”俺には四つ年上の姉がいる”
こんな出だしで始まる名もなき物語を、何度も何度も繰り返し語ってきた。
それこそ日本昔話やアンデルセン童話のように、最終的には綺麗なオチで終われるような話でもなければ、涙を誘うような感動的な話でもない。携帯小説のようにロマンチックなラブストーリでもなければ、本格的なホラー小説というわけでもない。
玖埜霧御影という一人の人間について、あれやこれや語りたいように語っているだけなのだ。
血の繋がらない姉のことを。
怪異を見、そして祓えることが出来る彼女のことを。
一人の女の子のストーリーを。
そう。玖埜霧御影はただの十八歳の女の子であり、公立高校に通う高校生であり、時たまツンデレでブラコンな人間だ。人間過ぎるほどに人間なのである。
俺は今まで姉さんのことを超人的な存在として、やけに大袈裟に語ってしまった感がある。別に嘘はついていないけれど、それでもどこか誇張めいた表現をしてしまったことは認める。
弟の贔屓目と言われればそれまでだろう。ただ、誤解しないで貰いたいのは、俺が何度も窮地に立たされた時、救ってくれたのが姉さんなのだ。だからこそ、感謝並びに英雄伝でも語るように語ってしまい、つい羽目を外してしまった節がある。そこは反省しよう。
人間は何度でも失敗し、その都度反省もするのだ。
今回の物語はこれまでの反省を生かし、彼女の「人間らしさ」を語ろうと思う。玖埜霧御影が実に人間らしく生きているという物語を。
では聞いてほしい。
◎◎◎
実の姉と本屋に来ていることを想像して貰いたい。姉がいない人はバーチャルの姉を想像した上で、更に本屋に来ていると想像してみよう。
「…………」
ここは近所にある行きつけの大型書店の一角。たまの休日、家でゴロゴロしていたら、姉さんに「本屋に行くから付き合え」と蹴り起こされた。
ぼんやりしたまま、姉さんに手を引かれて本屋に来たはいいものの……。てっきり小説でも買いに行くのかと思いきや、姉さんはアダルトちっくな雑誌がわんさかと置かれてあるコーナーの前で止まったものだから、さあ大変。
立ち読みしていた成人男性がギョッとして姉さんを見、そそくさと立ち去っていく。それはそうだろう。当たり前の反応だ。
男性向けのコーナーに、まさか高校生くらいの女の子がいるなんて。そんな莫迦な話があるわけがない。というかあってほしくない。
現にそんな莫迦な話は、現実として俺の目の前に繰り広げられているのだけれど。
「ねえ、欧介」
「な、何でしょう……」
「こっちとこっちならどっちがいい?」
姉さんは恥ずかしげもなく、二冊の雑誌を手に取った。一冊は所謂熟女や人妻がメインのものであり、もう一冊は姉さんとそう年が変わらない女の子が表紙を飾るグラビア雑誌だった。
どっちがいい、なんて言われても……。恥ずかしさで頬どころか耳までじんわりと熱い。顔を上げることさえ恥ずかしくて俯いた。
「ねえってば。どっちがいいかって聞いてるじゃん。アダルト?ロリ?ハッキリ言えよ、男の子だろ」
「わ、分かんない……」
「じゃあ聞き方を変える。巨乳とペタンコ、どっちがいい?」
「具体化して言わないでー」
女の子がそんなこと言っちゃあダメだって!
