駅前の大通りを抜け、立ち並ぶ商店街を歩き、小さな細い小道を歩くこと十六歩。そこには小さな名も知れぬ店がある。
看板がないため、一見したところでは何を営む店なのかは分かり辛いが……寂れた硝子張りの戸から垣間見える、人の腰まである背丈の壺や、壁に掛けられた水墨画、床上に無造作に積み重ねられた古書などから察するに、骨董品屋なのだろう。
そこでは、店主とおぼしき男性がプカリと煙草を吹かしていた。ゆらゆらと立ち上る紫煙。まるで天井に吸い込まれていくような錯覚を覚える。
男はそれを眸の端で見つめながら、唇に薄い笑みを浮かべた。
『雨が降りそうですね』
その言葉を引き金としたように、ポツリポツリと雨音が滴る音がした。
※※※
私は知人から書いて貰った地図を頼りに、商店街を右往左往していた。書いて貰っておいて何だが、こんな殴り書きみたいな雑な地図では、目的地まで辿り着けるかどうか不安になる。
そもそも、地図にある「細い小道」というのが見つからない。さっきは違う路地に間違えて足を踏み入れてしまい、ガラの悪い高校生に絡まれそうになって肝を冷やした。
おまけに、空にはどんよりと厚い雨雲が立ち込めてきてしまった。昨晩見た天気予報では、アナウンサーがにこやかに明日は晴れるでしょうと言っていた筈だが……私は忌々しげに機嫌の悪くなっていく空を一瞥し、脇に抱えた蛇の目傘を見た。
この蛇の目傘は今は亡き祖父の形見である。祖父は生前から金回りが良く、家具は全てオーダーメイドで購入していたらしいが……この蛇の目傘も、明治時代から続く老舗で作って貰ったと聞いている。
祖父は私が七つの時に亡くなった。その時に形見分けとして親戚で遺品を譲り受けたり、要らぬ物は廃棄物として業者に引き取って貰ったのだ。
当時、両親に連れられ、祖父の家に来ていた私は、大人達が忙しそうに立ち回る姿を眺めることに飽き飽きしてしまい、蔵の中で一人遊んでいた。
その時に見つけたのが、この蛇の目傘である。かなり古い物だったが、その割にはどこも傷んでおらず、私は一目で気に入り、勝手に貰うことにした。
それからずっとこの傘は私の手元にある。もう四十年近く所有しているのだが……わけあって、この度手放すことにしたのだ。
だが、仮にも祖父の形見。四十年近く手元に置いていた物でもあるし、私にもそれなりに愛着がある。雨が降った時などは必ずこの傘を用いていたため、柄の部分がしっくりと手の平に収まる。蛇の目傘特有の重みや匂い。これがコンビニで買った百五十円足らずの傘であったなら、毎週月曜日のゴミの日にでも出せるだろう。
しかし、この傘は前述した通り、祖父の遺品であり形見だ。ゴミの日にゴミとして廃棄しようものなら、祖父は私の夢枕に立って叱りつけるだろう。そこは昔の人というか、とにかく物を大切にする人であったから。
悩んだ挙げ句、私は知人に相談してみた。この知人というのが、根っからの骨董品好きで、休みの度に全国津々浦々を回り、骨董品屋巡りをしている少々変わった人間なのだが……まあ、私もどうせなら、この蛇の目傘を骨董品屋に引き取って貰えないかと考えていたのだ。そのほうが後腐れがないし、祖父にも顔が立つからである。
どこか気立てのいい主人がいる骨董品屋はいるだろうかと尋ねたところ、知人は一つだけ心当たりがあると言って、地図を書いてくれた。
そして今、私はその地図を頼りに、知人が紹介してくれた骨董品屋を探し歩いているのだが……あまりにも杜撰な地図のため、なかなか行き着けないでいるのだった。
歩き疲れて少々草臥れた私の鼻の頭に、ポツンと一滴の雨が落ちてきた。いよいよ降ってきたか。舌打ちし、仕方なく脇に抱えていた蛇の目傘を広げた。これから売ろうとしている物を使うことに、罪悪感が覚えないでもなかったが、仕方ない。濡れ鼠になるよかは幾らかマシだった。
と。私の横を一人の少女が通り過ぎた。濃紺色のセーラー服に、同じく濃紺のソックス。腰まで伸ばした長い髪が、さらさらと揺れている。背格好からして中学生だろう。
雨は更に勢いを増し、ザアザアと本格的に降り出した。しかし、少女は傘を持っていないらしく、歩みを止めようとはしなかった。見る間に少女の髪や肩先が濡れていく。
私は思わず駆け出していた。
「あの、ちょっと。そこの君」
