「ねえ、何か聞こえなかった?」
彼女のその一言で、建物に入ろうとしていた私たちの足は止まった。誰もが、張り詰めた空気を肌で感じ、耳を澄ませたに違いない。
私自身も、右手に持つ懐中電灯で目の前の暗闇を照らしたまま、身体が硬直していくのを感じた。
『静寂』
その二文字が頭に過ぎり、緊張と期待と不安が入り交じる様な、何とも言えない気持ちに襲われた。
しかし意外にも、皆の不安気な表情を笑いに変えたのは、他でも無い、原因の一言を発した彼女だった。
「なんてね。冗談よ、じょーだん」
長くて黒い前髪を手櫛でかき上げながら、彼女『ミズサ』は笑って言った。
静寂前の生温かい夏の夜風と共に、安堵の気持ちが私達に戻った気がした。
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『夏だし廃墟で肝試しをやろう』
そんな書き込みがされたのは、私がレポートの合間に興味本位で見ていた、某掲示板だった。
今迄も同じような書き込みはあったが、場所が遠かったり、やはりお互い素性の知らない人間と会うという事実に抵抗を感じて、参加の意思すら無かった。
この所謂、オフ会と言うのか、そんな怪し気な集いに今回参加を決意した理由は大まかに三つあった。
先ず、候補地の一つに私の地元が上がったこと。次に、高校から付き合っていた彼氏の浮気が原因で別れ、新しい彼氏になる男性に会えるかもという期待。そして、友人のアユミが一緒に参加してくれるという事が決まったからだ。
実はアユミも同じ掲示板を見ていて、オフ会に参加した経験もあったのだ。実際、オカルト好きな新しい友人も出来たという、彼女の後押しも大きかった。
掲示板では、次々と話が決まっていき、場所や日時が詳しく指定された。十五人ほどの参加表明と思われる書き込みがされた。その内の二人は、私とアユミだ。
アユミと合流して、目的地の廃墟に向かっている車内では、私の心の大部分を期待感が占めていた。
しかし、いざ廃墟を目の前にすると期待感は薄れ、不安と恐怖が芽生え始めた。
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そんな時に、ミズサのさっきの一言だ。
私は、ふう、と吐息を吐いた。強張った表情が少し緩む。
「もう!でも、ちょっとびっくりしたね!」
後ろにいたアユミは、私の肩を叩いて笑いながら言った。
彼女にとっては、楽しいサプライズ的な一言に過ぎなかったのだな、と私は思った。
周りを見渡しても、皆同じような感じで笑っている。ミズサの一言は、場を盛り上げるジョークに過ぎなかったのだ。
私は再び、建物全体を懐中電灯の明かりで照らしいった。
蔦に覆われて、所々崩れており、鉄骨剥き出しのコンクリートが痛々しく感じた。
二階の部分にある錆びた看板に書かれた文字を読み、ようやくこの建物が一昔前は病院だったとう事が分かるほどだ。
町外れの森の中に、まるで一目を避けるように建っているこの三階建ての病院は、地元のみならず他県からもオカルト好きが訪れるほど有名な建物だった。
火事が原因で廃業と成り、何度か取り壊そうとしたらしいが、何故か幾度も工事が中断され、そのまま廃墟と化したという云く付きだ。
その名残りで、病院は庭と駐車場を含め、ぐるりと鉄板とフェンスで囲まれており、車通りの多い県道沿いにあっても侵入がバレにくいらしい。
「いやあ、ミズサさんの一言には焦ったねえ。でも肝試しらしくて楽しくなってきたんじゃない?」
黄色と黒色のチェックのシャツを着た男性が、両手を大袈裟に上げて言った。
今回の肝試しを企画し、幹事を務めるのがこの人だ。
胸元には、赤いマジックで『リョータ』と書かれた紙を貼っている。
何度か同じような企画を立てた事もあるらしく、最初の自己紹介の時に、みんなの名前が分かる様にと紙とペンとピン留めを準備してきた位だ。
私も胸元には、『りーこ』と書かれた紙を留めている。ついでにアユミは『ゆみりん』だ。