恥ずかしさのあまり、手で顔を覆い隠す。すると姉さんは呆れたように溜め息をついた。
「大切なことなのに……。お前の性癖が知りたいだけじゃん」
「そんなこと知ってどうすんのさ!?」
「簡単なことだよ。お前の性癖知っておけば、本番で幾らでもーーー」
「問題発言だああああああっ!!!」
ダメだ。もうこの場には居られない。
俺は踵を返し、本屋を飛び出した。しばらくあの本屋には行かれまい。あーあ、あそこ品揃えが良くて気に入ってたのに……。
本屋を飛び出したものの、まさか一人で帰るわけにもいくまい。姉さんを店に残してきちゃったし。
まあ、姉さんも俺のあとを追い掛けてすぐ出てくるとは思うけど……。どうしよう、姉さんに怒られるかな。身包み剥がされちゃうかな。
……アーン。アアアーン。ウワゥ、ウアア……
「んん?」
何だろう。何か声がする。
ウウゥ……アアア……アーン、アーン……
「……猫、かな」
盛りのついた雌猫が鳴いてるのかな。それも割と近くで聞こえるんだけど。
アアアーン…アアアアアア……ウアア……ウアア……
「……どこだ?」
何となく気になって、本屋の周辺をウロウロしてみる。と、本屋の裏からぴょこんと女の子が現れた。
小学校高学年……五年生くらい、かな。黒髪をきっちりおさげに結んでいる。大きな瞳。小さな鼻と薄い唇。口元にポツンと小さな黒子があった。
その子は御包みを大事そうに抱えていた。御包みというのは、生まれたばかりの赤ん坊を包むための白い布のことである。
御包みの中からは、先ほど聞いたような泣き声がしていた。鳴いていたのは猫ではない。人間の赤ん坊だったようだ。
「………」
ふうむ、と。俺は唸った。
何だか妙な気がした。生まれたばかりの赤ん坊……あの女の子の弟か妹なのだと考えるのが妥当な線だと思うけれど。
普通、生まれたばかりの赤ん坊だったら、母親がベビーカーに乗せて連れ出しそうなものなのだ。しかし、抱いているのはどう見ても小学生くらいの女の子である。赤ん坊のお守りをするには早過ぎやしないだろうか。
念のため、辺りを窺ってみたが。母親とおぼしき人も保護者らしき人影も見当たらなかった。
御包みに包まれた赤ん坊は、ずっと泣いていた。その度に女の子が覚束ない手付きであやしたり揺らしたりしているが……一向に泣き止まない。
「……あ、あの。ちょっといいかな」
見るに堪えかね、女の子に話し掛けた。女の子は年の割には大人びていて、微塵も驚く様子がなかった。なかなか可愛らしい顔立ちをしているようだが、その顔には表情というものがあるでない。何も描かれていないキャンバスのようなーーー無表情。
姉さんの小さい時に似てるかも。
俺は女の子に警戒されぬよう、やんわりとした表情を浮かべて続けた。
「こんにちは、お嬢ちゃん。お名前は何て言うのかな」
女の子は目をぱちくりさせた。そして一瞬黙った後、やけに滑舌良く言い放った。
「山田花子です」
「山田花子ちゃんね。覚えやすい名前ってよく言われるでしょ」
「嘘です。偽名です」
「……嗚呼、そう。じゃあ本名は?」
「招基猫子(マネキネココ)です」
「猫子ちゃんね。渾名は招き猫でしょ」
「嘘です。仮名です」
「……嗚呼、そう」
なかなか愉快な性格してるよな、この子。
偽名でも仮名でもいいけど、本人が申告しちゃってんだから意味ないじゃん。
「知らない人に名前を聞かれても、答えちゃいけないって言われています。だから嘘つきました。ごめんなさい」
謝られた。いや別に君は悪いことしてないんだけど……それにしても淡々と喋るよな、この子。ここまで誠意を感じない謝られ方も珍しい。
世が世なら物騒な世の中なのだ。今や教育の一環として「知らない人間に話し掛けられても、答えてはいけない」と教えられているというのに。
迂闊だった。
「こっちこそごめん。でも、ちょっと気になったから」
そう言いながら、さり気なく御包みを見る。うん……ここからの角度だと赤ん坊の顔は見えない。
「赤ちゃんのお守りしてるの?君の弟か妹なのかな」
「いいえ。この子はーーーその、」
拾ったんです。
女の子の言葉に俺は絶句した。
拾 っ た ? 赤 ん 坊 を ?
