「あなたの部屋、以前住んでた人が自殺したらしいわよ」
隣の部屋の奥さんがそう彼に言った。
「ああ、そうなんですか……」
だからなんだ、という雰囲気で暢気に彼は答えた。
彼はサラリーマンの田中雅夫、二十八歳。数日前に越してきたばかりの引越しホヤホヤの住人だ。彼は近所の方々への挨拶の為、蕎麦を片手に隣の部屋に訪問したのだが、少しの会話でそこの奥さんが顰めた面で口を開いた。それが、先ほどの以前の住人が自殺した、という知らせだった。だが、ここの物件の契約の際明らかに家賃が安いことから何となく察しはついていた雅夫だったので、別段驚くことはない。しかも、彼はそういった霊的なことに関しては何の恐怖心を抱かない珍しいタイプなので、変に心配されたり、同情されたりするとと気分を害し、余計なお世話だ、と思うくらいだった。
「まあ、そのへんは気にしてないので」
雅夫はきっぱりと言い放つと、一礼をしてから自室へと戻って行った。
1LDKで破格の値段。雅夫みたいに過去にどんな不幸があった部屋だとしても全く気にしない人にとっては最高の物件だろう。だが、近隣の住人の話では、「三十代後半の女性が首吊り自殺をした」ということらしい。普通この事実――いや例えデマだろうとも知ってしまってはそこに住もうという気持ちにはならない筈だ。因みに雅夫の前とその前の住人二人とも一ヶ月以内に部屋を引き払っているそうだ。どう考えても、住んだら何か嫌なことが起こるとしか思えない。これから過ごすにあたって住めば都、になるのだろうか。
*
引っ越してから一ヶ月。
雅夫はいつも通りに平和な日常を送っていた。近隣の方々の心配を取っ払うように、毎日元気に挨拶を交わし出社していた。
病も気から、という言葉があるように、不安を抱えながら暮らすのでは負の要因を招くことになる。だが、何も気にせずにいる雅夫の生活は何も問題ないようだ。
更に一ヵ月後。
遠距離恋愛中の彼女が職場の転勤の関係で、雅夫の住居の近くに引っ越すことになった。電車で三十分程の距離。当時の片道飛行機で一時間半から比べたら、雲泥の差だ。
彼女――中島紗代は引越しの片付けを済ませてから雅夫の家にやって来た。
「え、何かこの部屋空気重くない?」
玄関に入るや否や、紗代はそう口にした。雅夫は自殺の噂について語っていない。
今は蒸し暑い夏場。常に窓を開け、空気の換気をしているので、「空気が重く」なる筈はない。
「そうか? 気のせいじゃないか?」
またも雅夫の得意技の暢気さで返答をする。
「いや、絶対この部屋おかしい」
譲らない紗代。面倒なので、リビングに行くようにせっせと促す雅夫。
黒い革張りのソファーに座らせると、雅夫はインスタントコーヒーを二人分用意した。一口啜ると、紗代は立ち上がり、「さあ、浮気チェック」と言って、先ず風呂場へ行った。
「してるわけないだろう」
冗談でもむっとした雅夫は強めの口調で言った。だが、紗代はとっくに先へ行っていたので聞こえていない。
「ちょっと!」
風呂場からエコーがかかったような怒鳴り声。びくっと反射的に肩を上げて驚いた雅夫は駆け足で風呂場に向った。
「何これ?」
そう言って紗代は何かをつまんで雅夫に突き出す。
「え? 何々?」
「だから、これ!」
目を凝らす雅夫。――長い髪の毛。明らかに女の髪だ。だが、家にあげた人は紗代だけだし、今日まで他に誰もいない。慌てて雅夫は否定した。
「今日初めて人を家に入れたんだぞ。その相手が君だ。神に誓ってもいい」
言ってから、髪と神がつまらないシャレみたいになっているのに気がついたが、弁明する雰囲気ではないので雅夫は依然に真面目な表情で振舞った。
「じゃあ、これはどう説明するのよ」
やはり言葉だけでは蟠りは解けない。
「どうって言われてもなー……、前住んでた人のじゃないのか?」
「何それ、もっとましな嘘つきなさいよ」