リョータさんの経験ある準備のおかけで、グダグダにならずに開始時刻九時丁度に建物に足を踏み入れる事が出来た。
当日の参加者は、結局十人となっていた。その為、五人ずつ二組が出来て前半後半組と分かれ、私とアユミ前半組になった。
建物自体はそんな広くないらしく、一階の窓から入り各部屋を見ながら、奥の階段で三階を目指し、三階の窓から下の待っている組を懐中電灯で照らして、また降りてくるという単純なものだった。
しかし、病院に一歩足を踏み入れると、やはり外とは違って緊張感が増した。入り口の扉はチェーンで固定されていたので、ガラスが無惨にも割られた窓から侵入した。一歩進む度にガラスの割れる音が病院に響いた。
中に入ると、そこは受付の待合室のようだった。
正面入口から入っていれば、左側に長椅子が並び、その前に受付と書かれた小部屋がある。部屋の扉は施錠してあるのか開かず、仕方ないので小窓から中を覗いた。処方箋のようなものや瓶などが散らばっていて、改めてこの廃墟が病院という事を思い出させる。
そのまま、受け付けを通りすぎ、長い廊下が奥の階段まで伸びていた。
廊下の右側はペンキの剥がれた壁と長椅子が等間隔で並んでいた。左側、つまり受付の小部屋の後ろには『診察室①』のプレートが貼られた部屋があり、続けて『診察室②』『診察室③』の部屋が連なっていた。
残念ながらどの部屋も施錠されていて、私達は廊下を進んだ。
突き当たりの正面には、階段とエレベーターがあり、廊下は左に折れていた。右側は外に通ずる扉があった。上から見たら廊下がL字になっている事が理解できる。
曲がった先にはトイレと部屋が一つあった。幸か不幸かその部屋は空いた。
先頭をきって入ったのは、リョータさんだ。次いで、あのミズサさんとエンドウさんという太めの男性が入り、私達が続いた。
部屋には名前も分からない医療器具が並んでいた。左に扉あり、どうやら診察室と繋がっているようだったが、半開きの扉は何かが邪魔して開かなかった。
その部屋を出て、隣のトイレに入るなり、先頭のリョータさんが悲鳴をあげた。懐中電灯の照らす先には、猫ほどの大きさの小動物の骨があった。私達もこれには肝を冷し、早々と二階に上がった。
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二階は一階同様、同じ間取りになっていたが、診察室では無く『手術室』と書かれた部屋が変わりに並んでいた。部屋の施錠はされておらず、一つ一つ見る事が出来た。
部屋の中央には、ベッドらしきものがあり、周りに機械や医療器具があった。
「不気味ねえ。あ、ほら、メスなんかもあるわ」
ミズサさんが懐中電灯でそれらの医療器具を照らした。
「うーん、確かにこれは怖いなあ。まあ、思ったより荒らされてなくて楽しめるんだけど。しかし何でこういった器具がそのまんまなんだろうなあ」
リョータさんがあご髭を掻きながら、部屋を見渡して言った。
私も不思議に思いながら、持参したカメラで色々な物を写真に収めていた。
その時、廊下からアユミとエンドウさんの悲鳴が聞こえた。急いで私達が部屋から出て、廊下に出ると誰もいない。
ぶわっ、と冷汗が出てくる。
「おい、大丈夫か?」
先を行ったリョータさんが、一番奥の部屋を覗きながら言った。
彼の肩越しに部屋を覗くと、アユミとエンドウさんの背中が見えた。
彼らの先には、他の部屋同様にベッドが中央に取り付けられていたが、それを除くと異様の一言に尽きた。
「な、なにこれ…」
私の口から、自然と言葉が漏れた。
ベッドの周りは明らかに焼き焦げた跡があった。不気味なほどに煤で真黒だ。機械のプラスチック部分なんかは爛れている。
噂が、頭を過った。
それは皆も同じようだった。
「火事の噂、どうやら本当だったみたいだな」
低い声でリョータさんが呟いた。
「ま、まじかよ。で、でもさあ。でも、これって誰かのイタズラじゃねえのかな」
かなり動揺した様子で、エンドウさんがリョータさんの方を見て話した。リョータさんは、うーん、と首を傾げた。