「えと……、ごめん。もっかい言ってくれるかな」
「拾いました。道に落ちていたから」
聞き間違いではなかった。女の子は嘘をついたり冗談を言ってる風には見えない。だが、これが事実だとしたら大問題だ。
それこそ、警察沙汰の騒ぎになるくらいに。
「拾ったって……どこで拾ったの」
「学校の帰り道に拾いました。四つ辻で拾いました。そのまま家に持ち帰りました」
「それはいつ頃の話?」
「一週間くらい前、です」
一週間も前。じゃあ、この子は道端に落ちていた赤ん坊を拾い、一週間もの間、面倒を見てたというのか?
まさか。それはどう考えでも有り得ない。第一、女の子の親が黙っているわけがない。赤ん坊を抱いて家に帰ってきた時点で驚愕し、すぐさま警察に届けるだろう。
家族ぐるみで赤ん坊のことをひた隠しにするわけないし……。
「おい」
ペシンと頭を叩かれた。振り返ると、仁王みてーな顔をした姉さんが仁王立ちしていた。見たところ手ぶらなので、何も買わずに出てきたらしかった。
「何してんだ、てめー。やっぱりロリが好きなのか。それにしたって小学生をナンパしてんじゃねえよ。この変態が」
「違うってば!話を聞いて!」
「目潰しと鼻フック。どっちがいい?」
「だから話を聞いてー!」
怒り心頭な御影さんを何とか宥め、俺は事のあらましをざっと説明した。姉さんは疑わしそうな目つきで俺を睨んでいたが、ふと女の子に目をやった。
女の子は困った顔をして佇んでいた。相変わらず赤ん坊はずっと泣き続けているし、見知らぬ男子中学生に加え、おっかない顔をした女子高生まで現れたのだ。女の子にしてみれば、たまったものではないだろう。
「初めまして。私は玖埜霧御影といいます」
姉さんは丁寧に自己紹介すると、軽く微笑んだ。そして軽く会釈。女の子のほうも、つられる形で会釈を返した。
「あなたのことは何て呼べばいいかな」
畳み掛けるように姉さんが尋ねる。女の子はしばらく口ごもったが、「サキ、と呼んで下さい」と答えた。
サキ。偽名か仮名か或いは本名なのかは分からない。しかし、本人がそう呼んで下さいと言うのだから、そう呼ぶべきなのだろう。
「サキさん。あなたの家に行きたい。行ってもいい?」
姉さんが急にとんでもないことを言い出した。女の子は目を丸くし、俺は再び絶句した。
な、何で?何でいきなり家に行かせてくれだなんて言い出したんだろ。
サキも困惑した表情を浮かべ、オロオロと俺と姉さんを交互に見比べた。しかし、姉さんはにっこりと笑ってサキの肩をポンと叩く。
「確認したいことがあるの。行ってもいいかな」
「でも……」
「大丈夫。あなたを悪いようにはしないから」
「家は……、その……、」
「いいよね?」
「………」
口調は穏やかだが、有無を言わせまいとする口振り。サキはしばらく黙り込んでいたが、やがて仕方なさそうに頷いて呟いた。
「分かりました。ついてきて下さい」
◎◎◎
サキの家は本屋からさほど遠くない場所に位置する一軒家だった。ごくごく普通の一軒家。表札には「朝焼」と出ていた。
ここがサキの住む家であるらしい。
「どうぞ。上がって下さい」
言われるがまま玄関先に入る。サキは一番最初に家に上がり、赤ん坊を抱きながらフラフラと廊下を歩いていく。
「お邪魔します」
俺達は靴を脱ぎ、家に上がった。家の中はシンと静まり返り、物音一つしない。そういえば……サキの両親の姿が見当たらないけれど、外出中なのかな。
