【呪われた血】②-2015年10月

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【呪われた血】②-2015年10月

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確かあれは、そう…

2015年。秋の終わり。冬の始まりのころ。

…そう、終わりの始まり。

思い返せば、全てはこの時から始まりました。

…いえ。

多分、発端と成り得たきっかけは、他にもあったのでしょう。

ですが、

私にとっての始まりは、まさにこの時でした。

私の名前は、コバヤシ マリ。

都会の病院に勤める、新米看護師です。

事件の始まりは、私の姪のミキちゃんが亡くなったという、母からの電話でした。

母から電話を貰ったのは、仕事の帰り道でした。

「あ、母さん。どうしたの? 仕事帰りで疲れてるんだよ、私。」

「ああ、マリ、マリ! 大変なんだよ! ミキちゃんがね、ミキちゃんがね!」

母は、大変混乱していました。

慌てふためく母の電話で、私の従姉妹のミキちゃんが亡くなった事を知りました。

亡くなったミキちゃんは、まだ高校生です。

母の知らせを聞いた私は、ミキちゃんの家…叔母さんの自宅へ車を走らせました。

叔母さんは、私の姿を見ると、私の体を抱きながら床に崩れ落ちました。

「ああ、マリちゃん…、なんで、なんで! ミキが死ななきゃならないの!」

叔母は涙を流しながら、叫びました。

若くして愛娘を失った叔母に、私は返せる言葉が見つかりません。

「お葬式も出せないし、お線香すら上げられないの! ミキが何をしたって言うのよ!」

ミキちゃんの遺体は、ここにはありません。

警察の検死が終わるまで、叔母の家には帰ってこないと言うのです。

「あんな良い子が、悪いことなんてするわけないじゃないの!!」

私は泣きじゃくる叔母を励まし、落ち着かせます。

ミキちゃんに、何があったのか。なぜ、検死が必要なのか。

通常、警察が行う検死は、その遺体に異常がある場合や事件性がある場合に行われます。

ミキちゃんは、何かの事件に巻き込まれたのでしょうか?

疑問はありますが、今の私には知り得ません。

「ねえ、叔母さん。ミキちゃんの部屋、見てもいい?」

私は、ミキちゃんの部屋を覗かせて貰いました。

薄暗い室内をざっと眺めたところ、

整頓された勉強机。揃えられた参考書。

真っ白なベッドシーツ。棚に並ぶぬいぐるみ。

普通の女子高校生の部屋に見えます。

サワ…

風もないのに、カーテンが揺れた気がします。

ふと、本棚が目にとまりました。

私は、何気無く本棚に並ぶ辞書を手に取ります。

カバーに包まれた、分厚い百科事典です。

あれ?

手にしたその辞書は、見た目のわりに軽く感じました。

私は、辞書をカバーから取り出します。

それは、日記でした。

叔母に見つからないように隠された、女子高生の秘密の日記帳でした。

少しの罪悪感を覚えながら、私は日記を開きます。

『周りは勉強しろだの、真面目にやれだの、本当にウルサイ。みんな、いなくなればいいのに!』

『あのバカ女…サチは、私の言うことなら何でも聞いた。まるでペットだ』

『小遣いが足らない。ケチババアめ! 成績さえ良ければ、いくらでも小遣いが貰えると思ったけど、それでも足らない。ちくしょう。』

『バカ女を虐めるのにも飽きてきた。なんか暇潰しできる事はないかな』

『タカシが、面白い話があると言ってる。けど、あいつ、顔はいいけど…ヤバイ奴等とつるんでるって噂もあるし…。どうしようかな…』

日記はその記述で終わっていました。今より10日程前の日付です。

…この日記は、叔母には見せられない。

私は、その日記を密かに持ち帰ることにしました。

日記を自分の鞄に詰め込む直前。

日記の最後のページが、皺くれだってる事に気付きます。

まるで、書いたページを握り潰そうとしたかのようです。

気になった私は、その皺だったページを開きます。

そこには、乱れた文字で、こう記されてました。

『のろわれたちにころされる』

? 

のろわれた…、ち?

…呪われた血?

一体なんの事でしょうか?

その時の私は、その言葉が何を意味するのか、全く解りませんでした。

ですが、事態はこの時、確実に動き出しました。

正確には、ある男性と私との出会いが…、

いえ、男性と言うには幼過ぎる…彼との出会いによって、

私を取り巻く事態は、動き始めたのです。

数日後。

ミキちゃんのお葬式が行われました。

葬儀には、ミキちゃんのクラスメイトと思しき男女も参列しています。

ミキちゃんの死因は、病死、とされていました。

遺体の頭部には、痛々しい解剖の跡がありましたが、今は棺と包帯で隠されています。

私は、ハンカチで顔を押さえて涙を流すクラスメイトの女の子達に尋ねました。

ミキちゃんの死について、何か知っていることはあるか、と。

最初は言い淀んだ女の子も、私がミキちゃんの親族だと解ると、ポツリポツリと言葉を返し始めました。

女の子の話を聞いているうちに、幾つかの事が解りました。

まず、ミキちゃんは、母である叔母が思っている程、良い子ではなかった事。

次に、最近のミキちゃんは、まるで何かに怯えている事を誤魔化すかのように、無理矢理に明るく振る舞っていた事。

最後に、ミキちゃんは死ぬ数日前に、誰かに会いに行くと言っていた事が、解りました。

けれど、それだけの事が解っても、私に何ができるでしょうか?

理解できたのは、ミキちゃんは死の間際、何か危険なことに関わっていた可能性があった、程度の事です。

当然、叔母さんには言えません。

最後に私は、ふと思いついた事をクラスメイトの女の子に聞きました。

「ねえ、『呪われた血』って聞いたことあるかしら?」と。

答えを期待して聞いたわけではありませんでした。

ですが、私が発した言葉を耳にしたクラスメイトの女の子の反応は、意外なものでした。

「聞きたくありません!!!」

驚く程の、激しい拒絶でした。

「何? どうしたの? 落ち着いて!」

いきなり取り乱す女の子に、私は落ち着くように宥めます。ですが…。

「もう話したくありません!! 近寄らないで!! 」

女の子は、心底から私の質問を拒むかのように、あとさずりし、私の前から走り去りました。

走り去る直前、最後に女の子は、言いました。

「私は発狂して死にたくありません!!

ミキみたいになりたくありません!!」

…発狂? 死ぬ?

一体あの子は、何を言っているんだ?

ミキちゃんは、発狂して死んだというのか?

女の子は、例の『呪われた血』について、何かを知っている?

けれど、話の続きを聞くことは、今は難しいでしょう。

途方に暮れた私は、何気無く周囲を見渡しました。

その時です。

私の視界に、一人の男性が映りました。

背の高い、ひょろりとした細身の男性…少年です。

年の頃は高校生か…大学生くらいでしょうか

学生服も喪服も着ていません。

電信柱の影に半身を隠しながら、少年は私に視線を送っています。

視線に気付いた私は、少年のいる方向に目を向けました。

その途端、少年は私の視線から逃れるように、電柱の影から身を乗り出し、走り去りました。

彼は一体、誰だったのでしょうか?

それから数日後。

ミキちゃんの死因について、何一つ解らないまま、時間だけが過ぎていきます。

当の私も、普段の日常と変わらず、勤務先である病院で先輩看護師の指示と助言を受けながら、忙しい日々を送っていました。

ところがある日。

その変わりない日々に変化が訪れます。

それは、ある搬送患者の処置にあたっている時でした。

その搬送患者は、一目見ただけで、普通の傷病人でない事が解りました。

救急車のストレッチャーに縛り付けられた急患の男性は、身体を弛緩させながらビクンビクンと痙攣を続け、口から涎を垂らし、眼は白く反転し、喉の奥からは隙間風のようなひゅうひゅうという音が聞こえています。

聞くところによると、この男性は街のファミレスで突然奇怪な叫び声を挙げ始め、店内を暴れ回り、最後は床に倒れこみ、搬送されたとの事でした。

しかも、不可解な事に、搬送される寸前、意識を失う瞬間まで、彼は床に倒れたまま自分の首を自らの掌でギュウギュウと締め付けていたそうです。

数時間後、この搬送患者は息を引き取りました。

「この遺体を、AI(オートプシーイメージング)にかけてくれ。」

処置に当たっていた医師が、私達看護師に指示を出します。

AIとは、死亡時画像診断の事で、解剖だけでは死因が特定できない場合などに用いられる死因検証の手段です。

通常の死亡の場合では、ほぼ活用されない手法です。

その医師の指示を聞いた私は、

普通じゃない事態が起きているのではないか?

そんな漠然とした不安を胸に抱きました。

数時間後。

「先程お亡くなりになった、イノウエタカシ君の検査結果です。」

私が届けた検査の結果を見て、医師が頭を押さえながら呟きました。

「またか…。今月で何件目だ!」

「どういうことですか?」

医師の言葉に、私は思わず質問をしてしまいました。

医師は、しまった…という表情をしながら、渋々と私に説明しました。

「…最近、奇妙な患者が続いているのだよ。」

「奇妙な患者? 先程にお亡くなりになった人の様な、ですか?」

「うむ。君は先程の患者を見て、どう思った?」

私は、少し考え込むと、

「…異常、だと思いました。突然に叫び出し、暴れ回り、最後は自分で自分の首を絞めて…。

血液検査をしても、薬物反応も検知されませんでしたし…、

あんな死に方、見た事がありません…。」

私の意見を聞いて、医師が口を開きます。

「…最近、今日の様な異常な患者が増えている。

しかも、その患者達には、幾つかの共通点があるのだ。」

「共通点?」

医師が頷く。

「まず、死因に繋がる症状だ。それが決まって、異常なのだ。

ある患者は、自らの手で頭から化学薬品を浴びた。更にその上、硫酸を喉に流し込んだ。病院に着く頃には、皮膚も内臓も焼け爛れていたよ。

ある患者は、ビルの三階から飛び降り両足を骨折した。落下した場所から、血だらけの身体を引き摺って道路まで移動し、トラックに轢かれた。

ある患者は、動物園のライオンの檻に自ら入り込み、頭をライオンの顎に差し込んだ。

これらの患者に共通していることは、自らの身体を傷付け、命を絶っていることだ。」

「…自殺では、ないのですか?」

「最初は私もそう思った。だが、他にも共通点がある。

二つ目の共通点。

それは、死亡した全ての患者の脳が、変異しているのだ…。」

「脳の…変異?」

私の脳裏に、頭部を解剖されたミキちゃんの亡骸が思い浮かびます。

「ああ。しかもその変異の度合いは、損傷…いや、破壊と言っても差し支えない程のものだ。まるで、そう…、

『グチャグチャ』

になっているのだ。」

そう言った後、医師は自らの口元を押さえる。

「更には、搬送される直前、彼らは全て、奇妙な笑い声のようなものを挙げていたそうだ。

それはまるで、…【発狂】しているかのようだったらしい…。」

…患者は全て、脳が損傷し、発狂して、死んだ?

【発狂】…。

ミキちゃんも、そうやって、死んだ?

…。

私は、医師に姪の名前を伝えた。

「ああ。その娘なら知っている。私が検死を行った。」

「私の姪なんです…。」

「そうか…。それは、可哀想なことをしたね…。」

「ミキは、何故死んだんですか?」

「…血を、抜き続けた。注射器で、少しづつ。僅かな量を抜き続けた。まるで、自分の中の血液を全て取り出そうとするように…。見つけた時には既に、出血多量だったよ…。」

そこで、私は思い出しました。

ミキちゃんの日記に、『タカシ』という名前の人物が記されていた事に。

まさか…。

この『タカシ君』と、ミキちゃんは、何かしらに繋がりがあった?

私は嫌な予感を覚えます。

『死因に共通性がある以上、何かのウイルスによる感染症かもしれない』

『混乱を防ぐ為に、まだ公には出来ないが、気付いた事があったら教えてくれ』

医師は最後に、そう、私に言いました。

何かの感染症…。脳を破壊する未知のウイルス…。

のうへ

医師から聞かされた搬送患者の事実と、ミキちゃんの死の奇妙な符号…。

頭蓋骨の中で蠢く無数の何か。

感染した者の髄膜を喰い破り、大脳新皮質を喰い漁り、脳幹を破壊する…。

…そして、死に至らしめる。

それが、医師の話を聞いた私が頭に抱いた想像でした。

そんな思いが私の頭を支配し、仕事が終わり、更衣室で着替えている最中でも、それは消えません。

ミキの日記に書き殴られた言葉…【呪われた血】。

この一連の死には、まさかその言葉が関連しているのでしょうか?

