泉佐野市にある日枝神社は、戦前には松の巨木が生い茂り、大阪湾から見るとまるで小山のようであり、江戸時代には船の航行の目印とされていたという。
その頃は、境内は昼でも暗かったと、私が子供の頃の古老たちは語っていた。
地元の伝承では、昔は雷が頻繁にこの辺りに落ち、村人が難儀していたということで、この神社に雷除けの祈願をしたという。
雷が神社の境内に落ちた時、神様が雷を壺で井戸に封じたという。封じられた雷が謝って、この地域に落ちない事を誓って、許されて以来、この村には雷が落ちないという。そしてそれ以来この神社は壺の宮と呼ばれている。表記は坪の宮と書かれることが多い。
この辺りを古地図で見ると、村名は中世にはツボヰと呼ばれていたことがわかる。
ツボヰという名前はおそらく雷を封じた井戸に由来するのであろう。後世この井戸で村の田植えの際、種籾を浸したことから、村の名前は浸井(カシノイ)となり、それがいつしか樫井となり、(カシネ)と呼ばれていた。
神社は熊野街道から100メートルほど脇道に入った所に在り、
府道251がなかった頃は、畦道伝いに田尻町から泉南市新家に行く道筋であった。
そして夜にこの道を通る人にとっては、ここはかなり不気味な所であった。
新家の中村のある家のお婆さんが、田尻町に行き、用事を済ませて帰る時はもう夜になっていた。
何時もは常夜灯の光も漏れてこないような、深い鎮守の森である。
しかしその夜は、森の手前の空き地らしきところに明りが見えた。
そこに近づくにつれて、様子がわかってきた。
どうも芝居をしている様子である。
そして、そこを通り過ぎようとすると、そこにいる人に、ちょっと見ていけと、呼び止められて勧められ、おばあさんは芝居小屋に入った。
芝居は忠臣蔵で、この辺では見ることもできないような、見事な芝居である。
夢中になって見ていると、だんだん足腰が冷えてきた。
気が付くとお婆さんは、神社の手前にある沼田に腰まで浸かって、身動きが取れなくなっていた。
この辺で牛ゃ地獄と呼ばれている沼田である。
お婆さんは、慌てて助けを呼んだ。
しかし、ここは夜になれば誰も近づくもののないところである。
そこに、天秤棒を担いだ人がやってきた。
お婆さんの様子を見ると、その人はおばあさんの顔を撫でて、
「お婆よ、寒いか?お婆よ、寒いか?」
そう言うと、笑いながら立ち去ってしまった。
「そんなこといわんと、助けて欲しいよう」
そして同じように天秤棒を担いで人が、次から次へとやってきては、お婆さんの顔を撫でて、
「お婆よ、寒いか?お婆よ、寒いか?」
そう言って、立ち去っていく。
そしてそれは、明け方まで続いた。
漸くお婆さんは、キツネにだまされたことを悟った。
朝になって、お婆さんは野良仕事に出かける農家の人に助けられ、家に帰ることができたが、それから何日も高熱にうなされたと言う。
牛ゃ地獄は「ワケノマ」という字地にある、牛を使う事が出来ない程の深い沼田で、ワケノマは元の沼の名前らしい。
ちなみに、この辺りでは昔は沼の事をノマと言っていた。
同じ神社での話である。この神社は、日枝神社という名前である。昔は山王さんと呼ぶ事もあった。
当然、祭神は大山咋神、亦の名を山末之大主神。であるはずだが、祭神は
猿田彦である。
しかも、名前の猿からの連想から、この神社には狛犬を置くことがタブーらしい。
よくわからない話である。
そして、この神社には牛の化け物が出るという話がある。
子供がいたずらした時に神社の木に縛り付けておくと、夜中に牛が顔を舐めに来るという。
これなどは再犯防止の脅し話である。
多分、丑の刻参りの話からの連想。
それほどこの神社での丑の刻参りが頻繁だったからであろう。
神社の境内に牛神の石碑がある。
その石碑のすぐ後ろに一番大きな楠があり、その木の裏側に無数の錆び釘が残っている。
村の中で一番のやんちゃ者の若い衆がいた。
その頃、丑の刻参りの噂があった。
その若い衆、それを聞き、面白がって夜中にこっそり見に行ったそうである。
親が止めるのも聞かばこそ、肝試し気分で出掛けた。
若い衆が神社に向かうと、コジョウジという名が付けられた田圃の畔道に明かりが見える。
若い衆は神社の参道の脇にある家の陰に身を潜めて様子を伺うと、それは白い着物を着た女であった。
女は頭に五徳を被り、それにろうそくを点して歩いている。
長い髪の毛をざんばら髪にして、口に櫛を咥え、いかにも丑の刻参りのいでたちであった。
若い衆は女が鳥居をくぐるのを見届けて、神社の方へ向かった。
若い衆は鳥居はくぐらず、鳥居脇にある手水鉢の影に身を潜めて、様子を見る。
女は楠の後ろに回り、呪い釘を打ち始めた。
もっとよく見ようと、手水鉢の陰から出た時、見られていることに気づいた女と目が合ってしまった。
一瞬の静寂の後、女は怒りの声を上げて金槌を振り回してこちらのほうにかけてくる。
若い衆は肝をつぶして逃げ出した。女は追いかけてくる。
男の足である。逃げ切れると思った。
しかし女は呪いの言葉を吐きながら迫ってくる。
ようやく家にたどり着いた若い衆は、慌てて戸を閉め、つっかい棒をかまして、布団をかぶりガタガタ震えていた。
そのうち、女の怒り声とともに、ドンドンドンドンドン、ガリガリガリガリガリ、ドンドンドンドンドン、ガリガリガリガリガリ、という音が聞こえた。
生きた心地がしなかったそうである。
それは夜明けまで続いた。
夜が明けると、女も諦めたらしく、音は聞こえなくなった。
外に出て確かめると、板戸には、血糊がべったりとついていた。
そして板戸は、紙のように薄くなっていたと言う。
神社の参道は、馬場道と呼ばれている。神馬が通る道のことらしい。
この参道を、馬が通っているのを見た事は終ぞない。
神主を馬に乗せるような祭りなどこの神社にはないからだ。
ただ…馬以外のものが通っていることを耳で聞いたことがある。
夜が更けると、この道は人通りが途絶えてしまう。
まぁ、それはずっと昔の話ではあるが… 。
真夜中に、この道で足音が聞こえると、明くる日には必ずお弔いがある。
男の人が亡くなるときは下駄の音、そして偶さかタバコの匂いなど。
女の人が亡くなる時は草履の音、この道沿いに家ではそれらを聞くのである。
「あー、明日はお通夜があるなぁ」
「草履の音やからあそこのおばあちゃんと違うか?」
「もう危ないみたいらしいから…」
神社から延びる馬場道の東西まっすぐな直線部分が、霊道になっているらしい。
それも今は昔の話である。今ではこの道もかなり人通りが多くなっている。
そのような音など誰も気がつかないであろう。
それでちょっと気になったから、地図で調べた。
神社からまっすぐに伸びている馬場道に定規を当ててみると、その延長線上にあるのが村の墓地である。
偶然なのか、そのように設定されているのかはわからない。
作者純賢庵
ブログにあげていたコンテンツですが、怪談風なのでここにまとめて投稿させて頂きました。
実在の神社周辺の民話です。今でも痕跡が残っているものもあります。