いいのかなぁ……両親が不在中に勝手に家に上がり込んで。しかも今日会ったばかりの小学生の家に。
「こっち、です」
サキが目で合図した。廊下を曲がったすぐ先にリビングがあり、「ソファーに座っていて下さい」と言われたのだけれど。
「……うわぁ」
俺はあまりの有り様に眉をひそめた。リビングがあまりにも汚かったからである。
ダイニングテーブルの上には、食パンの耳やら出しっぱなしのジャム、空の菓子袋、フォークや茶碗などが所狭しと並んでいる。
それはダイニングテーブルに留まらず、フローリングの床にも広がっていた。放り投げられたままのランドセル、テスト用紙、教科書、筆箱……漫画本や丸められたティッシュ、Tシャツ、スカートなどが散乱しており、足の踏み場がない。
革張りのソファーの上には、うっすらと埃が溜まっている。ここ最近は掃除をされていないことが分かってしまうような状態だった。
別に潔癖症というわけではないけれど。しかし、何だかこのソファーには座りたくない……。座ることを躊躇していると、サキがやってきて赤ん坊をグイと差し出してきた。
「抱いてて貰えますか」
「だ、抱いててって……俺が?」
「お茶を淹れたいんです。でも、両手が塞がっていると無理ですから」
「あ、嗚呼……はい」
そんなこと言われても……赤ん坊なんてどうやって抱けばいいんだろ。せめて俺じゃなくて姉さんに頼めばいいのにと思ったけれど。そういえば、姉さんの姿が見当たらない。
トイレにでも行ったんだろうか。
「ムクちゃんをお願いします」
「ムクちゃん?」
「この子の名前です。私が付けました」
「へえ……」
ムクちゃん、ねぇ。変な名前。
とりあえず赤ん坊を受け取り、おっかな吃驚抱き上げる。初めて間近で赤ん坊の顔を覗き込んだ俺は、あまりの衝撃に息を呑んだ。
それはーーー人間の赤ん坊じゃなかった。
何と形容すればいいのだろう……。確かに顔立ちは人間っぽいが、どちらかといえば猿に似ていた。とはいえ、可愛らしい小猿をイメージしてはいけない。
年老いた猿、とでも言うべきか。顔中しわくちゃで、白っぽい体毛に全身を包まれた小さな猿だった。眼球も白く、黒目がない。おまけにクチャクチャと口を盛んに動かしている。
「…………」
正直言ってーーー気持ち悪い。
こんな猿の化け物みたいな奴が、人間の赤ん坊みたいな声を上げて泣いていたかと思うと……。何だってサキは、こんな得体の知れない猿なんかを拾ってきたんだろう。
野生の猿……にも見えない。どう見ても猿の化け物だった。
ベッ。
不意に猿の化け物が唇をすぼめたかと思うと、口から何かを吐き出したのだ。長い間、噛み続けて味のなくなったガムを道端に棄てるように。
「汚いなあ、もう……」
何を出したんだ、こいつ。俺はそろそろと腰を屈めて猿の口から吐き出された物を見た。
「ウインナーか……?いや、違う……」
細長くて、赤黒い。先端には黄ばんだ何かがくっついていてーーー
「ーーー指だ」
指。それはまさしく人間の指だった。赤黒かったのは何度も歯で噛み潰されたためであり、黄ばんでいたのは剥がれ掛けた爪だった。
「あ……、あああ、ゆ、指……、指が……」
こいつ……人間の指を食ってたのか。
腕の力が抜け、ボトリと御包みごと猿の化け物を落としてしまった。猿の化け物は、またしても火がついた赤ん坊のように泣き叫ぶ。
アアア……!ウギャーワワワ……!ウアアアア!
