長編29
  • 表示切替
  • 使い方

何かが海からやって来る

現実が壊れる日が、いつか訪れるかもしれない。

日常が終わる時が、いつかやって来るかもしれない。

僕にとっては現実逃避の空想が、いつかの未来でリアルになるなんてことが無いとは言い切れない。

これから記す事は、僕らが身を持って味わった現実の体験談。

とても信じられない話で、誰も信じてくれないとも思うし、僕自身も信じられない。

でも、ありのままに僕の身に起きた事を記そうと思う。

願わくば、この常軌を逸した荒唐無稽な絵空事が、狂気に支配された僕の妄想であることを祈って。

ある冬の日。

僕と彼女は、海を目指してドライブに出掛けていた。

僕らが住むNGN県は内陸地域で海が無い。言わば田舎の代名詞であり「山間の別荘で殺人事件が起きた!」という展開のドラマがあれば真っ先に舞台にされるような地域である。だから海に行くには必然的に隣のN G T県まで車を走らせる事になる。

僕(ケンジ)と彼女(サクラ)が恋人という形で付き合い始めて、まだ日は浅い。

僕が運転する車の助手席に座るサクラは、山間に沈む夕日に照らされながら、眩しそうに目を細めている。

前の職場では仕事に追われて精神的に追い詰められていた時期もあったが、今は晴々とした表情を見せていた。

以前の職場での先輩顔がなかなか抜けない僕は、今もついサクラを後輩扱いしてしまう。いけないいけない。

しかし、そんなサクラも「ナビだと海まであと二時間みたいですね」と、なかなか後輩時代の敬語が抜けない。お互い様か。

僕とサクラは、つい先日まで同じ会社に勤めていた先輩と後輩の関係。

同じ仕事に対して同じ悩みを抱え、厳しい仕事環境を改善しようと頑張ってみたが、現実は厳しかった。

努力虚しく成果は出ず、働き続けることが難しくなった僕とサクラは、会社を辞する事となった。

仕事という現実は、サクラの心を深く傷つけた。辞めて正解だったと思う。

結果、僕もサクラも現在無職。雇用保険を大いに活用しながら絶賛就職活動中である。

職場では単なる先輩後輩の関係であった僕とサクラが付き合い始めるきっかけとなったのは、なんとゲームであった。

僕らは二人とも同じオンラインゲームをやり込んでおり、仕事を辞めた後にそのゲームの中で再会。その偶然をきっかけに、僕らの交流は始まったのだった。

サクラは僕より歳下だが、本人の話によれば再就職には積極的で、先日も就職面談に行き手応えを感じて帰ってきたと言っていた。

対して僕はというと、以前の仕事の影響で若干の燃え尽き症状群状態になっている。ハローワークで求人情報に目を通す傍ら、趣味のホラー映画鑑賞やゲームを謳歌する日々を過ごしていた。

そんなある日。「たまには遠出がしたいです」とサクラに誘われ、隣のN G T県の海水浴場に向かって車を走らせている。

僕自身もドライブは嫌いではない。仕事で苦しんでいた時期は、よく夜中に車を走らせてストレスを発散していた。

僕らの乗る車は、隣県との県境になる山間の国道に差し掛かる。

「先輩は、よく海に行くんですか?」とサクラ。

「ああ。海の無い土地に住んでるから、たまに無性に海が見たくなるんだよね」と僕。

「それ、わかる気がします。贅沢といえば刺身!って感じですよね。」

「そうそう。都会では高級品の山菜よりも、魚の方が旨い!ってイメージだよな」

「それもわかる気がします!」

と、僕はサクラに、一つ疑問を投げ掛ける。

「…目的地のビーチに着く頃には夜になっていると思うけど…サクラは夜の海は怖くないの?」

僕自身は、夜の海が好きだった。あの黒く揺らめく吸い込まれるような波の動きと、闇の先の水平線が幻想的で、その光景に、辛い仕事の悩みやストレスから助けられた記憶が何度もある。

しかし、道路の街灯も遠い夜の海は、正直言って不気味な面もある。女性のサクラを伴って行くには、若干の抵抗感があったのだった。

「でも先輩、以前、夜の海は幻想的だって言っていたじゃないですか。私もその非日常感を体験してみたいです。」

…非日常感か。まぁ、わからなくもない。

「それに私、最近よく心霊スポットに行くんですよ。」

…思っていた以上に、サクラの恐怖耐性は逞しいようだった。

「あ! 今、右手側の森の中に見えた灰色の建物、知ってます? あれってホテル⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎って言って、有名な心霊スポットなんですよ。なんでも…ホテルの壁に描かれた『⚪︎⚪︎絵』と呼ばれる落書きが有名で、集団⚪︎⚪︎事件があって被害者が自⚪︎したとか、暴走族が被害者を焼⚪︎させたとかで、県内屈指の心霊体験が幾つもあるんですよ。」

…更に想像以上に、、サクラの恐怖耐性は頑強なようだった。

「先輩も、ゲームだけじゃなくて、ホラー映画とかオカルト系の話が好きですよね。なんでそんな空想の物語に興味があるんですか?」

「うーん、仕事で苦しんでいたあの頃は、気分転換…というか、ストレス発散とか現実逃避だったのかな。手軽に絶叫マシーンに乗ってる気分。ゲームとか映画に救われた事は何度もあったよ。サクラは?」