疲労と思考でボンヤリしたまま職員玄関を抜けた私が、病院の正面玄関に差し掛かった時。

…その少年はそこにいました。

暗く肌寒い夜の闇に紛れ、

薄ぼんやりとした街灯の下で、

一人、病院玄関のベンチに腰掛けて、

その少年は、そこにいました。

私は、その少年に見覚えがあります。

…そう、ミキちゃんの葬式に来ていた少年でした。

「君…、こんな時間にどうしたの?」

私は少年に話しかけます。

「タカシはどうやって死んだんですか?」

私の問い掛けを無視して、彼は私に質問を投げかけます。

…タカシ?

今日、搬送されて、…死亡したイノウエタカシ君のことでしょうか?

この少年は、タカシ君の知り合い?

「君は、タカシ君の…友達?」

「いや。友達じゃない。…仲間、だ。」

仲間? 友達と何が違うのしょうか?

「お姉さん。タカシは、何故、死んだんですか?」

「え…っと…。」

素性の解らない相手に、患者の詳細は伝えられません。

しかし、彼は亡くなったタカシ君の知り合いかもしれない…。

返事を言い淀んだ私は、僅かな躊躇いの後、

「…病死、よ。」と口を開きま…

「嘘だ。」

少年は間髪入れず、私の嘘を見破りました。

「え?」

「まず、俺のように素性の不明な人間に、患者の詳細は伝えらない。医療従事者なら当然尊守されるべき守秘義務だ。どうやらお姉さんは真面目な人物らしい。」

少年の突然の饒舌に、私は絶句しました。

「次に、お姉さんは俺の質問に、数瞬躊躇った後に返事を返した。タカシの知り合いと思われる俺に、どうやって死因を伝えるべきか、迷った。その様子から、タカシの死因が唯の病死でない事が推測できる。同時に、お姉さんは見も知らぬ他人を気遣える優しい人格をお持ちのようだ。」

突然に「真面目」だとか「優しい」とか褒められても、唐突過ぎていい気分はしません。寧ろ馬鹿にされた気分すらします。

「君、いったい何を言っているの?」

「その程度の事は、心理学の本や看護学の参考書に幾らでも載っている。…そんなことより、お姉さん。」

「何よ?」

訝しむ私でしたが、彼の次の言葉を聞いた時は、先程とは違う意味で、私は絶句します。

「【呪われた血】って、知ってる? タカシも、貴女の従姉妹のミキさんも、それに殺されたのかもしれない。」

…その時、複雑に絡み合う運命の歯車は、動き始めました。

ワカツキ ミチル

それが、この少年の名前である事を、私は病院近くのファミレスで知りました。

「タカシは、自分が死ぬ前日…ファミレスで発狂して病院に搬送される前夜、俺にメールを寄越した。

メールの内容は、『【のろわれたち】に殺される。助けてくれ』

普段は気丈に振る舞うタカシが、その時ばかりは心底怯えていた。」

「そのメールを貰う数日前から、タカシは何かに怯えていた。AVEVAR-on-lineのチャットの反応も鈍いし、クエストの最中もぼんやりしている事が多かった。」

…アベバルオンライン? 何かのゲームかしら?

「『俺、呪われてるんだ。近いうちに、死ぬかもしれない』。そんなメッセージを俺に残した後、タカシはAVEVAR-on-lineに姿を見せなくなった。」

「ミキちゃんのお葬式に来たのは、何故?」

「タカシが通う高校の名前は知っていた。その高校で、女子高生が死んだと知って…。もしかしたら、タカシも葬式に来るかもしれない。そう思って、行ってみた。お姉さんを初めて見たのも、その葬式の時だ。」

「マリよ。私の名前は、コバヤシ マリ。」

「そうか。マリさんか。マリさんが【呪われた血の】について女子高生に質問をしていたのを見ていた。

この病院でマリさんに再開したのは、全くの偶然だ。

もしかしたら、【呪われた血】について、何か知っているのかもしれない。そう思って、声をかけた。」

「そうなのね…。でも、私も知っているのは、ミキちゃんの日記に【呪われた血】と記されていたのを見た程度…。他には何も解らないの…。」

私の言葉に、ミチル君は肩を落とす。落胆したのだろう。

「…タカシは、俺に『助けて』と言った…。」

ミチル君が、振り絞るように声を出す。

「けど、助けられなかった…俺は、タカシの仇をとりたい…。【呪われた血】が何なのか、その謎を究明したい!」

ファミレスのテーブルの上に乗せられている握り締められた彼の両の拳は、小刻みに震えていた。

彼にかける言葉に困った私は、

「…タカシ君って、どんな人だったの?」

と、何気無く質問をしてみる。

「知らない。」

彼の返事は、想像の斜め上を言っていました。

AVEVAR-on-lineとは、インターネット上のゲームです。

オンラインゲーム…、私はやった事はありませんが、

インターネットを通じて、キャラクターに成りきった人物達が、パーティを作って課せられたクエストをクリアしたり、協力してダンジョンを攻略したりするゲーム、だそうです。

タカシ君とミチル君は、そのゲーム上でのパーティメンバー…仲間で、タカシ君はそのパーティのリーダーを勤めていました。

モンスター討伐やダンジョン攻略だけで無く、仲間同士でのチャット会話やメッセージのやり取りなどで関係を深めていき、そこには現実の世界での人間関係と遜色ない関係性が生まれていくのだと、ミチル君は説明してくれました。

現に目の前の彼は、現実のタカシ君の顔も知らないのです。

…電脳の空間に構築された、現実とは異なるもう一つの世界。そこで繋がる人間関係。

本当に、その世界は、現実と遜色ないものなのでしょうか?

目の前に座るミチル君は、どうやら所謂、引き篭もりのオタクというタイプの人のようです。

だからでしょうか?

彼との、浮世離れした幼くも理論的で感情的で、距離感の測り難い会話は、私に戸惑いを覚えさせます。

相手の表情に見え無いディスプレイと文字だけの言葉の繋がりは、相対する人間の気持ちや感情を感じきれ無い…配慮することの出来ない、相手を簡単に傷付けられる、無責任な言葉の交わし合いになる予感を、私は目の前の彼に感じてしまいます。

ですが…。

『心無い言葉は相手を簡単に傷つける』

私の居場所である現実の社会であっても、それは然程に変わらないことなのかもしれまん。

大人になり、社会人となり、望まぬ階級制度に奔流される内に、人は嫌でも傷付きます。

上司から部下へ、

先輩から後輩へ、

大人から子供へ、

集団から個人へ、

力ある者から、力無き者へ、

その関係性に配慮がなければ、

強き者から発せられる言葉は、弱く小さい者を簡単に傷付けます。

それは、電脳の世界でも現実の世界でも変わらないこと。

社会の責任が生じ無いだけ、電脳の世界での人間関係は、気楽なものなのかもしれません。

閑話休題。

彼の、友人の仇をとりたいという気持ちは、おそらく本物なのでしょう。

ミチル君は、拳を握ったまま、私に言います。

「マリさんは、ミキさんの死の謎を知りたくは無いんですか? 【呪われた血】とは何なのか、知りたくないんですか?」

知りたいか。知りたく無いか。

興味が無いといえば嘘になる。

でも。

私の脳裏に、病院の医師の言葉が浮かびます。

『何かの感染症かもしれない』

つまり、この謎に踏み込めば、私も何かの異常に巻込まれる可能性がるのです。

それでも、私は謎を解き明かしたいか?

「私も、…知りたい!」

私が発した彼への返事は、肯定でした。

…私はそれを、後に死ぬほど後悔します。

その時の私は、まだこの事態が、所詮は対岸の火事であり、自分の命が危険に晒される事に何の覚悟もしてはいませんでした。

私は、タカシ君やミキちゃんを含め、多数の人間が異常な死を迎えている事、又、全ての死亡者の脳が極端なまでに変異していた事を伝えました。

私の説明を聞いたミチル君は、

「同じような状況と症状…。それらの死は、何かの感染症によるものか?」

と、病院の医師と同じ予想をします。

「…確かに、狂犬病ウイルスのように、非常に致死率が高く、又、運動過多や興奮、不安狂躁といったような脳や行動に障害を発生させるウイルスも珍しく無い。

だが、ヒトからヒトへの感染は稀であり、しかも最後に発狂した上に自傷行動まで引き起こすウイルス等、聞いた事も無い。」

私は、此度の異常死が医師が未知の感染症によって引き起こされたのではないかという仮説を立てている事を、ミチル君に伝えます。

「未知の感染症…。

その可能性は高いかもしれないな…。

新たな感染症がこの事態に関連していると仮定するとして…」

「…私達に何が出来るの?」

そうです。未知の病に対して、私達に何ができるのでしょうか?

「マリさん。君は看護師だったよな? 感染症には詳しいか?」

「ええ。まあ、勉強した程度には…。」

「死に至る程の重度の感染症は、何が思いつく?」

「え? そうね…。エボラとか、マラリアとか、かな…。」

「そう。例えば、エボラウイルスの感染による、エボラ出血熱。

高熱からの嘔吐や下痢、さらに進行すれば全身から出血し、死に至る。」

…聞いた事がある。

「例えば、マラリア。発熱や嘔吐などの症状に加え、腎症や肺水腫、出血傾向などの合併症を誘発し、これも高い悪率で死亡する。

マラリアは、マラリア原虫という微生物をもった蚊に刺される事で、感染する。」

虫によって引き起こされる感染症…。

「他にも、狂犬病ウイルスによる狂犬病、炭疽菌による炭疽、ジフテリア菌によるジフテリア…、世界には、様々な感染症が存在している。

人類の病と治療の歴史は、感染症との戦いといっても過言ではないと思う。」

この時、ミチル君は本もパソコンも、スマホも見ずに話をしており、私はその知識の量に驚くばかりです。

そんな私を気にする事など一切無く、ミチル君は滔々と会話を続けます。

「マリさんは、天然痘という病気を聞いた事はある?

かつて世界中で猛威をふるった感染症の一つで、その高い致死性と感染力から、【悪魔の病】と言われた事もある。

だが、今は世界中の何処にも、その病は存在しない。

何故なら、人類がその病を撲滅したからだ。

WHOによる世界天然痘根絶決議によって、世界中で撲滅活動を実施。約20年を費やし、WHOの天然痘撲滅宣言をもって、世界中から天然痘は消え去った。

人類は一致団結し、天然痘ウイルスを滅ぼしたんだ。それは、かつては【悪魔の病】と言われた驚異の感染症に人類が勝利した瞬間だった。」

私は、ただミチル君の話を聞いているだけです。

「もし仮に、今発生している事態が、感染症によるものなら、必ずその進行を防ぐ手段はある。犠牲者を無くす事は出来る。

過去、人類は、感染症の拡大を防ぐ為に、主に二つの手段を取ってきた。

一つは、今述べた、撲滅という手段。病に対しての対症療法。特効薬的手法。

だが、これには高度の専門的な医学知識が必要になる。相応の設備や実験が必要になる。医師や研究者の仕事になるだろう。

つまり、俺たちには困難な手段だ。

だが、俺たちに出来る事はまだある。

マリさん。病院では、世間に新型インフルエンザやノロウイルスが発生したら、来院者に何を呼び掛ける?」

「えっと…、手を洗ったり、マスクの着用を呼び掛けたり…。」

「そう。つまり、感染経路の遮断。

病にうつらない…感染しない手法を呼び掛ける事だ。

マリさん。感染症の感染経路には、何が思い浮かぶ?」

「うん。えっと…

直接触れて感染する、接触感染

咳やくしゃみによる、飛沫感染、

汚染物を口にしてうつる、経口感染、

母から子への、母子感染…、あと…、」

「血液を媒介にいた、血液感染、だな。」

「うん。血液への接触や…えっと、」

「せ、性交、とかだな。」

ミチル君の顔が少し赤くなってます。

「…今発生している事態の特徴は、未知のウイルスのような【何か】が、人から人は感染していると仮定して…、

どんな方法でその【何か】は感染するのか?

