うるせえ。
うるせえ。
うるせえって…。
ったく、うるさいんだよ…。
「うるせえって言ってんだろうがああぁ!! 何時だと思ってんだあああぁっ!!!」
俺は一人、暗闇で叫び声を上げた。
シャツは汗でビッショリ濡れていて、呼吸が乱れている。
「はあ、はあ…。あ? なんだ?」
真っ暗な闇に、まだ目は慣れず、自分が布団から上体を起こしている事しか分からない。
いやー。
「おいミカ、起きてるか? 何か、変な音みたいなの聞こえなかった?」
隣に寝ていた彼女の存在に気がつき、声をかけた。
「ちょ、おいって。なあ、ミカ。変な音みたいな、声みたいなの聞こえなかったか?」
寝息が聞こえないから起きていると思い、二回も声をかけるが返事はない。ただのシカバネではないから、珍しく寝息を立てずに寝ているのだろう。
心臓の鼓動音が頭に響く中、俺は少しずつ落ち着きを取り戻し、数分前の自分を思い返した。
(うるせえって叫んでみたものの、何に対して叫んだんだ?)
怒りが起こるなら、その要因があるはずだ。
だが、静まり返った空間に、要因は見つからない。考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。
それでも、確かに音みたいなのは聞こえていた。それは、夢にいた俺を現実に引き戻すくらい、不快で騒がしい、そんなものだったはずだ。
しかし、現に今はそんな音はしないし、目が覚めたのは俺だけで彼女は夢の中だ。
となると、導き出される答えは一つだった。
「はあ、たぶん夢だな。くそ、つまんねえもんで目が覚めちまったぜ。だいたい、今何時だよ…」
さっき、『何時だと思ってんだ』と叫び声をあげたくせに、実際は何時だか分からないとは滑稽な話だと思い、頭を掻きながら枕元に目をやった。
暗闇に対し未だに目は慣れないが、枕元でぼんやり蛍光色の数字を放つ時計に目をやった。
ー02:17ー
「マジかよ…。まだ、こんな時間じゃねえか。はあ、腹立つぜ。寝るか」
俺は、汗で湿ったシャツを脱ぎ捨て、上半身裸で再び布団に潜った。
目を閉じ、再度眠気がくるように念じながらも、さっきの夢の音が気になった。
(本当に、夢だったのか…? まさか、また二階の奴か)
だが、直ぐにその考えが誤っていると気がついた。あり得ない事だ。
俺の部屋はアパートの一階の角部屋で、以前二階に頭のおかしい老人が住んでいた。
真夜中になると、時々奇声をあげる迷惑な老人で、俺やアパートの住人はもちろん、近所の住人から苦情が相次いでいた。
俺の隣の部屋に住む大家に、彼女とアパートの住人で抗議にいくと、大家は追い出せないと答えた。
「皆さんには申し訳ないけど、あの人は私の命の恩人なんですよ。話すと長くなりますのでアレですが、昔は立派な方だったんです。今は痴呆が進んでしまったみたいで。ただ、持病もあるようであまり先は長くないし、身寄りの無い方ですから」
本当にすみません、辛抱して頂けませんか、と言って土下座をする大家に、俺たちは何も言えなかった。
しかし、そんな大家の気持ちも知らないであろう老人の奇声は止まず、遂にアパートに石が投げつけられるという事件が起きた。
大家の部屋と、老人の部屋に石が集中したという事実から、間違いなく近所の連中の犯行だろう。
そういった事があっても、大家はアパートや近所の住人に謝りつづけ、老人を追い出さなかった。
しかし投石事件から二日後の夕刻、老人が首をつって死んでいるのを近所の住人が発見した。
割れた窓ガラスから、中が覗けたらしいが首をつっている事しか分からず、警察に通報したようだった。
警察は、近所への聴き込みから、前述にあるように老人が痴呆っぽくあった事や、奇声や奇行を繰り返していた事。