「私もあの頃は現実逃避だったと思います。今は逆ですけどね。」

…沈みかけた夕陽の陰影がサクラの顔を隠す。その表情は見えなかった。

なんて事の無い会話だった。

仕事のストレス。退職による解放。そして再就職。

先輩後輩の関係から、恋人としての関係へ。

地元の話題や趣味の話題。

まさに地に足のついたような現実的な話題をここまで記してきた。

なぜ、こんなどうしようもない程に日常的な内容をわざわざ記してきたのか。

それは、今はまだ、これが紛れもない現実である事を、自分自身が強く認識していたかったからだった。

「ねえ先輩。何か海に関係するような怖い話、知りませんか?」

…実は、今日のドライブの為に僕は、幾つか海に関係するネタを仕入れてきている。

目的地のビーチまで、あと1時間ちょっと。サクラもオカルト系は平気のようだし、時間潰しに話してみるか。

「よし! 聞かせてやろう!」

「深海の生物についてなんだけど…。海底ではその特殊な環境から、信じられない生物が出現すると考えられているんだ。」

『レプトセファルス』と呼ばれる生物は、一般的にはウナギ目に所属する魚類の幼生で、通常、幼生はとても小さく3cm程なんだけど、驚くことに成長するとその30倍の大きさになると言われている。

ところが…1930年の冬、デンマークの研究船が南アフリカ近海の海底300mから2mを超える長さのレプトセファルスが捕獲された。

一般的なウナギ目の魚類は巨大に成長しても1メートル程度。しかしこの幼生は2m! このまま成長すれば、どこまで大きくなるのか! この幼生の発見に科学者界隈は驚愕した。

残念なことに、発見後、この幼生は波に攫われてしまったそうなんだが、まさか伝説の生物『シーサーペント』の正体なのではないか! などと世間で言われたこともあったんだ。

終わり。

「…先輩。それって、よくある『極めて不可解な海の謎10選!!』て感じのネタで、全く怖く無いですよ。」

「…そうか。ご期待に添えなかったかな。無念。じゃあ、もう一つ話すよ。これは怖いぞ!」

「今から話すのは、『赤い海』っていう、ネットで見つけた海に纏わる怪談だ。」

俺の名は××。そして友人の名を⚪︎⚪︎としよう。

絵画を描くことを趣味にしていた友人の⚪︎⚪︎は、1年前に海の近くのマンションに住み始めた。

特に海の絵を描くことが好きだった⚪︎⚪︎は、マンションに窓から毎日海を眺め、キャンバスに海を描き続けた。

俺も⚪︎⚪︎に呼ばれて何度かマンションを訪れたが、潮の音と共に海の絶景を堪能できる、本当にいい部屋だった。

絵画を趣味にしているだけあり、⚪︎⚪︎の部屋には様々な色、角度、大きさで描いてある海の絵がたくさんあった。

「よく引っ越して1年で、これだけの絵を描いたなぁ」そう俺が⚪︎⚪︎に聞くと、⚪︎⚪︎は「この部屋から眺める海を見ていると、描かなければならないと思うんだ」と真剣に答えた。

その後も何度か⚪︎⚪︎の部屋を訪れたが、そのたびに海の絵は増え続け、絵のタッチや角度も凄みを増していった。

それから、俺の仕事の都合もあって、最後に⚪︎⚪︎のマンションを訪れてから1ヶ月が経過した。

久しぶりの⚪︎⚪︎のマンションを訪れた時。その変化に俺はギョッとした。

薄暗い部屋の中。所狭しと部屋を埋め尽くす無数のキャンバス。その全てに海の絵が描かれている。

部屋の電灯を点けようとしたが、灯りは灯らない。

「…電気なら点かない。…止められたんだ」と⚪︎⚪︎。

その声に活気はなく、ゼホゼホと身体を丸めて咳き込みを続けている。

「電気を止められた? 仕事はどうしたんだ?」そう俺が質問すると「…仕事は辞めた。…部屋から出たくない。…海をずっと見ていたい。描き…続けたい」とう言葉を返す。

…この1ヶ月の間に、⚪︎⚪︎に何があったんだ。

恐怖を感じ、俺は⚪︎⚪︎に何も言わずに、部屋を去った。

変わらないのは、潮の香りと波の音。そして窓から見えるその絶景だけだった。

それから4ヶ月が経過した。

俺はふと⚪︎⚪︎が気になり、恐ろしい気持ちを押さえて⚪︎⚪︎のマンションを訪れた。

ピンポンと呼び鈴を鳴らすが、反応がない。

ドンドンと強くノックするが、返事はない。

それでも俺はノックを続けた。

近所迷惑になるかもしれない。そう思いながらも俺は⚪︎⚪︎の名を呼びながらノックを続けている。そして。

「××か。来てくれたんだな。」ドアの向こうから泣き出しそうなしゃがれた声が聞こえた。只事では無い!

「⚪︎⚪︎! 大丈夫か! ここを開けろ!」

「俺は…もうだめなんだ。だめなんだよ…だめなんだよぉぉぉぉぉぉ…ぅぅ」

「おい! どうした! 早く開けろ!」

「も、うだめな……ん……うああああああああああああ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛、あ゛あ゛゛あ゛あ゛ーーーあぁーあ゛ーーーーひぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーー」

と、突然扉の向うで耳を劈くような悲鳴が聞こえて来た。

「ああああああああ、ひぎゃああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ううぅぅぅぅぅああああがあああああ!!!たぐちいいいいい、たすけ、てええ、ころさ……、うみに……」

