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「初めて見たときは嬉しかったですよ。あ、イルカだって」
加藤は大学の頃、ウィンドサーフィンに凝っていた。
「週二~三は海に出ていましたね」
性格的に人とつるむより独りでいる事を好む加藤には、まさにもってこいな遊びだった。
「いつも滑走してる訳じゃないんです。僕は沖に出ると、帆を倒してボーッとしてるのが好きなんです。ただ波間をゆらゆら揺れながら、遠くの船や陸地の様子なんかを眺めてると落ち着くんです。」
初めて聞いたときには驚いたが、波が穏やかな日などは沖に出て本も読む。
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「僕は、大きめのウエストポーチに、水とエネルギーバーと文庫本を入れて行くんです」
時にはのんびりし過ぎて、かなり遠くまで流されてしまった事も有った。
「本当は危ないんでしょうけど、元気で暮らしていく上には必須条件でもあったんです」
そんなある日。
午後を過ぎ、そろそろ戻ろうかと用意をはじめた彼は、波間に覗く灰色の背を見つけた。
それは波間を遊ぶように漂っていた。
その辺りは、運が良ければイルカに遭遇できるポイントでもあった。
「何かの本で、イルカはたまにああいう風に休憩する事があるって読んだんです。」
二人の距離は百メートル程。加藤はゆるゆるとした風を苦労して帆で掴むと、近づいていった。
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あと十メートルというところで灰色なのがイルカの肌ではなく作業着だと気づいた。
胃の辺りがギュっと絞られた。
慌てて帆を緩めた。
近づきすぎ、衝突するような事にはなりたくなかった…
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更に近づくと黴を醤油で煮込んだ様な強烈な腐敗臭が海面に漂ってきた。
出来損ないのクッションの様にパンパンに膨れ上がった身体。
伏せているので顔は見えないが首や耳は生白く、崩れた豆腐の様にところどころ剥離した皮膚の下から、筋肉の様なものが緩んで見えた。
「髪の毛が泳ぐみたいに動いてました」
死体の周辺に円を描く様にして脂の輪ができていた。たぷりたぷり…と波に揺れ加藤のボードにも、それはくっついてくる。
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加藤は方向転換しようとして誤った。いや、正確にはボードを汚す血脂に滑ったのである。次の瞬間
shake
大きくバランスを崩し、ボーンと音をたてて死体の脇に没した加藤は、這い上がろうと必死になった。
「目はつぶってました。側で顔を見るのが怖かったんです」
何とか加藤はボードを手探りで見つけた。身体を寄せる。力を入れた指先がぐんにょりと沈んだ…ボードではなかった…
「はああ!」
もうパニック状態だったという。
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ようやく【本当】のボードを見つけ這い上がった時には、精も根も尽き果てていた。
「それに………あまり思い出したく無いんですけど……口の中が小便をされたみたいに臭くなってたんです。多分あの辺の水を飲んでしまったんだと思います」
加藤は取り敢えずその場を離れようと、帆を起こした。しかし、それまでは多少あった風が消えていた…
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風を受けなければボードは動かない。
「困ったな……」
仕方なく加藤はボードを跨ぐと手で漕ぐ事にした。
「ところが……潮の関係だと思うんですけど、ついてくるんです」
死体は手を伸ばせば届く辺りでつかず離れず浮いていた。真っ白に膿んだ肌に、黒い髪だけが日陰の雑草の様に、潮垂れて見える。気がつくと陸の景色が完全に変わっていた。
流されていた。
「おーい。おーい」
加藤は跨がったまま陸に救援のサインを送った。
しかし、元々人気の無いところから海に入ったのだし、海水浴場でもなければ、ポツンと浮いてるボードを注視してくれる人などいる筈も無かった…
日がまさに、沈もうとしていた…
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陸に灯りがちらつきはじめるのと、辺りが夜の帳に包まれるのとは、ほぼ同時だった。
加藤は、いまだそよとも吹こうとしない風に悪態を吐き続けていた。
空の月がやけに明るく自分と死体を照らしていた。
「本当に明るくて、手の皺がはっきり見えるほどでした」
いつもはめている筈のダイバーズウォッチは友達に貸してしまっていた。昨日返して貰う約束だったのだか、友達から連絡は無かった。
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右の人差し指が酷く痛んだ。
「ボードのフィンか《何か》に当たったのだと思います」
見ると第一関節の長さ分、深くはないのだか縦に裂けのろのろと出血していた。
傷口の周りの皮膚はふやけ、あれと同じ色をしていた。中に見える赤黒い肉だけが、生きている証に思えた。
空の月を見上げた。
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死体は磁石の様にボードの傍らにあった。
何度か爪で押してみたのだが…気づけば身を寄せる様にしていた…
