國達晃(クニダチアキラ)といえば、一風変わった外観と性格を併せ持つ中学二年生である。
肌の色は病人かとまごうほどに青白く、左目にはいつも眼帯をしている。この眼帯は外されたことがない。怪我をしているのか、或いは病気なのか。それとも格好付けたがりのただのポーズなのかは分からない。分からないし、聞いてみたこともないので、一生分からないままだろう。
そんな外観もさながら、國達は性格もそれに比例して変わっている。根っからのオカルト好きを誇る彼女は、授業中だろうと何だろうと、時たま奇声を上げることもあった。これには流石の担任教師も呆れ、授業を妨害する気なら教室から出ていけと何度も叱責を飛ばしていた。
担任教師ですら手を焼く彼女には、当たり前というか自業自得というか友達がいない。一人もいない。クラスメートは國達のことを変わり者と称して嫌っていたし、蔑んでもいた。一部のクラスメートからは執拗な苛めも受けていたらしい。
だが。國達晃という女は意外としたたかな奴でもあり、苛めを苦にして不登校になるようなことも、教師に苛めの事実を訴えることもしなかった。いつだって飄々と、大気中に漂う二酸化炭素の如く教室にいた。
自らの席に腰掛け、頬杖をついて。ニヤニヤと、クラスメートのことを小莫迦にするような、嫌味っぽい笑みを浮かべて眺めていた。
何を考えているのかまるで分からない、クラスで孤立化した変わり者の女子、國達晃。しかし、彼女はもういない。突然の交通事故に見舞われ、亡くなったからだ。
担任教師からホームルームの時に彼女の訃報を聞かされた時、俺はすぐには信じられなかった。つい昨日まで國達は確かに同じ教室内にいたというのに。それが今朝にはもういないだなんて。
だが、特別に悲しいとは思わなかった。俺だって苛めに加担こそしなかったものの、國達と特別親しかったわけではないし、どちらかといえばいい印象は持っていなかったのだから。
だが。
担任教師から國達の黙祷をするように言われ、クラスメートと共に立ち上がった。目を瞑り、数秒間黙祷をする。國達の冥福を祈る。そして目を開けた。
目を開けた俺はーーー思わず泣いてしまった。泣いたとはいえ、わんわん大泣きしたわけではなく、涙が一筋流れただけだったけれど……泣いてしまった。泣けてしまったのだ。ガラにもなく。
だって。
黙祷が終わった途端、担任教師も、そしてクラスメートも、平気な顔をして授業を始める準備をしていたからからだ。
涙も見せず、國達の死を悼むこともなく。クラスメートらが全員、そして担任教師ですら同じ反応をしたからだ。
当たり前のように日常生活へと戻ろうとしていたからだ。
正直、國達が死んだことよりも衝撃的だった。あの時のことは、今でもフラッシュバックのように時折蘇り、心の奥を抉る。容赦なくグリグリとーーー抉られる。抉り続ける。これから先も一生。
……ごめんな、國達。
本当にごめんな。
◎◎◎
「だからぁ。莫迦の一つ覚えみたいにごめんごめんと謝られても、私としては挨拶に困るんだけどな。玖埜霧は本当、莫迦が付くほどお人好しだね。きひひひっ」
「……いい加減、その笑い方よせよ」
「いやね。玖埜霧は自分のことを色々責めてるみたいだけれど、私にしてみれば、クラスメートの連中が私のためにさめざめと啜り泣いていたら気持ちが悪いよ。むしろ何事もなく日常生活を始めてくれたんだから、それでいいじゃないか。きひひ。たかが私が死んだくらいで泣いてる玖埜霧のほうが迷惑だよ。気持ち悪いなぁ。男の腐った奴みたいだ」
「男の腐った奴って何だ。忘れてたけど、お前も結構、毒舌なんだったな……」
俺は教卓に腰掛ける國達を見詰めながら嘆息した。時は既に夕暮れ時ーーー黄昏時である。
昔は今のように道端に街灯がないため、夕暮れ時になると人の顔が判別しにくかった。黄昏というのは「誰ぞ彼」、つまり「あなたはだあれ?」という意味からきているらしい。
