「このたび、お隣に引っ越してきた清水と申します。どうぞ、よろしくお願いします。あ、これ、つまらないものですが。」
人の良さそうな笑みを浮かべて、その中年夫婦の奥さんが、包装紙に包まれた、おそらく洗剤であろう物を手渡してきた。その傍らには、恥ずかしそうに両親の影に隠れるように、小学低学年、おそらく1年生くらいの女の子が佇んでいる。
「どうも、ご丁寧に。田中と申します。よろしくお願いします。」
私は、自分の部屋の表札に掲げている偽名を名乗る。
本来であれば、私は、決して玄関を開けることはないのだ。小さなドアスコープから覗いて、セールスや宗教でないことは、明らかだったし、ましてや私が一番恐れている人間でもなかった。いかにも、引越しのご挨拶というのが見て取れたので、厳重にチェーンまでしているドアを開けたのだ。それに、何故か、開けたくなった。なんとなく、開けたくなったのだ。私も、こんな生活をしていて人恋しくなってしまったのかもしれない。
私が、ひっそりとこの1DKの小さな古いアパートに暮らしているのには、理由がある。夫の暴力から、命からがら逃げてきたのだ。殺されると思った。夫の暴力は、結婚してから始まった。付き合っている頃から、多少神経質なところがあるのかなとは思っていたのだが、些細なことでも、気に食わなければ女でも容赦なく暴力を振るうのだ。
何度か骨折した。今も、少し寒くなると、古傷が痛む。私は、実家にも告げず、このアパートに越して来た。もちろん、市役所にも、住民票の閲覧制限をかけてもらっている。なんとか平穏無事に1年を過ごすことができたのだ。実家に電話をしたら、やはりあいつは実家にまで押しかけてきたようだ。両親には何かあったらすぐに警察を呼ぶように伝えたが、一度押しかけて、本当に居場所を知らないことを伝えると、それ以来押しかけてはいないようだ。
だが、あの男は執念深い男だ。油断は禁物。表札には偽名をかかげ、夜の作業の仕事に就いた。昼間明るいうちにうろついて、あの男に見つけられないように。買い物は、職場近くの24時間スーパーで真夜中に済ませる。昼間は、カーテンを閉め切って、息を潜めて生活していたのだ。
しかし、こんな小さな1DKの古いアパートに、家族3人で暮らすなんて、なんて窮屈なのだろう。そんな私の考えを見抜いたかのように、これまた人の良さそうな中年男性が私に話しかけてきた。
「実は、私達、焼け出されたんです。家族3人で、小さな家に住んでいたんですけどね。家財道具も何もかもいっさい失いました。」
そうか、それでこんな狭いアパートに越して来たのか。まあ、ここは家賃だけは格安だ。
「そうだったんですか。それは、大変でしたね。」
「ええ、まあ。でも、家族が全員無事だったのが、不幸中の幸いですけどね。」
男性は笑った。私は粗品を受け取ると、それじゃあ失礼します、と清水一家は隣のドアを開け帰って行った。
私は気の毒に思った。世界で一番自分が不幸だと思っていたが、こういう不幸の形もあるのだ。私は幸いなのかどうなのか、夫との間に子供ができなかったので、こうして一人で逃げることができたのだ。もしも、子供が居たら逃げることができなかったかもしれない。
あくる日の朝、小さな女の子が大きなゴミ袋を抱えて、階段を下りようとしていた。危なっかしい。よろよろとゴミ袋を引きずる姿が健気で、私はつい後ろから声をかけた。
「おばちゃんが、持ってあげる。」
そう言うと女の子は驚いて振り向いた。
「だ、大丈夫です。」
恥ずかしそうに女の子が答える。お隣さんの子供だ。
「子供は遠慮しないの。」
私はそう言って、彼女に手を差し出した。
「ありがとうございます。」
彼女は遠慮がちにゴミ袋を差し出した。
「お父さんとお母さんは?」
私が問うと、朝早くから働いているので、ゴミ出しは彼女の役目らしい。
経済的に苦しいのだろうな。私は同情した。
「今度からおばちゃんがゴミを持ってってあげるから、ゴミの日には、うちの前に置いてっていいよ。」
私はつい、そう言ってしまった。
それでも、遠慮する彼女が健気で、私は遠慮しないよう伝えた。
お隣さんは、とても仲の良い家族だった。買い物には、必ず家族で出かけ、微笑みの絶えない家族だった。
仲睦まじい様子は隣に住んでいればわかる。よく家族の笑い声が聞こえてくるのだ。子供も利発な子で、廊下で会えば必ず挨拶をしてくる。まさに、理想の家族。私は、経済的に困窮しているにも関わらず、仲睦まじい家族の様子が羨ましかった。私も、こんな普通の家庭を築きたかった。
今日もお隣さんからは、笑い声が絶えない。たぶん、テレビで私と同じ番組を見ているのだ。バラエティー番組で、お笑い芸人が何かおかしなことを言うたびに、笑い声が隣から聞こえる。
私は、一人で、笑うことは無い。きっと、家族で見れば一緒に笑うのだろうな。
そんなことを考えていたら、急に空しくなった。そして、笑いが起きるたびに、うるさく思うようになったのだ。
なによ、楽しそうに。私なんて一人ぼっち。あいつのせいで実家にすら帰れないのよ?
