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僕は今、静まり返った墓地に来ている。
あたりに街灯などない。
真っ黒い墨を流し込んだ水面のように闇がよどむ中、
ぽつぽつと四角い死の証が点在する。
生きていた証を刻んだ、死のモニュメント。
僕はある墓の前で足を止めた。
僕は墓の石段を上がり、その死の証の前にひざまずいた。
刻んだ生の証を指でなぞる。指を通して君の感覚が
蘇りはしないかという妄想にかられたけど、指先からは
冷たい死しか感じられなかった。
僕はあきらめの悪い男だ。
納骨堂の石をずらし、僕は彼女のお骨を胸に抱いた。
許されることなら僕は、彼女の形を永遠に残しておきたかった。
そう、どこか遠い外国の精巧なミイラのように。
しかし、日本の今の法律はそれを許してはくれない。
彼女の不在が僕を八つ裂きにした。
バラバラの僕を拾い集めてみたが、僕はそんな生活に疲れてしまった。
死のうと思ったのだ。
もう僕はこれ以上僕の形を保つ事はできない。
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僕は鴨居の上にあいた欄間の隙間にロープをかけ、輪にした。
そして、あとは首をそこにかけて、椅子を蹴るだけ。
僕は意を決した。ふと、上を見ると天井に穴が開いていた。
その穴に、僕のかけたロープが重力に逆らって吸い込まれていってしまったのだ。
僕はあっけにとられた。その穴からは二度と、ロープは降りてこなかった。
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いつの間にこんな穴が。
僕は、天板を外し屋根裏を覗いた。
そこから這いつくばって、あの穴の位置のあたりまで進んでみたが、
そこには穴らしきものは開いていない。
僕は、天井裏から降りて、またあらためてその位置を見た。
こちらからは確かに穴が開いているのだ。
僕は、ためしに、持っていたペンを穴に近づけてみた。
すると、ペンがすぅっと穴に吸い込まれていった。
なんなんだろう、この穴。
僕はもう感覚が麻痺しているから、その穴を怖いともなんとも思わなかった。
もう怖い思いは十分している。君の不在だ。
次の日、僕は不思議な光景を目にする。
昨日穴に吸い込まれたペンがロープで結わえられて、部屋に戻ってきたのだ。
僕は体の中を電撃が走った。
もしかして。僕は淡い期待を胸に、彼女のお骨を盗んだのだ。
僕は毎日、彼女のお骨を一つずつ穴に入れた。
毎日、毎日、彼女のお骨はどんどん穴に吸い込まれていった。
そして、今日最後の骨を穴に放り込んだ。
これは君の窓。
僕は君がここから蘇ることを信じているのだ。
ある朝、天井の穴の位置に違和感を感じた。
穴から、人間の足の指らしきものが覗いている。
僕は狂喜した。
やはり僕の予想は正しかった。
彼女が還ってくる!
僕は、毎日心待ちにあの穴を覗く。
最初は足の指、次の日は、ひざまで。
その次の日は腰から下が天井からぶら下がっている。
「おはよう。早く君に会いたいよ。君の窓から出ておいで。」
そして、ある朝、ついに全貌が天井からぶら下がっていた。
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「君、誰?」
そこには見たことも無い女性がぶら下がっていた。
僕はどうやら、一つ墓を間違えたらしい。
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僕は、天井からぶら下がる見知らぬ女を前に途方にくれている。
さて、これをどうしたものか。
ためしに話しかけてみる。
「すみません。墓を一つ間違えまして。本当は隣の墓の僕の彼女を蘇らせようとしたんです。自分で呼び出しておいて、申し訳ないんですが、帰ってもらえないでしょうか?」
自分でも理不尽なことを言っているのは百も承知だ。
その女は無反応だった。何も聞こえて居ないような反応。
身から出たさびとは言え、正直、このまま生活するのは無理。
とりあえず、ぶら下がっていられるのも不気味なので、見知らぬ女を下ろして椅子に座らせた。
見知らぬ女は質量があるのかと思うほど軽かった。
魂の重さは21グラムというのは、あながち嘘ではないのかも。