そして黄昏時は別名「逢魔が時」。幽霊や妖怪が出没しやすい時間帯とも言われている。そしてその言葉通り、日直当番で、放課後一人教室に残っていた俺の前に幽霊は現れた。
幽霊ーーーつまり國達晃のことである。
「お前、まだ成仏してなかったの?事故から結構経つけど、幽霊としてのお前に会うのは三回目だよ」
「きひひひっ。成仏なんかするわけないじゃないか。この世に未練がたらたらあるから成仏なんか出来るわけがない。幽霊って世の中に未練があるから成仏しないんだよ。それくらいジョーシキだよ。幼稚園児だって御存じさ」
「未練、ねぇ……。そりゃ中学生で死んじゃえば未練もあるだろうな。したかったことも出来ないわけだし、将来の夢も奪われたんだし……」
「夢。そうそう、それだ。それだよ玖埜霧」
國達は名案を思いついた時のようにポンと手を打ち、俺に手招きした。俺は書き途中の日誌から顔を上げ、「何だよ」と返事をしたその瞬間。
「ちゅっ」
「…がっ!?」
ちゅうされた。ほっぺに。ちゅって。
「きひひひっ。何だい何だい、顔が真っ赤だよ?たかだかほっぺにキスされたぐらいでそこまで照れる男子もなかなかいないぜ。もしかして玖埜霧、女の子からキスされたことないの?」
「……奪われそうになったことはあったけど。でも、その時は何とか回避してたのに……」
女の子っていうか姉さんになんだけどな。言えないけどさ、そんなこと。
キスされたほうの左頬を手で押さえた。女の子にキスされるのなんていつ以来のことだろう。姉さんを覗けば幼稚園児の時以来か……って違うよ。そうじゃなくて。
「何をするんだよ!」
「何って。きひひ、ほっぺにちゅうしただけじゃないか。私にとって唯一無二の友達であるところの玖埜霧に対しての激励であり、励ましであり、伏線でもあるんだよ」
それだけ言うと。國達はふいに大真面目な表情を浮かべ、教卓から降りた。そして黒板の前に立つと、チョークを持ち、やたらと大きく、しかも達筆で「夢」と書いた。
「夢……。夢が何なんだよ」
「夢って言ったって、将来の願望じゃないよ。寝て見る夢のほうだ。睡眠中に見るリアルな風景や概念、心像のほうだよ。分かる?時間がないからサクサクいこうぜ。本来ならね、今、私がしている行為は褒められたものじゃないんだ。どちらかと言えば悪いことだよ。本来、怪異というモノは人をに悪影響を与えるモノであって、人にいい影響を与えてはならないんだから」
國達は早口言葉でも言うかのように、巻きで喋った。音声としては聞き取れたけれど、意味がよく分からない。
「きひひ。よく分からないって顔してるね。でも、一から順々に順調に順序よく説明してやるだけの時間はないんだ。玖埜霧のお粗末な脳味噌でも理解しきれるだけの易しい説明をしてやらない。時間がないんだよ私には……こう見てもいつも見張られてる身でね」
「お前が見張られてるの?誰に?ストーカーとか?」
「ストーカーなんて野蛮で野暮なもんじゃないさ。見張られてるとはいえ、危険な相手ではないんだよ。私の雇い主というか……私のことを保護してくれる人なんだけどね。将来的には私を式神として使役しようとか思ってるらしいけどーーー嗚呼、何でもない。今の話は聞かなかったことにしておいて。そうそう、こんな与太話してる場合じゃないんだった。夢だ夢。夢なんだよ玖埜霧」
「夢がどうしたんだよ。言っとくけど、お前が話を長くしてるんだからな。時間がないなら、もっと簡潔に話してみろ」
「今晩、君は夢を見るよ」
俺をチョークで差し示しながら、國達はキッパリと言い切った。今度は簡潔過ぎて、やはり意味が分からない。
「……何でそんなことお前が分かるんだよ。夢なんて見ないかもしれないじゃん」
「煩いなぁ、もう。親切心からきてる老婆心を疑うんじゃないよ。見るの。見るったら見るんだよ。とにかく見るんだ。君は間違いなく今晩夢を見る。君にとって分岐点ともいえるべき夢を見る。言っておくがーーーそれはいい夢ではない。むしろ悪い夢だ」
「悪い……夢……?」
つまりーーー悪夢ってことか?