…無音。それっきり、⚪︎⚪︎の声は聞こえず、部屋の中からも物音一つしなくなる。

それでも俺は、⚪︎⚪︎の名を叫びながらドアをノックし続ける。

そして、何事かと駆けつけてきたマンションに管理人に事情を伝え、部屋の鍵を開けてもらい、管理人と共に中に入る。

しかし。

部屋の中に⚪︎⚪︎の姿は無かった。風呂場。トイレ。寝室。隅々まで探したが、どこにもいない。

「うわ!」と管理人が悲鳴を挙げる。

そこには、一枚の絵があった。おそらく⚪︎⚪︎が描いたものだろう。

しかしその絵は、どこか変だった。

絵の海は…赤かった。

その赤い絵の具は、まだ乾燥していないようだった。

いや。

この赤は、絵の具ではない。

血だ。

血が、キャンバスの海の部分いっぱいに塗り付けられていたのだ。

その悍ましい光景に、俺と管理人は、ただ立ち尽くすことしかできなかった…。

それから3ヶ月。

⚪︎⚪︎の遺体が見つかった。

警察からの電話で俺はそれを知る。

⚪︎⚪︎の遺体は海で発見されたという。

原因はわからない。

いなくなる直前まで、⚪︎⚪︎はドア一つ隔てた向こうで悲鳴を挙げていた。

それが何故、海で見つかるのだろうか。

ドアの向こう側で。

⚪︎⚪︎は「海に殺される」。

そう叫んでいた。

⚪︎⚪︎の身に、一体何が起きたのか。

今でもわからない。

終わり。

「先輩! 今のはゾッとしました! いいですよ!」

「そうだろ! クトゥルフ神話っぽくて興味深いだろ?」

「…クトゥルフ…神話? なんですか、それ?」

…クトゥルフ神話は、さすがにマニアック過ぎたか。

「ええっと、クトゥルフ神話とは…」

クトゥルフ神話 。

それは、20世紀の頃、アメリカの小説家ハワード・フィリップス・ラブクラフトが描いた小説世界をもとに、ラブクラフトの友人達が設定の共有を図り作り上げたコズミックホラー作品群と、その世界観を指す。

神話と呼んではいるが、お互いの作品で登場した怪物やアイテムを自分の作品にも登場させあって、いかにも本当に語り継がれてきた神話のように見せかけたもの。

人間にとっては神にも等しい名状し難い巨大な存在が現代に蘇ることを共通のテーマとしていて、無機質で広漠な宇宙においては人類の価値観や希望には何の価値もなく、意志疎通も理解も拒まれる絶対的他者の恐怖に晒されている狂気を描く事を、各エピソードで共通する要素としている。

そう掻い摘んで、僕はサクラに説明する。

「まぁ、フィクション神話の同人誌、みたいなものだと思えばいいかな。」

「なるほど。そういえば、神話…というか聖書で書かれた歴史はフィクションなのかノンフィクションなのかっていう議論は聞いたことがありますね。」

「一般的に、聖書の内容は、土台はノンフィクションで、それが語り継がれる中で物語化された結果、空想的要素がからみ、現実離れした場面が増えてしまい、フィクションと捉えられるようになってしまった…。そう聞いたことがあるな。日本で言えば、邪馬台国や卑弥呼の存在をどう定義するか、といったことなんだろうな。」

「結局のところ、最後は何をどこまで信じるか、なんですね…。」

車は照明灯の少ない山間から、NGN県とNG T県の県境を越え、街路灯が道を照らすN市街に入る。

海水浴場を要するN市ではあるが、冬の時期は当然、海水目的の来訪者はおらず、海のある田舎街といった、やや殺風景な風情の場所となっている。それでも24時間営業のコンビニやホテルが点在しており、街の灯はまだ明るい。

街外れの海水浴場…目的地のビーチまでもう少し。

帰り道の事も考え、僕はふと、天候が気になって車のカーステレオを操作してラジオを流す。

車のスピーカーからラジオニュースが聞こえてきた。

『次のニュースです。26歳男性が違法な時間外労働により自ら命を絶ちました。企業側は本人が申告した時間外労働は約30時間で、営業努力の時間も含まれていたと主張していましたが、労基署は違法な時間外労働をさせたとして調査を進めています』

「…。」

「…。」

過労死のニュースであった。僕とサクラは言葉を無くす。

組織で働く人間はただの駒。お客は金づる。如何に利益を出し儲けるかはビジネスの基本ではある。しかし、僕とサクラは、その現実に折り合いがつけられず、会社を辞めることになったのだった。

僕は急ぎ無言でチャンネルを変える。

カーステレオからは他の局のニュースが流れ始めた。

『続いて、最近頻発している海底ケーブルの大規模破損についてのニュースです。ケーブル破損の原因究明を目的とした海底調査艇の行方が現在不明となっており、調査艇の安否確認の作業が続いています』

「…海底ケーブルって、そんなに破損するものなんですか?」とサクラが口を開いた。

「うん。ケーブル破損は一大事だから十分な強度を持たせるんだど、それでも世界的に見れば年に100件以上の切断が報告されているらしいよ。丈夫にできているから例えサメが齧っても平気らしいけど、たまに地震とかで切れる場合があるんだって」