そして何より、密室であって室内が荒らされた形跡も無い事から、老人は自殺と断定された。
俺が警察に聞けたのは、ここまでだった。
さすがに真上の部屋で自殺されれば、何となくアパートに居辛く、大家に相談にいった。
初めて入る大家の部屋は、沢山のぬいぐるみが置いてあり、少し大きめの写真立てが目立っていた。
「写真に写っているの、ご主人と息子さんですか?」
居間に通された俺は、真新しい家の前で男性と女性と子どもの写る写真を指差して、話題を切り出した。
「ええ。私にはもったいないくらい、厳しくてしっかりした主人だったわ。息子も、とても私の血を引き継いでいるとは思えないくらい可愛くて…」
親バカね、と笑いながら、大家さんはお茶をいれてくれた。
背が低く可愛らしい感じの大家は、温厚な性格で、老人の件が無ければみんなから好かれた方だろうと感じる。
「私の家族はね、もう昔の話だけど殺されちゃったのよ。ほら、今でもたまにテレビでやってるじゃない。××県の父子殺害事件、あれなのよ」
俺は思わず、えっ、と叫んでしまった。
その事件は、隣の県で起きた未解決事件だ。父子が縄で絞殺されたという痛ましい事件。
「確か…犯人は、まだ…」
「ええ、捕まってないわ。実はあの時、私も後を追って作業縄で自殺しようとしたの。その時、部屋に駆け込んで止めてくれたのが、あのおじいさんなの」
そうなんですか、としか言えなかった。
「あの時、主人と息子は作業用の太い縄で絞殺されたのよ。とても苦しそうで、泣きながら何かを叫んでいたわ。今回のおじいさんも、作業用の縄で…。本当に、私はつくづく不幸せな人間ね」
大変な過去を話してくれた大家は、明らかに憔悴した様子だった。俺は、話すかどうか迷ったかが、彼女の頼みもあるので一応話し始めた。
「まあ、あの…。そういった話を聞いて話すのも何ですが、あのおじいさんが上で亡くなったので、彼女が怯えちゃって…。引っ越しとか…考えているんですが…」
俺は、大家さんの目と、出されたお茶を交互に見ながら話した。
大家さんはというと、ただ無表情で頷きながら聞いている。
俺が話し終えると、大家さんは口を開いた。
「…引っ越されたい気持ちは分かるわ。でも…何て言うのかしら、寂しいわ。貴方たち、とても良い方だし。こんな事言ったら、大家失格だけど…」
大家は、一度目を伏せてから呟くように言った。
「出来れば…引っ越してほしくないのよ……」
投石事件や老人の死で、精神的にも疲れているであろう、大家は一回り小さく哀れに見えた。
少しの沈黙の後、大家がカーディガンの裾を捲った。
「あれ、大家さん、そのアザどうしたんてますか?」
細い腕に、無数の茶色く変色したアザがあった。
「あ、ああ、コレね。昔、私が主婦として未熟で、主人によく怒られたの。その時のアザよ…。でも、今で言うDVとかそんなんじゃ無いわ、気にしないで。息子の反抗期とかもあったけど普通よ、ありがとう」
益々哀れに感じた俺は、大家の提案した家賃を安くする条件をのんで、引っ越しの話を無い事にした。
実はその後、ミカを説得した時、彼女が本当に心配していた事を話してくれた。
このアパートでたまに、黒い二つの影を見るというものだった。
特に害は無いが、老人の死があったので心配になったらしかった。だが、それから半年は過ぎているが、何もなく低家賃でこのアパートに住んでいる。
しかし今、さっきの怪音はそれに関係するんじゃないかと思い始めている俺がいた。
再び目を開けるが、依然と闇が広がっている。だが、少しずつではあるがボンヤリ空間を認識出来るようになっている。
「……ん?」
闇の中から、何か聞こえた。
『…る…………ぁああぁ…さ…れる…』
音は、足元の方から聞こえる。間取り的に言えば、北を向く窓側だ。