それを突き止めれば、感染の予防策を講じれる。

そして、俺たちの周囲には、不幸にも、既に感染してしまった人物がいる。」

…ミキちゃん。タカシ君。

「つまり、俺たちにできる事は、感染者の関係性を把握して…」

「感染経路を把握する事!」

「そうだ。それなら、俺たちにも出来る。もしかしたら、感染の根源…感染源に辿り着けるかもしれないな。

…けど、それは俺たち感染する可能性もある、危険な行為だ。それでも、協力してくれるのかい?」

「うん。大丈夫よ。私も、この事態の真相を知りたい。」

繰り返します。

私はこの時の自分の危険な好奇心を、後に死ぬ程、後悔します。

後日。

私とミチル君は、感染経路の調査に乗り出します。

やるべきことは、まず、ミキちゃんとタカシ君の関係性を洗い出す事。

ミキちゃんの日記を読むところ、二人は友達関係だったように感じます。

文章からは恋人同士という関係は読み取れず、肉体関係もあったかは判断つきません。

けれど、二人とも発症していることから推測すれば、この二名の間で感染し合ったか、又は、二人とも同時に感染したか。そのどちらかだと思われます。

私達は、二人の共通する場所であり、共通の知り合いがいる、高校に足を運びます。

ミチル君は未成年。車は持っていません。

私がミチル君の足代わりです。

高校の近辺で、私達はミキちゃんとタカシ君のことを知る学生を探します。

「相手は学生だ。俺が声をかけるより、女性であるマリさんが聞いたほうが捗ると思う。」

ミチル君の提案により、学生に質問するのは、私の仕事になりました。

「それに、俺、人と話すの、苦手なんだ…。」

ミチル君は、少しモジモジしながら私に呟きます。

…まぁ、この性格と言動では、彼が会話が苦手と言うのは納得できます。

といったわけで、ミチル君が頭脳担当、私が作業担当という役割分担が自然に出来上がりました。

高校近くの繁華街で何人かの学生に声をかけている最中でした。

大変運の良い事に、先日、お葬式で私がミキちゃんの様子を訪ね、逃げ出されてしまった女子高生を発見しました。

あの子なら、何かを知っている!

私は、ボンヤリとした表情で道を歩く彼女に、慎重に声をかけます。

「…久しぶりだね。ちょっと、話を聞いてもいいかな?」

「…は、はい、何でしょうか………ヒィ!」

私が声を掛けると、彼女はビクリと驚き、逃げ出そうと距離を空けます。

「あ、待って! 教えて欲しいことがあるの!」

「やだよ! 私は関係ないの! どっかに行ってよ!」

「お願い! 待って! あなたに教えて欲しいことがあるの! 迷惑はかけないから…、お願い!」

私は、逃げ出そうとしている彼女を必死で呼び止めます。

私の懇願が通じたのか、彼女は、躊躇いながらもその歩みを止めました。

どうやら、会話をすることはできそうです。

私とミチル君は、彼女にタカシ君とミキちゃんの関係を尋ねます。

「タカシ君とミキちゃんは、友達だったの?」

「うん。どうだろう? よくツルんでたけど、仲がいいのかは知らない。」

「二人に何があったのか、知ってる?」

「…取り憑かれたの。」

「取り憑かれた? 何にだ?」

「お姉さんも知ってるでしょ? 【呪われた血】。」

「…どういうこと?」

「噂があるの。生徒だけの噂。【呪われた血】に取り憑かれたら、死んじゃうの。ミキもタカシも、他のみんなも、それで死んだんだよ。」

「取り憑かれたって、どういう意味だ?」

「ミキもタカシも、【おじさん】に関わったの。だから取り憑かれたの。」

「おじさん? 誰だそれは?」

「知らない。【おじさん】は【おじさん】。みんな、そう呼んでる。」

「その【おじさん】が、【呪われた血】の原因?」

「知らない。でも、みんな、そう言ってる。【おじさん】に関われば、みーんな、曲がりクネル血に頭が犯されて死んじゃうって。」

「みんな?」

目の前の彼女の眼が、見開きます。赤く充血した眼を私達に向けます。

「そう、みんな。皆。みんなみんな、みんな、死んじゃうの。タカシもミキも、誰も彼も、きっとワタシも、お姉さんもそこの彼も、みんなみんな、みいんな、みんんな、

ミーーーーーーーーーーーーーーーーーんな。

あの、グネグネで、トゲトゲで、歪んだ血に、取り憑かれて、さ、さ、

みーーーーーーーーーーーーンナ、

死んじゃうんだよぉぉおおおおおおおおおおおおォォ!!」

突然、少女は引き攣ったような笑顔で口元から涎を垂らし唾液を飛び散らせながら叫びます。

そして、一頻り叫んだ後。

ガクリと力無く肩を落とし首を傾げて、

彼女は死んだ魚のような眼で、私達に向かって一言、呟きます。

「【おじさん】は、街外れの神社にいるよ。会ってみれば? もう遅いかもしれないけど。」

そう最後に告げて、彼女は私達の前から逃げるように姿を消しました。

私達は、何か尋常じゃないモノに関わろうとしているのかもしれない。

けれど、感染の原因になっている『何か』のヒント…【おじさん】の存在を知った私達は、街外れの神社に向かいます。

神社に到着し、古びた鳥居の前に車を止めた時、

ミチル君が口を開きます。

「さっきの彼女の様子。どう思う?」

「え? うん…。怖かった。いきなり、あんな豹変するなんて…。普通じゃない。」

「そう。普通じゃない。もしかしたら、あの女子高生も、その…【呪われた血】とやらに感染していたんじゃないのだろうか?」

私は驚きます。

「まさか、そんな…。」

「俺達は、感染者に、直接関わった…。」

「…!」

私は言葉を失います。

「過去…。」

ミチル君は突然、語り始めました。

「過去、天然痘は【悪魔の病】と言われてきた。

感染のメカニズムや病への対処の手段が確立されていなかった時代。

ペスト…黒死病などの感染症に代表される重篤な病は、風土病や伝染病、又は疫病(えきびょう)と呼ばれていた時代。

古来から、目に目ない疫病は瘴気で伝染するものと考えられ、誤った感染対策が寧ろその感染拡大に拍車をかけ、さらなる犠牲者を生み続けた時代。

その時代に生きる人間にとって、【病=呪い】という認識が一般的だった。

その考えは、病原菌の存在の確認とペニシリンの開発が成された時代まで続く。」

「何を言ってるの?」

唐突に話を始めたミチル君に、私は訝しむ。

「今、俺達の周囲に生じている事態の元凶となる【何か】。それは、【呪われた血】という単語に関連する何かとする推測までは簡単だ。

だが、人類に解明できない【病】を【呪い】とする図式が成り立つのならば…、

今、発生してるこの事態…、

人から人に感染する【何か】

それは人の脳味噌を破壊して、

気を狂わせて、自らの身体を傷付け、

最後に死に至らしめる、

そんな事態を引き起こす【病】が、存在するのか?

この事態は、人の科学で解明できるものなのか?

かのアーサー・C・クラークは言った。『充分に発達した科学は魔法と見分けがつかない』と。

それは、逆説的に『科学で解明されない病は呪いと見分けがつかない』。

そういうことではないのか?

【呪い】を、科学で解明できるのか?」

額に手を当てながら喋る彼は、普段にも増して饒舌です。まるで熱に浮かされたかのようです。

「だから、何を言ってるの!」

ミチル君の饒舌につられてか、私の声も荒立ちます。

「そ、そんなわけけ、ないじゃないの! 私は気が狂ってもいななないし、あなただってふ、普通だよ。なにも、なにもおかしくなんて、ななないよ!」

私も感染している?

背筋に冷たい汗が流れます。

恐怖からか、私の言葉も呂律が回りません。

車内のミラーに映し出された私の顔が、表情が、姿が、別人に見えます。その眼は、先程に目にした女子高生の眼によく似ていました。

動揺する私を、ミチル君は見つめてきます。

そしてミチル君は、一つ深く深呼吸をしてから、

「何にせよ、【おじさん】とやらに会ってみよう。」

と、急に落ち着いたように、ゆっくりと私に語りかけます。

ミチル君の言葉で多少落ち着きを取り戻した私は、車から降り、ミチル君と共に古びた神社の奥の境内に向かいます。

ほとんど街灯もない、薄暗い神社の敷地内。

スマフォのライトを頼りに、私達は歩を進めます。

拝殿の横を通り過ぎ、本殿を囲む汚れた壁に近づいた時。

「キャッ!」

ゴソリと何かが動きます。

ミチル君が、それにライトの光を向けました。

それは、薄汚れたボロを纏った、青白く垢だらけの顔をした、男性でした。

まるで浮浪者です。

この男性が、例の【おじさん】でしょうか?

この男性が、この事態の元凶? 【何か】の…【呪われた血】の、感染源?

その時、私の頭の中で、何かが首を擡げます。

ミチル君が、口を開きます。

「俺達は、貴方を訪ねてきました。今、何が起きてるか、知っていますか?」

「…ああ。知ってるよ。」

男が煩わしそうに返事をします。

私の頭の中で、何かが蠢いています。細かくて、小さくて、モゾリとした何がが蠢いています。

「で、俺に何をして欲しいんだ? 世界中の人間に頭を下げればいいのか? ごめんさないって言えばいいのか? そんなんじゃ、何も解決しないよなぁ。」

頭痛がします。目眩がします。吐き気がします。

「違います。俺達は、この事態を解決したい。その為に、あなたに会いに来ました。」

痛い!痛い!痛い! 私の頭から出て行って! 引っ掻き回さないで!

「見たところ、その姉ぇ…女は手遅れじゃないのか? たぶん、お前さんも、だろう?」

私の視界の片隅で、ミチル君がチラリと私に目を向けます。

「そうかもしれません。でも、まだなんとかなるかもしれない…。」

「そうかいそうかい。まるで正義の味方だね。俺もそんな事を考えていた時代があったな。ま、つい最近の事だがね。それが今じゃ、この様よ。」

「貴方は、平気なんですか?」

「ああ。俺は、そういう【体質】なんだ。」

私の頭は、心は、限界です。

虫達が、ギチィギチィ蠢きます。

鞄の中から、カッターを取り出します。

「あらら。早くしなきゃな。」

男はそう言って、ポケットから一枚の紙切れを取り出します。

「ここに行けば、全てが解る。…ちと遠いけどな。あ!

…あぁ、またやってしまったよ。…もう、無理だよな…。」

手にしたカッターをチキチキさせる私の耳に、男の呟きが聞こえます。

? また? 何をやってしまったんだ?

でも、でも、解る事がある。この男が、私の頭の中で蠢く蛆虫どもの、痛みの原因だ!

「この場所に何があるんですか?」

「ああ。俺の生まれ故郷。呪われた地、だ。」

「呪われた地? 呪われた…地。呪われた血…。のろわれたち…。まさか!!」

その時でした。

「あんたが悪い!!」

私の口から、私の意図しない言葉が飛び出ます。

「あんたがみんなを殺したんだ!!」

私は呪いの元凶である男に向かって飛びかかります。

それが既に私の意思だったのか、それすらも頭の中で蠢く何かによって認識できません。

手にした薄い刃を、男の喉元に突き詰めます。

私は、殺したくありません。

でも、この男は殺さなければなりません。

そして、私も死にます。自らの喉を掻っ切るのです。

「あんたが、あんたが、あんたがががががががっがっっがっっがっがっっがっっがっ!!!!」

「そうだよ。」

私に組み敷かれた男が、呟きます。

「俺が、悪いんだ。俺が、原因だ。」

そうだ。あんたが悪い。

「だから、死ななきゃならないよな。」

そう言って、男は私の手からカッターを奪うと、そのカッターで自らの喉をかっ切ります。

男に馬乗りになった私の顔面に生温い血が叩きつけられます。

「これでやっと、解放される。」

男の血が、私の目に、口に、流れ込みます。

口の中に生臭い鉄の臭いが広がります。

吐き気が、生理的嫌悪感が、私を飲み込みます。

その瞬間。私は自分の意識を取り戻しました。

「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

そして、私は気を失いました。

車の中で、私は眼を覚ましました。

隣には、私を見つめるミチル君がいます。

私は思い出します。

口の中に広がる、温かい血の味。

嘔気を覚えた私は、車の外に出ると、胃の中を空にする勢いで嘔吐します。

顔にかかった血は、既に拭われていました。

ミチル君が拭ってくれたのでしょう。

えずく私の背を、ミチル君が優しくさすります。

「私、気を失っちゃったんだね…。あの男は、どうなったの?」

「死んだ。俺達がここに居た痕跡は消した。早くこの場所から離れよう。あとで、警察に連絡する。」

彼の声は、何処か無機質でした。

「私が、殺したんだよね?」

「…、」

彼は一瞬、何かを喋ろうとして、一度口を噤む。そして、

「そうじゃない。自殺だ。マリさんは、悪くない。」

と返事を返す。

なぜだろうか? やはり彼の声は、どこか不自然です。

まるで何かを隠しているかのようです。

「あの男に…男性に、何か渡されていなかった?」

「メモ。村の名前だ。ここに行けば、謎が解けるって言っていた。」

謎。そう。私達は、この謎の感染症の原因を、感染経路を追っていました。

そこで、私達は【おじさん】と呼ばれる男に出会って、そこで…

…感染経路?

感染…。【呪われた血】。血…。

血液感染!

私は、あの男性の血液を飲んでしまった!

あの男性が、この謎の感染症の感染源ならば、私は、確実に、この感染症に感染している!

私の記憶に残る、あの頭の中で蠢く何か。

あれはまだ、私の頭の中に存在している!

脳を破壊する恐怖の記憶が、蘇ります!!

