昭和五十年代前半、梅雨時の昼下がり。
幼稚園から帰った私は自宅のあるマンション内を探検していました。
当時私は両親と三人暮し。
ひとりっこな上、マンションの住人は市会議員や県会議員、大会社の取締役社長等、祖父母世代のご家庭ばかり。
同年代の子供は皆無で、雨の日はつまらない、そんな建物でした。
そんな私が編み出したのがマンション探検。
大きな建物だったので小さな体の私はかなり楽しめました。
しかし、梅雨は長いもの。
「もっと面白い事ないかなぁ。」
マンション探検にも飽き、更なる刺激を求め、ちょろちょろ歩き回っていると一瞬視界が歪んだ気がしました。
慌てて前を見ると文化住宅にありそうな古い木製の玄関。
その横にキッチンの窓。
その窓が少し開いていて、湯気と良い香りが漂っていました。
不思議に思って今来た道を振り返ると、同じ文化住宅の玄関が並んでいます。
「あれ• • •?」
マンション独特の鉄の扉が木製の扉に変わっていました。
事態が呑み込めず固まっていると、湯気の出ているお宅の窓から優しい声。
「ゆ〜ちゃん、お味噌汁できてるから上がっといで。」
何の疑いも持たず、すんなりと入る私。
中は見たことのない間取りで、私にとって珍しい物ばかりでした。
狭い三和土、正面にお手洗い。
廊下はなく、右手にいきなりキッチン。
奥にはすりガラスの引き戸が開け放してあり、そこにちゃぶ台とお座布団。
当たり前のようにお座布団に座る私、当たり前のようにお味噌汁を出してくれるおばちゃん。
おばちゃんのお味噌汁はふんわりとして、濃厚で、それでいてさっぱり。
お味噌汁だけで一品のおかずになる、そんな味でした。
「ママのお味噌汁も美味しいけど、おばちゃんのお味噌汁はもっと美味しいね。」
「あら、嬉しい。気に入ってもらえてよかった。でもママも上手でしょ?」
「うん!」
お味噌汁を飲み終え、ご馳走さまをした私はふと窓をみました。
「あれ?お外晴れてる!」
「そうね、ゆ〜ちゃんお庭で遊ぼうか。」
「うん!」
ちゃぶ台のお部屋の奥は小さなお庭になっていました。
そこで時間が経つのも忘れておばちゃんに遊んでもらいました。
私の両親は混血で、日本の伝統的なあそびがあまり得意ではありませんでしたが、私はおばちゃんに教えてもらったおかげでおじゃみや、剣玉、コマ回し、羽子板などの昔の子供の遊びを沢山覚え、幼いながらも百人一首で遊べました。
それらは自分が母親になってからすごく役立ったのですが、幼少期から学生時代などは、百人一首大会で一位とか、おじゃみでジャグリングとか、周りを驚かせたことも。
お味噌汁の作り方や、おかずの味付けも教えてもらいました。
それが今、日常生活でもとても役立っています。
さて、そのおばちゃんの家からはいつも知らない間に帰ってきていました。
気づくとマンションのエントランス付近に立っており、管理人さんに促され帰宅するのでした。
そんな事が暫く続いた梅雨もまだ明けきらないある雨の日。
幼稚園バスで帰宅しましたが、降車して辺りを見まわしてもいつもお迎えにくる母がいません。
仕方なく一人で帰宅すると、トイレでエヅく母がいました。
心配で声をかけても「ごめんね。大丈夫よ。」の一点張り。
終いには「心配せんと遊んどいで。」と言われ、後ろ髪引かれながらも通い慣れたお味噌汁のおばちゃんの家へ行きました。
「ねぇ、おばちゃん、ゆ〜が幼稚園から帰ったらママがトイレでゲェゲェしてるの。大丈夫かなぁ。」
少し考えたおばちゃん。
「ママ大変ね。もしかしたらゆ〜ちゃん、お姉ちゃんになるのかもね。」
笑ったおばちゃんは少し寂しそうでした。
「お姉ちゃん?」
「ゆ〜ちゃんに弟か妹ができるかもよ。ゆ〜ちゃんにはいつかお話しないとって思ってたけど。ここはね、九つまでしか来れないのよ。そしてね、ひとりっこしか来れないの。だからゆ〜ちゃんがお姉ちゃんになったら九つになる前でもおばちゃんとは会えないのよ。」
突然すぎてあまり意味が理解出来ませんでした。
でもなんとなく、あと少ししかここに来られないんだと思いました。
季節は流れ• • •
ある寒い日の昼下がり、私はまたお味噌汁のおばちゃんの家にいました。
「ゆ〜ちゃん、ママのお腹は大分大きい?」
「うん!ママのおへそが天井向いてて面白いねん!妹生まれるのむっちゃ楽しみ!」
「そう、妹なの?」
「うん!妹!」
それからしばらく経った暖かい春の日、元気な「弟」が生まれました。
それでも嬉しかった私は弟が生まれた事を伝えようとおばちゃんの家へ行ってみましたが視界の歪みも起こらず、いくら探してもあの空間は見つかりませんでした。
5年後、父の仕事の都合で引っ越し、この事は私の中で封印されました。
この時から約十年、一度もおばちゃんの事を思い出す事はありませんでした。
思い出したきっかけはまたの機会に書きたいと思います。
ご拝読ありがとうございました。
作者ゆ〜
怖くないお話ですが、不思議ではあるので初投稿させていただきました。
読んでいただけてとても嬉しく思います。
今から十年程前、主人と中学生になった娘と3人で件のマンションに行きましたが、もちろんお味噌汁のおばちゃんには会えませんでした。
こんな曖昧な記憶のためにわざわざ出向いてくれた家族と、マンションを案内してくださった管理人さんに感謝してます。