私の声に反応し、少女は振り向いた。怪我でもしているのだろうか、右目は眼帯で覆われている。どうやら健康優良児ではないらしく、顔色が悪い。蝋のような白さが際立つ肌の色をしている。
少女は私と目が合うと、何か用かと言いたげに首を傾げた。私は彼女に駆け寄ると、傘を差し出しながら言った。
「君、この近くに住んでるの?」
「近くに住んでると聞かれればそうだと言うしかないね。まあ、私は居候なんだけどさ。何、おじさん。もしかしてナンパかい?物好きなことするねぇ……私みたいなのに声を掛けるなんてさ」
きひひひ、と。少女は少女らしからぬ不気味な笑い方をした。年頃の女の子ならではの警戒心は微塵も感じられない。その代わり、からかわれているようなニュアンスを含む言い方だった。
いいや、ナンパではないと首を振り、私は事の説明をした。
「この辺りに骨董品屋があると聞いていたんだけど、知ってるかな」
「この辺りにある骨董品屋といえば、私が居候させて貰っている店のことになるかな。つまり、おじさんは私に用があるわけではなく、その店に用があると、そう言いたいのかな」
「……その通りだよ」
へえ。これは偶然だ。袖振り合うも多少の縁とは、こういうことを言うのか。声の一つも掛けてみるものだ。
「その店に案内して貰えないだろうか。地図を頼りにここまで来たんだけど、迷ってしまってね。君も今から店に行くのかい?」
「うん。今はお使いの帰りなんだ。あの店の主人ーーー私は桐島ちゃんと呼んでるんだけどさ。これがまあ、めっちゃくちゃカフェイン大好き人間なんだよ。つまり珈琲ね。珈琲が大好きなの。それも、インスタントじゃなく、豆で引く本格派の珈琲しか飲まねーの。で、珈琲豆が切れちゃったから、その買い出しに行ってたわけ。これだから居候は辛いよ。使いっぱしりを引き受けなくちゃならないしねぇ」
「へえ、そう……。若いのに苦労しているんだね」
ありきたりな労いを口にすると、彼女は「そうでもないよ」と言い、私に手招きした。
「きひひ。いいよ。連れてったげるよ、その店にね。どーせ行き先は一緒だし、おじさん傘持ってるし。傘に入れてくれるんなら、店までの道案内を買って出てやるよ。さあさあ、お客さん。いっちょ行ってみましょうか」
その少女の名前は國達晃という。店までの道中、彼女の方から名前を名乗ってきた。初対面の、しかも見ず知らずの男に平気で名前を名乗るなんて……。随分、あけっぴろげな娘だなあと、つくづく思った。
名乗られた手前、私も彼女に名前を名乗った。そして色々と話をした。仕事のことだったか、家族のことだったか、趣味の話だったか……たくさん話をした記憶はあるのに、何を話したかは全く覚えていない。まるで狐につままれたようなーーー夢うつつのような。とにかく、覚えていないのだ。
やがて私達は、一件の小さな店に出くわした。店と言っても、看板もなければ貼り紙もない。寂れた一軒家にも見えるが、硝子張りの戸から垣間見える数々の骨董品が、この店の処遇を露わにしていた。
「ここに間違いないんだね?」
「間違いないよ。ここだよ。この店だよ。桐島ちゃんの曾祖父の時代からある、由緒正しき骨董品屋だ。おじさん、とりあえず入んなよ。桐島ちゃんが中で待ってるぜ」
私は國達に続いて店に入った。中は薄暗く、骨董品だかガラクタなのだか、ゴチャゴチャと物で埋めてくされていた。とりわけ古書の類が多く、奥には何台もの本棚が窮屈そうに並んでいる。
入りきらない本は、そのまま床に積み重ねられ、部屋の隅で埃を被っていた。なかなかの管理ぶりに、つい肩を竦めてしまう。
玄関先に突っ立っていると、國達が来て私の袖を掴み、中へ引っ張った。
「おーい、桐島ちゃん。客だぜ客ー。早いとこ相手してやんなー」
『嗚呼……はいはい。お帰りなさい、國達さん』
レジカウンター内から声がした。見れば着物姿の若い男がクシャクシャと髪をかき上げながら、気のない返事をして顔を見せる。
着崩している、というより、ただだらしがないのか。今にもはだけそうな胸元からは、綺麗な鎖骨のラインが覗いている。
切れ長の眸に形の良い鼻。薄い唇。中性的な雰囲気を持つ、美男子な青年だった。遠目に見れば女性に間違えていたかもしれない。
彼がこの店の店主……なのか?