「だから、本当だって! 信じてくれよ」
しばらく問答を繰り返した挙句、紗代が折れて、雅夫の無実が決まる。だが、一時的らしい。もし万が一不審な点がまた見つかるようだったら、紗代の怒りの鉄拳が炸裂する、ということになった。雅夫は身に覚えのない髪の毛が出てきたので、何もしていないのにも関わらず神経を研ぎ澄まして警戒しなければならない。紗代が動くたびに何か言われるのではないか、とびくびくしていた。
「おい、どこ行くんだ?」
急に紗代が立ち上がるので、慌てて雅夫は口走る。
「どこって、コーヒーカップ下げるだけよ」
神経を張っているせいか、些細な行動でも不安に思ってしまう。雅夫は気まずそうに煙草に火をつけた。
ふうー、と心を静めるようにゆっくり上空に煙を吐く。
「きゃっ」
――激しく煙が口から噴射する。紗代の悲鳴に驚き、急いで灰皿に煙草をねじ込み、台所に向った。
「どうしたの?」
紗代は身体を縮めて、一点を見詰めながら微かに震えている。そして、何も言わずにゆっくりシンクの洗い場を指差した。
「何?」
不審に思いながら、洗い場を見る。そこには残飯受けが抜かれて置いてあるのだが、その下の方は黒いものがへばり付いていた。雅夫は暢気に「海苔か?」と思い、目を細めるが、どうやら違う。また、長い髪の毛だった。しかも大量に。
「うわ、何これ?」といくら雅夫でも驚きを隠せない。
「知らないわよ……気色悪いわ」
雅夫は途端にあの噂を思い出す。「以前の住人が自殺した」と。だが、胸の内に留め、ぐっと口を噤んだ。
*
数日後。
あの気色の悪い一件から、紗代は家に来たがらなくなった。無理もない。空気が重く、見覚えのない女の髪の毛が次々出てくるのだから。だが、雅夫はあまり気にせず、過ごしており、今日もいつものように元気よく出社しようとしていた。
「あ、おはようございます」
近くのごみ捨て場にここの大家の村田寛がいた。五十代後半くらいで、緑のポロシャツと灰色のスラックスを纏っていた。雅夫は活気溢れた挨拶を送る。
「おはよう。どうだい、今の部屋は問題ないかい?」と鴉よけのネットをごみに被せながら言った。
「大丈夫ですよ。ただ、嫌な噂は聞きましたが、何も気にしていないので全く問題ありませんよ」
寛は一瞬動きを止め、じっと雅夫を見た。雅夫は変なことでも言ったのかと思い、少々困惑する。
「聞いたか。まあ、もう昔の話だ。かわいそうな話だよ。まだ幼い子供だったのにな」
おや、と雅夫は思った。間髪を入れずに質問する。
「え、女の人が自殺したんじゃ?」
「まあそうだが、一家心中だよ。母親とその娘がね。娘は母親に風呂場で沈められて殺され、母親はその後首吊り。理由はどうであれ悲しい話だ」
雅夫はしばらく黙り込んだ。幼い子供が死んでいるという事実は初耳だったし、恐怖というよりも子供が殺された悲しさで言葉を失っている。
「朝から重い話をして申し訳ない。何かあったら直ぐ言ってください」
寛は軽く会釈すると、その場から立ち去る。雅夫は何も言わずに肯くだけで精一杯だった。
*
会社から帰宅すると、粘ついた汗をいち早く流したく、風呂場に急行する。
熱い湯がシャワーの細かい穴から噴き出て、雅夫の頭、身体を強く打つ。しばらく何も考えずに、ただ湯を浴び続けた。
(ここで幼い子が殺されたのか。青春すら味わえずに……かわいそうに)
湯が急に水に変わった。雅夫はびくっと驚いたが、それはそれで気持ちよかった。口を開けて、水を口いっぱいに含み、一気に飲み干す。暑さにより喉がかわいていたので、無意識にそうしてしまったらしい。
一通り身体を洗い終わったので、雅夫はタオルで全身を拭う。目の前には等身大の鏡がある。特に理由もなくその前で身体を拭くのが彼の習慣だ。多分引き締まっても、太ってもいない中途半端な肉体を確認したいのだろう。
(あれ?)