好都合とばかりに僕も蘊蓄を饒舌に語る。

と、その時。

『次の…ニュースで…ガガガ、ピ、ピ…』

カーステレオから雑音が聞こえる。

「なんだ…。混線かな?」

と僕はカーステレオに触れる。

しかし、チャンネルを変えても異音は続く。

『ガガ…ガォオガガガァ…』

そして、その異音は徐々に変質していく。

『オオオォォォ』『グァォオオォオ』『グギャォオオン』

その音は、機械が発するような電子的な異音から、鳴き声のような…腹に響く叫び声のようなものに変化していった。

「な、なんですか、これ!」サクラが耳を塞ぐ。

僕もその奇妙な音に驚き、咄嗟にカーステレオの電源を切る。

「スピーカーは止めたよ。驚かしてごめん。」

「い、いえ。先輩が謝ることはないですよ。電波障害ですかね…。」

と、そんな出来事があった直後。

車は目的地のビーチに到着した。

街路灯も減り、道路を照らす灯りは僕らの車のヘッドライトと月明かりだけになった。見える範囲には住居はなく、僕ら以外に人はいない。

冬の夜の海。人気(ひとけ)がある方が不自然だろう。

砂っぽい道路から、ビーチに隣接する殺風景な駐車場に車を入れる。

砂埃の堆積するアスファルトのジャリジャリとした音が耳に障る。

「さぁ、着いた」車を停め、エンジンを切る。

駐車場から砂浜までは距離があった。

僕らは車から降り、闇夜の中、月明かりを頼りに砂浜へ向かう。

「足元に気をつけて」と、僕はサクラの手を取りながら、足元に神経を集中して歩を進めた。

と、その時。

僕は違和感を感じる。

「…何か、違う。」

…僕がこのビーチに来たのは、数年ぶりだった。飾りっ気のない景色も、人気(ひとけ)の無さも変わらない。

しかし…。

なんだろう。この違和感は…。

そして。

砂浜に足を下ろした時。

その違和感の正体が、目前に広がっていた。

そこには、黒く揺らめく吸い込まれるような波の動きがあるはずだった。

幻想的ですらある闇の先の水平線が見えるはずだった。

しかし、僕らの視界の先のその海は、記憶の中の想像と似ても似つかない光景となっていた。

白い。真っ白なのだ。

砂浜に連なる海は、白い霧の壁で塞がれていた。

その霧は異常に濃く、浜に迫る波を白く染め、水平線どころか1m先も見えていない。

よく周囲を見渡せば、砂浜も所々白い靄に包まれている。

夜に染まる黒い筈だった海は、異常な白色に浸食されていた。

「これって、霧…ですか?」その異常な光景に、サクラも声を震わす。

「…たぶん。」

しかし…。

額に汗が流れる。

…汗?

「…温かい。」

違和感を肌で感じる。

冬の海。気温は低いはずである。

はずなのに…。

汗を掻く程の生温さを感じる。

冬の海ではあり得ない程、異常に湿気っぽいのだ。

「…これは…霧というようりも、水蒸気そのもの…」僕は呟く。

「なんで、こんなに温度が高いんですか? 今は11月ですよね!」サクラも混乱している様子であった。

その時。

「ワン!!」

突然の獣声。

「うわ!!」「ひ!」

僕らはビクンと背筋を伸ばし驚く。

「グーン!グーン!」

その唸り声の主は、一匹の犬であった。

薄肌色の毛並みをした中型の柴犬がいた。首輪を巻いている。どこかの家の飼い犬だろうか。

「ワーン!ワーン!ワオーン!」

その柴犬は、霧の壁の向こう側の海に向かって吠え続けていた。

まるで、霧の向こう側に何かがいる何かを威嚇するように。

だが、

「ギャン!ギャン!ギャ……クゥ」唐突に柴犬が黙り込む。

柴犬が首を垂れるように身を伏せた瞬間。

霧の向こう側から、キーンとした音が響いてきた。

なんだこの…固く鋭利なモノ同士を擦り付け合うような…奇怪な音は!

僕は両の掌で耳を塞ぐ。

徐々に大きくなるその音が大気を震わせる。

そして、僕は目にする。

海上を白く染め上げていた霧が、一瞬にして遥か先の水平線の一点に吸収されたのを!

その直後。

海を白く染めていた霧を吸い込んだ水平線が肥大し、膨れ上がり…、

膨張した水平線が海水と白く濁る霧を巻き込み飛散する!

あれは…爆…発?

海から吐き出された霧と水蒸気の塊は、巨大な爆弾を爆破させたようなキノコ雲を形造り、雲と繋がる。

その信じ難い光景を眺めながら、俺とサクラは言葉を失う。

だが、事態はまだ終わっていなかった。

再び、信じ難い変化が海に生じる。

海が、白く輝き始めたのだ!

乳白色に光る海がそこにあった。

同時に、凄まじい腐敗臭が僕らの鼻腔を突く。

「な、なんだこの匂いは!」

その腐敗臭が気付となった。

意識を現実に戻した僕らは、目の前で繰り広げられる変貌の光景に危険を感じ、乳白色に光る海から離れようと駆け出す。

その瞬間。

グジョ…。

中途半端に凝固した寒天を踏み潰したような嫌な音がした。

直後。「きゃ!」とサクラが悲鳴を挙げ、どさりと倒れ込む。

何事かとサクラの姿を目にした僕は、また驚愕する。

砂の上に這い蹲るサクラの右足に、薄群青色のブヨブヨとしたものが絡み付いているのだ。

一見してゼリーの塊に見える50cm程のそれの表面は、ギザギザとした襞と青筋のような血管を身に浮かべビクビクと蠢いている。

このブヨブヨは…生きているのだ!

