8年付き合った彼女と別れることになった。
長いようで、あっという間だった年間。思えば色んなことがあった。良いことも悪いことも。8年間、彼女との結婚を考えていた時期もある。特に俺より3つ年上だった彼女は、特に結婚願望が強かったようだ。早く結婚したいと毎日のように言われていたし、両親に会ってほしいと何度も頼まれた。
だが、若かりし頃の俺は、結婚というものにあまりいい認識がなかった。軌道に乗り始めていた仕事に集中したいというのもあったし、何より結婚なんてしたら、これまで通りには生活出来なくなる。金は思うように使えなくなるし、もともと束縛が激しい性格の彼女のことだから、更に束縛されるだろうし。自由に遊ぶことも出来なくなる。子どもなんて生まれてみろ、やれ育児に協力しろだの家事を手伝えだの煩く言われるようになるだろう。
そんな理由もあり、俺は何だかんだとはぐらかしていた。結婚したくないというわけじゃなかったし、彼女のことも愛していた。ただ、まだ時期的に早過ぎると思っていただけだ。
だが、いつの頃からか「結婚、結婚」と決まり文句のように言う彼女に嫌気が差してきた。追われると逃げたくなるのが男の性。それに、俺自身、束縛されることが苦手だった。いつしか俺は彼女に隠れてこっそり浮気するようになっていた。新しい彼女は会社の後輩で、優しく控えめで、何でも寛容に見てくれる女性だった。最初は遊び半分だったのがそのうち本気になり、気が付けば本命となっていた。
そのことに追い打ちを掛けるように、新しい彼女から妊娠したという報告を聞いた。今までは結婚というものが自分をがらんじめしてしまうような息苦しいものだと考えていたが、俺も今年で30になる。そろそろいいかな、というように思えてきた。俺は彼女にプロポーズし、彼女もそれを受け入れた。近々、ささやかながら結婚式を挙げる。
ただ……。問題なのは8年間も付き合った彼女のことだ。実は俺達は8年前から同棲している。新しい彼女が出来ても、それは変わらなかった。彼女の名義でアパートを借り、今日まで一緒に暮らしてきたが……そろそろ本当のことを言わなくてはならない時がきたようだ。
「ただいま……」
「おかえりなさい」
いつもと変わらない笑顔で、彼女は俺を迎えてくれた。台所からは、フワリと味噌汁の匂いがする。
「お腹空いたでしょ。大君の大好物の唐揚げにしてみたよ」
「あ、嗚呼。ありがとう」
歯切れ悪く返事をすると、彼女は「じゃあ、ご飯よそうね」と言いながらくるりと体の向きを変えた。俺はその背中に「ちょっといいか」と話し掛けた。彼女はぴたりと立ち止まる。
「言いにくいことなんだけど……ごめん、俺、好きな子が出来たんだ」
彼女は黙っている。こちらを振り向かず、ただじっとしている。俺は構わず続けた。
「その子、妊娠したんだ……。だから、ごめん。その子と結婚したいって思ってる」
「そう……」
彼女は一息置いて振り向いた。涙ぐんではいたが、驚くほど冷静だった。指先で涙を拭うと、健気にも笑ってみせた。
「知ってたよ……。大君に新しい彼女がいるってことくらい。8年間も付き合ってたもん、女のカンを舐めないでよね」
「そ、そうなのか……」
「分かった。そういう理由なら仕方ないよ。でも……最後に1つだけお願いを聞いてくれるかな」
「何だ。何でも聞くよ」
もっと泣かれたり喚かれたり、「別れたくない」と怒り出すんじゃないかと思ったが、意外にもあっさり認めてくれた。それに、俺の行動が彼女に筒抜けだったという事実にも。二重の驚きだ。浮気のことはばれないようにうまく隠してきたつもりだったんだけど……やっぱり女って怖い。だが、彼女のいじらしさにすっかり心打たれた俺は、どんな願いだって叶えてやりたくなった。これが最後の願いかと思うと余計に。彼女に貰い泣きし、つられて涙を溜める俺に、彼女は笑顔で言った。
「最後に、私が作った夕食を食べてくれる?」
2人で向かい合い、座る。テーブルの上には俺の大好物の唐揚げが皿にこんもりと盛られ、サラダと漬物、それに白いご飯と湯気の立つ味噌汁が置かれてあった。「いただきます」と箸を取り、さっそく唐揚げに箸を伸ばす。すると、彼女はぼそりと言った。
「……大君、唐揚げ大好物だったよねえ」
「え?う、うん」
「覚えてる?最初に大君に唐揚げを作った夜。私、初めて唐揚げ作ったから失敗しちゃって。味付けはしょっぱくなっちゃうし、衣は焦げてカリカリ。大君、怒ってたよねえ。まずいって大声で怒鳴られたの、今でも覚えてるもん」
「そ、そうだっけ?」
さっそく食べようとしている時に、何て話をしてんだこいつ。出鼻がくじかれて、俺は箸を引っ込めた。彼女はふふ、と笑いながら2本の端をぐさりと唐揚げに突き刺した。ぐりぐりと抉るように箸を動かし、せっかくの肉汁の大半が流れても、止めることはしなかった。
「悔しかったなあ、あの時は。私、一人っ子だったから。両親にもあんまり怒られたことなかったんだよね。でも、あの時は大君にマジで怒られた。それが悔しくて悔しくて悔しくて……大君を見返してやりたい一心で、唐揚げがうまく作れるように練習してたの」
「そ、そうか。ご、ごめんな、大人げなかったよ」
「いいよ、別に。だって大君にそう言われたから、唐揚げが上手に作れるようになったんだもん。今では感謝してるよ。そりゃ言われた当時はキレかけたけどね。大君の料理に毒盛ってやろうとか考えたし」
「……」
思わずテーブルに並んだ料理の数々を見る。すると彼女は「冗談だよー」とせせら笑った。嫌な笑い方だった。
「でもさあ、男ってなぁーんにも考えないで食べるよね。作って貰った物をそのまま何の疑いを持たずにガツガツ食うよね。少しは疑うことしたらどうかな。だって、料理を作ってるのは自分じゃなくて女だよ?女を怒らせた後とか、気を付けたほうがいいと思うけどね。特に___」
彼女は唐揚げを頬張り、にっこりとほほ笑む。
「独占力の強い女を怒らせた後なんかは」
ガチャン。俺の手から箸が滑り落ちた。その様子を見た彼女はぷっと吹き出した。
「冗談よ冗談。ちょっと脅かしてやっただけ。いいじゃない、最後にこれくらい悪戯したって」
「な……そ、そうだよな。悪い冗談だよな。食事時に変なこと言うなよ」
額に浮かんだ冷汗を拭いながら、どうにか笑った。そうだよな、本気のはずがない。現に彼女だって唐揚げを1つ食べたが、こうして平気でいるじゃないか。嫌な空気を払うように、再び唐揚げへと箸を伸ばす。うまい___ニンニクが利いていて、味付けもちょうどいい。衣はサクサク、なのに中はジューシー。俺が好きな味だった。
夢中で唐揚げを頬張る俺を彼女は真向いからじっと見つめていた。そして照れ臭そうに笑うと、「ごめんね」と言った。何で謝られたのかが分からず、首を捻る。彼女はことんと箸を置くと、呟いた。
「ごめんね。でも、2人で死ねば怖くないよ」
作者まめのすけ。-3