「そう、悪夢。嫌な悪夢だ。醒めない悪夢を見続けているような悪夢だよ。まず無事では済まないね。指の一本や二本、ブチ切られることを覚悟しておいて」
「、やだよ!蜥蜴の尻尾じゃあるまいし、切られたら再生しないんだぞ!」
「なら命乞いの土下座の仕方でも学んどくんだな。私に出来ることは、こうして君に注意を促すことくらいなんだよ。まさか君が見る夢の中にまで入り込んで、君を助けることは出来ないからねぇ……。一介の浮遊霊にゃ到底無理だ。だから死ぬなよ、玖埜霧」
國達は。未だかつて見たことないような真剣な面差しになり、一言一言を区切るように言った。
指の一本や二本、失ったところで死にやしないよ。むしろ、それで済めば安かろうさ。
だからーーーどうか生きて帰ってきてね。
◎◎◎
「眠れん」
只今、深夜午前二時ちょっきり。バリバリの丑三つ時である。
今日の夕方、思いがけず國達の幽霊に遭遇し、あれやこれやと不吉な話をされたのでした。不吉な話というか……今晩、俺が悪夢を見るって話。しかも、かなり嫌な悪夢であるらしい。
大して気にしないでいたつもりだったのだが、水面下ではめちくち気になっていた。根っからのビビりであり、チキンの中のチキンである俺は、眠るのが怖くて眠れないでいた。
しかし。テスト期間中でもあるまいし、徹夜はしたくない。なのでホットミルクを飲んだり、簡単なストレッチなどをして緊張を和らげ、どうにか寝ようと努力はするのだが……。
「眠れん」
ベットに横になると、途端に目が冴えてしまう。目を瞑ってみても、深い眠りどころか浅い眠りにもつけないでいる。さてどうしましょう。
こうなったら、隣の部屋で寝ている姉さんを起こして、頭突きの一つもされれば気絶くらいはするかなと、本気で考えていたその時だった。
『てんつくてん』
妙な声が、した。
はっとして半身を起こし、辺りを見渡す。しかし、そけには見慣れた自室の光景が広がるばかりで、特におかしな箇所はーーーあった。
というか、ここは自室ではなかった。何もないのである。学習机も。クローゼットも。本棚も。つい今し方、自分が寝ていたベットすらない。ないない尽くしで何もない。辺りは深い闇ばかりが広がるばかりで、突如として宇宙の果てに放り出されたのではないかと、一瞬本気で思った。
『てんてん つくてん』
またあの妙な声。男のものとも女のものとも言い難い、高くもなければ低くもない、変なイントネーションの声だった。変なイントネーションというのは、日本語がロクに話せない外国人が無理してカタコトの日本語を喋ってる感じ。
「……誰?」
慎重に言葉を紡ぐ。勿論、周囲には警戒してだが。
『てんつくばってん すってんてん』
ひらり、と。突如として目の前に何かが降り立った。
それはーーー薄い水色の水干に身を包み、能面を被った人物だった。うっすらと笑みを浮かべる女の顔をした能面。能の世界から飛び出してきたかのような人物の出現に、俺は言葉も出ない。
そいつはぐりりっと首を傾げた。いや傾げるだけでは飽き足らず、首を百八十度回転させた。ゴリゴリと骨の軋む嫌な音がし、女の能面は一変した。ニヤリとほくそ笑む翁の面へと変貌を遂げている。
……こんな芸達者な奴が普通の人間であるはずがない。恐ろしいというより、何だか愛嬌すら感じてしまう程の芸達者な人物に、俺はついみとれてしまった。
『てんつく ばってん』
そいつは長くはためく両腕の袖で一旦顔を覆い隠し、「いないいないばあ」の要領でバッと両腕を外した。そこには能面でも何でもない、一人の人間の顔に変わっていた。
それは他でもない。玖埜霧欧介の顔だった。
「……勝手に人の顔になるなよ。著作権違反だぞ」
『てんつく てん』
俺の顔をした何者かは、にこりと笑った。かなり大口を開けて笑うので、やけに肉々しい口腔内が隅々までよく見える。
