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古谷さんが出張先に着いたときには、既に午後九時を回っていた。
「地方都市のうんと外れですからね。もうその時間になると、コンビニくらいしかやってないだろうと諦めていたんですよ」
駅舎を出て、タクシーを探していると、立ち食い蕎麦屋の灯りが見えた。
「実際、助かったと思いましたね」
彼は駆け足で店の戸をくぐった。
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古い店内はコンクリート剥き出しの床に、油と埃の染みついたカウンター。
調理場には汚い前掛けに、白い角帽のオヤジがひとり。
年は六十をちょっと過ぎたあたり。
「まだやってる? かき揚げ、蕎麦でね」
「……食券買って下さい」
頬のこけたオヤジは顔も上げずに呟いた。
「ぶっきらぼうな言い方でね。客なんか誰も居ないのに。でもね、とにかくこっちは温かい物が食べられるっていうだけで嬉しかったから、あんまり頭にはこなかったですね」
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彼はかき揚げ蕎麦に、いなり寿司を買った。
カウンターに置くと、オヤジはよっこらしょと声に出して立ち上がり、カウンターの隅にあるガラスケースから、いなり寿司がふたつ並んだ小皿を古谷さんの前に置いた。
「かき揚げぇ~」
誰に言うわけでもなくオヤジは妙な節をつけて読み上げると、蕎麦玉を白く煮たった湯がき鍋の中に放り込んだ。
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古谷さんが天井の角に置いてある映りの悪いテレビを眺めてから振り返ると、
調理場の中に子供がいた。
「三つぐらいの子かなぁ。それが裸なんです。丸裸。その子がオヤジの手元を引っ張ったり、前掛けをつまんだり、とにかくじっとしてない。いたずらっ子なんです。」
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しかし、店の中とはいえ冬である。
冷気は足下から凍みる様に這い上がる。
いくら厨房には火元があるからといって、風邪でも引かせたらどうするのだろう。
古谷さんは子供のいたずらとオヤジの無神経さにハラハラした。
オヤジは子供が白い長靴を後ろから引いたのでつんのめりそうになり、手元を叩かれるため、かき揚げを天麩羅鍋から何度も掬い損ねていた。
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そのせいか、出てきたかき揚げは焦げていた。
箸を割って啜っている間にも、子供は厨房のあちこちをぺたぺたと歩き回っている。
「元気が良いねぇ。いくつ?」
古谷さんは子供の方を向きながら、先程と同じように丸椅子でテレビを眺めているオヤジに訊いた。
「えっ?」
「年ですよ」
「六十二」
「いや、そうでなく。その子ですよ」
するとオヤジはキョトンとした顔で厨房を見回した。
「誰?」
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「いや、そこの子。お孫さん?」
「知らないねぇ」
オヤジはふんと鼻を鳴らすと、テレビに戻ってしまった。
その時、子供がつまづき、床で煮たっていた鍋の中に頭から突っ込んだ。
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「あ!」
思わず古谷さんは立ち上がった。
が、子供の姿は消えていた。
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オヤジが呆れた様に自分を見つめていた。
彼は座り直すと残りの蕎麦を掻き込み、いなり寿司をほおばった。
「ごちそうさま」
と立ち上がったとき、また店の奥からあの子供が出てきた。
見ているとそれは、座ってるオヤジさんの背中にしがみつき、古谷さんを睨んだ。
目が合った瞬間、子供の首はぐるりと一回転したという。
古谷さんはそのまま表に出ると、偶然通りがかったタクシーを捕まえた。
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乗り込み振り返ると、店はなかった。
「ねぇ!ちょっと停めて!!」
古谷さんはタクシーを降りると店のあった場所に戻り、運転手が怒り出すまで何度も行ったり来たりを繰り返した。がそこにはただ暗い空き地が、ぽっかりとあるだけだった。
「なんて言うんでしょう。ああいうの」
古谷さんは今でも首を捻っている。
作者メリーさん