はよ(早く)ちいちゃんに会いたかよ」
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「うん、ちいも早くばあばに会いたいよ。
今からそっちに行くから待っててね。
じゃあね、バイバ~イ」
そう言って千鶴は電話を一方的に切ると携帯を真結美に渡した。
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真結美と娘の千鶴が福岡の実家に着いたのは、夜10時を少し過ぎた頃だった。
真結美が高校時代までを過ごした、二階建ての庭付きの一軒家。
少し古びたくらいで今もほとんど昔と変わっていない。
千鶴が玄関の呼び鈴を何度も押している。
しばらくするとポーチに電灯が灯り玄関の鍵を開ける音が聞こえると、ガラリと開いた。
白髪頭を7・3に分けた浅黒い顔の真結美の父、竜三が紺の作務衣姿で立っている。
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「おお、よう来たねえ」
そう言って彼は嬉しそうな顔で千鶴の頭を撫でる。
それから3人はリビングのテーブルに座った。
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「お父さん、ちゃんと生活出来てるの?」
真結美は目の前に座る父竜三に心配げに尋ねる。
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「ああ、大丈夫ばい。お前こそ、ちゃんとやれとるとね?」
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「大丈夫、大丈夫」
千鶴が大人びた口調で応えたので、真結美と竜三は揃って笑った。
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そしてしばらく家族が互いに近況を話し、つかの間の沈黙が訪れた時だ。
突然千鶴が
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「良かったあ、ばあば元気そうで」
と笑顔で言うと誰もいない正面を指差した。
隣に座る真結美も一緒に微笑んでいる。
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その時サッと竜三の顔色が青ざめた。
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そして珍しい動物でも見るような目で娘と孫の顔を交互にまじまじと見ると、
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「真結美、千鶴、お前たち、、、
見えているのか?」
と呟く。
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きょとんとした顔の千鶴から思わず彼は目をそらす。
その視線の先には壁際の大型テレビ。
画面では騒々しいお笑い番組が流れている。
すると突然チャイムが鳴り画面は報道スタジオに切り替わった。
スーツ姿の男性が深刻な面持ちで記事を読み上げている。
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「たった今入ったニュースです。
本日、東京羽田20時発の福岡行きの飛行機107便が20時30分頃、中国地方の山脈上空辺りで消息を経った模様です。
今現場周辺では警察や自衛隊そして地元の消防団などが救出活動を行っているようなのですが、恐らくは山中に墜落している模様で乗組員ほか乗客102名の生存は絶望的という情報が入っております。
繰り返します。……」
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竜三は「え!?」と小さく叫び画面から視線を外すと、目の前に座る真結美と千鶴の顔を青ざめた顔で交互に見る。
真結美が父の豹変に少し驚き何か懸命に喋っているのだが、何故かその声は耳には入ってこない。
やがて二人の姿は少しずつセピア色に変色すると、まるで画像の乱れたテレビの一場面のように徐々に形が崩れだした。
そして最後は蜃気楼のようにユラユラ揺らめくとフッと消えてしまう。
さっきまで竜三の隣で微笑んでいたキヨも、いつの間にかいなくなっていた。
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そして誰もいなくなった広いテーブルに一人、竜三はしばらく呆けたような顔で座っていたが、やがて立ち上がると夢遊病者のようにフラフラと歩き襖を開ける。
それから仏間の片隅まで行くと、そこでガックリ膝をついた。
彼の目の前の壁沿いには白いマットが一枚敷かれている。
そこには一人の老婆が紺の下地にちりめん柄の着物姿で仰向けに横たわっていた。
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上方には数匹のハエが忙しなく飛び交っている。
その白髪は半分以上が抜け落ちており顔はどす黒くげっそり痩せこけ、ビー玉のような無機質な瞳の黒目はただ天井を睨んでいた。
着物から覗く手足は紫色に筋張り棒のようにか細い。
竜三は老婆を愛しげに眺めながら、
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「キヨ、もう寂しゅうなかやろ?
こいからは真結美と千鶴も一緒けんね。
もう大丈夫やろ?
おいも今からそっちに行くけん。
ちょっと待っときんしゃい」
と呟いた後、ゆっくり立ち上がった。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう