日常のストレスが溜まりに溜まった俺は、とある雑居ビルの地下にある行きつけのBAR「チャーリー馬場」の扉を開いた。
ズッチャ♪ ズッズチャ♪ズッチャ♪ズッズチャ♪♪
ぷんと南国を思わせる甘い香りが鼻を突き、部屋の4隅に設置されたBOSEのスピーカーからは、ウィルソンピケットの名曲「ベア・フッティン」が軽快なリズムで流れている。
カウンターだけの狭い店内には若いカップルと背広姿のリーマンが1人座っているだけで、今日も店はヒマそうだ。
「あら~!ロビちゃんじゃない?久しぶりね~♪♪ 」
カウンターの奥からこの店のオーナーであるババ姐が声をかけてきた。
「おいババ姐!ロビちゃんはやめろっていつも言ってんだろ!」
「あら、ごめんなさいねウフフ♪♪」
ババ姐の見た目はオールバックに口髭を蓄えた岩城滉一先生風のダンディーな親父といったところだが、中身は完全に女、所謂「オネエ」である。
「ささ、座ってロビちゃん!いつものでいいかしら?」
「…ちっ!」
ババ姐は俺の返事も聞かずにアーリーのボトルの栓をキュポン!と開け、冷えたグラスに並々と注いだ。
俺は冒頭でも触れた様に、気分が落ち込んだりストレスが溜まったりした時によくこの店を利用する。
理由は、気分を落ち着かせてくれるレトロなこの雰囲気と、ババ姐の明る過ぎるトーク、それにバックで流れる1960年代のソウルmusicを中心とした、魂の黒人音楽逹が俺の疲れた心を丸々癒してくれるからだ。
もしかすると俺の中に6分の1だけ流れている「黒人の血」が、そうさせるのかも知れないが…
そして、ババ姐はいつもの様に他の客そっちのけで、店の近況や「美」についてのウンチクを、聞いてもいないのにあれこれと語り始めた。
…
…
ふと気がつくと俺はカウンターに突っ伏した状態で寝ていた。
涎を拭い顔を上げると、店内には俺一人を残して誰も居ないようだ。音楽も止み、灯りと言えばカウンターの中にあるボトル棚の間接照明だけで、店は閉店後の様に薄暗く静まり返っていた。
「やべ、いつの間に?」
時間を見ようとスマホを取り出してみたが、フル充の筈の電源が何故か落ちている。ボタンを何度押しても起動する気配はない。
ズキズキと痛む頭を叩きながら必死で記憶を辿るが、2杯目のロックグラスを空にした辺りからの記憶が全く無かった。
「疲れてたんかな?2杯ぐらいで寝ちまうなんて…それともババ姐の野郎、酒に何か入れやがったか?」
仕方なく5千円札を1枚グラスとコースターの間に挟み、ふらつく足取りで店のドアを開けた。
その瞬間、目の前でフラッシュを焚かれた様な閃光が走り、思わず俺は目を瞑った。
…
目を開けると、なぜか建物の前に立っていた。
空は灰色の曇り空。
もう朝だ。
湿り気を帯びた空気が、どんよりと重たくのし掛かる。
腕時計はしない主義なので正確な時間は分からないが、朝の出勤時間にしては妙に街が静まり返っている気がした。
車の往来や、近くを走っている筈の電車の音が聞こえない。
いや…そんな事よりもまず人が1人も歩いていないのがおかしい。よく見るとゴミ袋を漁るカラスや雀の姿もない。
言ってみれば街全体に「生命感」をまるで感じないのだ。
「…うっ!」
また、頭蓋骨を揺らす程の激しい頭痛が俺を襲った。
「ねえ!」
声がした。
周囲を見渡すと、電柱の陰から女の子の顔が覗いている。
「こっちだよー」
その子は手首だけをクイクイと動かしながら、俺を呼んでいた。
その顔にどこか見覚えのある感覚を覚えたが、酷い頭痛が邪魔をして思い出せない。
「ほら、早くしないと間に合わなくなっちゃうよー 」
「………?」
全く意味が分からないので、俺は電柱のそばまで歩いて行った。
すると、女の子の顔はスウッと柱の陰に引っ込んで消えた。
電柱の周囲に隠れる所など何も無い所で、一瞬にして消えたのだ。
夢にしてはかなりリアリティーがある。
頬をつねる。
痛い…
もし、これが夢なら早めに醒めて欲しいもんだ。
俺は1人苦笑いしながらその場に座り込んで、胸ポケットからマルボロと一緒に、先日妹から誕プレで貰った高級ジッポを取り出した。
ジポッ!
「…ふう 」
見ると、立体駐車場の柱の陰から、あの少女がまた顔半分だけを覗かせて手招きしていた。
「ほらほら早く行くよー」
俺は思わず咥えていた煙草をポトリと落としてしまった。
いや女の子を見たからではない。その足下にいるモノを見て驚いたのだ。
色は黒。
離れた目。
潰れた鼻。
皺だらけの口元からでろんと垂れた赤く長い舌。
そこには、見覚えのある不細工な犬がちょこんとお座りしていた。
「…ま、マモルか?」
そう、それは今や老衰でベッドから起き上がる事すら困難になってしまった愛犬のマモル(パグ犬)にそっくりだった。
距離にして約20m、俺は目を細めてその不細工犬を凝視した。
あの顔、あのシワ、丸い体、黒い毛並みに不自然に右の前脚だけが白い所… 何よりもあの異常な腹のたるみ、ま、間違いない!!
気付けば俺はマモルの名を叫びながら走り出していた。
しかし、あともう少しの所で低い段差に足を取られ、顔面からアスファルトにダイブしてしまった。
「ぐほ!痛てて!!」
顔面は小石だらけだ。
女の子とマモルが俺を見てケタケタと笑っている。
「くそっ!なんだよコレ!夢のくせにメチャクチャ痛えじゃねぇか畜生!!」
俺は、擦りむいた顔と右膝を抑えながら2人を睨みつけた。
すると2人は一瞬で遠く離れた信号機のそばにまで移動していた。
「おーい!はやくはやく!」
女の子は手招きし、その足下ではマモルがはっは!言いながら、ちんちんしている。
「ほらほら遅い!のろま!ぐず!ハゲ!デブ!!」
「ハゲてねーし、デブでもねーよ畜生!!!」
俺は立ち上がり、膝の痛みを忘れてまた2人を追いかけていた。
「待て待て、こんなろー!!!」
女の子は俺と離れているのをいい事に、言動がただの悪口へと変わって来ている。
もう、許す事はできない!!
「ばーか!ばーか!バカ兄貴♪♪」
「…あ、兄貴だと?!」
俺はまた、段差に躓き転倒した。
今度は左腕の皿をやった。物凄い激痛が俺の脳へと信号を送る。
「だから何でこんなに痛えんだよ夢のクセによ!!」
もう気付いている人もいるかも知れないが、さっきから俺が追いかけている人物は幼い頃の妹「夏美」だった。
間違いない。
夏美とは俺より5つ年下の双子の妹で、姉の方にあたる。彼女は気も強いが霊感も強い。
正直、俺は今までに何度となく霊的なピンチに立たされた事があったが、その都度、夏美に助けて貰った事は事実だ。まぁそこは認める。
だがしかし、とにかく夏美は生意気だ。俺を兄として尊敬していないどころか小馬鹿にしている節がある。
どうも俺の生き方が何1つとして気に入らないらしい…
昔に一度、本気の兄弟喧嘩をした事があるが、空手をやっているせいか夏美は喧嘩も半端なく強く、油断している隙に上段蹴りを2発、立て続けに後頭部にもらい、恥ずかしながら気を失ってしまった事もあったかな?…ぐう…
どおりでマモルもやたら若くて元気なはずだ。
「………… 」
「もう!何回こけたら気がすむのよ兄貴!早く行かないと間に合わないって言ってんじゃん!」
「わん!わん!…フガフガ!!」
俺を見下す2人…
「て、てめぇら、いい加減にしろよ…」
遂に、俺の怒りは頂点に達してしまった。
こやつらは夢の中までも俺を完全に馬鹿にしているのだ。
「…もう許さん!!!」
俺は近くに倒れていたママチャリに跨ると、膝の痛みも忘れて猛然と2人を追いかけた。
しかし、経験のある人なら分かって貰えると思うが、夢の中というのは自分の思い描いているスピードが中々出せないパターンが存在する。
今回が正にそれだった。
ペダルを漕いでも漕いでもゆっくりとしか前に進まない。多分、小学生が走った方が早いレベル。
その間も、夏美達は俺を嘲笑いながら瞬間移動を繰り返し、常時、一定の距離を保ちながら何処かへと誘導して行く。
「はあはあ!ま、待て!!!」
運動不足の俺が息を上げるのにそう時間はかからなかった。
どこかの公園内に入った途端、低い段差にハンドルを取られて自転車ごと頭から転倒してしまった。
「痛てえええっす!!」
今度は顎と両肩をやった。
まるで井岡のアッパーをまともに食らった様な洒落にならない衝撃が脳を揺らした。
「…だから夢なのになんで?!」
もう起き上がる事すら出来ない俺は、ゴロンと仰向けになり灰色の空を見上げた。
視界の隅でマモルを抱いた夏美が俺を見下ろしている。
「…うう、夏美!」
夏美は困った表情を浮かべながらこう言った。
「もう!あと少しだったのにな 」
「…な、何がだ?」
「何がってお家までだよ…兄貴ちゃんとマモルにお別れ言わなくてもいいの?」
「…おわかれって何だ?」
抱かれたマモルを見ると、半分透き通っており、徐々にではあるがその色を失いつつあった。
「 マモル!!」
俺はガバリと起き上がり辺りを見回した。
すると今いるその公園は、俺の実家から目と鼻の先にあるガキの頃によく遊んだ寺◯公園だった。
そこから僅かに見える実家の屋根を見ると、屋根全体を覆う様にして薄黒い靄が立ち込めていた。
夏美の腕にはもうマモルの姿は無い。
「 マモルうううう!!!」
俺は身体が痛いのも忘れて実家へと走った。
しかし相変わらず夢特有のスローモーションで思うように足が前に進まない。
「 マモルー!!頼む!まだ逝くなーー!!」
マモルの死期が近い事は俺も感じていた。
最近は仕事が忙しく、マモルがいる実家にあまり帰れていない事が気にはなっていた。
だが、弱りきっているマモルを見たく無かったというのも正直あるのかも知れない。
寝たきりのマモル。
どうしても俺に懐かないマモル。
俺を見下し馬鹿にするマモル。
散歩中、俺の時だけリードをぐいぐいと引っ張り倒すマモル。
たまに人間の言葉を話すマモル。
肉の食べ過ぎでたるんだマモル。
いつもフガフガ言って、寝てる時もずっとフガフガ言ってるマモル。
暖かいマモル。
可愛いマモル。
優しいマモル。
…
玄関扉を開け放つと、ぷんと線香の香りがした。
溢れんばかりの靴。1階一番奥の和室から、読経の様な唸りが微かに漏れている。
「…マモルお前はもう死んじまったのか?」
俺は靴を脱ぐのも忘れて、ふらふらと和室を目指して歩いた。
敷地はでかいが築40年にもなるこの家の廊下は、老朽化が進み、歩く度にべきべきと嫌な音が鳴る。
和室へ近づくに連れ、読経の声が大きくなってきた。
「…マモル」
俺は和室の襖を開けた。
すると、30畳からある部屋を黒い喪服の背中が埋めていた。
一番前例に座る2人の坊主が読経を唱え、その前には簡易的ではあるが小さな祭壇が儲けらていた。
そして、その中央部分に1枚の白黒写真が飾られている。
不細工な犬のドアップ。
「ま、マモルーーーー!!!」
涙を流しながら堪らず膝をついた。
…
…あれは確か、マモルが3歳の時だったろうか? 親父もまだ健在だったあの夏の日。
家族全員で出掛けた海水浴。
暑さに弱いマモルはずっと日傘の中で母親に抱かれていた。
「俺も泳ぎてーよー!」と言わんばかりにはっは!言いながら海を見つめるマモルを激写した時の1枚。
一番可愛い時のマモル…
まだ俺に抱かれても、それ程嫌な顔を見せなかった時代のマモルが、祭壇に飾られていたのだ。
「なんで…何で逝っちまったんだよマモルーー!!!」
「寿命だよバカ!」
耳元で声がした。
「…えっ?!」
鼻水と涙でグショグショになった顔をそちらに向けると、半透明になったマモルが座っていた。