お隣さんは、何も悪くないのに、私はお隣さんが、わざと不幸な私に自分達の幸せを見せ付けているように思えてきた。私だけが、なぜこんなに不幸なの?私は涙が溢れた。テレビの内容など何も耳に入って来ず、耐え切れずテレビを消して、頭から布団を被って泣いた。私の心の中に、何か黒いものが渦巻いた。
次の朝、当然のように、私の部屋の前にゴミ袋が置いてあった。私は、昨日のことを思い出し、ゴミ袋をお隣さんのドアの前に足で蹴り寄せた。なんで私が幸せ家族のゴミを捨てなきゃなんないのよ。自分から申し出たことなのに、怒りが沸々と沸いてきた。
家に引き返し、私はハサミを持ち出した。そして、おもむろに、ゴミ袋の下の部分に突き刺す。生ゴミの日だったため、袋の底からは悪臭を放つ汁が流れた。いい気味。それにしても、何なの?この強烈な臭いは。ゴミ袋から流れた汁は何となくどす黒い。まるで血液みたい。気持ち悪い。私は急いで部屋に戻った。
自分でも、嫌な女だと思った。でも、私だけがこんな生活をしているのなんて、不公平。火事で焼け出されようが、幸せな家庭は幸せなのだ。少しでも同情して損したと思った。
「さて、次のニュースです。」
私はその声にはっと我に返った。そっか、テレビ、つけっぱなしで出たんだっけ。
「〇〇市で不気味な事件が多発しています。」
〇〇市って、ここじゃない。私はぼーっとテレビの画面を見つめた。
「〇〇市では、飼い犬や飼い猫の失踪事件が多発。」
なんだ、そんなの珍しくないじゃない。
「ただの失踪事件ではないのです。」大げさに眉を潜める女性キャスター。
テレビには見慣れた町並みが映る。
「朝起きたら、うちの犬がいなくなってて。ちゃんと鎖で繋いでたんです。朝になったら、鎖と首輪だけがそこに残ってて。しかも・・・・。」
そこで飼い主は感情が高まり泣き声になる。
「うちの犬が居た場所に血溜まりが・・・。」
ニュースによると、首輪が乱暴に引きちぎられて血溜まりだけが残されているというのだ。
今まで、動物の惨殺死体が放置されているというニュースなら何度か耳にしたことがあるが、動物は影も形もなくなり、血溜まりだけが残されているということは聞いたこともなかった。
世の中には、奇妙なことが多すぎる。何か恐ろしいことが起きたことには間違いなかった。
でも、私には関係ない。私が一番今恐れていることは、この場所をあの男に突き止められることだけ。
その日の夕方、私は仕事に出かけるため、支度をし自分の部屋の鍵を閉めた。ふと、隣の玄関前を見ると、ゴミは片付けられて、玄関ドアの前に私がこぼしたゴミの汁は綺麗に片付けられていた。
私がやったことだなんて、思わないだろう。大方、ゴミを置きっぱなしにして、カラスに突かれたくらいにしか思わないだろう。
その証拠に、今日も隣からは幸せそうな笑い声が聞こえている。冷え切った手をあたためながら、私はまた黒い感情が渦巻く。
この家族を、不幸のどん底に陥れてやりたい。
私は、職場の調理場から、ゴキブリホイホイを一つ失敬して、厳重にビニール袋に入れ、こっそりと持ち帰った。そして、まだ夜が明けぬ静まり返ったアパートに帰ると、隣の玄関ポストにそれを放り込んだ。朝新聞をとるときに、驚いて悲鳴をあげるまで眠れないわね。
ところが私が睡魔に襲われる昼近くまで、まったく悲鳴はあがらなかった。私はそっと玄関をあけて、隣の玄関を見た。どうやら新聞は取り入れているようだ。気付かないはずはない。悲鳴こそあげないけど、きっと嫌な思いをしたに違いないわ。しかし、思いとは裏腹に、その日の夕方もお隣さんからは幸せそうな笑い声が響いていた。一人、昨日の残り物のお惣菜をわびしく突きながら思った。この家族は無神経なの?鈍感なの?私は、その日からだんだんとエスカレートして行き、ゴミや動物の轢死体までも放り込んだ。
ほら、気味悪がりなさいよ。そんなに私に幸せ見せ付けて。
ところがいつまでたっても、家族は幸せそうで、以前にも増して仲睦まじく暮らしていた。
あれだけいろんな物を放り込んで玄関ドアも薄汚れてそうなのに、綺麗に掃除されている。