「大丈夫か!」

その巨大な軟体生物からサクラを助けようと駆け寄る。

その時、再び現実と掛け離れた光景が僕の視界に入る。

…霧に包まれていた時は、気付かなかった。見えていなかった。

…しかし、霧が晴れた今。

月灯りに照らされた海岸の全貌を目にした時。

僕の背筋を生温い汗がながれ落ちる。

触手のようにサクラの足に絡み付く軟体生物。

それは、一体ではなかった。

波が押し寄せる砂浜全体に、薄群青色した軟体生物が蠢き、犇めき合っているのだ。

「う、うわ…。」

その悍ましい光景に叫び声すらも挙げられない。

僕は無我夢中でサクラの足に群がる軟体生物を引き千切り、肉なのか内臓なのかすら不明瞭なブヨブヨを浜辺に投げ捨てる。

そしてサクラの肩を担ぎ、急ぎ浜辺から離れる。

しかし、サクラの動揺は激しく、転倒した時に足を挫いたのか、僕に抱えられてようやく立っている状態だった。

しかも、駐車場の車までは、距離がある。

取り敢えず、あの軟体生物の群れから離れることが先決だ。

そう思い、僕は周囲を見渡す。

都合が良い事に、10m程の岩の塊が、駐車場に向かう道筋の途中にあった。

「あの岩に身を隠すぞ!」

砂浜から逃れた僕達は、岩の影に身を潜む。

その時。

「ワン!ワン!ワン!」

さっきの柴犬の鳴き声が聞こえる。

岩の影に隠れた僕らからは、浜辺で吠える柴犬の姿は見えない。

「キャン!…ゼフゥ…」

しかし、その鳴き声が、突然、喘息の過呼吸のような音に変わり…。

僕らがその芝犬の声を聞くことは、二度と無かった。

何が起こったのかと戸惑う僕の足元に、ドサリと何かの塊が降ってきた。

その塊は、地面で跳ねた後、二つに分かれる。

一つは、20cm程の塊。そのまま草むらに転がっていった。

もう一つは、小さな…輪っか。見覚えがある、小さな輪っか。

…それは、首輪だった。

柴犬の…血と肉片がべたりと付着して赤黒く染まっている。

その凄惨な現場の光景に、また一つ、僕の思考が鈍る。

事態の変化に対応できていない脳味噌で、僕は必死に思考を巡らす。

…何者かが、犬を殺した。

…そいつは浜辺にいる。

その何者かの姿を確認せねばならない。そうしなれば、命に関わる。

なんとかその結論に辿り着き、僕はそっと岩陰から浜辺を覗き見る。

…月明かりに照らされた砂浜に、その何者かがいた。

「なんだ…あれ…」吐き出すように、僕は言葉を小さく漏らす。

それは、人では無かった。

灰色の体色。その体長は2mを越えようか。

昆虫のような無機質な外骨格。

蟹のような二対の腕。

蜘蛛のような三対の脚。

蠍に似た触覚が頭から伸びている。

なんと形容すれば良いのか。

その名状し難い外見は、まさに…灰色の…『怪物』だった。

触覚がビクンと動く。

灰色の怪物が、僕らが潜む岩に向かって移動を始めた。蜘蛛のような脚をカサカサと動かす。

僕らの気配に気付いてしまったのだろうか。

僕もサクラも、口元を手で押さえ、可能な限り必死に息を殺し気配を消す。

奇怪に湿った跫音を鳴らしながら、灰色の怪物は僕らが身を潜める岩を登り始めた。

月明かりが怪物のシルエットを地面に形造る。

血に染まったその蟹に似た鋏から、えんじ色の液溜まりが、とろり、二つ、三つ落ちて広がる。

僕とサクラは、灰色の怪物の視界から逃れる為に、ゆっくりと、岩肌に沿って移動を始めた。

その時。「ねぇ、先輩…」サクラが小声で呟く。

「どうした?」

「これ、岩じゃないです」サクラの手が震えている。

巨大な塊。僕らは、それを岩だと思い込んでいた。

思い込みが、認識を鈍らせていた。

僕は、改めて、その塊に触れる。

ザラザラとした手触り。

海水の滑り。強い磯臭さ。

塊から、少しだけ距離をとると。

濁った巨大な瞳と眼が合った。

ぞくりとする。

これは、…岩じゃない。

…鯨だ。

鯨の死骸だ。

僕らは、小型の鯨の死骸を巨大な岩だと思い違えていたのだ!

そして、その巨体が命の無い死骸である事も、一目瞭然で理解できた。

鯨の死骸の腹部と思しき部位には、ぽっかりと抉り取られており、巨大な空洞になっていた。

その切り口の断面は鋸刃で切り裂かれたように鋭く不揃いであり、穿たれた空洞…腹腔からは、人間とは比較にできないサイズの臓腑がぬらりと赫く滾れ落ちている。

そのグロテスクな光景を認識した瞬間。更に強烈な臭気が僕の鼻腔を直撃した。

嘔気が喉元に迫る。

狂気が脳裏に迫る。

その時。月明かりに照らされた灰色の怪物のシルエットが、二対の触覚をびくりびくりと動かしながら、鯨の上から降りてきた。

まずい! 見つかってしまったか!

しかし、灰色の怪物の興味は、僕らではなく、鯨の死骸の…大きく抉られた腹腔に向かっていた。

鯨の死骸に刻まれた孔のサイズは灰色の怪物の体長を軽く超えている。

灰色の怪物が、その赫い孔に半身を埋め込む。

臓腑に触覚を埋め込み、巨大な鋏は肉を切り裂き、鯨の中身を貪る音が闇夜に響く。

それは、僕の中途半端に長くも短くも無い人生で目にしたことの無い光景だった。

猫が鼠を食う光景は見たことがある。蟻が昆虫の死骸を貪る姿は見たことがある。しかし獅子が獲物を喰らうリアルな姿を僕は実際に見たことはない。

そして、今目の前で繰り広げてるその捕食の光景はそれの何倍ものスケールだ。

狂気が脳裏を浸食してくる。

耐えろ! 

逃げるんだ!

サクラを守るんだ!