例え自分の顔をしていても、阿呆のように口腔内を突き付けられるのは気持ち悪いーーーおまけに歯がないし。歯茎は腐る寸前のトマトみたいに腫れ上がり、真っ赤で痛々しい。
『玖埜霧欧介君、だね』
そいつは俺の顔と俺の声でそう喋った。俺が小さく頷くと、「そうかそうか」と物凄い笑顔で頷かれた。
……自分の笑った顔なのに気持ちが悪い。笑顔は必ずしも心を和ませるものではないのだということを身を持って証明されたような気がする。
『驚かせて済まないねと謝罪しようかと思ったんだが、どうもあまり驚いていないようだね。君は怪異に対して場慣れしているようだ。それがいい傾向なのか悪い傾向なのかは判断しかねるけれど、とりあえず今は助かるよ。驚かれて泣き喚かれて話も出来ないんじゃ、話にならないからね』
「…………」
『嗚呼、そうだね。そうだよね。まだ自己紹介していなかったね。でもね、自己を紹介しようにも、私には怪異としての名前がないんだよ。ついでに言えば定義もない。怪異であることには間違いないのだけれど、まだ怪異としてなりきれていないのだよ。一応、生きている人間の夢の中でしか活動することは許されていないのだけどね』
「怪異としてなりきれていない……?自分が何者かも分からないのか」
『ジャンルでいえば、妖怪や幽霊より神様の類でいたいものだけれどね。でも僕の名前や定義は僕自身では決められない。雨は自らの意志で地表に降らないのと一緒だーーー僕の名前を決めるのも、僕の定義を決めるのも、君達人間だ。そうだろう?』
初めに怪現象あり。その怪現象に「名前」を付け、「定義」を定め、怪現象を怪異と見做して縛る。昔から人間はそうしてきた。ただの現象を、自らの恐怖心で塗り固め、肥大させ、怪異を生み出した。
俺の顔をした何者かはぐりりっと首を百八十度曲げ、肩を震わせて声を出さずに笑った。
『これでもなりたての怪異ではあるからね。怪異というからには悪さをしなくてはならない。人に悪影響を及ぼさなければならない。悪事を働かなくてはならないのだよ。それは定義以前の問題でさーーーでないと僕は怪異として活動出来なくなるからね』
「その話は聞いたことあるな……」
他でもない、昨日の夕方、國達から聞いたのだ。怪異は人間に悪影響を及ぼすものであり、いい影響を与えてはならないーーーだったか。
『それが怪異の本質だから、ね。怪異が本質を失ってしまったら、怪現象は怪現象でなくなる。ただの自然現象となってしまうからね。だから僕は考えた。人間に悪影響を及ぼす方法を』
「……どんな方法だよ」
『夢喰さ』
「ゆめくい?」
何だそりゃ。そういやこいつ、人間の夢の中でしか活動出来ないとか何とか言っていたようだけれど。
俺の顔をした何者かは、けんけんぱでもするように、片足を上げてピョンピョン跳ねながら近寄ってきた。相変わらず、首は折れてしまったかのように水平に曲げながら。
そして。
『てんつく ばってん』
「え、」
そいつは俺の右腕を掴むと、雑巾でも絞るかのようにギチギチと乱暴に捻り上げた。
ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチッ……
嫌な、音。筋肉が裂け、皮が千切れ、噴水が吹き出したかのように血飛沫が飛ぶ。
「ーーーーー、」
その光景に驚いたものの、痛みはまるで感じられなかった。痛みを感じる神経までも腕と一緒くたにもげてしまったかと思ったけれど、流石にそれはないだろう。
痛くはない。痛くはないがーーー右肩から先がない。お世辞にも綺麗とは言えない腕の断面を見つめていると、胃液が込み上げてきて口の中が酸っぱい。
……嗚呼、國達が言っていたのはこのことだったのか。でも、指の一本や二本じゃ飽き足らず、右腕ごと持ってかれちまったけど……どうなんだろ。
『どうだい、痛くはないだろう』
俺から奪った腕をブラブラと弄びながら、そいつは肩をいからせた。