夏とはいえ、夜の寒さと異様な緊張のおかけで、急激に眠くなってきた。前夜、明け方までゼミのレポートを書いていたのもいけなかった…
加藤は跨がったまま何度もガクリと態勢を崩しては目覚め、また暫くするとうたた寝し、ガクリとなって起きるを繰り返す様になっていた。
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「夏だったので凍死するという事は無いと思ってました。ボードに乗ってさえいれば絶対に助かるという確信がありましたから。それに、風が出ればすぐに出発できますから」
遭難という意識はなかった。
これが実家であれば大騒ぎになっていただろうが…彼は下宿に独り暮らしであり、恋人もいない。誰にも気づかれる事なく漂っていた。
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何度目かのうたた寝が…突然の悲鳴で破られた。
shake
周りを見渡したが、海と月。
それと…自分とアレしかなかった。見ると…死体《アレ》の周りに泡がたっていた。
ぶくり………ぶくり………ぶくり…………。
泡は死体の周りでクラゲの様に浮いては破裂した。
そしてその度に、えげつない臭いが漂ってきた。
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口の中の臭みが戻ってきた。げぇーっと反射的に加藤は戻してしまった。
水しか出なかったが加藤は口の中を指で拭うようにして、唾を吐き、染み付いた臭みを取ろうとした。
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《ふふ……》
shake
唇を拭う加藤の腕が止まった。死体からは泡が続いている。
《ふふふ……》
shake
泡が割れる度に笑い声のようなものが混じるようになった。加藤は足を伸ばし、死体を蹴った…
《ふふふふふふ…………》
予想に反して死体は一旦離れた直後、ボードにぶつかる様に近づいた。
加藤はなるべく下を見ないで済むように顔を上げ、月を睨んだ。
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と…その時、水中に入れた足に何かが強く当たった。
shake
「うわぁ!」
悲鳴をあげ、それを蹴り返した。
《ふふふふふふ。ふふふふふふ》
shake
泡が続けざまに浮いた。
〈魚だ………魚が当たったんだ〉
しかし、加藤はそうでない事を判っていた。
足はただ当たったのではなく…掴み引かれていた。
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陸を見ると既に灯りは消え、時折、海岸沿いを行く車のヘッドライトが光るのみだった。
突然
shake
ぐわっと…ボードが揺れ、我に返った。
慌ててしがみつくと、大きな揺れが二度三度とやってきて止まった。
微かに風が戻ってきている様だった。
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その時、初めて死ぬかも知れないという意識が生まれた。
自分とあの死体が、ボードの周りを並んで、ぷかぷか浮いてるイメージが、やけにリアルに、現実の事のように頭に浮かんできた。
ボードの様子がおかしかった。
刹那、背中にゴツリと硬い物が当たった。
腐臭が脳に鼻に殺到した。
ボードに跨がった死体が加藤にもたれ掛かっていた。
加藤は悲鳴を上げ、反射的に手を振り回した。
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ぼげっ…嫌な音をたてて右手が死体の顔に埋まった。
魚に食い荒らされたそこは柔らかく、ぬめぬめとしていた。半狂乱になって加藤は手を抜いた。
死体はボードから落ち、今度は仰向けになって浮いた。月明かりのもと…顔からは踏まれたメロンの様に色々と実や皮が伸びていた。
指先が痛んだ。
死体を叩いた際にそうなったのか…傷に髪が挟まっていた。加藤はそれを抜き、海水で手を洗った。
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確かめると、まだ皮の奧に残っていた。
加藤は抜き、また洗った。
するとまだ皮の奧に、渦巻きの様に残っている。
もずくの様に細い毛が、ぶよぶよとふやけて白くなった傷口の裏から、生えるようにして飛び出していた。加藤は皮を捲るようにして抜いた。
髪はまるで…傷から生えているかのように抜く度に酷く疼いた。
「なんだよこれ!」
そう叫んだ瞬間、傷がぱっと割れた。
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それは真ん中から縦に割れると寒天のような白と黒の中身を見せ、ぐるんっと動き、彼の正面で止まった。
眼球だった。
真横で死体がざばっと起き上がるのが感じられた。
加藤が覚えているのはここまでだった。
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翌朝、ボードの上で失神している彼を漁船が発見した。
「死体は無かったんです」
結局、ボードは二十キロ程流されていた。救助された時、ボードにはかなりの血が付いていた。
加藤は、人差し指の先を完全に噛み潰していて、それは切断する他無かった。
「自分では覚えてないんで痛くは無かったんですけどね。無いとやっぱ不便ですよ」
今でも彼は、ウィンドサーフィンを続けている。
ただし、行くときには必ず彼女か仲間と行くようにしている。
作者メリーさん