「ムクちゃん!」
サキが駆けつけ、猿の化け物を抱き上げた。サキは非難がましい目つきでこちらを見たが、俺は弁解する気力もなく、呆然と立ち竦んでいた。
「お兄さん。ムクちゃんを落としたらダメでしょう。痛いって泣いてますよ」
「お……おい。そいつを離せ。そいつはヤバい」
「可哀想に。痛かった?よしよし、泣かないの」
サキは俺の言葉を無視し、猿の化け物をあやし始めた。まるでくずる赤ん坊をあやす母親のように。
「よしよし、よしよし。泣かない泣かない……」
ウア……、ギャアンンン……アアア……、ウアアア……
「…ッ、」
俺は軽くパニックになりながらも、猿の化け物をあやすサキの手元を確認した。右手の親指、人差し指、中指、薬指、小指……うん。五本ある。左手はどうだ。親指、人差し指、中指、薬指、小指……ある。五本ともある。
ということは。あの千切れた指はサキのものではないということになるがーーー一体誰の指なのだろう。
と。リビングにひょっこり姉さんが現れた。
「ね、姉さん……」
「御影さん。どこに行ってたんですか」
俺とサキはほぼ同時に口を開いた。姉さんはスタスタと先の真正面に立つと、両手を差し出した。
「可愛い子だね。抱かせて貰える?」
「………」
サキは無言で猿の化け物を差し出した。その動作には一瞬の迷いも感じられない。俺の気のせいかもしれないが、「可愛い子」だと言われてサキは少し嬉しそうにしていた。
可愛いだなんて……あの猿の化け物が?
どこをどう見ても、可愛らしい要素など何一つない。それにそいつは人間の指を口に入れてクチャクチャと噛んでいたのだ。姉さんの指が噛まれやしないかと、俺はヒヤヒヤしながら経緯を見守る他ない。
姉さんは猿の化け物を受け取ると、サキと同じようにゆらゆらと揺すり、あやした。猿の化け物はしばらくグズグズとむずがるような声を出していたが、やがて大人しくなった。
「この子が大切?」
姉さんがサキを見て呟いた。その質問にサキは首を縦に振って肯定を表す。
「大切です。とても大事です」
「どうして大切なの?」
「私、他に友達がいないから。その子は初めて出来た友達です。だから大切なんです」
「どのくらい大切なの?」
「一番です。一番大切です。何より大切」
「お父さんやお母さんより?」
「……、」
すらすらと淀みなく答えていたサキだったが、ここにきて初めて口ごもった。
お父さんやお母さんよりも、猿の化け物のほうが大切なのかと聞かれ、困ったような表情を浮かべて黙っている。姉さんは更に続けた。
「どうなの。お父さんやお母さんよりも大切なの?」
「お、お父さんとお母さんは……いない……。いない、から……分かりません……」
「いつからいないの?」
「…、一週間前……からです」
「どうして?」
「え?」
「どうしていないの?」
「それは、」
それは。
それは。
「ムクちゃんが、食べちゃったからです」
◎◎◎
サキは一人っ子で両親と三人暮らし。父親は銀行員、母親は専業主婦。至って普通の家族構成ではあるが……この両親というのがなかなかに厳しい人達なのだそうだ。
夫婦揃って有名大学出身であり、父親は大学を出た後も順風満帆で、出世街道を闊歩するエリート。母親は元教師であったという。
教育に厳しい両親だったらしい。特に母親は父親以上に厳しい人で、サキに習い事や稽古事を山のようにさせた。ピアノ、英会話、バイオリン、油絵、塾など。習い事や稽古事があるため、友達とはほとんど遊ぶことなく、クラスでも孤立していった。
一人娘をきちんとした娘に育てあげようと、英才教育に励んでいたのかもしれない。自分達がそうだったように、立派な大学を出て、いい会社に就職することこそが一番の幸せだと考えた結果であるのかもしれないけれど。
親の心、子知らず。サキには両親がどうしてそこまで必死になって「勉強しろ」だの「習い事をしろ」だの口煩く言うのかサッパリ分からなかった。