その一心だけが僕の精神を狂気から救ってくれていた。

必死に恐怖を押し殺し、今が逃げる機会だと踏み切る。

「サクラ。車まで走るぞ!」

「…はい。先輩」痛めた右足をさすりながら、サクラは答える。

灰色の怪物はまだ鯨の腹腔の中にいる。

僕はサクラの方を担ぎ、一気呵成に駆け出す!

だが、足を痛めたサクラの歩みは、やはり遅い。

臓腑に濡れた灰色の怪物が鯨の腹腔から顔を出す。

僕らの動きに、灰色の怪物が気付いたのだ。

血肉が付着した二対の触覚が僕らを指した。

蜘蛛の様な足を犇き動かしながら、灰色の怪物は僕らに向かって奔り出す!

僕らも急ぐが、灰色の怪物の移動速度のほうが早い。

追いつかれたら、あの柴犬のように殺される。あの鯨のように喰われる。

…喰われる? 

ふと疑問が浮かんだが、今はそれどころではない。

僕らは必死に車まで走る。

後ろを振り向いている余裕もない。

怪物から発せられる鉄臭い腐敗数が僕の背中に纏わり付く。

助からない!

死の予感が僕の背後に迫る!

…その時。

僕らの後方で。

海が、紅く輝く。

そして、

臓腑を悍ませる程の爆音が夜の空気を軋ます。

雷鳴か。

違う。雷鳴ではない。

それは、咆哮だった。

いまだかつて耳にしたことがない、しかし、それが獣の咆哮であることだけは、瞬時に理解ができた。

直後、一瞬、流星のような炎の塊が空を紅く染まる。

遅れて、その真紅の流星を追うように暴風が巻き起こる。

なんだ! 今度は何が起こったんだ!

砂粒を巻き上げた嵐が僕らを包む。

僕はサクラを抱き抱えてその場に蹲り、必死に嵐に耐えた。

跪く事しか許されない、およそ1分間程の時間。嵐がおさまる。

けれど砂粒の痛みと嵐が与えた恐怖は、その時間を何倍にも増幅させていた。

このビーチから一刻も速く逃げるんだ!

遁走への意思を糧に、震える奥歯を噛み締め、腰が抜けそうな身体に鞭打ち、僕はサクラを抱えて立ち上がる。

しかし今、僕の脳味噌の中身は、とめどなく湧き出る疑問と恐怖が埋め尽くしている。

…このビーチに何が起きたのだろうか。

…僕らは一体、何に巻き込まれたのだろうか。

灰色の化け物の姿は見えない。

鉄を焼いたかのような焦げ臭い空気を感じる。

…ふと浜辺に目を向けた時。

僕は絶句する。

海は、煮え沸る釜の如く沸騰していた。

逃げるように走らせた僕らの車は県境を越えた。

沈黙が車内を支配している。

冷え切る身体に耐えながら、口を閉じることだけが恐怖を押し殺す手段だった。

隣にじっと座るサクラの吐息だけが、これが現実である事を感じさせる。

そう思い、隣のサクラに目を向ける。

その顔は、引き攣り嗤っているように見えた。

これが、あの夜、僕らが体験した全てだ。

あのビーチでの出来事から、一週間が経過した。

ニュースでは、NGT県の海沿いで小規模な気候の変化による大波警報が出ている事を告げていた。

少なくとも、もうケンジは海へ出掛ける気持ちには一切ならなかった。

そして今日。

サクラがケンジの自宅を訪れる。

「あの日。あのビーチで何が起きたのか。僕なりに調べてみた。サクラに聞いてほしいんだ。」

「はい。私も是非先輩に聞いてもらいたいことがあるんです。」

ケンジとサクラは、各々に、ビーチで起きた事と向き合おうとしていた。

「お邪魔します。先輩の家に来るの、久しぶりですね。」

靴を脱ぐサクラ。

「散らかってるけど、まぁ座ってよ。」

コートを脱ぎ、コタツに座るサクラにケンジがお茶を出す。

何気無く部屋を見渡すサクラ。

壁に掛けられたスーツと、ダンボールに詰め込められたゲーム類が目に止まる。

「先輩、就職するんですか?」

「ああ。フリーターはもう卒業だ。」

ビーチでの出来事から以降。ケンジは趣味のゲームや映画に触れる気が無くなっていた。

「サクラだって、就職活動頑張っているだろ。」

「…いえ、私は…ただ暇を潰してるだけですよ」と小さく呟くサクラ。

「サクラは現実としっかりと向き合っている。僕もそろそろフィクションから卒業しなくちゃと思って。」

「……そうですか。」

「それでさ」とケンジは本題に入る。

「あの時、僕らに起きた事を、現実的に説明できないか。そう思って、いろいろ調べてみたんだ。」

「はい。」

「まずは、海を覆っていた霧だ。」

海の上の霧は珍しいものではない。

風が穏やかで気温が下がった冬の早朝に、冷たい空気が暖かい海面の上に留まっているとき、海面から蒸発した水蒸気が急激に凝結して発生する場合がある。

それが霧を発生させるのだ。

「次は、海から聞こえた音についてだが…。」

「あの…キーンとした音ですね。」

「あの音は、プループ音…低周波音波の一種だと思う。」

「プループ音?」

アメリカ海洋大気庁によれば、ブループは地震による海底のずれや氷震によって響いた音であるという説や、鯨などの生物が発生させる音に非常に酷似している説がある。その音は人間の聴覚では知覚できないレベルの超低周波も含まれており、また、大変強い音であるという。