私はアユミに近づいて、大丈夫かと声をかけた。
しかし、アユミは答えず、ゆっくりと部屋の角を指差した。
皆の視線がその先のものを捉えた。
それは非常用ベルだった。乳白色をした長方形の盤に、備えつけられた赤くて丸いベルが印象的だ。
「あれがどうかしたの?」
私の問いに、アユミはまたしても答えなかった。その代わり、ミズサさんが口を開いた。
「りーこさん、気がつかないの?」
そう言われても、最初は皆が何をそんなに不気味がっているのか分からなかった。しかし、すぐに気がついた。
『 灯りが、点いている』
非常用ベルの上部にあるお椀形の灯りが点いていて、ゆらゆらと妖しげに周囲を赤く染めていた。
「よ、予備電源…ってやつかなあ?」
エンドウさんはそう言いながら、後ずさりして部屋から廊下に出た。
ー予備電源。私も最初はそう考えようとした。
しかし、その考えは期待に過ぎなかった。否定する理由なる物を既に目にしていたのだ。
それは一階にある灯りの『点いていない』非常用ベルと、各部屋の所々にある、本来は緑色に光っているであろう誘導灯だ。
『何でここだけ点いているのか』
そんな疑問が当然頭を過る。
配線の問題や、機械の故障なんかも考えられる。電池を使用しているのかもしれない。
原因を探ろうと思えば幾らでも考えられる。
しかしこの焼けた部屋の不気味な雰囲気が、それらの考えに行き着く思考を絶とうとしていた。
出ようー。リョータさんの一言で、まるで金縛りにあっていたかのように硬直した身体が動いて、部屋から廊下に出る事が出来た。
私達は、まだ見ていない部屋を無視してそのまま三階に逃げるように上がった。
三階は、通路がT字になっており、両側が病室になっていた。そして、通路の奥の窓から、月明かりが朧げに照らしていた。
病室らしき部屋は、全部で八つほどあった気がする。その他に階段を上がってすぐ右側に、別の部屋があった。
リョータさんは、扉の開いた部屋を照らすも、中には入ろうとはしなかった。部屋にはベッドが二つあり、真ん中をカーテンが申し訳無さそうに空間を二つに分けていた。続く私達も同じで、部屋を惰性で見るだけだった。
あの赤い灯りを見てから、この廃病院の唯ならぬ気配を感じていた。少なくとも、私はそればっかりを感じていた。
不気味、とは違う。もっと異様な、何かを。
「部屋見るのは、もういいよね。あの奥の窓でしょ?」
ミズサさんが、チラリと、リョータさん見て通過の奥の窓を指差して言った。何が言いたいかは、分かった。
あの窓から下の後半組に懐中電灯で合図を出せば終わりなのだ。そうすれば、あとは階段を降りて建物から出れる。
私は、腕時計を見た。
建物に入ってから、もう二時間は経ったとばかり思っていたが、実際は五十分も経っていなかった。
「ほら凛子、戻るよ」
小声で私の名前を呼ばれ、はっ、と顔をあげた。アユミが私の腰をゆっくり押して、階段の方に踵を返していた。どうやら合図を終えたらしい。
「後半組は私達より遅くならない事を願うわね」
ミズサさんが呟き、皆は声には出さずに頷いて肯定した。
階段は、エンドウさんを先頭に、私達とミズサさん、最後にリョータさんだった。
「帰るまでが遠足だからね。誰も置いてけぼりにならないように」
エンドウさんに先頭を任せる時に、リョータさんが言った軽口にも聞こえた言葉を反芻しながら、一歩ずつ、階段を降りていくー。
「ー静かに。何か聞こえない?」
二階の廊下に足がついて、一階に降りる階段のステップを踏もうとした時だった。
後ろにいるミズサさんが口を開いた。
階段を降りる音だけが反響していたが、やがて小さくなり、止んだ。
夏虫の音も、鳥の羽ばたく音も、私たちの呼吸さえも聞こえないほど静かになった。
首筋を伝う汗を拭うこともせず、私は耳を澄ましていた。何故か目柱が熱くなり、泪が溢れる前に、ぎゅっと、目を閉じた。
『なんて、冗談よ。じょーだん』
ミズサさんが、あの一言を発してくれる事を待っていた。それで、この恐怖から救われるのだ。