『痛くないのはね、ここが夢の中だからなんだ。現実世界で起きてる出来事じゃあない。ここは夢の中だ。僕は人間の夢を支配出来る。夢の中でなら万能なんだよ。何でも出来る。僕は僕が望む夢を人間に見せてやることが出来るんだ』
「…、現実世界じゃないって。じゃあ、実際には俺の腕は付いたままなんだよな。夢から醒めれば、元通りくっついてるんだよな!?なあ!?」
『あはは。そんな顔しないでよ。今にも泣きそうじゃないか。安心しなよ、現実世界での君の腕はもげてはいない。ちゃんとくっついてるよ』
……良かった。五体満足でいられるということは、本当に素晴らしいものだと思いつつ。俺はなくなった右腕を庇いながら、本題を切り出した。
「つまりお前は……人間の夢に現れる怪異なんだよな」
『そうだよ。それしか決まってないけどね。でもねぇ、玖埜霧君。玖埜霧欧介君ーーーさっきの話の続きだけれど、僕は僕なりに自分の定義について考えてみたんだよ。勿論、僕には自分の定義を決める決定権はないのだけれど……生憎と僕は人間の夢の中でしか好き勝手出来ないからね。それを踏まえた上での悪いことを考えたのさ』
「悪いこと?夢喰がどうとか言ってたが、そのことか?」
『そうそう。それだ』
そいつはまた「いないいないばあ」をするように、はためく袖で顔を覆った。数秒経つか経たないかの内に両腕を外すーーー今度は狐の面を被っていた。
『玖埜霧君。君は現世にどれくらい鬱病に悩む人間がいると思う?』
「は?鬱病……?」
ここにきて何でそんなことを聞くのか分からない。首を傾げてみたが、そいつは沈黙を守りながらも俺からの返答を待っているようだった。
現世にいる鬱病患者が何人いるかなんて知らないけれど、とりあえず適当に言ってみた。
「……五千人前後?」
『百万人以上だよ』
桁が違った。百万人とは……。
『女性なら五人に一人、男性なら十人に一人の割合で発症すると言われているから、さして珍しくもない病気だよ。珍しくもないし、よくある病気。鬱病とは極度の精神的ストレス、または過労からなるものだ。鬱病に掛かると、極度に落ち込み、無気力、悲壮感、絶望感、焦燥感、悲哀、苦悶感に襲われ、体調は優れず、自殺衝動に駆られ、心気妄想を抱くなど、精神的にも肉体的にもかなりのダメージを受ける精神病の一種だ』
「お前、やたらに詳しくないか?」
怪異の癖に、何で人間の病名並びに病状、そして発症率を知ってるんだろ。人間の俺でさえ、そこまでの知識はないというのに。
『そりゃそうだよ。僕だってかつては……嗚呼、いいや。話が横道に逸れてしまうところだった。とにかく鬱病に掛かっている人間は、日本人だけでも百万人以上いるんだよ。鬱病は年々増加傾向にある。現実世界では生き辛いと嘆く人々は今ももがき苦しんでいるというわけだ』
そこでね、僕は考えたのさ。
『現実世界が生き辛いのならばーーー夢の世界に連れ込んでしまおうとね』
『夢の世界ーーー人間が睡眠中に見る夢』
『夢の世界ならば、現実世界のように生き辛いこともないだろうさ』
『朝、ベットの中で考えたことはないかい?』
『”朝が来てしまった。辛いなぁ。嫌だなぁ。学校または仕事に行きたくないなぁ”』
『”明けない夜が欲しいなあ”ーーーってさ』
『誰でも一度や二度は思うだろうね』
『この場合、健常な精神の人間ならば、嫌だなぁと思いつつもベットから起きて身支度を整え、家を出ることが出来る』
『でも、鬱病を患う人間にはそれが出来ないんだ』
『中には本当に寝たきり状態で、布団から出られない人もいるんだよ。よっぽど重症なケースになればね』
『彼等は日常生活ですら普通に出来ないんだよ』
『日常生活ですらーーー恐怖であり、億劫であり、面倒事であり、難題なんだ』
『鬱病とはそういう病気だからね』
『ここで僕なりに考えた解決策を提案しよう』
『彼等に明けない夜をプレゼントしてやればいいんだよ』
『夢の世界ほど自由が許される場所はない』
