「はい、どうぞ。」
主人が、私の目の前に淹れたてのコーヒーを置く。
「ありがとう。」
私は笑顔で、マグカップを両手で包み込む。
退院して1週間。
私は、あの日、台所で調理中に、脳梗塞で倒れたらしい。
後遺症でそれ以前の記憶が曖昧になっているのだ。
それでも、幸い、主人の懸命の介護も実り、私は徐々にリハビリを重ね
なんとか日常生活に支障の無い程度には復活したのだ。
でも、どうしても、あの脳梗塞になる以前の記憶がなくなっている。
最近特に、何か大切なものを忘れているような、強迫観念にかられることが多くなったのだ。
どうしても、思い出せない。
主人はとても優しい人で、私のすべてを包み込んでくれる人。
私は幸せだった。
退院して、すぐに、私は少し違和感を感じた。
生活のシーンのところどころで。
例えば、水道の蛇口から水を出す場合。
私は無意識に、流しの前に立ち、水道のレバーを上に向けて跳ね上げた。
ところが水道はびくともせず、もしやと思い、水道のレバーを下に下げたのだ。
すると水が勢い良く出た。私がこのことを主人に告げると
「君がもし、手が不自由になった時のことを考えると、押し上げるより、押し下げるほうが便利だと思って、水道の蛇口を変えておいたんだ。」
と言った。こんな細かいところまで気が利く主人に感謝しつつも、ちょっとした違和感をぬぐえなかったのだ。
それから、トイレだと思って入った場所が寝室だったり。
私の中で、そういう小さな違和感が日々の生活で積み重なる。
その度に私は主人に相談するのだが、主人にもわからないらしく
「きっと君の中で、情報が錯綜していて、たぶん記憶の整理ができていないんじゃないかな。」
と言い、今度病院で相談してみようという話になった。
もっと根本的な話だ。
私の中である疑念が小さく渦巻いていた。
ここは、私達の住んでいた家ではないのではないか。
そう考えればすべての合点が行くのだ。
しかし、私はもうこれ以上主人を心配させるのは忍びないので、もうこのことは話すまいと思ったのだ。
慣れれば違和感なんて何ともない。そう言い聞かせた。
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今日は天気が良く、私の体調も良かったので、久しぶりに主人と散歩に出かけることにした。
私と主人は手を繋ぎ、公園へと続く道を歩いた。木漏れ日がきらきらと輝き、すがすがしい朝だった。
公園のベンチに腰掛けて、水筒の飲み物を主人と分け合って飲んでいた。
すると、一組の親子連れが公園を訪れた。元気の良い男の子だ。
「おはようございます。」
優しそうな母親が私達に笑顔で挨拶をしてきたので、私達も笑顔で挨拶を返した。
男の子は、公園に着くなり、目いっぱい走り出した。全ての遊具をわたり歩き、きゃっきゃと声をあげて遊んでいる。その様子はほほえましいはずなのに、私は胸が苦しくなり、落ち着かなくなった。一刻もこの場から去りたい。私の頬を涙が伝った。その様子を主人が見ていて、慌てて私に帰ろうと促した。
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どうしてなんだろう?なぜ、あんなほほえましい親子を見て、苦しくなったんだろう。
私はどうにもならない感情に不安を感じた。
「君は疲れているんだよ。ちょっと無理しすぎちゃったね。家事は僕がやっておくから。ゆっくりおやすみ。」
私は主人の言葉に甘えることにした。
少しだけ、ソファーで横になった。
私は、夢を見ていた。
私は放心したように、椅子に座っている。
全身、真っ黒な服を着ていた。手には数珠。
どうして私はこんな姿をしているのだろう。これって、まるで。
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お葬式じゃない。
次のシーンは、私が誰かの遺影を抱いている。
車のクラクションとともに、人のすすり泣く声がいっせいに大きくなる。
なんて縁起の悪い夢かしら。
次のシーンでは、私は数人の人と共に、石の扉の前に立っている。
静かに読経が流れる。
「最後のお別れです。」
その言葉とともに、一斉に皆が棺おけを囲む。
オンオンといっせいにむせび泣く声。私は自分の声だか、他の人が出しているのだかわからなくなった。
小さな棺。
私はその中を覗くと、一気に咳を切ったように涙と共にその子の名を呼んだ。
「りょうた!りょうた!目をあけて!ねえ、やめて!こんな熱い中に入れたらりょうたが焼けてなくなっちゃう!
私のりょうたをどこにもやらないで!お願い、お願いよ!」
取り乱して、棺にすがる私を誰かが制止した。
「やめろ、りょうたは死んだんだ。」
私はその残酷な一言を発した人間の顔を見た。
あなた。
私の中に真っ黒な感情がこびりついてどろどろと私の腸を溶かしていく。
かけつけた時には、小さな体はぐったりとしていたんだった。
私が留守をしている間に、お願いねと主人を信頼して預けたのだ。
どうして数時間の暇が我慢できなかったのか。
あの頃の主人は、パチンコ狂いだった。
主人は、私達の愛しい息子のりょうたを連れてパチンコ店へ向かったのだ。
ある春の日。あの日はどんよりと曇った日だった。今にも雨が降りそうな空。
主人は、パチンコ屋の立体駐車場の日陰になる場所に車を停めた。
パチンコ屋についたころには、りょうたはぐっすりと眠っていただろう。
主人は油断をしていた。気温もさほど高くなく、1時間程度ならと軽く考えたのだ。
ギャンブルに熱くなった人間の1時間があっという間だということは語らずともわかる。
2時間が経過していた。日中、曇っていたのが嘘のように晴れ渡って気温は一気に上昇したのだ。
まだ小さくて、外に出る術すら知らない小さな体。顔には泣いたのか、黒い筋が幾重もあり、涙は乾いた皮膚に跡を残していた。たぶん、主人は、発覚を恐れ、りょうたをそのまま自宅へ連れ帰った。
そして、初めてそこで救急車を呼んだのだ。
自宅での熱中症と判断された。
主人は、どうして気付いてやれなかったかと泣いた。
私が知らないとでも思っているの?
タバコを吸わないお前からプンプン漂っていたタバコのにおい。
私はゆうに二時間、こいつがどこで何をしていたのかを想像できたのだ。
私だけが。
この薄汚い、卑怯者が。
私にはわかっているぞ。
お前が殺したんだ。
お前が、お前が、お前が、お前が!
りょうたを殺した!
火葬場で私は、主人につかみかかってあたりが騒然となった。
「おい、どうしたんだ。大丈夫か?」
私は主人の声で目がさめた。
「悪い夢でも見たのか?うなされてたぞ?」
そう、悪い夢だと思いたい。
私が倒れたあの日、台所で包丁を握ってたんだった。
調理するためではない。
おかしいと思っていた違和感もすべてがクリアになった。
この部屋は私達が暮らしてきた部屋ではない。
私が記憶喪失になったことを良いことに、引っ越して以前のことを
まったく思い出せないようにしていたのだろう。
りょうたの遺影すらも、ここにはない。
すべてを無かったことに。
あなたはそんなに自分を守りたいの?
私はあの日のように、台所にふらふらと歩いて行った。
「あなた、最近ね私何かを忘れていたような、大切な何かを忘れていた気がして。
どうしても思い出せなかったんだけど。今、やっと思い出したわ。」
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包丁を握り微笑む私を、主人が驚愕の目で見ていた。
作者よもつひらさか