『どうも、初めまして。僕がこの店の店主、桐島です』
青年は立ち上がり、私に向かって会釈した。私もそれにならって会釈を返しながらも、彼の第一印象を口にする。
「……随分、お若いんですね」
骨董品屋店主といえば、矍鑠とした老人をイメージしていたのだけれど。まさか、こんな坊やが出てくるとは思わなかった。予想外である。
彼は照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
『破破。よく言われます。実はこの店を継いで、まだ日も浅いのでね。若輩者の若造ですが……そこはお許し下さい』
「いえ…。悪い意味で言ったんじゃありません。ただ、本当にお若い方だなぁと思ったんです」
私の隣にいる國達が「きひひひ」と笑う。
「若くねーぜ。桐島ちゃんは来月で二十八だもん。うら若き女子中学生の私からしたら、立派なおじさんだよ」
「………」
二十八でおじさんなら、既に四十の坂を越えた私は何だというのだろう。口の減らない娘だ。
『國達さん、お使いありがとう。ご苦労様です。して珈琲豆は買ってきましたか?』
「買ってきたよー。今すぐ美味い珈琲作ってやるから、待っててー」
『ありがとう』
「……元気の良いお嬢さんですね」
店の奥へと駆けていく國達の背中を見つめながら、私は呟いた。風変わりな子だが、ここの店主とはどういう関係なのだろう。確か國達は居候がどうとか言っていたが……。
『嗚呼……あの子はですね。ちょっとした迷子でね。行くべき場所に行かず、うろうろとさまよっていたものですから。拾ってやったんですよ』
「拾った……?」
それはーーー果たしてどう受け取るべきなのだろう。例えば、國達は家出でもして町をうろついていたところを、桐島が見つけて保護しているとか?
私が眉をひそめたのを知ってか、國達はやんわりと笑んだ。屈託のない、柔らかな笑い方だったが、どこか嘘臭い笑顔に感じた。
笑いたくないのに、無理して笑っているようだ。
『あの子のことなら心配いりません。あの子には住む場所を提供しているだけですしね。その代わりなのか、あの子は僕の身の回りの世話を焼いてくれるんです。なかなか使えるお嬢さんですよ。珈琲を淹れるのも上手ですしね』
「はあ……」
『ところで。失礼ですが、ご用件のほうは何でしょうか』
「あ…嗚呼、そうでした。コレなんですけど」
手にした蛇の目傘を桐島に差し出す。彼は着物の袂から縁なしの丸眼鏡を取り出し、それを掛けた。
途端に彼の表情が一変する。つい先程までは優男の顔をしていたのが嘘のようだ。眼孔は鋭く、口はキリリと勇ましく結ばれている。
渡された蛇の目傘を閉じたり開いたりしながら、矯めつ眇めつ検分するその様子は、目の前の骨董品を査定する目利きの鑑定士そのものだ。
『これ……随分、古い物のようですが。どこで手に入れられたのでしょう』
桐島がちらりと私を見た。その威圧的な眸に蹴落とされそうになるが、何とか堪え、祖父の形見だと告げると、彼は「ふぅむ」と唸った。
『色合い、使われている原材料の竹、和紙の貼り具合……どこをとっても素晴らしいものです。古くはありますが、どこも傷んではないようですし。まだまだ使えそうですよ』
「まあ……そうなんですか。私も手放したくはないんですがね……、そろそろ使い勝手が悪くなってきたと言いますか……」