「お父さんもお母さんも怒ってばかりいました。いつもいつも怒ってばかりでした」
いつしかサキは、両親の顔色ばかり窺うようになっていた。親から言われたことは徹底的に守り、言い付けに背くようなことは一切しなかった。模範的な「いい子」を演じ続けていたのである。
そんなある日のこと。サキは学校帰りに、道端で御包みに包まれた何かを見つけた。場所は十字路ーーー四つ辻に差し掛かった辺りに御包みごと捨てられていたらしい。
最初は驚いたそうだが、子どもなりに好奇心があったのだろう。そっと近寄り、御包みを抱き上げた。中身は猿の化け物だった。だが不思議と怖くなかったという。
「可愛いと思いました。だから持ち帰ったんです」
その日はピアノの稽古があったのだが、初めてサボった。父親はまだ仕事から帰ってきておらず、ちょうど母親も買い物に出掛けていて留守だった。サキはほっとし、猿の化け物を抱いたまま家に上がった。
以前、道端に棄てられていた子猫を拾って持ち帰ったことがあった。その時は母親に見つかり、物凄く叱られた。元の場所に返してきなさいと怒鳴られ、泣きながら返しに行ったこともあるそうだ。
今回は、そんな失敗を繰り返したくない。サキは猿の化け物を自室へと連れ込み、ベットの下に隠した。ここでこっそりと飼うことにしたのだ。
ところが。
「買い物から帰ってきたお母さんに、見つかってしまって……」
運が悪いというか何というか。母親の携帯にピアノの講師から連絡が入り、サキのサボタージュがバレてしまった。母親は烈火のような勢いで家に戻り、その足でサキの部屋に駆け込んだ。
そしてベットの下を覗き込んでいるサキの姿と、御包みに包まれた猿の化け物を見つけてしまう。
それから数十分。サキは母親から「お仕置き」を受けた。それがどんな内容のものだったかサキは多く語らなかったけれど……肉体的にも精神的にも苦痛を伴うものだったらしい。
やがて帰宅した父親にもサキのサボタージュは伝わり、父親からも厳しい叱責を受けた。今日はもう遅いので、明日の朝一番で猿の化け物を元いた場所に返してくるようにと命じられた。その日、サキは猿の化け物を抱いて泣きながらベットに入った。
翌朝。サキが目を覚ますと、抱いていたはずの猿の化け物がいなかった。慌てて部屋中を探したが、どこにも見当たらない。
どこに行ったんだろう。サキは自室を出て他を探し回ることにした。すると、何やら生臭いようなーーー鉄の錆びた臭いのようなーーー酷い臭いが漂っていることに気付いた。
鼻を押さえ、臭いの強くなっているほうへと歩いていく。そこは両親の寝室であった。
数回ノックし、声も掛けてみたが返答がない。恐る恐るドアを開けると、ドア付近に猿の化け物が転がっていた。サキは猿の化け物を抱き上げ、寝室の光景を目の当たりにした。
「お母さんはいなくなってました。お父さんは半分だけ残っていました」
半分だけというのが果たしてどんな状態だったのか……それを聞くだけの勇気は俺にはなかった。
両親の変わり果てた姿を見た時、サキは思わず力が抜けたように笑ってしまったという。両親が既に生きていないことは承知の上だった。勿論、悲しくないわけがない。
だが……。それ以上に、どこか安堵してしまう自分もいたそうだ。これでようやくやりたくもない習い事から解放される。毎日のように叱られなくて済む。「いい子」を演じなくてもよくなる。
それから一週間。サキはこのことを誰にも言わずに生活をし続けた。
流石に習い事には行かなかったが、学校には通った。いつも通りに授業を受け、帰宅し、家に帰る。宿題を済ませ、明日の準備を早めに終わらせ、猿の化け物の相手もした。
母親がいないので、食事する面では苦労したと言っていた。サキもたまに食事の支度を手伝わされていたが、せいぜい米を研いだり野菜を切ったりする程度。一から十まで習ったわけではないため、当然ながら自分で料理を作れるはずもない。