「他にも、海洋ではアプスウィープやトレイン、ユリアといった発生原因不明の音がよくあるらしい。これも珍しいものじゃないんだよ!」

「…あんな音が出せる動物がいるなんて…。」

サクラは否定的だった。しかしケンジは説明を続ける。

「あと、水平線が膨張した理由は…そう、熱膨張で説明できるんだ。」

水は熱せられると膨らむ特性がある。海も温暖化によって暖められることで体積が膨れ上がる。例えば20℃の海水は1℃上がると体積は約0.025%膨張し、水深500mで2℃上がると水位が25cm上昇する。

「そう、海が乳白色の染まっていた事だって説明できる。できるんだよ!」

海底で大量のバクテリアが急激な熱上昇によって死滅した時、大量に発生したアンモニアとメタンガスが海を白く濁らせ、乳白色に染めることがある…らしい。

「じゃあ、あの…私の足に…取り付いたあの…ブヨブヨは?」

「それはね…」ケンジが一枚の写真をサクラに見せる。

そこには、餃子の羽のようなでこぼことした背(?)を持つ、青色の軟体生物が写っていた。

「あれは多分、カツオノエボシだと思うんだ。」

カツオノエボシは、クタグラゲ化カツオノエボシ科に属する刺胞生物。ふだんは沖合を漂流しているが、風によって海岸近くまで吹き寄せられることがあるという。

「で、天候のせいで大量に浜辺に打ち上げられたんだよ、きっと。」

「打ち上げられた…。でも、なんであんなに巨大になっていたんですか?」

「そ、それはきっと、突然変異したんだよ。」

「突然…変異、ですか…。」

実際にそれに触れてしまったサクラは納得のいかない顔をしている。

「それじゃあ、先輩は、あの灰色の怪物の正体も解ったんですか?」

「もちろんだよ。あれは、海洋生物の体表に寄生する甲殻類の一種だ。」

ケンジは、拡大された甲殻類の写真をサクラに見せる。

「これはクジラジラミっていう寄生生物の写真だ。単脚類…エビの親類だよ。ほら、形が、…あの怪物と、よ、よく似てるだろ?」

そう説明するケンジは、鯨を捕食していた灰色の怪物の姿を思い出し、口元に手を当てる。

「…はい」そう返事を返すサクラの表情は陰っている。

写真の中の甲殻類の隣には、その生物の数倍の大きさの1円玉が並んでいた。

「…先輩は、あの夜の事は全部、現実に説明できると思ってるんですね?」

「そう!そうなんだよ!」

ケンジの口元から唾(つばき)が飛ぶ。

「あの夜の事は、ぼ、僕の妄想じゃない。現実に起きた事なんだ。でも全部、現実で説明できる事な、なんだよ!」

「…先輩。落ち付いて。」

「ぼ、僕は、絶対に、狂ってなんかいるものか!」

「でも先輩…。」

「なんだ?」

「その軟体生物や寄生生物が巨大化した理由ですけど…。」

「?」

「海の生物はその特殊な環境のせいで、巨大化しやすいんですよね。『レプトセファルス』みたいに。」

「あぁ、車の中で話した話か。」

「私も調べてみたんですよ。深海って天敵が絶滅したり、豊富な栄養源があれば、意外と簡単に巨大化するそうです。」

「そ、そうなんだ…。」

「…海底で、天敵が絶滅したり、大きなエネルギー源を得る方法って、なんでしょうかね。」

「…。」

「あと、疑問なんですが…。」

「な、なんだ?」

「霧も熱膨張も、海温の急上昇が原因だって言ってましたけど…。」

「…うん。」

「私、見ました。深い海が釜のように沸き立って、油を掻き混ぜた鍋みたいに煮え滾っていたのを。」

「わ…解らない。海が湧き立つなんて…サクラは幻でも見たんだよ…。」

「嘘!」

「ひ!」

「先輩も!絶対に!見たはずです!」

「…う、うん。見たよ。」

「そうですよね。」

「でも…」

「でも?」

「認めたくないんだ。」

「は?」

「海が沸騰するなんて…普通じゃない。僕は説明できないことを現実だと認めたくなんだ!」

「あは。」

「僕の検証には穴がある。穴ボコだらけだ! 海が紅くなって爆発した事だって説明できていない。そんな事は十分解っている!」

「はい。」

「海音の急上昇は海底火山が噴火した可能性もあった。ラ、ラジオで言っていた海底ケーブルの破壊も調査艇の消失も、それが原因かもしれない!」

「はい。」

「でも、あんな浅瀬に火山帯があるわけない! 火山が噴火なんかしたら、僕らだって無事じゃなったはずだ!」

「はい。」

「そ、そう。灰色の怪物を消し飛ばした、海から吐き出されてきた『火の玉』だって、説明できない。できるわけがないだろ!」

「はい。」

「思えば、車の中のラジオからの変な音だって、何か巨大な何かが電波に干渉していたのかもしれない!」

「…『何か』?」

「それ、それだよ。その『何か』が…。ああ!」

「先輩?」

「鯨の死骸。腹を抉られ腹孔から内臓が滾れ落ちていたあの、鯨の死骸…。最初は、巨大化した寄生虫がやったんだと思っていた。けれど…。」

「けれど…?」

「腹の傷は、鋸刃で切り裂いたような、あの抉り傷は…歯形だった。」

「そうですね。」

「鯨を喰い殺したのは、あの寄生生物じゃない…。そもそも、あの寄生生物は、鯨には…巨大過ぎる…。」

「そうなんですよ。」

「もっと、巨大な…炎を吐き出す…『何か』が…近海に…来ていた?」

「はい!」

「『何か』が、海から、やってくる…?」

ケンジの部屋を沈黙が支配する。

あの時の、恐怖の体験の直後の車中のように。