ちらっと視界に何かが映った。鏡を何かが横切ったみたいだ。しっかりと鏡を見てみたが、何もいない。
(気のせいか)
再び身体を拭き、腰を前に屈め頭を下げながら、髪の毛の水分をタオルで拭き取る。――後頭部に間違いなく強い視線を感じる。
雅夫は気のせいではないと確信したが、わざとそのまま頭を拭き続ける。依然に視線はある。
急にぱっと頭を上げて、鏡を見た。一瞬であったがそれを確認する。
長髪の女の子。顔ははっきり見えなかったが、間違いない。恥ずかしがるように鏡の映らない範囲に引っ込んだようだ。
これも雅夫の凄みだが、怖がる素振りがまるでない。
(ああ、ぼくに興味があるのか。恥ずかしがっているようだな)
雅夫は野良猫を街中で見つけ、愛おしい眼差しを送っている時と同じ感情を一瞬見えた女の子にも抱いていた。かわいいけど、どうしようも出来ない、と。
その夜中。雅夫は夢を見た。
映像がはっきりとしており、夢と現実が入り乱れ分別がつかないくらいだった。
どこにでもある小さな公園。そこのブランコで雅夫と鏡映った女の子で遊んでいる。
「どうだい、楽しいかい?」とブランコを揺らしながら、女の子に問いかける。
「うん!」
満面の笑みを雅夫に送る少女。
歳は十歳くらいだろうか。黒髪の長髪で肩よりしたまで伸びていた。白いワンピースに赤いサンダル。終始雅夫を見詰め、笑顔を送り続けている。
「お兄さん」
急に少女は言葉を発する。
「ん? どうした?」
「私のこと好き?」
「うん、好きだよ」
雅夫は少女の頭をゆっくり撫でながら言った。
(せめて、夢の中だけでも楽しんでもらいたい)
二、三回小さな頭を往復したくらいに雅夫は目を覚ました。
徐に右手を見てみると、指の隙間に長い髪の毛が数本くっついていた。
その夢はそれ以降毎日見るようになった。
*
土日と祝日が加わり、久しぶりの長い連休になった。
紗代に家で酒を飲もう、と誘いのメールを送る。最初は嫌がっていたが、しぶしぶ来ることに承知した。
呼び鈴が鳴ったので、玄関を開けると、両手に買い物袋を下げ、汗ばんだ紗代が立っていた。
「いらっしゃい。悪いね買い物任せちゃって」
申し訳なさそうに雅夫は扉を開ける。
「ほんとよー、もうくたく――」
一歩玄関から進み、紗代は急に言葉に詰まる。
「どうした?」
買い物袋を紗代の手から受け取り、不思議そうに眺めながら雅夫は言った。
「なんか、前より数倍空気が重いよ」
「でたそれ。気にしすぎなんだよ。全然大丈夫だって」
一笑しながら雅夫は言って、紗代の顔みると、真顔でとても冗談が通じる雰囲気ではないことが見て取れる。
「まあまあ、酒飲んだら全然気にしなくなるって。折角買い物までしてくれて来たのに帰るわけにいかないだろう?」
「うん……そうね」
雅夫の説得に応じて、紗代は重い足取りでリビングまで歩いて行った。
酒を浴びるように飲み、映画を観て、TVを見ているうちに互いに強力な睡魔に襲われ始めた。
「そろそろ寝るか」
時計見ると、夜中の二時だった。
「そうね、寝よう寝よう」
二人は片付けは明日にしようと決めた途端に、テキパキ寝間着に着替えて一斉にベッドに倒れこむ。ものの数分で互いに眠りに就いた。
いつもの公園。雅夫と少女はブランコで遊んでいた。そして、また同じ会話が繰り返される。
「私のこと好き?」
「うん、好きだよ」
「じゃあ」
いつもと違う展開。雅夫は少女がなんて言うのだろう、と少し身構える。
「私と結婚して」
そうきたか、と雅夫は思う。返事によっては少女を悲しませてしまうことになる。だが、変に気を持たせてもその後の失望が大きくなるだけだ。雅夫は意を決する。
「ごめんな。兄ちゃん結婚出来ないんだ。ゆるしておくれ」
「なんで、なんで?」
泣き出しそうになる少女。ブランコから降りて、雅夫に抱きつき、雅夫の腹に顔を埋める。
「ごめんな。ごめんな。でもいつでも遊んであげるよ」と言って少女の頭を撫でる。
「でも大丈夫。お兄さんの中に私がいるから」
そう言って少女は顔上げた。――顔全部が爛れていた。部位の判別がつかない程に……。どうやら腐敗しているようだ。
「ど、どうしたの」
雅夫はなるだけ驚かないように努めて言った。
「あの女がいなければいいんだ」
少女の口元は歯茎全体が顕になり、そこから言葉が発せられ、奇妙に連動している。生々しい口元から不気味に笑い声が放たれる。きゃはははは、と。さすがの雅夫も怖がり、その笑い声を遮るように喋る。
「何を言っているの、お兄さんいつでも遊び相手になるよ?」