『仕事もない。学校もない。煩わしい人間関係もない。傷ついてばかりの恋愛事もない。裏切り、裏切られる脆い友情もない。複雑な家庭のしがらみからも、苦しい病魔からも解放される』
『数多ある苦しみから、一気に解放してやれるんだ』
『それどころか、自分が思い描いていた理想像をまま再現してやるとかね』
『現実世界では到底無理だと思っていたことーーー誰からも愛されるアイドルになりたいだとか、ベストセラーを次々に世に送り出す小説家になりたいとか。アニメのキャラクターと結婚したいとかね』
『それらを叶えてやるんだよ』
『別に親切心で言ってるわけじゃあない』
『僕はあくまで怪異だからね。人に悪影響を与えるという、怪異ならではの領分をなくしたら、僕の存在自体が消えてしまうから』
『だからーーーこれは悪いことだ』
『悪い影響だ』
『だって、夢って所詮は夢だから』
『架空のモノ。嘘。出鱈目。偽り。仮初め』
『つまり、真実ではないってこと』
『現実ではないってこと』
『人間に嘘をついて騙すのさ』
『それは悪いことだろう?』
『悪影響を及ぼすことになるだろう?』
『僕は浸食していく夢の提供者でありたいんだよ』
『それくらいしか出来ないからね。活動出来る場所が制限されてるからさ』
『だけど、』
『まるっきり悪いことでもないーーーのかも』
『結果論からすれば悪いことだけどね。夢に喰われるんだから』
『でも、現実世界を生きられない人間にしてみれば悪い話ではないのかもしれない』
『例え架空の世界でも、地獄のような現実世界から解放されるんだから、ある意味幸せなことじゃないかい?』
『泣いて飛びつく人間もいるんじゃないかな』
『別に鬱病患者限定な話でもない』
『この世に嫌気が差した人間なら、誰でも彼でも大歓迎だよ』
『夢の世界に喰われたい人間ならば』
『夢の世界に浸食されたい人間ならば』
『誰であろうと構わないし、誰であろうと逃がさないよ』
『どうだろう、玖埜霧君』
『これが僕が考えた僕の定義だよ。納得してくれたかい』
「……どうだろうじゃねぇよ。そんな嘘っぱちな世界に引きずり込まれて、喜ぶ人間がいるか!」
全部が全部、嘘だなんて。一つ残らず嘘だなんて。そんな出鱈目な世界に満足なんか出来るかよ。
「確かに現実世界を生き辛いと感じている人間はいるだろうさ。だけど必死に戦ってるんだ。現実世界の生き辛さと、毎日毎日血の滲むような想いをして戦ってるんだよ。いっそ現実世界から消えてしまいたいと、剃刀を手首に当てながらも。それでもそこで踏ん張って戦ってるんだ。ギリギリまで諦めずに戦ってるんだよ。現実世界と戦ってるんじゃない、現実世界から逃げようとしている自分と戦ってるんだ」
現実世界は誰にだって生き辛いさ。人間が敢えて生き辛くなるようなシステムにしたんだから。
現実は甘くない。現実は優しくない。現実はいつだって現実でしかない。
だけど。だけどさあ。
「だからって俺は、何でもかんでも思い通りになる夢の世界に逃げ込みたいだなんて思わない。そんな希望も絶望も喜怒哀楽もないような嘘っぱちの世界に、何を求めるんだ!」
光があれば陰が差す。逆を言えば、陰が差さなかったら光は光であり続けられない。
希望だって同じじゃないのか?絶望がなかったら、きっと希望なんて存在しないよ。
希望だけしか存在しないのならーーー人間はとうの昔に狂ってる。
「いいか。俺はどんなに絶望感に打ちひしがれようとも、土壇場でお前を頼るようなことは決してしない。夢の世界に逃げ込んで幸せになろうとなんて思わない。現実世界の生き辛さに絶望しながら、僅かな希望を頼りに生き抜いてやるからな。お前は生きている人間の図太さを知らないんだよ」
人間はそこまで脆くはねえよ。強くはないがーーー図太い。
『てんてん てんつくてん ばってん』
そいつはボトリと俺の腕を落とすと、けんけんぱをしながら俺に手を伸ばす。
俺の頭にーーー手を伸ばす。
『自己陶酔してんじゃねーよ、莫迦』