「こんなの、僕の妄想だ。単なる想像だ。空想の産物だ!僕は、絶対に信じない!」

自らの思考の結果にケンジは狼狽える。

「サクラだって、そう思うだろ!」

ケンジは、サクラに安寧の言葉を求めた。

サクラはケンジの顔を真っ直ぐに観る。

そして、

「私は信じてますよ。」

はっきりと言葉を示す。

「そ、そうか、そうだよな。僕の妄想を信じないことを信じるよな…うん、あれ?」

サクラが言葉を繰り返す。

「私は、先輩の言ったこと、信じてます。」

そう返事を返すサクラの表情は、心底で嬉しそうに…引き攣り嗤っていた。

「ヒュ…」ケンジの喉が震える。

「信じてくれ! ぼ、僕は狂ってなんかいない!」

「ええ! 先輩は狂ってません。本当の現実に目を向けて、真剣に真実に向き合おうとしているだけですよ。」

サクラの歪んだ微笑みは消えない。

対して、ケンジは…。

その眼は血走り見開かれ、涙で視界が滲む。

その口角からは唾液は留めど無く滴り落ちている。

その精神は自分を信じる心を既に失っている。

その脳髄は有りもしない拠り所を探すだけの肉の塊と化している。

それを人は、

『狂気』

そう呼ぶ。

ケンジの叫びは止まらない。

「海から何かがやってくる? そんなことがあるものか!」

「はい?」

「僕と桜の日常が、そんな空想に塗り潰されてたまるか!!」

「え?」

「ぼ、僕はサクラと過ごすこの普通の生活が大切なんだ!!」

「…。」

「ぼ、ぼ、僕は、サクラとの日常を守るんだ!」

「…そうですか。」

「サクラ?」

「先輩は、今の日常にしがみついていたいんですね。」

そう言うと、サクラは立ち上がりコートを羽織る。

「残念です。」

「ど、どこへ行くんだよ! サクラ!」

靴を履き、玄関ドアを開ける。

「ちょっと、ドライブに行ってきます。」

サクラがポケットから一枚のメモ用紙を取り出す。

開け放たれたドアから冬の空の冷たい風が吹き込む。

メモが玄関に滾れ落ち、風に流されてケンジの足元にはらりと落ちる。

構わずサクラは扉を閉めた。

「…さよなら。」

ケンジがから溢れた涙と涎が、サクラが残したメモを濡らす。

その穢れは、ある種の、冒涜だった。

…あの海を眺めながら。

…彼女は想い焦がれる。

現実が壊れる日は、絶対必ず訪れると。

日常が終わる時は、絶対必ずやって来ると。

彼が忌避する〃何か〃とは。

日常の終焉。

そして、

現実の崩壊。

私にとっての日常は、とっくの昔に終焉を迎えている。

私のとっての現実は、いつか訪れる崩壊の日までの暇潰し。

今まで記した事は、私達が身を持って味わった現実の体験談。

とても信じられない話で、誰も信じてくれないとも思う。

でも、私は信じている。だから、ありのままに私の身に起きた事を記してきた。

願わくば、私の目の前で起こったあの体験が、私を蝕み続ける現実と日常という狂気の全てを壊してしまうような…。

そう。

フィクションがノンフィクションを侵蝕する混沌の時代の始まりであることを祈って。

「あぁ…。」

漣(さざなみ)が押し寄せる闇夜のビーチで。

両の掌を宇宙(そら)と冥海(うみ)に差し出して。

妖艶な嗤(え)みを顏(かお)に浮かべて。

彼女は囁く。

「“何か“が海からやって来る…」

月は頭上で鋭利な輝きを湛えて、醒めていた。

~彼女のメモ~

それの歯の回りは恐ろしい。

それの背は並んだ盾の如く隙間なく頑強で風もその間を通らない。

それの堰は稲妻を伴い、その目は暁の瞼のようだ。

それの口蓋からは、松明が燃え出し火花を散らす。

それの鼻腔からは煙が吐き出され、煮え立つ釜、燃える葦のよう。

それの息吹きは炭火を起こし、燃え盛る炎の如く。

それの首には力が宿り、その前には恐れが踊る。

それの肉の襞は身に犇き、不動の如く崩壊を知らず、

それの心臓は、石のように堅く、臼の下石のように堅い。

それの背は、力ある者も怖気付かせ、戸惑い妄い煩わせる。

それの下腹は鋭い土器の欠片、それは打穀機のように泥の上に身を伸ばす。

それを刀剣で襲っても効き目なく、矢も投げ槍も弾き返し、砲の唸る音すらも嘲嗤う。

それにかかれば鉄は藁の如く、青銅は腐った木の如く。

それが浸かれば、海の深みを釜のように沸き立たせ、香油掻き混ぜる鍋のよう。

それが泳げば、深い淵を白い髪のような光の筋を残し、水魚は死に絶える。

地の上には、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして創られた。

それは、全ての高いものを見下ろし、それは全ての誇り高い獣の王である。

(旧約聖書『ヨブ記』41章要約:リヴァイアサン)

…「私は、信じている」

…「彼も、信じてくれる」

(終わり。)

Concrete
コメント怖い
1
3
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ

久しぶりの長編お待ちしておりました!!
早速楽しく拝読させていただきました。
また、Youtubeで早速朗読を開始させて頂きました。
最近仕事が忙しく一気に朗読は無理そうなので、サブチャンネルで少しずつアップしていこうと思っています。
https://youtu.be/7LWdErN00pg?si=tPGRPDTJrhq-w62v

執筆活動お疲れさまでした。
次回作も期待しております!

返信