興奮している少女を宥めようと、必死に優しい口調で問いかける。だが、笑い声は止まない。そして、飛び出た眼球をぎょろっと雅夫に照準を合わせて、「あの女殺せばいいんだ」と言った。そして、また奇妙な笑い声を上げる。雅夫は頭が狂いそうになった。
「やめてっ!」
紗代の悲鳴にはっと我に返る。目の前には苦悶の表情を浮かべる紗代が腕を振り乱し暴れていた。
雅夫は自分が紗代の首を締めていることに気付くと、慌てて手を離した。
激しく咳き込む紗代。何が何だか分からず、雅夫は混乱していた。
「ぼ、ぼくは一体な、何を……」
ようやく落ち着いた紗代が口を開いた。
「急にあなた私に馬乗りになって、首を絞め始めたのよ」
涙目、まだ赤い顔を歪めて紗代が懸命に説明をする。
「そ、そんな馬鹿な……」
「私は必死に抵抗したわ。で、あなたの顔を見てみると……」
そこで喋るの止め、一区切りつける。そして、間を空けてからまた口を開く。
「長い髪の毛の女の子だったのよ」
茫然自失。雅夫は今起こった出来事が信じられず、ただ床の一点を見詰めることしか出来ないでいる。
「だから、この部屋おかしいんだって。引っ越しましょうよ」
「ああ、そうした方がいいかもしれない」
雅夫は頭を抱えながら言った。
(少女には逆に悪いことをしてしまったのかな)
変に同情することが、面倒を招く形になってしまったことを雅夫は遅れて悔やむ。
すると、「いつも一緒よ」と、どこからともなく雅夫の耳に届く。慌てて立ち上がり、「ほんとすまなかった。悪気はなかったんだゆるしてくれ!」と怒鳴るように声を発した。
「ど、どうしたのよ?」と急な行動に困惑している紗代が言った。だが、雅夫は聞いていない。
「いつも一緒よ」「いつも一緒よ」「いつも一緒よ」「いつも一緒よ」「いつも一緒よ」
雅夫の耳にだけ、繰り返し少女の声が響く。その度雅夫は謝罪する。
「頭がい、痛い」
突然雅夫は頭を抱えのた打ち回る。相当な激痛のようだ。
「大丈夫? 今救急車呼ぶから!」と紗代は携帯電話を取り出し、ダイヤルを押そうとするが、手が震えて番号が押せない。
「いたい、いたい!」
雅夫は痛みに耐えられず、振り子のように左右に揺れて苦しむ。そして、立ち上がると寝室を出て、リビング、風呂場へと無意識に歩んで行った。
洗面台で蛇口を捻る。雅夫は水を勢いよく顔に何度も浴びせ、鏡を見る。
絶句。顔が自分の物ではなく、あの少女の顔だった。しかも腐敗したスクランブルエッグのようにぐちゃぐちゃなった皮膚と全て表へ出ている歯茎。ぎょろっとした眼球が雅夫を直視している。その少女は鏡越しに笑みを送っていた。
「いつも一緒よ」
雅夫は絶叫して、そのまま玄関から表へ飛び出て駆けて行く。紗代はなす術なく、ただ呆然としていることしか出来なかった。
*
喫煙所。紗代はピアニッシモに火をつけ、一服していた。
喪服姿の知らない人々が次々とやって来ては、煙草を堪能している。その中の二人の女性の会話が嫌でも紗代の耳に届く。
「何か自殺みたいね」
「ねえ、飛び降りでしょう? でも、そんな悩んでいるような様子は全くなかったって聞いているけど」
「そうそう。大学の時の性格を思い出しても、とてもじゃないけど自殺するようなタイプじゃないわよね?」
「私もそう思う」
「でも、人間なんてよく分からない生き物なんだから、何があったって不思議じゃないのかしら」
「うーんそうね。ああ怖い怖い」
二人の女性は同じ頃合いで煙草を灰皿に捨てるとその場から去った。紗代は表情一つ変えずにまた新しい煙草に火をつける。これで四本目だ。
ハリガネムシ。急に紗代は寄生虫の一種を思い出す。
この虫はバッタかなんかに寄生して、成虫になると川に戻りたいらしく、その時期になると母体を川に誘導するみたいだ。洗脳して、バッタを川まで身体を操り、飛び込ませる、という何とも気味の悪い生き物だ。まさにこの事件はハリガネムシだ、と紗代は思う。
多分水道水に宿った少女の霊が雅夫の口を通して彼の体内に住み着き、彼を洗脳したのだ。そして、あの世に誘導して、二人で仲良くしよう、という魂胆だったのであろう。紗代は舌打ちをして、煙を吐き出した。
携帯電話を取り出す。ツイッターを立ち上げると、苛立った様子で文章を荒々しく打ち込んだ。
『寝取られるとはよく聞くが、まさか憑かれ取られるとはね』
紗代は最後の一服を終えると、重い足取りで葬儀場に戻って行った。
作者細井ゲゲ
久しぶりの投稿です!
良ければ感想、アドバイスなどコメント頂けたら幸いです。