しかし、目を開ける前に、私の両耳はその音を拾ってしまった。
『……リリリリ、リリ………ジリリリッ…』
今にも消えてしまいそうな、か細い音。
それは二階の廊下の奥から何かを私たちに伝えるように、少しずつ大きくなっていった。
『リリリリ………、ジリリリリリリリリリリリッ……ジリリリジリリリッ』
私は小学校時代を思い出していた。クラスの男子が仕出かした、少なくとも一ヶ月くらいは、皆の間で話題になったイタズラがあった。
そうだ。あの男子は、度胸試しとかで廊下にあった非常用ベルのボタンを押したのだ。
ドキドキしながら見ていた私たちの耳を劈(つんざ)くように、その音は学校に響き渡った。
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今、まさにあの時の音を再び私の耳が捉えていたのだ。
「これって、火事とかで鳴るサイレンだよな。あの奥から聞こえ…」
エンドウさんの言葉は途中で途切れた。ただ、二階の奥を照らす懐中電灯をゆっくりと下げた。
しかし、再び暗闇を照らしたのは二階に降りきらないでいるリョータさんの懐中電灯だった。
それに反応したかのように、二階の奥の部屋から響き渡るベルの音が、更に大きくなり鼓膜をたたいた。
しかしそんな音よりも私の目は、赤い部屋の中央にあった診察台を凝視していた。
そしてソレを、私の瞳は確かに捉えたのだ。
診察台に仰向けに寝るように、何ががいた。
真っ暗で、人の頭としか認識出来ないが確かに診察台に人が寝ている。
その頭は暫くすると、ゆっくりと天井から私たちへ視線を移した。
「………あっ…」
私の口が開いた。
直後、誰かの叫び声が私の言葉を掻き消した。
気が付けば一斉に私達は出口に向かって走り出していた。
汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死で一階の廊下を走った。それでも、振り向けば直ぐ後ろで鳴っているかのように、ベルの音と言い知れぬ存在感が私を追いかけてきた。
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ー恐らく、入り口の窓枠に引っかかったのだろう。
私は前のめりに倒れるように、外に出ていた。
心臓の激しい鼓動や、荒い息づかいで耳を満たしている。
顔をあげると、後半組の人たちが駆け寄ってきていた。その中で、アユミが一人の女性に肩を抱きかかえられていた。
視界の隅に、仰向けになって肩を震わしているエンドウさんも映った。
「大丈夫⁈ 一体何があったの?」
眼鏡をかけた男性が声をかけてくれた。そして続け様に言った。
「リョータさんと、ミズサさんは⁈」
私はゆっくりと上体をあげて、周りを見渡した。でも視界に入った人たちの中に、その二人はいなかった。
後ろを振り返ると、忌々しい廃病院が聳え立っている。そして確かに、あのサイレンの音を鳴り響かせていた。
後半組の男性二人が入り口に立ち、暗闇を懐中電灯で照らしながら出てこない二人の名を呼んでいる。
そんな時、道路の方からパトカーと消防車のサイレン音が聞こえてきた。
「僕が呼んだんだ。叫び声と火事のベルの音が聞こえたから、万が一を考えてね」
私の心を見透かしたかのように、眼鏡をかけた男性『和泉』さんが言った。
気がつけば、いつの間にか病院から鳴り響いていたサイレンが止んで、パトカーやらのサイレンしか聞こえない。
すると、病院の入口を睨むように見つめていた、彼の黒い瞳が大きく見開かれた。
私も視線を彼から病院に向けた。
暗闇から誰かが出てきた。
「ーーリョータさんっ!」
和泉さんが叫んだ。
病院から這い出るように出てきたリョータさんは、すぐに入口で呼び掛けていた二人に抱きかかえられた。
その場にいた皆が私を含め、リョータさんの近くに集まった。
彼の服装は乱れ、目は充血して明らかに憔悴している様子だ。