仕方がないので、冷蔵庫に入っていた物をそのまま食べていたらしい。食パンやハムや生野菜、そして電子レンジで簡単に調理出来る冷凍食品などを。
お風呂は自分で操作することが出来たので、自分で沸かして入っていたのだそうだ。ただ、掃除はあまり手伝わされたことがなく、やり方がよく分からなかったので、いつの間にかリビングは汚くなってしまったのだとサキは語った。
寝室に残された半分と化した父親。あれもサキが学校に行ってる間になくなっていたらしい。サキ曰わく「ムクちゃんがお腹を空かせて食べたんだと思います」。あまりにもサキが淡々と、他人事のように話すので、俺はそんな彼女が少しだけ恐ろしくなった。
そんな奇妙な生活が一週間ほど経った頃。サキは猿の化け物を連れて外出した。サキにしてみれば、軽いお散歩のつもりだった。町中をアテもなくブラブラしていた時に、偶然俺達と出会ったのだ。
姉さんは二階を指差した。
「悪いと思ったけど、家中を家捜しさせて貰った。二階の寝室も見てきた。お父さんーーーまだ少し、残ってたよ」
「……そう、ですか」
「この子は私が預かる。いいね?」
「………」
サキは姉さんの腕の中にいる猿の化け物をぼんやりと見つめた。もっと駄々をこねるとか、怒ったり泣いたりするんじゃないかと思ったが、サキはぼんやりしたまま頷いた。
「分かりました。ムクちゃんをお願いします」
◎◎◎
それから何をしたかというと、まず姉さんは警察に通報した。携帯から掛けると身元がバレるため、家の固定電話を使用しての通報だった。
猿の化け物についての件は何一つ言わなかった。話したところで信じて貰えるはずもなく、かえって怪しまれるだけである。それくらいは俺にも分かる。
姉さんは近所の住民を装い、「朝焼さんのご夫婦が子どもを残したまま、家に帰ってきていないそうだ」というような嘘をついて、上手く誤魔化していた。通報後、サキには家でジッとしているように言い聞かせ、俺達は朝焼家をあとにした。
この先は警察の判断に任せるしかない。サキの今後が非常に心配だったが……両親がいない今、親戚の家に引き取られるかもしれないし、身寄りがない場合には児童養護施設に預けられるかもしれない。
どちらにしても気苦労は多そうだけれどーーーサキには幸せになって貰いたい。今以上には幸せにならないと、割に合わない。
ここで誤解なきよう言っておくが、サキは別に「悪い子」ではないのだ。
両親が猿の化け物に食い尽くされ、跡形もなくなったと分かっても、泣くことすらしなかった彼女。それは決してサキが親不孝者だったからじゃない。
教育熱心だったサキの両親。一人娘をきちんとした人間に育てたいと思う彼らの考えも分からなくはないけれどーーー少し重過ぎた。サキにしてみれば。
毎日毎日、やりたくもない習い事に明け暮れていたせいで学校では孤立していき、家に帰れば教育熱心な両親の前で「いい子」を演じ続けなくてはならなかった。テストでいい点を取れなかった日などは夕食を食べさせて貰えず、夜遅くまで勉強を強いられていたとも言っていたから……相当なものだったのだろう。
だから。サキは彼らがいなくなったと分かった時、少なからず安堵したのだろう。彼女にしてみれば、ようやく呪縛から解放されたような気分だったのかもしれない。
そう考えてみれば、サキが年の割に大人びていることや表情の変化に乏しいことにも説明がつく。我慢に我慢を重ねた結果であり、自分の感情を押し殺してきた結果でもあるのかもしれない。
度が過ぎる愛情は、時に子どもを苦しめる。サキはただの被害者なのかもしれなかった。
そんなことを考えながら、俺達はサキが猿の化け物を拾ったという四つ辻に来ていた。四つ辻とは道が十字に交わっている場所である。