『つまり、この傘をお売りにいらしたのですね?』
曖昧に言葉を濁していると、桐島は蛇の目傘を開き、差した。クルクルと回してみたり、高く掲げてみたり、振ってみたり。そして得心いったというように、彼はニヤリとした。
『分かりました。十万円で如何でしょう』
「え…、十万、ですか」
『おや。ご不満ですか?』
「逆ですよ。本当に十万円で買って頂けるんですか?」
高値で売れるなんてこれっぽっちも考えていなかったので、仰天した。売れても精々、二万か三万くらいになるだろうと思っていたのだ。
それがまさか十万とは……。
私は一も二もなく、その傘を売った。十万円の入った封筒を受け取ったところで、店の奥から香しい珈琲の匂いが鼻孔をくすぐる。
『國達さんが珈琲を淹れてくれたようです。良かったら飲んでいかれませんか』
その誘を丁重に辞し、私は封筒を持って店から出た。雨はすっかり上がっていた。
※※※
國達がお盆に珈琲を三つ載せて戻ってきた時には、既に客人の姿はなかった。代わりに、彼が店に持ち込んだと思われる蛇の目傘を、桐島が嬉しそうな顔をして差していた。
まるで初めて傘を与えられた幼子のような反応である。
「なーに、その傘。やけにデカいね。使い勝手が悪そうだなぁ。桐島ちゃん、その傘買っちゃったのかい?」
『ええ。十万円で買ってしまいました。いいでしょう?』
「まぁた衝動買いかよ。きひひひ。無駄遣いばっかするなぁ。そのうち、破産するぜ。おまんま食い上げになるぜぇ?そーんな古い傘を十万円で買い付ける阿呆がどこにいるんだよ」
『十万だって安いほうですよ。コレね、ある特典があるんです』
そう言って。桐島は流し目で後ろを覗く。
彼の後ろにはーーー長い髪を垂らした女が恨めしそうに立っていた。眼球全体が白濁した白眼と化した女ーーー時節、ビクッビクッと痙攣しているかのように体を震わせている。
顔全体には節くれだった火傷の痕が、生々しく痕跡を残していた。頬の皮は一部がベロリと剥げて垂れ下がっており、女が痙攣するに合わせて、剥がれた皮膚がぶらぶらと揺れた。
だが、國達はキョトンとした表情を浮かべるのみである。こういう顔つきをする時だけ、初めて年相応の顔になるから不思議だ。
「何言っちゃってんの。特典って何さ?」
『……嗚呼、そうでした。女性には見えないんですよね』
桐島は苦笑すると、パタリと傘を閉じた。そして國達が淹れた珈琲にゆっくりと手を伸ばす。
『彼のお祖父様は、その昔、何をしでかしたのでしょうねぇ……。孫の代まで祟られるとは。でもまあ、傘を手放したからといえど、呪いから解放されるわけではないんですがね。それにこの有り様を見ればーーー恨まれるのも当たり前ですね』
「桐島ちゃん、何言ってっかぜーんぜん分かんない。秘密が多い男はモテないんだぜ?」
國達の皮肉も今は心地良い。彼女が淹れてくれた舌が焼け付くような苦さの珈琲を啜りながら、桐島はふとカウンター内に置かれた桐箱を見る。
『さて。コレもそろそろ使い時ですかね』
「何か言ったか、桐島ちゃん」
『いえーーーこちらの話』
※※※
駅前の大通りを抜け、立ち並ぶ商店街を歩き、小さな小道を歩くこと十六歩。そこには人知れずひっそりと佇む骨董品屋がある。
そこには気立ての良い若い男の店主と、風変わりな眼帯少女が暇を弄びつつ、日々働いている。
店の名前はまだない。
作者まめのすけ。