今までカタコトだったそいつは、いきなり流暢な発音で喋った。ガッシリと俺の頭を掴み、まるで独楽を回すかのように、ぐるぐると頭を捻る。捻る。捻る。
スポンッ……
景気がいい音と共に、俺の首が抜けた。やはり痛みはない。首の断面から垂直に血飛沫を上げる俺の体は、やがてぐらりと倒れた
頭部はまだ奴が持っている。
『綺麗事をほざくな。お前みたいに人生の酸いも甘味も噛んで知らない奴が。たかだか十年やそこらを生きてきた薄っぺらい人生のお前に、人間の苦しみや絶望が分かるのかよ』
『人間が全員、お前みたいな考え方じゃねーんだよ。お前みたいにのうのうと脳天気に生きているわけじゃねーんだよ』
『現実世界が生き辛くて何が悪い』
『苦しみに絶望して逃げ出してはいけないとでも?』
『その考え方は傲慢だ。一人よがりだ』
『どんな時でも戦わなくてはならない理由がどこにあるんだ』
『逃げ出す権利すらも、お前は奪うのか』
『お前ーーー嫌い』
嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い
き ら い
ボトリ。そいつは俺の頭部から手を離した。腕といい、頭といい、ぞんざいに扱ってくれるものである。
まあ、俺はこいつに嫌われたようだから仕方のないことだといえばそうなんだけど。
『気分が殺がれた。非常に腹立たしいし、非情な君の言葉に僕のプライドはズタズタだ。つまらない。時間を無駄にした。理解して貰おうとは思っていなかったけれど、ここまでボロクソに言われるとは思わなかったな』
グリッ……
左頬を思い切り踏みつけられた。痛みは相変わらず感じないが、かなり強い力でぐりぐりと踏みつけられているらしく、圧迫感がある。
『やれやれ……。せっかく自分なりに自分の定義を考えたのに、台無しじゃないか。君が少しでも感銘してくれれば、僕という怪異は定義を定められたかもしれないのに。まだ名前すらも決まらない僕に、酷いことをするね』
グチャッ……
何かが潰れて弾ける音。おおかた、左目でも潰れたんだろう。お前のほうがよほど酷いことをしてるよと言いたかったけれど、何も言えなかった。
『玖埜霧君。僕は意外と執念深い性格なんだ。だから君が僕に対して言った罵詈雑言については全て記憶している』
そりゃすげえな。感心するよ。
『その中でも特にムカついたのはさ、”お前は生きている人間の図太さを知らないんだよ”っていうフレーズ。これには流石の僕もキレたよ』
……何で?そんなに酷いこと言ったかな。
ぐりぐり。踏みつける力は増していく。
『僕だって知ってるよ。人間がどれくらい図太いかも、人間がどれだけ繊細で傷つきやすいかも知ってる。僕だってーーーそれくらい知ってるよ』
『だって、』
『僕だって、』
『■■■、■■だったんだからーーー』
グシャッーーーグチャッ
顔の皮膚が、筋肉が、血管が、神経が、右目が、鼻が、唇が、舌が、歯が、耳が。潰され、弾けた。
もう何も見えないし、何も聞こえなくなった。
真っ暗な夢を見ているような気分だった。
◎◎◎
「……、欧介。欧介。欧介、大丈夫か。おい、返事しろ。欧介ったら!」
目が覚めた。見ればベットに寝ている俺を心配そうに姉さんが覗き込んでいる。
「……、え、あ、姉さん。おはよう」
「おはようじゃないよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫かって……何が?」
「夜這い目的で欧介の部屋に忍び込んだら、酷く魘されてたよ。悪い夢でも見たんじゃないかと思って叩き起こしたけど……大丈夫か?」
姉から夜這い目的で部屋に忍び込まれている時点で、色々と大丈夫ではないのだが。
「……平気だよ。悪い夢を見ただけ」
むくりと上半身を起こす。びっしょりと全身に隈無く汗をかいていて、下着が肌に吸い付いて気持ちが悪いことを除けば、他に不調はない。
右腕もあるし、頭も付いている。俺は数回深呼吸をし、気持ちを落ち着けてから姉さんを見た。
