中編5
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殺した女

 私は吃驚した。

 最初は見間違いかと思った。

 しかし何度見てもあの女である。

 昨日俺が殺した女が少し離れた席で茶を飲んでいる。

 場所は喉が渇いたので入った喫茶店である。

 瓜二つの双子だろうか。私は確かにその女を殺したが、女の素性を全く知らない。衝動的に殺した。日々の鬱憤が爆発したとき、偶然あの女が近くにいた、というだけである。

 死体が見つかった、とニュースにもなった。つまり、殺したという事実は確実にあるわけだ。なのに、その女は俺の目の前に居る。

 しかも。

 その女は私と目が合うと、笑ったのだ。その笑みは微笑むというよりかは、挑発的なものだった。

 双子――自分の中ではその線は確実に消えていた。根拠はないが、そうではない気がした。昨日の記憶をよく思い出してみると、服装も合致する。俺が殺したときと同じ服装をしている。

 殺したことに後悔はない。驚くほど冷静である。

 だが。

 殺したはずの女が現れたとなると話は別である。

 頬の辺りを冷汗が伝った。

 気が付けば、その女の元へ向かっていた。まだ何も注文していなかったから問題はない。

「こんにちは」

 こちらの気の乱れを悟られまいと極めて冷静な口調を装った。

「あら、こんにちは」

 女は優雅に言った。私はこの女に何もかもを見透かされているような気がした。できれば、今すぐにでも逃げ出したい。

「座っても?」

「ええ、どうぞ」

 私は女の向かい側に座った。

 やはりあの女だ。私の殺した女に間違いはない。

「先ほど、私に微笑みかけてくれましたね」

「ええ、素敵な人でしたから」

 女は少し笑いながら言った。

 よく見ればこの女、たいそう美人である。

「お名前は何というのですか」

 私が問うと、女は、

「伊藤百合子です」

 と言った。

 私はいつこの女が化け物のように変異して、私を殺すのだろうと思った。女の顔が急に青白くなって、よくも私を殺したなと迫り、私を殺すのだ――と妄想を巡らせた。

 もしかしたらそれを待つよりかは自分から行く方がいいと考えたから女に近づいたのかもしれない。

「百合子さんか、いい名前だね。私の名前は――」

 私はそこで言葉を止めた。そういえば、私は昨日、女を殺す際に、自分の名前を名乗ったのではなかったか。

 いや、そうだ。私は確かに女を殺す前に自分の名前を言った。なぜ言ったのかとかはどうでもいい。とにかく、私はこれから殺す人間に自分の名前を言ったのである。

 ――だとすると。

 この女は私の名前を知っているのではないか。この女が私が殺した女だとするならば――私の名前を言うはずだ。

 しかし。

 何も言わない。それどころか怪訝そうな顔で私のことを見ている。

 憶えてないのだろうか。

 そこで、私は気が付いた。そうだ。きっと憶えていないのだ。しかし、自分を殺した人間の名前を完全に忘れることもできまい。おそらく私が名乗った瞬間に、女は不適な笑みを浮かべて――私を殺すのだ。

「片桐祐樹」

「そうですかあ。片桐祐樹さん…」

 来る、と思った。

 しかし。

 いくら待っても女は何もしてこない。私は肩透かしをくらった。

「そちらも素敵な名前ですね。うふふ」

 何なんだ。何なんだこいつは。おかしいのは私のほうなのだろうか。いや、おかしいのはこの女である。

 殺したのに生きているのだ。どちらかが異常かは明瞭だろう。

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 それから年月が経った。

 どういうわけか私はその女と結婚することになった。

 女と過ごす毎日は楽しい。なぜか異様に気が会う。しかし、そんな楽しい毎日の片隅にはいつもしこりがある。

 ――そういえば私はこいつを殺したのだ。しかしこいつは何故か生きている。

 女と楽しく過ごすと同時にその謎の答を探している自分がいる。

 しかし、まったく分からない。その謎は解明されない。

 あの事件は結局通り魔の犯行ということで犯人は見つからず仕舞である。いや、犯人は私なのだ。だから何度か自首しようと思った。

 しかし、そうこうしているうちに――娘が生まれた。

 一度思い切って尋ねてみた。私はお前を殺したよな、と。

 すると、女はまるで今日の晩飯を訊かれたかのようにごく自然に――。

 ええ、と言った。

 それがなぜか恐ろしくて、私はそれ以降その質問をしていない。女も何事もなかったかのように振舞っている。

 そうこうして――。

 女と私は爺と婆になった。もう娘も大きくなり、時々私たちの世話をしてくれる。孫も生まれた。

 女は何々という病気で――死んだ。

 死ぬ間際、その場にいたのは私だけである。その時、少し呆けて忘れかけていたあの疑問が頭に浮かんだ。

 そして、その答えが今日、女の口から出される気がした。

 女がこれから死ぬことよりも、私は女の口から発せられる言葉に注視していた。

「祐樹さん――」

 女はよぼよぼの手をこちらに伸ばしてきた。

 嗚呼、ついに。ついに、である。

 最愛の人物が死ぬというのに私の心は喜びで満ちていた。漸く、長年に渡って子の胸の中にあったもやが消えるのだ。

 しかし。

――今まで有難う。

女はそう言って息絶えた。私は女の顔を見た。まるで眠るように死んでいる。

死んでいるのだ。ついに答えは出されなかったのである。

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 そして、今度は私の番が来た。一人の人間を殺しているというのに、私は天寿を全うした。なんとも幸福なことである。

 私の周りを孫と娘と娘の夫が囲んでいる。

 幸せである。幸せだが。

 何とも言えないものがまだ体に残っている。

 これでは死んでも死にきれない。

 しかし、どんどんと視界は薄れて、意識は遠のいていく。

 待って、待ってくれ。

 その瞬間、娘が――何か言った気がした。

 ああ。これか、これではないか。

 でも。違う。

 多分、娘はお父さんと言ったのだ。

 つまり。

 ついに。

 あの女の…。

Concrete
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