眠れぬ夜を過ごした次の日。

私は、ミチル君を連れて、勤務先の病院の医師を訪ねました。

そして、独自に感染経路を辿るうちに、感染者の血液に触れてしまったことを告白しました。

(死んだ【おじさん】の事は伝えていません)

ちなみに、ミチル君は私の弟ということにしています。

私の境遇を理解した医師は、病院の同僚には内密に、私の検査をしてくれました。

結果は、

血液検査も頭部画像診断にも…異常なし、でした。

現段階では、私の感染は認められなかったのです。

隣に座るミチル君も、私の検査結果に安堵しているようです。

ですが、進行性だという可能性は捨て切れません。

現に、私の記憶には、頭の中で蠢く何かの存在がくっきりと残っています。

そんな私を気にする素振りもなく、ミチル君は医師に尋ねます。

「死亡した患者の、頭部CTを見せて頂けませんか?」

「ん? 本当は部外秘なのだが…、マリさんの弟さんだし、見るだけなら構わないよ。」

そう言って、医師はCT写真の束をミチル君に渡します。

ミチル君は、その写真の束を真剣な眼差しで見つめます。そして、

「程度に差はありますが、全員、左側頭葉の変異が著しい、ですね。」

医師は驚きます。

「ああ、本当だ!」

「特に、この部位の変化が酷い…。」

ミチル君は脳の横断面図中央より右側、前頭葉よりの部位を指差します。

「この辺りは、ブローカー野だな…。一体どういうことだ?」

医師の表情に戸惑いが生まれます。

「先生。」

「なんだね?」

「これは、本当に、感染症…病気なのでしょうか」

ミチル君の言葉は、普段よりも辿々しく、まるで、慎重に台詞を選んでいる、そんな印象を受けました。

それほど緊張する相手でしょうか?

「当たり前だろう。病気でなければ、なんなんだい?」

医師の返事に対して、ミチル君は一言。

「【呪い】」

「は?」

ミチル君の言葉に、医師は訝しみます。

「仮にこれが【呪い】だとしたら、既存の疾病対策では無駄に終わるかもしれません。」

ミチル君の言葉に、医師はポカンとします。

そして、私に向かって言います。

「君の弟さんは、変わり者のようだね。」

ミチル君は、顔を顰め、何かを言おうとしますが、そこで黙ってしまいました。

そんなミチル君を気にする風でもなく、医師は言葉を続けます。

「安心なさい。過去、人類は数々の病を科学で乗り越えてきた。病はオカルトでは無い。この感染症への対策も、必ず講じてみせるよ。」

私達は、病院を後にします。

病院の正面玄関。ミチル君と出会った場所。

ミチル君と始めて会話をした場所。

馬鹿にしたような口調で私に話しかけてきたミチル君。

その時のミチル君の提案に乗り、感染経路の謎を追い始め、

その結果、私は感染しました。

「これからどうしよう?」

私の言葉に、ミチル君は少し考え込むと、

「これを見てくれ。」

ミチル君は、私に自分のスマホを渡し、あるサイトを見るよう促します。

そのサイトの見出しは、『水とペスト』。

「そうじゃないの!」

私はミチル君の持つスマホを、押し返します。

「私も、気が狂って、死んじゃうのかな…。」

ミチル君は無言です。困惑したような目線を私に向けてきます。

「私、感染しちゃったんだよ! 今にもまた頭の中であのおぞましい何かが動き出すかもしれない! 脳味噌を掻き回されて、狂って死んじゃうのかもしれない…。嫌だよ、死にたくないよ…。」

「…。」

「君は感染してないからいいよね! いつだって澄ました顔して、偉そうに指示だけして…。」

頭では理解していました。これは、ただの八つ当たりです。

「ねえ、なんとか言ってよ! 何とかしてよ!」

けれど、ミチル君に八つ当たりするぐらいしか、私は自身の感情と恐怖を発散できる術がありませんでした。

目の前のミチル君は、私の口から発せられる罵倒に近い言葉の数々を黙って聞いていました。

そして、

「マリさんとは、もう話したくない。さよなら。」

そう一言呟いて、ミチル君は私の前から去って行きました。

去り行くミチル君の後ろ姿を見て、私はハッと我にかえります。

ミチル君は、何も悪く無い。全ては、私の安易な好奇心と行動のせいなのです。

「ごめんさない…。」

そう呟く私の声は、もうミチル君には届きません。

ミチル君と別れて数日後。

謎の奇病による搬送患者の数は減りません。

それどころか、先日とは比較に出来ない程の発症者数になっています。

突然発狂し、病院に運ばれる。

搬送された頃には、既に意識不明の重体か、自らの身体を傷付けて死亡しているか。そのどちらかです。

全身血まみれで、喉元からドクドクと血を流し続ける患者。

息も絶え絶えながら身を掻き毟り、残された力でヒューヒューとした声を出し続ける患者。

その姿に、人としての尊厳は、既にありません。

そして、治療として私達に出来ることも、何もありません。

体を拭い傷を誤魔化す死後処置だけを淡々と行います。

体液が流れ出さないように、人体の穴という穴に綿を詰め込む私。

生体反応の消えた死者の喉元の傷を修復する私。

恐怖にかられた表情のまま死後硬直した死者の瞼を無理矢理閉じる私。

死者の中には、私に【おじさん】の事を教えてくれた女子高生もいました。無残な死に様でした。

いずれ、私も、こうなるのです。

脳を掻き回されて突然発狂し自らの身体を切り裂き傷付け、死に至る病。

そこから逃れる術があるのでしょうか?

今、この瞬間、脳を破壊する頭痛が生じるかもしれません。

その恐怖から、逃れる術はあるのでしょうか?

…。

あります。

【おじさん】の故郷。

【呪われた血】の発祥の地。

そこに行けば、この奇病の謎が解ける。

もしかしたら、助かるかもしれない。

その村の場所のメモは、ミチル君が持っています。

彼の知識と洞察力。そして、村の存在。

それだけが、私の希望でした。

ミチル君が私に見せようとしたサイト、『水とペスト』

そこには、こんな文章が示されていました。

『1875年。欧州三度目のペスト流行で人類は遂に疫病の正体に辿り着く。ネズミが感染の媒介である事を突き止た人類から、病は空気中の「瘴気」が原因と言う通説は消え去った。

 今でこそ常識となっている「伝染病」の考え方はここで確立した。そして同時に現在の様な「清潔」と言う概念が生まれたのである。

当時の欧州では衛生概念が乏しかった。

その時代の間違った衛生観念の一つが「香を焚く」ことである。

不潔は悪臭を伴う。当時の人はこれこそ疫病の正体である「瘴気」と信じ、悪臭を香りで打ち消せばペストが去ると考えた。

だが、香を焚く行為は感染症の対策には全く意味を為さない。

真の感染源は、鼠と、鼠が触れる水、である。

「香を焚く」行為が感染を防げると信じた民衆は、真の感染の温床である水の汚染には全く無頓着であった。

むしろ、清潔への考えを歪め、ペストを更に拡大させる一躍を担ってしまったのだ。

誤った衛生観念で疫病の本質を見失い、疫病を避けようとする行為が更なる感染を広める負の連鎖を引き起こしたのである。』

ミチル君が、医師に言いたかったのは、この事なのだろう。

だが何故あのミチル君が、医師にこの事を直接言葉で伝えなかったのだろうか?

病院はついに、この謎の感染症について、公式に行政報告を行いました。

けれど、未だ感染経路も対策も不明なままの感染症。

出来る事は、患者の隔離程度です。

その隔離も、感染経路が不明なままでは意味を成しません。

社会の混乱は、目に見えてます。

ですが、他にどうする事もできません。

私はミチル君に電話します。

…自分が酷く図々しい人間だということは、理解しています。

何度目かのコールオンの後、

「…はい。」

「ミチル君。久しぶりだね。」

「どうも。」

ミチル君の声は、やはり無機質です。

以前の饒舌ぶりが嘘のようです。

「あの村に、行きたいの。」

「なぜ? 死にたくないから?」

「…そうよ。」

「マリさんは、死なないよ。」

「なんでそんな事が解るのよ!」

「何故って…、それは…。」

「もうすぐ私は、気が狂って死ぬの…。頭の中で蠢く何か。その恐怖が消えないの…。」

「恐怖…。」

そう。恐怖です。

今私が抱いているのは、死に対する不安だけではない。自分が自分で無い何かに変貌するかもしれない、脳味噌を弄くり回され、別の何かに変異するかもしれない、そういう恐怖です。

「ねえ、ミチル君…、私を助けて…。図々しいお願いだって解ってる。でも、お願い…。」

「…。」

電話口のミチル君は無言です。

「助けて…。」

絞り出すような私の声。

ピッ。

そこで電話は切られました。

ミチル君が切ったのです。

落胆しましたが、当然の事でしょう。

…。

ピロリン♫

メールが着信しました。

送信者は、…ミチル君です。

メールの文章は、

『解った。協力する』

「ミチル君…、ありがとう…。」

私は感謝の気持ちを声に出します。

けれど、メールの文には先がありました。

『だが、幾つか約束をして欲しい』

何でしょうか。

『まず、俺の指示を必ず聞くこと』

『もう一つ。俺に話しかけないこと。俺はマリさんと話をしたくない』

私とミチル君は、【おじさん】の故郷である人里離れた村に向かいます。

村の名前は、【爭羽吐村】

地図にも乗っていない村です。読み方すら解りません。

辿り着くまで、私の運転では丸一日はかかるでしょう。

車内での私達は無言です。

会話のない車内。するのは無機質なエンジン音だけ。

数時間の静寂に耐えられず、私は口を開きます。

「ねえ。ミチル君?」

助手席に座るミチル君は無言です。

「ね、ねえってば。私、ミチル君に謝りたいんだ…。」

ミチル君の表情が険しくなります。

「怒ってるのは解ってるよ…。でも、私の言葉ぐらい聞いてくれてもいいんじゃ…」

ビシ!

私の言葉の途中でミチル君は、人差し指を立て、自分の唇に当てます。

"黙れ"

そう言っているのでしょう。

ミチル君の無言の意思表示が、私には大変に辛いです。

休憩中。

車内のテレビで、恐ろしいニュースが放送されていました。

『…厚生省はこの病を第一種感染症と認定。症状の見られた場合、最寄りの病院への受診を勧め、又、必要に応じて隔離などの対応を指示しています。都市部で相次ぐこの感染症は、今だ感染経路や治療法が見当たらず…』

パンデミック。感染症の大規模拡散。

私の勤める病院の医師が、先日、政府にこの感染症の存在を報告したのです。

画面には、混乱する人々や病院に担ぎ込まれた患者の姿が映し出されています。

「…世界は、どうなってしまうんだろう…。」

私は小さく呟きます。

ミチル君は無言です。

「ねえ…。何か言ってよ…。」

喋るな。そう言われていましたが、言葉を発していないと、不安に押しつぶされそうです。

「…。」

「…前みたいに、浮世離れしてて、空気読まなくて、でも理論的で、頭が良くって…。ねえ! 何か言ってよ…。黙ったままだと、不安で仕方ないよ…。」

私の言葉は止まりません。

ミチル君は無言です。

無言で唇を噛み締めてます。

「…わかったよ。」

絞り出すように。ミチル君が一言、言葉を発しました。

久しぶりに聞く、ミチル君の肉声です。

ミチル君は、懐からスマホを取り出し、文章を打ち始めます。

ピロリン♫

私のスマホにメールが届きました。

送信者は、ミチル君。

『恐れていた事態が発生した。政府は発症者の隔離を呼び掛けているが、感染経路の解らないこの病に対して、この政策がどこまで有効なのか…』

『気になることがある。

大概の感染症には、潜伏期間がある。

だが、もし、感染から発症までの潜伏期間が一定なら、もっと犠牲者が一度に大量に発生している筈だ。

つまり、感染してから発症までの期間に個体差がある、ということになる。

例えば、ミキさんとタカシ。

同時に感染した可能性が高いが、発症するまでの時間には大幅な差があった。

その個体差は、何によって決まるのか?

仮に、脳の変異の度合いが、発症に繋がるのなら、何をすれば、脳の変異が進むのか…。

感染経路が不明で、かつ大人数が既に感染していると仮定した場合、他に対策があるとすれば…、脳の変異の完了までの時間のコントロール。

つまり【潜伏期間のコントロール】。

それが唯一の対策手段になるかもしれない。

まだ、希望はある』

メール文ではあるけれど、ミチル君が指し示した"希望"の文字に、私は少しだけ安堵します。

けれど、こんな隣にいるのに、メールでしか会話しないなんて…。

ミチル君は、一体何を考えているのでしょうか?

唇を噛み締めるミチル君の横顔見つめる私の頭に、ある予想が浮かびます。

ミチル君は、何かを恐れている?

