新居へ越した。新居といえど駅前の古めのアパートだった。もう23になる、そろそろ家を出ようと見つけてきた部屋だった。
先に伝えておくと、格安物件だったわけではない。角部屋で日当たりも良く意外と電車の音もうるさくない。住んで3日目くらいから「あれ?これかなりいい物件だったんじゃないか?」と思いはじめたくらいだ。
家から持ってきた布団に潜り、明日の仕事のイメージシミュレーションをする。毎日の日課だったはずが、なぜか少しだけ頭の上がそわそわする。
窓でも開けたままにしたか?俺はそっと体をあげて窓を見た。やはり開いている。閉めた気がするも俺はそっと窓を閉め鍵をかけた。
翌朝、しとしととあめの降る音で少し早い時間に目が覚めた。窓を見ると、さきほど閉めたはずの窓が少し開いて、そこから雨水が少しずつ部屋に入ってきている。
「あれ?閉めたよな、俺」
まだ薄暗い部屋に俺一人。だけどその少しだけ開かれた窓から何かが入ってきたような気がしてならなかった。
社会人2年目。お金はない。こんなアパートに空き巣なんてありえなさそうだけど、俺は部屋中の箪笥、襖、浴槽に至るまで開けた。だれもいなかった。でも誰かがいて欲しかった。誰かもわからない人が出てった後だった方がずっと怖いだろう。結局なにも見つからなかったし、なにもとられてなかったし、俺は警察に連絡することも出来なかった。男だしね…
それから毎日仕事から帰ると「おかえり」って声が聞こえるようになった。男の人のような。だけど女の子のような。いや?女の人のような。とにかくよくわからない声色の人が声をかけてくるのだ。もちろん怖いのだが、それっきりである。日当たりもいいし、お隣さんも女子大生だし…こんなとこに幽霊なんて出そうになくて、俺は絶対に違うと思い込んだ。
まあ思い込むなんていうのはよくないな。何か聞こえたりしたらさっさと部屋を変えるべきだ。
その日は、あの夜のように雨が降っていた。俺はさっさと布団に入って仕事のことを考えていた。するとあの夜のように、頭が涼しい。背筋がぞくっとしたが俺は窓の方に目をやった。
窓が開いている。
確かに閉めたはずだ。というか雨の日に窓を開けておくわけがない。俺は窓から目が離せないくらい恐れていた。何でもないと言い聞かせていたあの「おかえり」の声のことを思い出す。俺はどうやらとんでもないところで寝泊まりしてたんじゃないか…?
このときやっとそう思った。自分でもバカだと思う。
見つめ続けた窓が、カラカラとさらにゆっくり開いていく。俺はやはりまだ目が離せないまま、そのナニカが窓を開けていく姿を見続けた。
20cmくらい開いてからだろうか、ピタッと止まった。止まった瞬間、一瞬俺の心臓も止まったんじゃないかと思った。
「おかえり」
俺の後ろ。つまり窓からさらに離れたところから声がした。
(え?誰か帰ってきたの!?え?!)
俺はテンパってて、金縛りみたいな状態。金縛りではないけど自分の力で動けないくらいびびってた。
「おかえり」
また響く知らない声。毎日聞き流してたはずなのにものすごく怖い。
「おかえり」
窓からずずずずと黒いものが入ってくる。それが手だということに気がつくにはそう時間はかからなかった。真っ黒い焦げたような手は少しずつ部屋に入ろうとしているようで、その肘のあたりまで見えるようになると、その持ち主の頭であろう白くくすんだ丸みのあるものが姿を現した。
その丸みの真ん中、真っ黒い空洞があってそこにあるであろう眼球がない。鼻は削げて、口は糸のようなもので縫われている。
幽霊幽霊幽霊幽霊幽霊幽霊幽霊。
俺はもう頭が真っ白になってて、腰が抜けてた。その黒い塊はゆっくり部屋に入ってきて、俺の前にのっそのっそと歩いてきた。
やはり眼球がない。口はなんでこんなに縫われてるんだ?離せないのか?削げてる鼻はなんなんだ?
あせりながらも俺は、必死にその幽霊を見つめていた。
その時だった。
「早くおかえり」
後ろからさっきの声がする。その瞬間体に力が入った。俺はすぐに体をあげて玄関に走って外へ出て行く。
近くのコンビニまで全速力で3分。目からはたくさん涙が零れてた。雨で隠せたけど漏らしてた。もう本当に死ぬかと思った。
そしてあの「おかえり」は早く帰れってことだったんだと気がついて、しかとし続けた自分が本当にバカだと思った。
それからすぐに俺は部屋を出た。契約解除はすぐに出来たし俺は速攻実家に帰った。両親も何も聞かなかった。不動産も何も言わなかった。
まあ、不動産が入居前に「隣の女子大生とはそこまで関わらない方がいいですよ」って言ってたから、何かあるとすれば彼女だったのかもしれないが。
作者sia