中編5
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兄からの依頼 後編

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臭いが濃い。全身を染められるような気がして、思わずよろめいた僕を、坂さんが支えてくれた。

黒かった。ただ黒かった。

壁も天井も床も、真っ黒に塗り潰されている。

あるはずの窓は見当たらず、懐中電灯の光さえ飲み込むんじゃないかと錯覚してしまうような暗黒が、そこには広がっていた。

ただ一点、ちょうど部屋の中心に、白い物体が落ちていた。

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懐中電灯の光を投げ込み照らしてみると、それがてるてる坊主だと分かった。

なんでこんな所にてるてる坊主が落ちているんだ?さっきの音はこれか?

それにしては音はもっと重そうだったが――

次々に湧き上がる疑問に混乱しはじめた僕は、坂さんを振り返った。

坂さんの顔は歪んでいた。

怒りとも困惑ともつかない表情に僕は不安になる。

「あの、坂さ」

「勇馬」

語尾を遮り、坂さんは僕を呼んだ。

その声は僅かだけど震えていて、僕の中の恐怖を大きくさせる。

「……なんですか」

「僕が合図したら、部屋ん中突っ込め」

「はぁ!?」

「ええから言う通りにしろ。嫌やったら突き飛ばしたるから」

「坂さんは!?」

「……僕は大丈夫や」

僕の肩を掴み、反論を許さぬ雰囲気に黙らせられる。

眼前には、先の見えぬ暗黒が口を開けている。

僕は目を閉じた。その方が落ち着くと思ったからだ。

けど実際には、ただ臭いをより濃厚に感じさせるだけだった。

心音だけが聞こえる。

背中を押され、僕は足をもつれさせながらも駆け出した。

一歩進んだ瞬間から、肌にぬるりとした何かがまとわりつく。

油の中を泳いでいるような不快感に体が重くなる。

「止まんな!」

背後からの怒声に意識を足に集中させる。

頭が痛い。体が寒い。吐き気がする。汗が止まらない。

手足の感覚がなくなっていく。それでも僕は止まらない。

果てはどこだ?いつまで走ればいい?

たかだかアパートの一室を横断するだけなのに、永遠に走り続けなければいけないような――

悲鳴が聞こえる。気にせず、なおも走る。

何かに足が引っかかる。ギリギリで体勢を立て直し、なおも走る。

誰かに制服の裾を掴まれた。必死で振り払い、なおも走る。

込み上げる悲鳴を喉奥に飲み下し、僕は必死で走った。

ピリピリと皮膚が痛み、口の中に鉄の味が広がる。

鉄の味?だとすればあの臭いは、僕が鉄の臭いだと思ったものは。

踏み込んだ足はそのまま飲み込まれ、奇妙な浮遊感が生まれた。

そして僕は意識を失った。

眼前に広がる星空に、去年行ったキャンプを思い出した。

高校生にもなって馬鹿馬鹿しいなんて思っていたけど、結構楽しかった。

キャンプファイヤーで踊ったのはなんだったっけ?

マイムマイム?オクラホマミキサー?

ああそれにしても、なんでこんなに体が痛いんだろう。

僕、なにかしたっけ?

「生きてるか?」

視界に無表情な白い顔が入ってきた。誰だっけこの人?

「おい、なんか反応返せや。寂しいやろが。僕のこと分かるか?」

からかうような軽い口調に、僕は突然に覚醒する。

「坂さん!」

「はい正解」

坂さんは無表情のまま、僕の鼻をつまんだ。

鼻孔の奥に湧き起こる、獣の臭いと鉄の――血の臭い。

僕は跳ね起き、そして愕然とした。

そこには2階建てのアパートなんてなかった。

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満天の星空の下、ただの原っぱに犬の死体が散乱していた。

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あるものは頭を割られ。あるものは腹を裂かれ。

眼球に何本も釘が刺さっていたり。首と胴体が棒で繋がれていたり。

輪を描くように捨て置かれたいくつもの死体が、腐臭を撒き散らしていた。

その光景のあまりのおぞましさに、言葉を無くした。

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「……兄貴は僕を憎んどる」

坂さんは原っぱの中心を睨みながら呟いた。

それは世界の裏側から聞こえる声のようだった。

「原因は僕にあるから、それはええ。

 けど、君を巻き込むんはあかんなぁ」

まるで目の前にお兄さんがいるかのような口調を不思議に思い、僕は坂さんの視線を追った。

死体の輪の中心に、てるてる坊主が落ちていた。

僕が部屋の中に見つけたのと同じ、不自然な程に白いてるてる坊主。

坂さんは暫くそれを睨んでいたが、やがて諦めたように空を仰いだ。

「君を巻き込むんはあかんなぁ」

思い出したような吐き気をどうにか処理し、僕らは車に乗り込んだ。

制服が血で汚れていたから、まずは坂さんの店で着替えてから、家に送ってもらうことになった。

「上手い言い訳、考えとけよ」

坂さんの言葉に、僕は力なく頷いた。

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一週間後、僕は坂さんに呼ばれて店に行った。

坂さんは相変わらずレジスターに肘をつき、壊れたテレビを眺めていた。

違いといったら、白い顔の左頬が赤く腫れていたことぐらいだ。

「あの後、どないやった?」

「めっちゃ叱られましたよ……その顔、どないしたんですか?」

「兄弟喧嘩してきたんやわ」

坂さんはひらひらと手を振った。手首には包帯が巻かれている。

坂さんはレジスターの下の金庫からなにやら取り出すと、僕に向かって放り投げた。

受け取ったそれは、不自然な程に白く、違和感を覚える程に重い、小さなてるてる坊主。

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小さく悲鳴を上げた僕に、坂さんは薄く笑った。

「心配せんでええ。それはお守りや。兄貴からぶんどってきた」

「……これのために、わざわざ喧嘩しにいったんですか?」

「僕は君の保護者やからね。おかげで大分男前になってもうたけど」

坂さんは大きく伸びをすると、「やっぱり兄貴は嫌いやわ」と呟いた。

坂さんは時々とんでもない無茶をする。

そして僕はそれに巻き込まれる。

けど今回は怒れない。

原因はどうあれ、坂さんは僕の為に怪我をしたんだ。

それを忘れない為に、僕はてるてる坊主を鞄に取り付けた。

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