後で知った事ですが、私達が例の『おじさん』に出会った直後の時点で、ミチル君は【呪われた血】の正体に気付いていました。

そのヒントは既に、出揃っていたのです。

道中、幾つかの町や村を通過しました。

道路に倒れ、ピクピクと身体を痙攣させている者。

天を仰ぎながら、狂ったように叫んでいる者。

横たわる血塗れの身体の隣で泣きじゃくる者。

それらの人々の声は、運転する車のエンジン音でかき消されていますが、間違いなく、例の奇病の感染者でしょう。

もう手遅れかもしれない。でも…。

看護師の本能か、私の右足がブレーキに触れます。

「止まるな!」

私の隣で、ミチル君が大声を出します。

「先を急ぐんだ!」

有無を言わさないミチル君の言葉通り、私の右足はアクセルを踏みました。

…ごめんさない。

ついに、目的地である村のある山の麓に辿り着きました。

村に向かう山路の入り口に、古びた看板や立て札が立っています。

中には落書きの様な文字もありました。

『立入禁止』

『この先、日本では在らず』

『工事反対!開発反対!』

この立て札が何を表すかは、不明です。

それでも、私たちの歩みは止まりません。

車の入れない山路を越えた先。

携帯の電波すら通じぬ山奥に、

その村はありました。

【爭羽吐村】

村の入り口と思しき門に、そう書いてあります。

「なんて読むんだろう?」

「恐らく、あらはばき…。」

「…あ、ら…?」

「先を急ごう。」

この先に、私達が求める、自体の真相があるのです。

饐えた臭いが鼻をつく臭いが、村に足を踏み入れた私達を包みます。

人の動く気配がしません。

結論から言えば、村はすでに、壊滅していました。

この不快な臭いの正体に、私は覚えがありました。

それは、勤務先の病院で頻繁に嗅ぐ臭い。

饐えた人体の臭い。

腐った肉と血の臭い。

人の排泄物の臭い。

それら全てをごった煮にした匂い…死臭。

村人の多くは死んでいました。

斧で頭を切り裂かれていたり、

あるいは、胸を包丁で貫かれたり、

または、全身を焼かれていたり、

まるで村人同士で殺し合いをしたかのような惨状です。

一体この村で何が起こったのでしょうか?

生きている人間もいました。

いえ、

それはすでに生きているとは現せられない状態かもしれませんが。

ボロボロの服を纏い、身体を奇妙な方向に捻じ曲げながら、力無くイヒヒと口から涎を垂らしながら、目線すら定まらない。

そんな状態の村人が村内を徘徊してるのです。

声を掛けても反応はなく、私達に気付いているのかすら解りません。

その様子は、私が今まで病院で見てきた感染者に何処と無く似ていました。

真相を求めて、私とミチル君は、村の奥に歩みを進めます。

村の中でも最も大きな屋敷に近づいた時。

「…誰だ?」

突然、老人の声が聞こえました。

ひ! 私は驚き声を挙げます。

「…何のようだ?」

まともに言葉を話せる人間が、いました。

「あ、あなたは?」

戸惑いながらも、私は老人に声を掛けます。

「…儂は、この村の長老だ。そして、この村の最後の『まともな』一人だ…。」

「長老…。あなたは、その、感染していないんですか?」

「感染?…【呪い】の事を言っているのかね? そうだな、私は、『血が濃い』からな。取り憑かれるまでには、まだ時間がかかりそうだ。」

血が濃い? どういう意味でしょうか?

怪訝な表情を浮かべる私を見て、その老人はハッとします。

「…【呪い】を知っているということは、…まさか! 外の世界でも、犠牲者が出ているのか?!」

「え? あ、はい。今、社会は大変なことになっています。」

「なんてことだ!!!」

老人は突然、叫び出します。

「…儂等がやってきたことは、全て無意味になったということか…。」

老人は力無く項垂れると、地べたに座り込みます。

「全ては、あの二人のせいだ…。、あの二人を村から出さなければ…。いっそ、殺していれば、こんな事には…。」

老人は、酷く後悔しているように、地面に向かってブツブツと嘆き続けます。

「おじいさん。」

ミチル君が口を開き、項垂れる老人に声を掛けます。

「【呪い】とは、なんなのですか?」

「…知りたいかね。もう全てが手遅れなのだぞ? …何の為に?」

老人の言葉に、

「真実を知りたい。あと…」

そう答えた後、ミチル君は私にチラリと目を向け、そして、

「…助けたい人が…いるからです。」

そう答える。

「そうか…。」

地べたにへたり込んだままの姿勢で、老人は少し考え込むと、

「祠に行ってみるがいい。そこに君達が求める真実とやら…【呪われたち】の根源がある。」

そう言うと、老人は村の奥にあるという洞窟を教えてくれました。

私とミチル君は、村奥の洞窟に足を踏み入れます。

寒々とした、薄暗い洞窟。

天井には鋭利に先の尖った鍾乳石が幾多も垂れ下がり、その淡い石の輝きが、この洞穴をある種神聖な祠として認識させるようです。

洞窟の奥からは、ブオーンとした音が聞こえます。

風の音でしょうか?

それにしては低く響く音です。

洞窟に入った瞬間。

ゾクリ

私の背筋が、一瞬で冷たくなります。

ここは、普通の場所では無い。それを私は一瞬で悟ります。

奥に向かって歩を進める毎に、肌は冷気でヒリヒリと、背筋には冷えた怖気が奔ります。

ズキ

私の頭が、思い出したかのように、疼きます。

やめて。出て行って。

私の中から出て行って。

痛みを予感し、私は奥歯を噛み締めます。

ですが、痛みはありません。

痛みではなく、なぜか、ホッとしたかのような感覚、…安堵感にも似た感情が広がります。

懐かしい場所に帰ってきたような安堵感。ですが、突然に脳内に生じたこの感覚は、一体誰のものなのでしょうか?

仄かな暖かさに包まれながらも、私は、自分の中に広がる自分ではない何かに、再び恐怖を感じ、安堵と恐怖に同時に晒された脳は嘔吐感を覚えます。

その時。

私は、足元に何かが落ちているのに気がつきます。

何でしょうか?

私はそれを拾い上げます。

それは、カードケースでした。

洞窟に不釣り合いの、ピンク色のカードケース。

私は、それを開き、中を確認します。

学生証が入っています。

写真も添付されています。

女の子の写真でした。

緑のブレザーを着る、女子高生。

そのブレザーにも、学生証に掲載された学校名にも、見覚えがありました。

私の死んだ従姉妹、ミキちゃんと同じものでした。

学生証の持ち主の名前は、

カワムラ サチコ

サチコ…

…サチ…、

ゾワリ

突然。

私の頭の中に、イメージが、風景が、浮かびます。

それは、私の中に残る『何か』の記憶でしょうか?

今入ってきた筈の洞窟の光景が、そのイメージに黒く塗り潰されていきます。

心を締め付ける違和感。

その違和感には覚えがあります。

悪夢を見て、早く覚めろと願い、跳ね起きた瞬間のような、ドス黒い感覚。

私の頭の中に生じたイメージ。その風景を例えるなら、

まさに地獄絵図。

それでした。

目の前が暗くなり、そして再び明るさを取り戻した時、

そこには、悪夢に中のような灰色の世界が広がっていました。

目の前にある黒々とした歪な小山がある。

小山からは夥しい数の無数の枝のようなものが生えている。

そして私は気付く。

それは小山ではなかった。

それは黒くもなかった。

大量に流れ出て乾いた、かつては真紅だっただろう、血。

血の色だった。

血濡れた小山を染める血は、

小山そのものから流れ出す。

小山では無いのだ。

それは、死骸の山だ。

幾多の死骸でつくられた、死骸を山にした、屍の小山だった。

屍の小山に生える数え切れない無数の手足。

中にはモゾリと動いている人もいる。

生きているのだ。

生きようとしているのだ。

だが、生き永らえられなかった。逃れられなかった。

古い甲冑を身に付けた屈強な兵士が槍を突き刺す。

深々と、僅かな命ごと。生きようとする意思ごと。魂を貫き砕く。

新たな屍体が兵士に運ばれてきた。

全身を切り裂かれ、血を流し続ける屍体。

屍体を運ぶ兵士の手には、ドロリといた鮮血がこびり付く。

その死骸が勢いよく血の山に投げられ、山はまた嵩を上げる。

そうやって血と死骸の山は築かれる。

全身を焼け爛らせた死骸があった。煮え滾る湯をかけられたのか?

手足を食い千切られた死骸があった。生きたまま獣に食わされたのか?

全身をひしゃげて潰れた死骸があった。高所から突き落とされたのか?

焼かれた屍体は、何を思って死んだのか?

生きたまま食われた屍体は、何を無念に死んだのか?

地面に堕ちた屍体は、その瞬間、何を恐怖に死んだのか?

小山の如く積まれた屍体は、何を呪って死んだのか?

その死に方には覚えがある。

まさしくそれは、悪夢…。

…。

「マリさん!!」

ミチル君の声で、私は我に帰ります。

ミチル君が私の眼の前にいます。

ここは悪夢ではありません。現実です。

「私一体、何を?」

「突然、ボンヤリしてた。大丈夫か?」

「うん…大丈夫…。」

「何があった?」

悪夢…。

悪夢を見た。ですが…。

なんというか、説明はできそうにありません。

「何でもないよ。大丈夫。」

汗ばむ手には、先ほど拾ったピンクのカードケース。学生証。

今見た悪夢と関係があるのか?

これが、何かのヒントになる?

私は震える手で、そっとそのカードケースをポケットにしまい込みます。

「行こう。」

ミチル君が、私に手を差し出します。

「うん。」

私はその手を握り、洞窟の奥に歩を進めます。

奥に進むにつれ、異音はその大きさを増していきます。

それからしばらく、暗い洞窟をライトを頼りに進み、私達は洞窟の最奥に辿り着きました。

ここが始まり。ここが真相。

真相が、目の前にありました。

それは、像、でした。

人型の生物の、 石像でした。

下半身は壺のように歪に肥大化し、

ずんぐりした上半身にある手の先は醜く萎み、

膨らんだ頭部には不釣り合いな程に開いた口と、羊のような角が二本、備わっています。

悪魔のような角を生やし巨大な口を備える、身長1m程の遮光土偶。

それが、私達の目の前にあります。

石像からは、低く唸るかのようなブオーンとした音が聞こえます。

洞窟に響く音は、この石像から発せらているのでしょう。

私達は、その石像に近付きます。

よく見ればその石像は、何箇所が破壊されてり、特に腹部と頭部には酷い欠損が見られます。

ミチル君が、石像の表面に触れ、観察を始めます。

石像の中身は、空洞でした。角も一部欠損しており、角の中身も、空洞になっています。

その角は曲がりくねり、石像内の管を通じて、ラッパのように広がる口の部分に繋がっています。

「なるほど。」

ミチル君が、何かに気付きました。

「この石像は、風を利用した、楽器だ。」

「楽器?」

「ああ。欠損が激しくて本来の音は鳴らないのだろうが、この石像は笛と同じ仕組みがある。

中にある空洞に風が通ると、その空気の流れが振動を作り、音を生み出すんだ。」

「楽器? 何のために?」

「おそらく、何か『音を伝える為の装…っ、…仕組みだろうな。」

「音を…。」

私は何気なく、腹部に相当する部分に開いた割穴から、石像の中を覗き込みました。

壺のような下半身の中身が見えます。

その中には、小さく干からびた、数センチほどの乾いた何かがあります。

その乾いた何かが、壺の中にびっしりと、数え切れないほど、詰め込まれているのです。

その形には、見覚えがありました。

それを認識した瞬間。

「ひぃぃ!!」

私は叫び後を挙げてへたり込みます。

耳でした。人の耳です。

皺くれだった、楕円形。水分を失い、乾いた耳のミイラ。

よく見れば、唇に該当する部位のミイラも無数にありました。

数え切れないほどの耳が、唇が、壺にびっしりと詰め込まれているのです。

言葉を失う私。

隣にいたミチル君も、慎重に壺を覗き込みます。

「解った。」

「え?」

何が解ったのでしょうか?