大丈夫ですか、とアユミが聞いた。私は続け様に、ミズサさんの行方を聞く。
砂利道に座り込んでいた彼は、少しして頷いてから建物の方を振り返った。
誰かの懐中電灯が照らす一階のロビーから彼女が現れる様子は無く、皆の視線は自然と三階の窓に移った。
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そこに彼女はいた。
暗闇の中、懐中電灯で下から照らされる彼女の顔は、より一層不気味さを増している。
表情までは分からないが、両手で顔を挟むようにしていた。まるで、両耳を塞ぐように。
さっきまでミズサさんを心配して名前を叫んでいた私たちは、その異様な光景に唯々、見入るしか出来なかった。
その沈黙を破ったのは、あのサイレンだった。
再び鳴ったベルの音は、人形のように固まっていたミズサさんを変えた。
彼女は病院内に響くサイレンを掻き消すかのように叫び始めた。
「サイレンをっ、サイレンを止めテえ! ああっ、サイレンを止めてよおおっ‼」
尚も頭を両手で抑えながら、必死に上半身を揺らしながら叫ぶ彼女を、私たちは見つめることしか出来なかった。
「止めて、止メテよおッ! ねえ、サイレンを止メテよオっ! ねエねえサイレ、サイレンを止メテえ!」
その光景は、私の目を、その場にいた全員の目を犯した。
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私に意識を取り戻したのは、目の前で私の顔を覗きながら何かを叫ぶ男性の声だった。
ぼやけていた瞳に映った男性は、その制服から警察官だと気がついた。
そして意識がハッキリしてくると、今度は違和感を感じた。
警察官の背後には確かに病院があるが、ミズサさんの姿も叫び声も、あの忌々しいサイレンの音も無かったからだ。
代わりに、大勢の警察官と救急隊員が右往左往していて、病院の外壁をパトカーや救急車の回転灯が照らしている。
「君、免許証などの身分を示せる物は持っていない? 『りーこ』ってのは本名? 本名じゃないの? そういえば、何か身体に異常を感じる? 具合、悪くない?」
矢継ぎ早に質問してくる警察官の問に私は答えず、渇いた口から絞り出すように質問で返した。
「ミズサさんは? ーまだ、建物の中にミズサという名前の女性がいるんです」
警察官は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、背後の病院を見ながら言った。
「他の人達も同じようなことを言っていたからね。今、警官が建物内を捜索しているー」
その警察官が言い終わる前に、病院の入口の辺りが騒がしくなった。
よろよろと立ち上がり、少しずつ近づく。
そこにいたのは、警察官二人に挟まれるように両腕を抱き抱えられながら引きずられるミズサさんだった。
その姿の変わりようは、直ぐに分かった。
髪はボサボサで、部分的に白髪に変わっている。しかも、顔は何かで黒く汚れていた。
何より、側で彼女の名前を呼ぶリョータさんや、和泉さんの声に全く反応せずに真っ赤に見開かれた目が地面を見ていた。
そして警察官の一人が、駆け付けた救急隊員に告げた一言で、私はその場にへたり込んでしまった。
「どうやら、耳が聞こえないみたいなんだ! 鼓膜を破ったらしい!」
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結局、ミズサさんに何があって、どうしてあの様な姿になったかは分からないまま、私たちは近くの警察署で朝を迎えた。
色んな事が分からないまま、有耶無耶になり忌々しい事件は過去となってしまった。
ても一つだけ、未だにどうしても気になる事がある。
「あ…つい……つい…あつい…あ…い…あつい…」
ミズサさんは救急車に乗るまで、ずっとそう呟いていた。
恐らく『熱い』と言っていたのだと思う。
何でそんな事を言っていたのか。
その疑問の答えを探すには、手掛かりも無くなり月日も経ち過ぎてしまった。
作者朽屋’s