お母さんが死んだ。
僕の出産で無理をして身体を壊したと、小さい頃お祖父ちゃんに聞いていた。
痩せ衰えたお母さんを、お父さんは毎日必死に介護をした。
日に日に弱っていくお母さんを、僕も幼いながらも負い目を感じて出来る限りお世話をした。
おしめを変えたり、学校の楽しい話をしたり、ご飯を食べさせたりした。お母さんは弱々しく笑みを浮かべ「ありがとう」と、いつも言った。
その日も学校から帰った僕は、お粥を作ってお母さんの寝る部屋まで運んでいた。部屋までもう少しの時、扉が開き驚いてお粥を落そうになった。
部屋から出てきたのはお父さんで、ただ真っ直ぐ前を見ながら呟いた。
「お母さんは死んだよ。お粥は、もういらないな」
玄関から差し込むオレンジ色の夕日は、廊下に立ち尽くすお父さんと僕、そしてお父さんが見つめる何もない土壁を不気味に照らしていた。
葬式が終わってから、お父さんは少しずつおかしくなっていた。
僕とお父さん、二人しかいない部屋なのに、急に周りをキョロキョロ見たりするし、耳を塞いだりするのだ。
「…やめてくれぇ……許してくれぇ………」
でも僕が何を聞いても、お父さんは答えてくれなかった。
そんなある日、僕が部屋で本を読んでいると、家には誰もいないのに声が聞こえた。
「………ね…ね…ね……ね…ね」
懐かしいような、そんな匂いが部屋を包んだ。
(部屋に誰かいるの…?)
確かめたかったけど、僕は怖くて振り向けなかった。振り向いたら、直ぐ後ろにいる気がしたからだ。
遠くで、鴉の鳴き声とお寺の鐘の音が交じって僕の耳に入った時、さっきよりハッキリと耳元で囁かれた。
「……ね…ね…、しねしねしねしねしねしね」
耳元に微かに息がかかっている。
僕は意識を失った。
どのくらい意識を失っていたのだろう。
お父さんの呼ぶ声で目が覚めた。既に日は落ちていて、窓の外には月が浮かんでいた。
「タケル、夕飯出来たぞ」
そう言って、お父さんは部屋から出て行った。どうやら僕が寝ていたと思ったんだ。気絶したって言いたいけど、さっきの声が現実か夢か僕は分からなくなっていた。
でも、それから一週間が過ぎた頃、僕は再び同じ声を聞いた。
真夜中だった。僕はあの「しねしねしね」という声で目が覚めた。とは言っても、目は覚めても開けることは怖くて出来なかった。
なぜなら、生暖かい息が僕の顔にかかっていたからだ。目を開ければ目の前に"何か"いる。
それ以来、姿見えぬその声をよく聞くようになり、僕もお父さんのようにやつれていった。
お父さんは既に、そんな僕に気がつかないほどやつれていて、ミイラみたいだった。
そしてある日、僕が学校から帰るとお母さんの部屋が空いていた。
そうっと覗くと、お父さんがお母さんの遺影の前で倒れていた。今日の朝は白髪混じりの頭だったのに、髪は真っ白に染まり、目を大きく見開いていた。
お葬式で、お祖父ちゃんが話しかけてきた。
「娘も、その旦那も死んじまった。あとは、お前しかいないよタケル」
僕の頭に、お祖父ちゃんのシワシワの右手が置かれた。お線香の匂いが鼻いっぱいに広がる。
「タケル、男でも泣いて良いんだぞ…」
お祖父ちゃんは僕を見て、優しい表情で笑った。
僕はその笑みを見て、何か我慢していたものが崩れたのか大声で泣いた。
天国にいるお母さんとお父さんに届くくらい、大声でワンワン泣いた。
お父さんも死んでから、一週間くらい経ったある日。
僕は自分の部屋の整理をしていた。明日から、お祖父ちゃんの家で暮らす為に、引っ越しの準備をしているのだ。
お祖父ちゃんは用事があると言って、午前中に出掛けてしまい家には僕一人だった。
机の上の教科書をダンボールにしまっていると、教科書の間に見慣れないノートを見つけた。
僕はイスに腰掛けてノートをめくると、ペンダントが挟んであることに気がついた。
ペンダントの先の卵みたいな形をした部分を開けると、若いお母さんとお父さん、そしてお祖父ちゃんが写った写真があった。
お祖父ちゃんのムスッとした顔を見て、お母さんが話してくれた事を思い出した。
「お父さん、タケルからするとお祖父ちゃんね。私とパパが結婚するってなったとき、大反対だったのよ。でも、パパが必死に説得してくれて、ようやく結婚出来たの。時間は人を変えるのね」
僕はお母さんの笑った顔を思い出して、また泣いてしまった。
涙が頬を伝って、ノートに落ちた。
僕がノートを見ると、日記みたいに字がいっぱい書かれてた。
ノートをパラパラめくっていると、あるページで凍りついた。
『毎日しねしねという声を聞く。夜も寝れない。ミナコが死んでから毎日だ。ミナコは俺を恨んでいるのだろうか』
『しねしねと囁かれる。俺は生きてちゃ駄目ななか、ん。』
最後のページは、お父さんが死んだ日付けだ。
『しねさな、しねしねたしねしねな。、かしねしねあこわまなろたかなさまなはれなかやる』
お父さんの日記だった。
僕と同じように、お父さんも『しねしねしね』と囁かれていたんだ。
そしてまた、僕一人しかいない部屋なのに、しねしねしねという声が聞こえてきた。
(そうか、次は僕が死ぬんだ…。死ねば、お母さんとお父さんに会えるかな……)
そんな事を考えた時、ペンダントのガラス部分に何か写った。
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部屋の扉が少し開いた隙間から、お祖父ちゃんがブツブツ何か言いながら立っていた。
作者朽屋’s