幸せそうな笑い声。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
死ねばいいのに。
朝早くに、お隣さんの娘がゴミ出しをしようと玄関から出てきた。もう私は、持って行ってあげるとは声をかけなかった。よく見ればかわいい娘じゃない。私の苛立ちは最高潮に達した。娘は黙って立っている私を訝しげに見ながらも、ペコリと頭を下げた。私は階段を降りようとする、その子の足元にそっと足をかけた。すると、女の子はゴミとともに、頭から落ちて行った。
私は慌てることもなく、ゆっくりと階段を下りる。
「大丈夫?」
私の顔は今きっと、ほころんでいることだろう。ここから落ちたらタダじゃすまない。
私は携帯をゆっくりと出すと、119を押す。
「たいへんです!子供が!階段から落ちたんです!」
わざと慌てた口調で話す。
ほどなくして、救急車が到着した。
女の子は頭から血を流してピクリとも動かなかった。
その日の夕方、お隣さんが訪ねてきた。
「うちの娘がお世話になりました。救急車を呼んでくださったそうで。」
大変恐縮しているようだ。
「娘さん、ご容態はいかがですか?」
私は心配顔を作る。すると、夫婦の後ろから頭に包帯をぐるぐる巻きにした女の子が出てきた。
嘘でしょ?あれだけの大怪我で無事だったの?
「おかげさまで。少し頭を切っただけで済みました。不幸中の幸いですね。これからはゴミ出しは私達がすることにしました。」
「それは、良かったですね。あの高さから落ちられたので、心配していました。」
私がそう言うと、娘は私を見てにやりと笑った。
私はお腹がひやりとした。何よ。私が足をかけたこと、気付いたの?小生意気な娘。
その日も夕方から仕事に行き、朝方にへとへとになって帰宅した。私は隣の家の玄関の前で佇み、バッグの中から、職場からくすねてきた漂白剤とトイレ用洗剤を出し両方のキャップを外して、玄関のドアポストから流し込もうとした。混ぜると有毒ガスが発生するやつだ。すると、突然、玄関のドアが開き、お隣のご主人と目があった。私は慌てて、手に持った物を後ろに隠した。
「おはようございます。」
私が挨拶をすると、ご主人が怪訝な顔をした。
「おはようございます。何かうちにご用ですか?」
ご主人に言われて私はしどろもどろになった。
「い、いえ。部屋を間違えたようで・・・。」
我ながらバカな言い訳だ。
「そうなんですか。」
ご主人は満面の笑顔だ。信じるのかよ。どこまでもおめでたいわね。
私が頭を下げながら自宅に戻ろうとしたその時だった。
ボタリ。
大きな音に振り返ったのだ。
すると、そこには信じられない光景があった。
ゴミ袋を持ったご主人の腕が、ゴミと一緒に廊下に転がっていたのだ。
私がびっくりして目を見開いていると、片腕の無いご主人がゆっくりと振り向いた。
「ああ、見ちゃいましたか。」
満面の笑顔で、こちらに近づいてくる。
「い、いやっ!」
腰が抜けてしまった。ずりずりと手だけで後ずさりすると、閉めたはずのお隣さんのドアが開き、奥さんと娘さんが出てきた。
「た、助け・・・・・!!!」
そこまで口に出して、街灯に浮かび上がった二人の姿を見てさらに驚いた。
口の周りが血まみれなのだ。
血にまみれた口を腕でぬぐいながら、娘が口を開く。
「おばちゃん、プレゼント、ありがとうね。おばちゃんが入れてくれたので、一番おいしかったのは、猫ちゃんの死体だったわ。もうこの辺りは殆どの動物は食べちゃったからね。」
そう言うや否や、私は隣の家にご主人と奥さんにより、引きずり込まれてしまった。
「おばちゃん、美味しそうだね。」
お隣さんは笑う。
い、いやっ!やめて!
食べないで!
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俺の部屋の隣に、家族連れが引っ越してきた。
「今度お隣に越して来た、清水と申します。あ、これつまらないものですが。」
粗品を手渡し、お隣さんは笑う。
作者よもつひらさか