「この石像を造った者らは、この石像を通じて、何かの『音』を伝承させたかったんだろう。」

「…。」

「そして、その音を伝える像の中には、無数の耳などの部位。そして、この紙切れ。」

ミチル君は、像の奥から酷く古びた一枚の紙切れを取り出します。  

「この紙は?」

「…これが、この【呪い】の感染の媒介だ。」 

「え!」

ミチル君が取り出した紙を見て、私は言葉を失います。

奇しくもそれは、まさしく言葉通りに意味でした。

それは、

その紙に記されたモノは、

言葉。

その文字は、

歪にゆがんでいるものの、

奇妙に曲がりくねっているものの、

「これが、【呪われた血】の、正体…。」

それは、まさしく、平仮名の、

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【ち】。

「そう。この石像…楽器は、この紙に記された文字を、『呪いの音』として…『言葉』として伝えるものなんだ。」

「…!」

私は、絶句します。

「【呪い】とは、この平仮名の一文字だった。その言葉を聞いた人間が感染する。呪いに取り憑かれる。」

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「あり得ない!!」

私の第一声は否定でした。

「そんな病、考えられない!」

「俺も信じられない。科学で理解できる範囲を超えている。だが、文字が感染の媒体なら、この事態が納得できる。」

そうです。

呪われた血が、

のろわれた【ち】、

という言葉だったのなら、

【ち】という言葉を耳にする、それが感染経路だったのなら、

全ての事態が説明できてしまうのです。

『感染者が口にするその言葉を耳にした者は、新たな感染者となる』

「でも、そんな事、あり得るの? やっぱり信じられない。」

困惑する私に向かってミチル君は、

「マリさんは、失語症という障害を知っている?」

と問いかけてきます。

私は看護師だ。当然、知っている。

失語症とは、脳出血や脳梗塞、又は外傷等による脳内の損傷により、一旦会得した言語に関する能力、

例えば、話す・聞く、書く、読む

これらの能力を失ってしまう障害である。その障害の度合いや症状は、損傷を受ける脳の部位によって決まると言われている。

言わば、脳の破壊により、言葉を失う障害だ。

「それとは反対の現象が脳内で起きているのではないだろうか…。」

失語症の反対…、

言葉を失う、から…、

言葉を、生み出す?

「呪いに感染した者は、脳の変異により、呪いの言葉を生み出すようになる?」

「そうだ。変異が酷いのは、左側頭葉。その中でもブローカー野の変形が酷い。ブローカー野は、『言葉を発する』事を司る部位。」 

「感染により、ブローカー野が変異し、呪いの【ち】を発声できるようになる?」

「そうだ。」

おそらく、その【ち】は、普通の発音の『ち』では無く、【呪い】により脳を変異させる効果のある【ち】の発音なのだろう。

そこで私は、ある事を理解します。

…彼の、ミチル君の変化の理由を。

「だから、喋らなかったの?」

「…。確証は無かった。けど、」

「その少年の言っている事が、真実だ。」

突然、洞窟内の私達が来た方向から声がします。

声の主は、私達に洞窟の存在を教えた、村長でした。

「喋らない事。それが、この呪いの拡散を防ぐ唯一の手段だ。」

「な、なんなんですか! これは! この、文字? 言葉? が人を殺すなんて…、信じられません! 何の為に、こんなモノが存在するんですか?」

私は、真実を知る村長を問い詰めます。

「全てを話そう。秘匿にする理由も既に無くなった。」

老人は語り始める。呪いに纏わる昔話を。

「この呪いの起源は、1600年前に遡る。

我らの村の民は、日本人ではない。

我らは、遥かな過去、大和朝廷に朝敵として駆逐された民の子孫なのだ。

朝廷に滅ぼされた民…生きる場所を奪われ、忌むべき者として滅ぼされた、まつろわぬ民。我らはその末裔。

大和朝廷…日本人の先祖が属する【国】という巨大な集団の暴力によって滅ぼされた我らの先祖は、復讐を誓った。

我らを滅ぼした国の民【日本人】が、繁栄を謳歌した時に…滅ぼす! そう誓った。

この呪いは、復讐の呪いなのだ。

残虐な手段で殺された物達、1600年の呪いなのだ。

この呪いに取り憑かれた者は発狂し、我らの先祖が殺された末路と同じ最後を辿る。

例えば、身体中を斬り刻み、血を流し続け、

例えば、生きたまま獣に喰らわせ、

例えば、半身砕かれ、地面でのたうちながら、

そうやって狂いながら死んでいく。

それがこの呪い。それが、我ら先祖、まつろわぬ民の復讐。

…だが、時代は変わった。

まつろわぬ民の血を継ぐ我らの考えも、変わった。

今の時代に生きる達を、過去の人間の復讐に巻き込んではならぬ。

だから、我ら村の民は、この呪いが世に放たれぬよう祀ってきた。

だが悲しき事に、村の民も一枚岩では無かった…。呪いをめぐり

派閥が生まれた。

そして、呪いは解き放たれた。…放たれてしまった。」

村長の説明は、全く荒唐無稽です。俄かには信じられません。

ですが、私はそれが真実だと、無意識に認識していました。

「…なぜ、言葉を使って呪うの?」

私は、疑問をぶつけます。

「全ては、【日本人】を滅ぼす為。」

私の質問に答えたのは、隣で村長の説明を黙って聞いていたミチル君でした。

ミチル君は語ります。

「民族とは何か? 日本人とは何か?

『祖国とは、国語である』、

フランスのシオランの言葉だ。

日本人が日本人である事の本質。それを日本語だとするのなら、

日本人とは、日本語という言葉で繋がる民だと仮定できる。」

後に、ミチル君が私に説明してくれた事ですが、

例えば、日本の伝わる和歌。

『ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』

戦国の世の姫君・細川ガラシャが自らの命を絶つ際に残した辞世の句である。

この和歌の意味は

『花には花の生き方が、人には人の生き方がある。散りどきを心得てこそ、花は花の、人は人の価値がある』

となる。美しくも儚い唄である。

だが、この唄を翻訳ソフトで英訳すると、

『Things to know when you bran the dust of the world People familiar flower of flowers will also be of use to the people』

さらにこの英文を日本語に翻訳すると、

『あなたが世界のほこりをふすまときに知っている観光 人々は花のおなじみの花はまた、人々に使用されるであろう』

全く意味が通じなくなる。

この例からも理解できるように、言葉の翻訳には、その言語の精通者…日本語の価値と意味を知る存在が必要になる。

日本語の価値を知る者。それが日本人であるとするのなら、

つまり、日本語を駆逐する事こそ、復讐となる。

復讐とは、日本人の命を奪う事だけではない。

日本人の思考を、文化を、存在そのものを、世界から消し去る事。

その為に日本語を世界から駆逐する。それこそが、この呪いの目的だったのだ。

話は洞窟内に戻ります。

私は疑問をぶつけ続けます。

「どうすれば助かるの? 感染を防ぐ手段はないの?」

解き放たれた【呪い】を封じる手段はあるのか?

「ある。」

その質問にも、村長ではなくミチル君が答えます。

「一つは、【呪い】の感染経路を遮断する事。そして、【呪い】の進行を遅らせる事だ。」

「どうやって?」

「俺は、感染している。」

「え!」

ミチル君の言葉に私は驚きます。

「言ってなかったが、俺は感染している。解るんだ。頭の中に『何か』がいるのが。」

ミチル君にも、かつての私と同じ症状が進んでいた?

「だが、発症していない。そして、俺と行動を共にしていたマリさんにも新たに感染の症状はみられていない。

それは何故か?」

まさか…。

再び私は、彼の言葉を、彼の沈黙を、思い出します。

「…喋らなかったから?」

「そう。この呪いは、特定の言葉で感染する。その言葉を発しなければ、他人に移すことはない。」

そうだ。彼は、【おじさん】に出会った頃から、言葉数が減り、喋り方にも何処か違和感があった。

それは、例の言葉を…【ち】を声にしないようにしていたからだったのだ。

今も、【ち】を口にしていない。

「さらに、恐らく感染者が例の言葉を発すれば発する程、呪いを拡散すればする程、脳の変異は進んでいく。タカシとミキさんの発狂の速度に時間差があったのは喋る頻度の差だったのだろう。」

ミキちゃんは恐怖に晒され、普段よりお喋りだった。

タカシ君は、呪いを恐他人と距離を空けていた。

そしてミチル君は、寡黙に徹する事で発症と感染を防いでいた。

感染の拡大の抑止。

その手段を、ミチル君は自らを実験台にして確証を得たのでしょう。

「だが、生活の中で、特定の言葉を喋らないなんて、不可能だ。

喋らない、というより、喋れなくなる。

それこそが、言葉の滅亡なのだろうな…。」

…。

言葉を失うか、命を失うか。

耳にしただけで、その二択を迫られる。それが、この呪いの本質なのだ。

ミチル君の説明を聞いていて、私にも理解できた事があります。

真に恐れるべき【呪い】とは何か?

普段、人間は、様々の思考様式として驚くほど【言語】に依存している。

読み書き、喋り話す事。そのことに無自覚である。

だからこそ、私達は【呪い】の感染の真相に辿りつけなかった。

【呪い】は、例えば重火器とかの既存の兵器に比べれば、一見大したものでないように思える。

「狂い殺す」と聞けば恐ろしいものだが、要するに喋りさえしなければ…、そう、特定の言語さえ捨てれば、自分の身体が傷つくことはない。

…しかし、言語を捨てた人間は、【言語】だけを捨てたのだろうか。

その言語によって得たあらゆる知性、概念、経験もまた、言語と同時に奪われてしまうのではないか。

言葉を奪い、文化を奪い、思想を奪う。そうやって、日本人を駆逐する。存在そのものを根絶やしにする。

それこそが、この【呪い】がもたらす絶望である。

「ミキやタカシとやらは、呪いで死んだ者の名前か?」

突然、村長が口を開きます。

村長の質問に、私は頷きます。

「そうか。やはりか…。サチは救われなかったのだなぁ…。」

サチ?

一体何を言っているのでしょうか?

村長はフラリと地面に腰を降ろします。

その顔色は一層に悪く、生気を感じません。

「なぜ、呪いが解き放たれたのですか?」

力無く座る村長にミチル君が質問をします。

「封印の儀式の最中、村から二人の逃亡者が出た。その二人が呪いを外に持ち出した。」

村長がボソボソとした口調で答えます。

「そのうちの一人は、儂の息子だった。」

それはまさか、【おじさん】の事でしょうか?

私は【おじさん】の外見を伝えます。

「それが儂の息子だ。息子は今、何をしている?」

私は唇を噛みます。彼は、私が殺したも同然です。

「死にました。」

ミチル君が答えます。

「呪いのせいか?」

「…そうです。」

一瞬の躊躇いの後に、ミチル君は返事を返します。

「そうか…。」

老人の表情がさらに暗くなります。

「もう一人の逃亡者は誰なんですか?」

ミチル君の言葉に、

「儂の孫だ」

村長は答えます。

あ!

そういえば、あの学生証。

確か、持ち主はの名前…カワムラ サキ…

私は、ミチル君に学生証を見せます。

「おそらく、彼女がこの呪いの感染源の一人なんだ。見つけなきゃ…。」

その時です!

ツンと鼻に付く揮発臭がしました。

私たちの眼前で、懐から瓶を取り出した村長が、自らの身体にドボドボと液体を注いでいるのです!

ガソリンです。

「全て、儂ら村人のせいだ…。儂らは、お互いに罪に耐えられず自ら命を絶ち合った。あとは儂だけだ。」

ボゥ!!

村長の身体を火が包みます。自らの身体に火を付けたのです。

極色の炎が老人の身体を舐め尽します。

「逃げろ!」

【爭羽吐村】

かつての、まつろわぬ民の村。

その村が燃えている。

村を焼く炎から逃げ延びた私達は、村を見下ろせる丘から力無く全てを焼き尽くす炎を見つめています。

洞窟は崩壊した。

【呪い】の遺跡も、耳のミイラも、文字が記された紙も、

村の人間も、残らず炎の中に消えた。

【呪われた血】発症の地は、炎の中に全てを消し去った。

村を焼く炎に照らされたミチル君の横顔を見ながら、私は我に帰ります。

「そうだ…。まだ、終わりじゃない。ミチル君を助けなきゃ…。」

私の言葉に、ミチル君は目を伏せます。

そして、懐からスマフォを取り出すと、文字を打ち込みます。

一頻り文字を打ち込んだ後、私にスマフォを渡します。

「読め」ということでしょう。

『もう一つ、推測があった。

感染経路を辿る最中、俺とマリさんはおそらく女子高生から感染した。

だが、検査でマリさんは感染していなかった。

君が感染していないと知って、考えた。

君と俺の差は何か?

【おじさん】に会った時、俺たち二人は感染していた。

だが、直後、君の症状は消えた。検査でもレントゲンでも、異常はなっかった。

その差は何か?』

私とミチル君の違い…。

思い当たることがあるとすれば…、

私は【おじさん】にカッターの刃を向けて、

その時、私は意識が朦朧としていて…、

【おじさん】が私のカッターを手にして、

自分の喉を切り裂いて、

【おじさん】の血が私に掛かって…、

そこで私は我に帰って…

…。

まさか…。

「感染者の、『血を飲む』?」

「そう、それが脳に巣食う『呪い』を消し去る手段だと推測できる。」

「じゃ、じゃあ、私は感染していなかったの? 

