私は女だてらにタクシーの運転手をしている。といっても、まだほんの駆け出しだけど。
今は亡き私の父親もまた、長年タクシーの運転手を勤めていた。幼い頃、母と一度だけ父が運転するタクシーに乗せて貰ったことがある。
後部座席に座る私は、ハンドルを握る父の姿を見て常々「お父さんカッコいいな」と思っていた。家では寡黙な父がタクシーを運転している間だけは、よく喋るのもまた新鮮だった。
接客業が故、愛想良く振る舞うことが当たり前だったのかもしれないが……でも、滅多に見られない父の姿を見られて嬉しかった。
そんな私も、父に憧れてタクシーの運転手を勤めて二年目になる。夢が叶ったことで浮かれていた私とは違い、父は渋い表情を浮かべていた。
ーーー気をつけろよ。タクシーを利用する客が全員いい奴とは限らないからな。
父は出勤前の私に毎日そう言った。
それくらいは承知している。私に仕事のイロハを教えてくれた先輩は、以前、タクシー強盗に遭遇したらしい。
顧客を目的地まで送り、料金を貰おうとしたら、急に果物ナイフを突き付けられ「金を出せ」と脅されたらしい。
多発化するタクシー強盗の予防策として、タクシーに監視カメラを設置する取り組みも増えてきている。特に私は女という立場もあり、酔っ払いや中年男性の客に絡まれたりすることもあった。
母は心配して違う仕事を探したらと言うけれど。私はやっぱり尊敬する父と同じこの仕事が好きだ。今のところ、辞めるつもりは毛頭ない。
だが……。たった一度だけ。
恐ろしい体験をしたことがあり、その時は本気で辞めようかと悩んだ。
去年のクリスマスイブのことである。
街はクリスマスムードに包まれ、華やかに彩られていた。駅前にはイルミネーションやクリスマスツリーが飾り立てられ、人々の心を期待で膨らませる。
至る所ではサンタクロースの格好をしたアルバイトの学生が、寒さに震えながらもそれぞれの職務を全うすべく励んでいた。
肩を並べて歩くカップルや楽しげな家族が通りを歩いていく。それを横目に見ながら、私はタクシーの中で一人ぼんやりしていた。
こんな日はお客が来ないかも……なんて思っていた矢先。コンコンと助手席側の窓を叩かれた。
「すみませーん。乗せて貰えますか?」
白いロングコートを着た女性が赤と緑の包装紙に包まれた箱を持って立っていた。
「どうぞ」
ドアを開けると、女性は軽く会釈をして車内に入った。にこやかな笑みを浮かべた、優しそうな女性だった。
「今日はクリスマスイブで街中賑やかですねぇ……。で、どちらまで?」
「◎◎マンションに行って貰えます?彼氏が住んでるんですよ。今から二人でお祝いするんです。あ、そうだ」
女性は手元の箱を膝に乗せると、いきなりビリビリと包装紙を破き始めた。綺麗な包装紙は見るも無惨に紙切れと化していく。
私はあまりのことに言葉を失った。
「これね、彼氏にあげようと思って作ってきたんです。初めて作ったから、ちょっと形が崩れちゃったんだけど……」
破いた包装紙をくしゃりと丸め、彼女は箱を開き、私に中身を見せてきた。
箱の中身はーーーかろうじて「ケーキ」に見える物体だった。
一度床にぶちまけたんじゃないかというくらい、グズグズに崩れたスポンジ。ところどころ剥げた生クリーム。先が潰れた苺が乱雑に置かれていた。
極めつけはケーキの中央に飾られた板チョコだ。「MerryChrusimimas!」と歪な文字で刻まれている。
「美味しそうでしょ。頑張って作ったんですよ」
「え、ええ……。本当に……」
それしか言えなかった。女性に違和感と畏怖を感じつつも、車を発進させた。
女性は車中では無言だった。私からも話し掛けることはしなかった。法廷速度より若干のスピードを出しつつ、夜の帳を駆けてゆく。
◎◎マンションといえば、ここから車で十五分ほどの距離にある。逸る気持ちを押さえ込み、冷静を保ちながらハンドルを握った。
バックミラーを見る。潰れたケーキを大事そうに抱え、にこやかに微笑む女性が映っていた。
……彼女はまともではない。常軌を逸している。
恋人に対する嫌がらせだったのかもしれないが……わざわざクリスマスイブにそんなことをする必要性があるのだろうか。
彼女に対する恐怖がむくむくと膨らんでいく。何度もバックミラーを確認し、彼女の動向を窺ってしまう。
と。
ガチガチ……ガチガチ……クチャクチャ……
何かを噛んでいるような音が背後から聞こえてきた。
最初は女性がガムでも噛んでいるのかと思ったが、ふとバックミラーを見た私は息が止まりそうになった。
女 性 が 自 分 の 右 手 を 食 べ て
い た の で あ る。
親指以外の指は全て口の中に押し込まれ、両側の頬は異様なほど膨れ上がっていた。ガチガチと歯が動く度に血が滴り落ちていく。
女性は虚ろな表情で、ぼんやりと空を見つめながら自分の手を食べ続けていた。
ガチガチ……クチャクチャ……ガチガチ……
あの時の恐怖は筆舌に尽くしがたいものがあった。
私は嗚咽を噛み殺し、無我夢中で運転した。業務中に何かトラブルが発生した場合、会社に連絡を入れなくてはならないのだが……そんなことを考える余裕もなかった。
早くーーー早く、この客を降ろしたい。
それしか考えられなかった。
ほんの十五分が一時間にも二時間にも長く感じられた。目的地である◎◎マンションに着いた時は、安堵のあまり涙腺が緩んだくらいだ。
「ありがとうございました」
女性はにこやかに笑いながら、血塗れとなった右手で代金を差し出してきた。どうにか愛想笑いを浮かべ、それを受け取る。
女性はタクシーを降りると、◎◎マンションに向かって歩き出した。私はそれを幾らも見送らないうちに車を発進させ、逃げるようにその場を去った。
あの一件以来、私はタクシーに乗り込む客の顔をジッと見つめてしまう癖がついた。
この人はまともかな。この人は大丈夫かな。
そう思いながら、ついつい見つめてしまうのだ。
コンコン、と助手席側の窓を叩かれる。
「すみませーん。乗せて貰えますか?」
私ははっとして顔を上げた。
作者まめのすけ。