「…なんだっ……」
俺が、再び上体を起こそうとした時だった。
腕を何かに掴まれ、叫び声もあげれず倒れた。
横を見ると、ボンヤリとした輪郭だがミカであることが分かった。
「あれ、お前起き…」
「しぃっ…!」
ミカは俺の口に手をあてて、言葉を制した。そして、小さな声で話しかけてきた。
「ユウヤ、私の後ろのカーテン見える?ううん、カーテンじゃなくて何か変なもの…」
俺は、そうっとミカの背後に目をやる。少しずつ闇に慣れてきた目には、西側に位置するカーテンが見えた。
そのカーテンがユラユラ揺れている。ベランダへの扉が空いているのだろうか。
「なんか、揺れてるけど…」
俺が小さな声でミカに伝えると、ミカは泣きそうな声で言った。
「うぅ…。あのね、私も実は起きてたの。変な声、苦しそうな声が聞こえたから…。ユウヤがうなされているのかなって振り向いたら、天井から黒い影またいなのが出てて、ユウヤに重なってた…」
ミカのすすり泣く声と、うめき声が重なり始めた。
「そうしたらいきなり、うるせえってユウヤが叫んで。黒い影は消えたと思ったら、私たちの足元に移って立っているから、怖くてユウヤに呼ばれても返事が出来なかったの…」
『ううっ……あああ…ころ…ぁさ……る…」
今まで微かに聞こえる程度のうめき声が、今度ははっきりと聞こえた。
「ユウヤ、ヤバい! やっぱり、やっぱり私が以前から見ていた黒い影だっ! 私たちっ、あのおじいさんみたいに狂って死んじゃうよっ…」
ミカは小さい声ながらも、泣きながら叫んだ。
「違う…! あの老人は、自殺したんだ! ミカ、俺たちは殺されやしない!」
俺は必死にミカを落ち着かせた。でも、自分自身も怖くて仕方がなかった。
『……ああがあっ…ぐぎぎぎぎいぃ……ぐぐ…』
『…ころ…あっ……れる…はっ…はっ……』
部屋には、俺とミカの他に間違いなく誰かいると思った。
そして、闇に目が慣れ始めてきて空間がはっきりと見えるようになって、初めて見えた。
俺たちの足元に、人のようなカタチをした黒い影が二つ立っていて、思わず小さな叫び声をあげてしまった。
その影は、大人と子供くらいの大きさで、左右にゆらりゆらりと揺れながら呻いている。
『……れる…さ…あああっ…』
『め…っがあ…あ…』
俺はただミカを抱きしめながら、二つの影を凝視する事しか出来なかった。
(なんなんだよ…!何だってこんな目にあわねえと駄目なんだよ!悪夢なら覚めてくれ!)
心の中で叫んだ俺の声が聞こえたのか、二つの影がピタリと揺れるのを止め、呻き声もしなくなった。
「え?」
俺とミカが、同時に呟いた瞬間だった。
天井からゆっくりと、黒い影が生まれた。
見たことのある顔だ。そうだ、あの顔はー。
「あのおじいさんだ…」
ミカが隣で言った。
そして、三つになった黒い影が俺たちを取り囲むように叫んだ。
『殺されるうううっ!助けてくれえ!お願いだ、助けてくれ!殺されるんだ、アイツに!アイツヲ!アイツハマタヤッタ…』
『ツギハ、オマエタチダ』
目の前が、真っ暗になった。
気が付くと朝になっていた。
開け放たれたカーテンから、高い日の光が射し込んでいて、既に昼近くだと分かった。
隣でグッタリとなるミカに声をかけると、暫くして目を覚ました。
そして、俺とミカは少し話し合ってから、電話の受話器を手に取った。
番号を押す前に、黒い影を思い出す。
最初の二つの影、確かに親子に見えたな、と。
俺が、一を二回、零を一回押すと、呼び出し音が鳴り、暫くして若い男性の声が聞こえた。
「はい、○○東警察署ですが…」
笑われるかもしれないし、俺たちが疑われるかもしれない。
それでも、あの黒い影たちの訴えを伝えなければならないのだ。
三人を殺したアイツだけは…。
作者朽屋’s