でも、それならその手段を病院に報告すれば助かる人がいるかもしれない! ミチル君も、助かるよ!」

「確証はない。ただの推測だ。それに…。」

ミチル君の表情が曇る。

「それに?」

ミチル君は再びスマフォに文字を打ち込み、私に見せる。

『この呪いからの解放手段が、仮に「感染者の生き血を飲む」事だとしたら、

それは、…更に凄惨で、冒涜的な未来を思い起こさせる。

いや、もしかしたらそれすらも、この呪いに込められた怨念の意思のなせる技…、復讐の一端なのかもしれない。

嫌な予感がする。

幸い、メールやメモとかの描き文字では感染しない。ようは、喋らなければいいんだ。

「血を飲む」という手段は、公表はしない方がいいと思う。』

ミチル君が抱く、嫌な予感。

私には推測できませんが、私は一旦、ミチル君の言葉に従います。

それで私は救われ続けてきたのですから。

…。

町に戻る車の中で。

ハンドルを握りながら、助手席に身を預けるミチル君に話しかけます。

「私は、最初から、感染していなかったんだね。」

返事を期待していた訳ではありません。

今のミチル君にとって、『喋る』行為は、大変に神経を使うものです。

それでも私は喋らずには、言葉を交わさずにはいられませんでした。

「そうだ。」

ミチル君が、言葉で返事を返してくれました。

「そして、君は感染してた。だから、喋らなかったんだね。」

「そうだ。」

「教えてくれれば良かったのに…。」

彼は一人で、恐怖の言葉を…感情を、噛み殺しながら、じっと耐えていたのです。

「私に、気を遣ってくれてたんね…。私が、怖がっていたから…。」

…じっと、耐えてくれていたのです。

「言ったろ? 確証が無かった。それと…、」

ミチル君は、慎重に、ゆっくりと、辿々しく、言葉を紡ぎます。

「君が『助けて』、そう言ったから。

こんな俺に助けを求めるなんて、タカシともう一人。君ぐらいだ。

けれどタカシは助けられなかった。

だから、君だけでも、助けたかった。」

ミチル君の言葉は、何故か震えていました。

暫くの沈黙の後、

「最後の感染源を、追おう。」

ミチル君は、そう私に言いました。

車の中で、

隣に座るミチル君は、眠っている。

幼い寝顔だった。

眠る彼は喋らない。

起きていても、迂闊に喋ることもできない。

だが私は、彼のこの無言に助けられていたのだ。

私は彼を罵倒した。

彼の気持ちも知らずに。

彼は反論すらできなかった。文字通りに、語る術を持たなかった。

恐怖の言葉を、感情を噛み殺しながら、一人耐えていたのだ。

謝りたい。

感謝したい。

だが、眠りこける彼の横顔に、私は語る術を持たない。

一人恐怖に耐えていた彼に、恥知らずな私が、上っ面だけかもしれない私が、簡単に語る軽い言葉を伝えることなんて、出来ない。

すぐ隣にいるのに、

『ありがとう』

『ごめんなさい』

それすら伝えられない。

隣にいる誰かに言葉を伝える。そんな簡単だったことが上手く出来ない。

言葉にならない。

どうやって伝えればいいか、解らない

きっとそれは、【呪い】の所為では、ないのだろう。

学生証に記された住所に到着したとき。

私達は、そこで何を見たか?

あったのは、二つの死体でした。

一体目の死体は、一階の台所で腹部に深々と包丁を突き刺され、息絶えていました。

年配の女性です。既に血は乾いていました。

もう一体の死体は、二階の部屋にありました。

写真の女の子です。

左手の手首を切って、死んでいました。

階下の死体は、彼女の母のものでしょうか…。

一体この場所で何があったのか。それを私達は知ることはありませんでした。

私達が知らない、もう一つの物語が、この場所であったのでしょう。

警察を呼ぶ前に、私達は少女の遺体を観察します。

手首の傷以外は、少女の死体に外傷は見当たりません。

妙なことがあるとすれば、スマフォを握りしめていたことでしょう。

血だらけの左手で握り締めるスマフォ。

彼女は最後の瞬間、一体スマフォで何をしていたのでしょうか?

ミチル君は彼女の遺体の手からスマフォを外して、画面を操作します。

が、壊れているのか、反応を示しません。

「帰ろう。長居はしない方がいい。警察も呼ばなきゃ。」

彼の言葉で、私達は彼女の家を後にします。

何はともあれ、感染源だった彼女と【おじさん】は、死にました。感染源は消えたのです。

対症療法的ではありますが、感染経路とその進行の抑止の手段も知りました。

ようは、喋らなければいいのです。

メールやメモ書きといった、書き文字への変換も効果がある事はミチル君とのやりとりで実証されています。

私達は、急ぎ病院の医師にこの事を報告しました。

村の事や少女の事は上手く説明できる気がしないので、ほとんどはミチル君が実証した感染経路遮断の方法と進行抑止の手段だけですが…。

「音声が感染手段だとは…。荒唐無稽な話だが、確かにそれなら辻褄は合う!」

藁にも縋る思いだった医師は、私達の報告を信じてくれました。

「病院を感染源にしてはならない。直ぐに、院内感染防止の為の手段を実施する。」

そう言うと、医師は内線電話を手に取りながら、

「政府にも報告する。君達に感謝するよ。この感染症は必ず撲滅できる!」

と、私達に感謝の言葉を伝えます。

その時、

「待ってください。」

ミチル君が口を開きました。

そして、手元のスマフォに文字を打ち込み、医師に見せます。

『科学で全てが解決できると考えるのは危険ではないでしょうか?

俺が不安に思っているのは、ウイルスで言うところの、『mutation』。突然変異です。

この感染症の最大の特性は、『言葉が媒介になっている』事ではなく、人の意思で作られた【呪い】だという事です。

人は変わる。

昨日の菩薩如来が、今日には悪鬼羅刹になる。

そんな事はいくらでもある。

この【呪い】が、復讐という意志で急速に変化した時、人は対策を講じれるのか。

俺の不安は、そこにあります。』

ミチル君の文章を見て、医師の顔が曇ります。

「だったら君は、お祓いでもしろというのか!」

医師の苛つきを意にも返さず、ミチル君は、

「それもいいかもしれない。しかも、国家行事なみの儀式がいる。」

平然と言い放ちます。

医師の顔を真っ赤です。

「そんな事、政府が認めるものか!!」

医師の怒声を浴びながら、私達は病院を後にします。。

私の死は回避できていました。

感染症への対策も講じられました。

目的は、達せられました。

ミチル君とも、お別れです。

夕日を浴びながら、私達は歩きます。

言葉はありません。

私は【呪い】から解放されましたが、

ミチル君は未だ【呪い】に感染しています。

今も発狂の恐怖に晒されているのです。

私達は、歩き続けます。

夕日は、今にも西の山の向こう側に消え去りそうです。

…。

私は、ポツリとミチル君に言葉をかけます。

「これからどうするの?」

…。

「何も変わらないよ。また一人に戻るだけだ。

一人でいれば、誰も殺さないし、自分も死なない。」

…。

「寂しく、ないの?」

彼は既に自分の名前すら、言えないのだ。

…。

「別に。これまでと変わりはないさ。」

…本当に?  

「でも、一つだけ、確かな事がある。

例えこの直ぐ後に、気が狂って死んだとしても、…死んだとしても…」

ミチル君は、慎重に、しどろもどろに、震えながら、でも勇気を出して、喋っているのだろう。

「好きな女の子を助けて死ねる僕は、残念ながら幸せ者だ。」

そう言って彼は、降り始めた闇の帳に消えて行きました。

「…女の子なんて歳じゃないよ。歳下のくせに…生意気、だ…よ…。」

私の頬に、雫が一滴、流れ落ちます。

その夜。ミチル君からメールが届きました。

『俺は、他人が嫌いだ。もう二度と、人を信じない。関わらない。言葉を交わさない。

裏切られたくない。

そう思っていた。

だからもし、他人と言葉を交わす事でしか人間は成長できないのだとするのなら、俺にはもう…

いや、違うな。

他人と関わらないと決めた時から、俺は死んでたんだ。

最初から、生きる資格は無かったのかもしれない。でも…、

だからこそ、最後は、自分らしくありたい。望みに身を捧げたいと思った。

君を救えて、良かった。

ありがとう。

ごめんね。

元気で。

君は、生きろ』

ありがとう…、それは、私が言いたい言葉だよ…。

この事態は、ここで終わりではない。まだ終わらない。

終わりどころか、

まだ始まりである。

終わりの始まりである。

それから数日の後。

例の感染症に対する政府発表がされた。

《①感染者の早期発見》

…頭痛、精神変容などの初期症状が現れた者への、受診の呼び掛け。

《②感染者の隔離》

…言葉で感染するという極めて異常性の高い感染経路であり、完治の手段が発見されるまで、患者を特定の施設(施設整備体制確立迄は病院)へ隔離する。

規模によっては地域レベルでの隔離も実施。

また、

《③治療・隔離施設での院内感染防止対策として》

…院内での言語での会話を禁止。コミュニケーションは書き文字又はメールを活用する事の徹底。

※ただしこれらの措置は、発症頻度の抑止に伴い順次緩和していく。国民の皆様の、献身的な協力を期待する。

私が務める病院は、治療・隔離施設として認可されました。

私も看護師として、日々感染患者の世話に当たっています。

中には、《疑い》だけで受診・隔離となった者もいるでしょうが、国民の誰もがこれを国防の危機と切実に捉え、積極的な反対運動もなく体制の変更は順次進んでいました。

どんな病気でもそうですが、感染していない者の生活に変化はありません。

普通に飲み食い、喋り関わり、歌い踊る。常識と共に生きている。

だが、病に罹った者と、その治療や世話にあたる者、 それらが拠点とする場所は違います。

隔離施設は『普通』や『常識』に当てはまらない場所となりました。

私が働く場所を例にとって、その『普通じゃない』を説明すれば、

まず、静寂、です。

院内に響く音は、器具やストレッチャーが動く音。

会話声など、一切しない。

病院内なら当然にあった喧騒はかつての景色。

まるで誰もいないかのような、生きている者の気配すらも飲まれるような、そんな静寂が院内を支配しています。

患者は、いつ気が狂って叫び出すか解りません。

基本、防音マスクの着用を強制させます。

それでも、不慮の事態で患者の『声』を看護師が聞いてしまうかもしれません。

なので、私達は皆、仕事中はヘッドホンを着用し外部からの音を遮断します。

今日着用したヘッドホンからは、ワーグナーが流れています。

目の前で患者が暴れています。防音マスクは剥がされてしまったようです。

口の動きで、何を言っているか理解できる時があります。

『ボクハビョーキジャナイ』

そう言ってるような気がします。

患者の手足を抑え、鎮静剤が投与される最中。私は祈ります。

早く、こんな病気が、世の中から無くなりますように!

感染した者は、喋れば喋る程に他者への感染を広げ、自らの発狂死を近付ける。

会話を通じ、人から人へ移っていく感染症

皮肉なものです。

社会で上手く生きる為に必要なスキル、コミュニケーション能力。

それが高ければ高いほど、感染の危険は高まるのです。

…。

…ミチル君は、元気でしょうか?

病は、撲滅に向かっている。

世の中はそう信じていました。

事実、新たな感染者・発症者は減少しています。

病院に搬送される患者も減ってきています。

ですが、事態は再び、変化しました。

2016年1月。元旦。

再び、感染者が現れました。

しかもその感染者は、感染に至る経緯が今までと異なっていたのです。

「息子は誰とも関わっていない! ネットとゲームばかり…。誰とも…私とも会話していないのよ…。感染するなんて、ありえないわ!!」

息子を失った母親が、院内での泣き叫んでいます。

「いきなり二階から叫び声が聞こえて…。駆けつけた時にはもう、死んでいたの…。」

…会話をしていない。

…しかも、発症までの潜伏期間もなく、突然死ぬ。

今までの事例からはあり得ない状況です。

そして、

その患者を境に、発症者は急増しました。

感染者増加と共に、さらに最悪の事態が起こります。

感染に対し最も注意をしていた院内でも、感染者が多数発生したのです!

しかもそれは、最も警戒を強くしていた人達…医師と看護師にです!

パソコンで検査データを整理している最中に、

管理日誌を書いている最中に、

医師と筆談での相談中に、

突然、発狂し、死んだのです。

次々に。続々と。

一緒にいた患者がその事態に驚愕する程です。

なんなの、この事態は?

これが、ミチル君の懸念していた事態なのでしょうか?