お洒落な部屋着に身を包んだ姉さんをジッと見つめーーー俺は口を開いた。
「……姉さんに、触ってみても、いい?」
姉さんは数回瞬きをすると、ピンクのパーカーのチャックに手を伸ばした。
「いいよー。ちょっと待ってて、ブラ外すから」
「外さないでー!」
「下も脱いだほうがいい?」
「脱がないでー!服は着たままでいいの!」
「嗚呼、分かった。欧介は脱がれるより自分で脱がしたい派なんだ」
「違うったら!もう、幾ら夜だからって下ネタは止めてよ……」
危険な姉を持ったものだ。そろそろ本格的に対策を打たないと、取り返しのつかない事態になりそうで行く末が恐ろしい。
姉さんは「何だ、つまんねーの」と肩を竦めながらも、ベットの上に乗ると雌豹のポーズを取った。四つん這いになって腰を突き出したsexyなポーズ。
「さあこい!どこでも触るがいい!」
「…、あ、ありがとう」
ポーズと台詞が合ってない気もしたが、今はそんなことどうでもいい。
俺は姉さんの陶器のような頬に手を伸ばし、触れた。
……嗚呼、温かい。血が通っているからだ。
少し下がって、首元に触れる。トクトクと脈を感じるし、滑らかで柔らかい素肌はとても温かかった。
温かいということはーーー姉さんは生きているのだ。現実世界を生きているんだ。
今日ほど人肌の温もりが愛おしいと感じた夜はなかった。
◎◎◎
翌日のこと。俺は委員会の雑用をしていて、貴重な放課後を費やしてしまった。下校時間はとっくに過ぎており、窓から見える景色は薄暗い。
慌てて帰り支度をしていると、ポンと肩を叩かれた。
「きひひひっ。よう、親友。無事なる御帰還を喜ぶよ。良かったね。見たところ五体満足みたいだし」
「……國達」
國達はきひひ、と笑いつつ。両方の手を後ろに組み、上半身を屈めて俺の顔を覗き込んだ。
「良かった。本当に心配していたんだよ。夢に喰われなくて本当に良かった。何よりだ。近頃、人間の夢におかしな怪異が現れるという噂を聞きつけていたから調査をしていたんだけれど……どうにも情報収集が遅れていてね。あいつは名前も定義もないから、尻尾を掴みにくいんだよ。てか姿も定まってないから尻尾すらねーや。きひひひっ」
情報収集って。幽霊が探偵みたいなことしてんじゃないよ。
「まあ、何とか無事だよ。夢の中では散々な目に遭ったけどな」
「……私はさ、玖埜霧が夢に喰われるんじゃないかって思ってた」
珍しくシリアスな面持ちと口調になって國達は呟いた。それからさっと体を起こすと、ぴょこぴょこと黒板があるほうへ歩き出す。
「玖埜霧が夢で会った怪異。あいつはね、まだ怪異としてはなりたてなんだ。だけれどーーーだからこそ、人間的でもあるんだよ。人間的であるということは、人間の弱い部分を知っているのさ。人間がどう傷つくか、どこにつけ込むべきなのか、どこを叩けば埃が出るのかを知っている。あいつはそういったことをよーく知っているよ。呆れるくらいにね」
人間的であるということは。
もしかしたらあいつも■■だったのかもね。
「きひひひっ」
國達は振り向いた。
「なあ、玖埜霧。もしもだよ。もし君が夢に喰われてしまったらーーーその時はどうなるだろう」
「どうなるだろうって……」
「あいつは人間が望んだ通りの夢を与える。現実世界では到底無理なことでも、あいつに願えば叶えてくれるさ。夢の中でならね」
「俺はあいつに何も願わないし、何も頼らないよ」
「そうだろうね。玖埜霧はそう言うと思ってたよ。君はそういう奴だ。ブレない精神力の持ち主であることは重々承知の上だよ。だけどさぁ、玖埜霧」
君にも、あるんじゃないかい?
現実世界では到底叶わないだろう夢が。
「……ないよ、そんなモン」
吐き捨てるように言ったその台詞は、何故か力が籠もらなかった。
作者まめのすけ。
何が心地良いのか分からないから
何が苦しいのかも もう分からないんでしょう
【XXXHoLic】より。