「四つ辻ではね、拾い物をしてはいけないんだよ」
猿の化け物を両腕に抱えながら姉さんは言った。そして順番にそれぞれ四つある角を指差す。
「四つ辻は四つの角が入り交じる場所だから四界ーーー当て字にすると”死界”。死者の国に繋がる入り口だと考えられてきた」
「死者の国……あの世ってこと?」
「厳密に言えば、その解釈だと正解とは言えないが……まあ、分かりやすいからその解釈でいいや。昔はね、四つ辻は”魔や邪が集う場所”として恐れられてきた」
魔や邪。一番馴染みのある言い方をすれば怪異だ。怪異がより集まる場所ーーーそれが四つ辻。
「昔はね、厄年に生まれた赤ん坊は厄を運んでくるという謂われがあった。厄年に赤ん坊が生まれると、その家族は早死にするとされていて、とかく縁起が悪かったんだ。だから生まれたばかりの赤ん坊を四つ辻に棄てたんだよ」
昔々。ある若い夫婦の間に赤ん坊が生まれた。跡継ぎとなる待望の男の子であったが、夫婦は素直に喜べなかった。
男の子が生まれた年が厄年ーーー厄がある恐れがあるため、目立つ行動を控えなくてはいけない年だったからだ。厄年に生まれた子どもは不吉であり、厄を齎すものとして考えられていた。
夫婦は嘆いた。厄年に生まれた赤ん坊は短命であるとされ、その両親も様々な災厄に見舞われた後、同じく短命であるとされていたからである。
夫婦は悩み苦しんだ結果、我が身可愛さから子どもを棄てることにした。村の四つ辻に赤ん坊を置き去りにし、こんな願掛けをしたのだという。
”赤ん坊を拾った人間に、厄が移りますように”
「こうした風習は実際に日本で行われていたんだよ。四つ辻ではよく水子供養の地蔵を見掛けるのもそのせいかもな。夫婦は赤ん坊と一緒に厄も棄ててきた。次に現れた誰かが哀れに思って赤ん坊を拾った時、その人間は厄も一緒に拾ったことになる」
「そんな理不尽な……」
「理不尽だろうが何だろうが、人は所詮そういう生き物なんだよ。我が身可愛さに、我が子を棄てる親は実際にいたんだから。勿論、うちの両親みたいに心根の立派な人だっているけどな」
姉さんはそう言いながら、猿の化け物を道端に置いた。俺は焦って姉さんの袖を掴んだ。
「えっ……。こいつ、ここに置いとくの?」
「そうだよ」
「でも、こいつを野放しにしてたら次の被害者が出ちゃうんじゃ……」
「こいつは厄なんだ。誰かが我が身可愛さに棄てた厄そのものだ。厄年は神社に行けば御祓いは可能だけれど、厄そのものを祓うことは出来ない。私にはどうしようもないんだよ」
「でも……、」
「お前も注意するんだな。お前みたいな人のいい奴が犠牲になることもあるんだよ。お人好しな奴は優しいからね。優しいからこそーーーほっとけなくて手を差し伸べてしまう。その手を噛み付かれてからじゃ遅いんだぜ」
行こう、と。姉さんが俺の肩を押した。後ろ髪を引かれる思いで俺達は帰路につく。
後味が悪いというか……最終的に何も解決したことにはならない事件だった。ハッピーエンドでは勿論なく、むしろバッドエンド。問題は未解決のまま、放置されるしかないのだ。
今後は誰もあの猿の化け物を拾いませんようにと、それこそ願掛けすることくらいしか出来ない。
「ねえ、欧介」
ふと姉さんが歩みを止めて俺を見た。重苦しい空気を変えるために何か明るい小話でもしてくれるのかと思ったがーーー期待はアッサリと裏切られた。
姉さんは大真面目な顔と口調で不真面目な話を切り出した。
「性行為をする最終的な目的って、子どもを作ることだよな。そうだろ?」
「……………………………………………………はあ?」
何それ。この人、一体何を言い出すの。
ポカンとしている俺にグッと顔を近付け、姉さんは不遜な笑みを浮かべて呟いた。
「赤ちゃんて可愛いよねぇ……。欧介、赤ちゃん欲しくない?」
「またしても問題発言だああああああっ!!!」
作者まめのすけ。