私はミチル君に連絡しました。

『俺は感染者だ。会わないほうがいい。

それに、事態は既に、個人の…、

いや、

社会の手には負えない事態かもしれない』

ミチル君の言葉に覇気はありません。既に何かを悟っているかのように。

それでも私は、ミチル君を頼り懇願します。

『解った。新たな発症者のレントゲンを見せてくれ』

私の懇願を聞き入れてくれたミチル君の要望に沿い、私はミチル君にレントゲン写真を送信します。

医師には無断です。既に死んでいるからです。

『解った』

ミチル君から返事が来ました。

『事態は最悪だ。

…いや。この状態が最悪とは限らない。これは既に俺の想像を超えている』

ミチル君が、私に説明します。

【呪い】は進化した、と。

『人は追い込まれれば、意思の力で成長する。

それが人間の生物的な最大の特性。

では、人の意思の産物たる【呪い】は、どうだろうか?

かつて、まつろわぬ民が創造した【呪い】。

巨大な暴力に無残に殺された者たちの怨念の結晶。

その【呪い】が再び、現在の人類の、日本人の反撃で窮地に瀕しておる。

感染経路を絶たれ、撲滅されようとしている。

では、追い詰められた【呪い】は、どうする?

進化だ。

今度こそ、二度と再び滅ぼされない為に、【呪い】は進化する。

感染の拡大と、日本人の絶滅を目的に。

では、一体この【呪い】は、どんな進化をしたか?

レントゲンを見て解った。

一連の患者は皆、今まで同様、脳が著しく変異している。

だが、変異の仕方が違うんだ。

今までは、左側頭葉ブローカー野を中心に変化していた。

だが今回は違う。

視覚野と、…ウェルニッケ野の変容が酷い。

これが何を意味するか?

ウェルニッケ野は、『言葉の理解』を司る部位だ。

そして視覚野は、『見る』事を司る部位。

この部位が、変異したということは、

今までは、言葉を『聞いて理解できる者だけしか感染しなかった呪い』が、

『言葉を見た者も理解させる呪い』になった、という事だ。

理解できる、から、

理解させる、へ。しかも強制的に。

そう変化したんだ。

発症例から推測するに、今度の媒介は、言葉…音ではない。

恐らく、【文字】だ。

感染者が書いた文字を見ても、感染する。

しかも、経過から推測するに、発症速度は一瞬。

『その文字を目にした瞬間、発狂する』

最悪なのは、この新たな【呪い】は、人の脳の中に『理解させる機能』がある限り逃れられないという事だ。

それはつまり、同じ人間である日本人”以外”でも感染してもおかしくない事になる。』

「で、でも、症例の中には、誰とも関わっていなかったのに…感染者に関わる者に一切触れていないはずなのに感染した人もいたわ!」

『サチコと言う名の、死んだ少女を覚えているか? 

彼女が持っていたスマフォ。修理してみた。

写っていたのは、例の【ち】の文字。俺達が村の奥の遺跡で見た紙切れ。

それを、一斉送信していた』

「じゃあ、それを見た人も感染を?」

『いや。それだけなら感染者は限られる。

最悪なのは、インターネットに流した事だ。

世界を結ぶ会話のネットワーク。世界中の思考が集まる場所、インターネット。

それは人類の第二の脳と呼べるものだろう。

そこに【呪い】は入り込んだ。

その限りなく広い電脳の世界で、【呪い】は進化を遂げた。

意思の力を電脳の世界で最大限に引き出し、ネットからネットへ渡り歩く力を得たんだ。

映像に、電波に乗って、【呪い】は世界に拡散する。

進化のきっかけは、彼女だった。

彼女が何を思って、どんな想いを込めて、ネットに【呪い】を託したのかはわからない。

もしかしたら、何かしらの新たな【呪い】に繋がる【想い】を上乗せしたのかもしれないが…。

だが、変異のきっかけは、彼女が作ったんだ。

インターネットを遮断しない限り、感染は止まらない。

そんなこと、個人では不可能だ

感染は、もう、止められない…』

そこで私は、ある事を思い出す。

「私は血を飲んで助かった。それを公表すれば…。」

『感染者の生き血を飲む行為…。それが有効な可能性は極めて高いだろう。

…だが、止めておいたほうがいい。

それは、また新しい惨劇を生む』

ミチル君には止められたが、私には耐えられなかった。

『感染者の生き血を飲めば助かる』

その事を、私は病院に報告しました。。

事態を重く見、解決策に窮困していた政府はすぐにその対策を発表しました。

ですが、

その先に待っていたのは、

血を巡る、暴動でした。

感染者を隔離する病院は襲撃され、

患者は自由を奪われ、生きたまま血を絞り出される。

感染者の生き血を啜る日本人。口元にはヌラリとこびり付く他人の血潮。

日本人が、日本人を殺す。醜く滅ぼし合う。血を貪り啜り合う。

まさに、地獄絵図。

これが、ミチル君が予想した展開…。

「次はどう変異するのか、僕にはもう、予想がつかない。」

ミチル君は、最後にそう言いました。

そして、【呪い】は、人の想像力を軽々と凌駕しながら進化を続けます。

再び【呪われた血】に抗う私とミチル君を嘲笑うかのように…。

wallpaper:1966

この病に、病名が付けられました。

【気鳴楽器化症候群】

気鳴楽器とは、ラッパやホルン、笛に代表される吹奏楽器の俗称です。

なぜ、この【呪い】にこのような病名が冠されたか?

音を通じて人を滅ぼそうとした【呪い】は、

インターネットという無限に等しい感染媒体を得て、

文字を媒介にその感染力を即死級に高め、

進化を続けます。

そして、その【呪い】は、さらなる進化を経て、新たな能力を得ました。

それは、

DNAへの感染。

脳に取り憑き、意思を凌駕し、肉体を操り、その行動すらも支配した【呪い】の究極の形。

人という種の、進化する能力への感染。

人を人とたらしめる塩基配列…DNAの支配。

その感染は、人の形を『人ならざるもの』へと進化させました。

私は、眼球を動かし、目の前にいる人物に目を向けます。

その人は、私のほんの4、5メートル先にいます。

見覚えのあるその服が、辛うじて彼が元は人間の形をしていたであろう事を判断させます。

私は目の前の人物を見つめます。

頭部は、通常の倍以上の直径があり、その表面を何十本もの襞がびっしりと埋め尽くしています。

その肌は薄く、内部の骨が透けて見えるようです。

その骨も薄く細く、紙のように膨らんだ頭部をやっと支えているのでしょう。

振れれば破けそうな皮膚の表面は僅かな呼吸で生じる微かな振動を伝えて震えています。

僅かに開く両の眼は、肥大化した頭部のせいで極端に中心に寄り、気をつけなければただの虫食い穴にしか見えません。

腹部と胸部は提灯のように楕円形に膨れ上がり、着ている衣服を破き、その隙間からぶよぶよとした肉を見せています。

不用品のように投げ出された腕は脂肪や肉どころか骨まで消失したかのように、萎びた紐とかしています。先端の5本の指の痕跡から、それがかつては腕であったことを表しています。

下半身は全て木の根っこの様に枝分かれし、白く節くれだった壁に埋まっています。

もう二度と、その足で歩く事は不可能でしょう。

私はもう一度、彼の顔に眼を向けます。

不釣り合いな程に巨大化し長く伸びた口が眼に入ります。

ラッパの様に先が広がった、口元。

歯も舌も、咽頭すらも既に消失し、ただの管と化した口吻。

そこから流れるのは、【呪われたち】の音。

不必要な肉体は全て変異し、腕は養分とされ、体幹は鞴の機能を備え、頭部は空気を溜め込む機関とかし、その口は滅びの音を鳴らすだけの、

楽器。

楽器と化した、かつての人間。

人の進化すらも支配し、その肉体すらも変容させる【呪い】。

【呪い】に取り憑かれた人は、自らが【呪い】を振りまく楽器と化す。

だから、【気鳴楽器化症候群】

私の目の前にいる人物。

薄く眼を開けたその表情に、生気はありません。

でも、きっと、生きています。

だって、私が生きているんだから。

私は、周囲に眼を向けます。

そこには、数え切れない程の人間がいます。

全て、楽器と化した、人間です

楽器と化した数千の人間の、

人の肉で作られた、瓦礫の塔。

世界に【呪い】の音を響かせる、巨大なパイプオルガン。

その部品と成り果てた、日本人。

それでも私たちは、日本人…

いえ、

…私達は、これでも、人間でしょうか?

ウイルスは、環境に合わせて進化する。

呪いという怨念(目的意識)を方向性にして進化するウイルス。

それは既に、人の理解と想像を超えたものに進化していた。

生き残る日本人は、まだいるだろう。

だが、近い未来、彼ら日本人は、言葉を失い、大地を失い、彼の地から姿を消す。

異国の地でも呪われた国の民として、

【呪われた血】を身に宿す民族として、

自らがまつろわぬ民となり、迫害の元でしか生きていけぬ身となるだろう。

人で作られた楽器が奏でる世界に響く滅びのアポクリフィックサウンド。

それは、日本人の存在そのものを抹殺できる【呪い】の喜びの笑い声。

【日本の歴史(2015年10月〜2018年3月)】

2015年10月

日本国内にて、気鳴楽器化症候群(分類α)発症。

2015年11月

気鳴楽器化症候群(分類α)発症者続発。感染拡大。

感染源、感染経路ともに確定せず。

致死率100%。

2015年12月

対症療法的ながら感染経路の遮断に成功。

一時的に発症件数が低下。

2016年1月

変異型気鳴楽器症化候群(分類β)発症。

変異により、感染対策の効果消失。

関東圏内で感染者増大。

同月、真偽不明の『治療法』を巡り致傷犯罪急増。

同月末日。アメリカ本土で気鳴楽器化症候群(分類β)発症者が発生。

マサチューセッツ総合病院医師にて診断。米国、感染者への焼却滅菌を実施。

2016年2月

新宿にて、感染者の『塔』を確認。

アポカリプティックサウンドの発生。

同月、近隣国で感染者が急増。

アジア圏の危機レベルが高まる。

2016年5月

政府が『新宿区封印計画』を発表。

この計画に対し新聞調査による世論は反対意見多数、ネットでは賛成意見多数。

しかし、とある重要人物がオンライン会議中に突然死亡したことで、世論も一部の反対派が賛成へ傾く。

2016年8月

国連、インターネットの使用を世界規模で制限する事を発表。

1990年から進化を続けインフラと化したコミニュケーションツールが終焉を迎え、世界の通信手段はエジソンの時代に逆行する。

2016年9月

インターネットの廃止により世界規模での混乱が発生。

事態の要因を作った日本への批判高まる。

2016年12月

政府が『新宿区封印計画』を実行。

新宿への物理的干渉防止と隔離の為に『壁』を建立。

同時に感染者の焼却滅却を推奨、実施。

(反対デモが各国で勃発。日本政府の対応が世界的に非難される)

2017年2月

感染者に対し自衛隊、自警団が駆除を行う。

気鳴楽器化症候群(分類γ)の感染拡大は一時的に沈静化したと発表。

2017年5月

関東甲信越地方を中心に巨大な『塔』が乱立。

続く地殻変動により『壁』も崩壊。

再び鳴り響く、アポカリプティックサウンド。

壁が崩壊したことによって気鳴楽器化症候群(分類γ)が再び拡大。本州全土へと感染が拡大する。

同月、政府中枢機関と皇居を九州へ移転。

2017年6月

国外への逃亡を図る者も現れるが、各国から拒否される。

不当移民者続発。

混乱に乗じて犯罪が多発し、さらには海外からの干渉も激しくなり、日本政府は困窮状態になる。

アメリカから軍事協定の話が持ち上がるが、日本にとって非常に不利な内容。

…2017年9月

日米両政府は日米共同戦線宣言を発表し、日本とアメリカは軍事協定を結ぶ。

これにより気鳴楽器化症候群撲滅活動が本格化する。

アメリカ、気鳴楽器化症候群を人類全てに仇なす『悪魔の病』と認定。

その撲滅に向け、生体物理学、遺伝子工学、果ては魔道・オカルト的な視点までをも応用し、分析を開始。

2017年11月

『塔』への核攻撃が決定する。

国内では賛否両論、国際世論は賛成の風向き。

2017年12月末日

新宿を中心に核が投下される。

しかし、この核攻撃の衝撃で気鳴楽器化症群が全世界に拡散。

2018年1月

ヨーロッパ諸国にて、発症を確認。

同月

アフリカ・オーストラリアにて、発症を確認。

研究の結果、感染者の治癒は困難と断定。

2018年3月

国連、【呪われた血】を宿す可能性のある、全ての【日本人】の撲滅を示唆。

ジェノサイド条約、一時凍結。

世界各国にて、

【日本人狩り】

始まる。

萎びた私の手は、もう動きません。

ですが、意識はあります。

目の前にいるミチル君に、私は語りかけます。

「殺して」

と。

その言葉は、もう二度と、永久に、ミチル君には届きません。

肥大化した私の頭の皮膚がカサカサ揺れる、

ただ、それだけでした。

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