触った感じ、質感はあるのに質量がないというのは実に不思議な感じだった。
抜け殻。
いくら話しかけても反応のない女。
困った僕は、どこかへ処分しようと考えた。しかし、こんな大きな物、解体でもしないと無理かな。
そう考えた時に、初めて女に反応があった。
なんと、僕の顔を見て、涙を流したのだ。
僕は動揺した。
「帰りたくないの?」
そう問うと女は頷くでもなく涙を流し続けた。
これでは解体しにくいではないか。
仕方なく僕は、見知らぬ女との同居生活を余儀なくされることになった。
しかし、同居してみると、意外に違和感が無かった。
「ただいま。」
僕はいつしか、物言わぬ女にそう語りかけるようになった。
彼女が居なくなって、寂しかった一人の部屋に待っていてくれる人が居る。
しかし、その女はこちらがいくら話しかけても、答えることはなかった。
それと、なんとなくだけど、その女は痛んできているような気がした。
1週間もすると、甘い腐臭を漂わせるようになった。
困ったな。いくら泣かれても、腐り行く女を見ながら生活するのは。
その時、台所の床をどこから入ってきたのかわからないが、一匹のゴキブリが這いずった。
僕は情けないことに、悲鳴をあげて飛びあがった。
その刹那、今まで無反応だった女が素早く動いた。床に這い蹲り、そのゴキブリを鷲づかみにすると、素早く口に放り込んだのだ。
僕は驚愕のあまり、唖然とその様子を見ていた。
女の口がぐちゃぐちゃとそれを咀嚼し、茶色の羽が口に全て吸い込まれると、ごくりと喉を鳴らし飲み込んだ。
呆然と見ていた僕の喉から、その時初めて長い悲鳴が出た。
やはりこれは処分しなくてはいけない。
だが、今、あの素早さを目の当たりにして、とても彼女に立ち向かう勇気はなかった。
僕はその夜、自室に鍵をつけた。厳重に僕の部屋に誰も侵入できないように鍵をかけた。
その夜はあの場面を何度も勝手に脳内でリプレイしてしまい、眠れなかった。
とうとう朝を向かえ、僕は恐る恐る、女の居るはずのキッチンに向かう。
ところが、女はそこには居なかった。
僕は心底ほっとした。
あの女は消えた。
自分の愚かな行動でこんなことになってしまった。
でも、もう女は居ない。
僕にまた、一人の何も無い生活が訪れた。
誰も居ない家に帰り、一人で食事をして、眠る。
もう天井にはあの穴はない。
間違えて召喚してしまった、あの女もキッチンの椅子には座っていないのだ。
寂しい。
僕は、自分のそんな感情に驚いてしまった。
あんなおぞましいものを見てしまっても、そう感じる自分に驚いてしまった。
嘘だろう?僕が愛しているのは死んだ彼女だけだ。
否定をする僕の変わりに、僕の目が涙を流した。
あれ?なんで僕、泣いているんだろう。
その時、家の片隅でカサカサと音がした。
何か、居る。僕は警戒する。
カサカサ、カサカサ、カサカサカサカサ・・・
動物?
僕は音のするほうを見た。天井だ。
「うわっ!」
僕は思わず尻餅をついた。
なんと、あの女が、天井をカサカサと這いずっていたのだ。ゴキブリのように。
僕は恐ろしさは感じなかった。
「おかえり。どこ行ってたんだ?心配したんだよ?」
僕は女に微笑んだ。
女はどうやら、口にした物の習性を会得するらしい。
ゴキブリだった女はしばらくすると、元の空っぽの女に戻っていた。
捕食すると、どうやら腐敗が一時的に止まるらしい。
僕は彼女に側に居て欲しかった。
だから彼女にエサを与え続けた。
ネズミの時はさすがにヤバかった。
木をかじる彼女を何とか説得して、拾ってきた木切れをかじらせたのだ。
そこで僕は良いアイディアが浮かんだのだ。
だから、職場で僕にかねてより気のある、後輩女子社員の綾乃さんを家に招くことにしたのだ。
彼女に捕食させるために。
「待ってて。君を完全体にしてあげるから。」
そう彼女に言うと、意思を持たないはずの彼女が僕に近づいてきた。
僕は驚きつつも嬉しくなった。彼女に僕の想いが通じたのか。
「おいで」
僕は大きく手を広げ、彼女を包もうとした。それと同時に彼女が素早く動いて僕の腕の中に飛び込んできて、喉元に噛み付き食いちぎった。すでに僕はもう声を出すことが出来ない。
そうか、僕も捕食対象だったんだっけ。
あくる日、男物のスーツを着た女がある会社を訪ねた。
「あの、どなたですか?」
若い女性社員がたずねた。
「やだなあ、綾乃さん、僕だよ、僕。」
作者よもつひらさか