「…ま、マモルか?!」
涙で視界がボヤけているせいか、マモルが二重に見える。
「そうだよ、夏ちゃんがおまえを呼ばなかったらボクの死に目にも遭えない所だったんだぞ!ほら夏ちゃんに感謝しねぇと! …フガ」
「えっ?!」
マモルが前を見ろ!と合図を送った瞬間、坊主の読経が止み、喪服の弔問客逹が一瞬で姿を消した。
すると、マモルはとことこと歩いて祭壇の前に立っている幼い夏美の足下に静かに腰を降ろした。
「ま、マモル…」
「 ねぇ、兄貴… もうすぐマモルが死んじゃうんだよ?今すぐ帰って来てあげてね…」
夏美はマモルの頭を撫でながら、悲しい表情を浮かべそう言った。
「……… 」
くああああ
マモルが大きな欠伸をしながら夏美の足をカリカリやると、夏美は優しくマモルを抱きかかえ、祭壇に向かって姿を消した。
…
…
「…ロビちゃん」
「…ロビちゃん!!」
「…ほら起きてよロビちゃん!!」
俺は、嗄れたハスキーボイスで目を醒ました。
見ると、カウンターの向こうからババ姐の太い腕が俺の肩を揺すっている。
「あらヤダ!!やっと起きたわもうロビちゃんたら急に寝ちゃうんだもん!そんなに疲れてたの? !」
「…んっ?マモルは?」
「…マモル? 誰なのそれ?それよりロビちゃんもうお店終わりなんだけどどうする? 」
「…え?」
店内を見渡すと、もう既に俺以外の客の姿は無く、閉店時間を知らせるマービンゲイの「ワッツ・ゴーイングオン」が静かに流れていた。
「…なんだ夢かよ」
「ふふ、そんなに疲れてるんだったら今日は私の部屋で寝て行く?ロビちゃん♡///」
「…てめぇふざけんなよ」
「あら冗談よ冗談!!ロビちゃんたら…あっそう言えばさっきからロビちゃんの電話何回も鳴ってるみたいよ?ほらまた掛かってきた!」
確かにカウンターに置かれた俺のスマホが振動している。
その時、ズキン!!と顎が痛んだ。
顎を触ってみるとヌルヌルした感触がある。
「きゃーー!!!ロビちゃんどうしたのよそれ!!!」
ババ姐が差し出した手鏡を覗くと、俺の顎から吹き出した鮮血で白の開襟シャツは真っ赤に染まっていた。
ボタボタと流れる血をおしぼりで抑えながらスマホの画面を見ると、やはりそこには夏美の名前があった。
…
「…は、早く帰らなきゃ!!!」
今ならまだ間に合う気がした。
マモルの死に目に会えないのは辛い。
電話口で嗚咽まじりに話す夏美の後ろで聞こえていたのは、多分、美菜の泣き声だろう。
俺はすぐにババ姐にタクシーを呼ばせ、運転手に1万円を握らせて実家へと急いで貰った。
そして、3枚目のおしぼりを顎にあてながら「もっと飛ばせ!!」と運転手のハゲ頭を引っ張っていると、また俺のスマホが振動した。
嫌な予感がした。
俺は心を落ち着かせて電話をとった。
「…さっき亡くなったよ…マモル…兄貴…早く帰って来て…マモルの顔見てあげてね」
…
…
…
あれから3週間が経ち、部屋に閉じ籠っていた夏美もやっと夕食の席に顔を出す様になった。
しかし美菜はまだあのショックから立ち直れず、トイレ以外に部屋から出て来る気配が無い…
マモルが居なくなっただけでこうも家の中が暗く、閑散とした雰囲気に包まれるとは正直思わなかった。
やはりそれだけ親父も居ないこの家では、彼はとても大きな存在だったのだろう。
小さな陶器の箱に分骨されたマモルの一部は、仏壇に飾られた親父の写真の隣りに置かれている。
生前、大の犬嫌いだった親父は天国でどう思っているのだろうか?
俺の隣りに置くんじゃない!と怒っているかも知れない…
「…ふふ」
ジッポで線香に火を着けた後、お凛を3回鳴らし、目を瞑り両手を合わせた。
「 親父、そっちでマモルの事をよろしく頼む!こっちの事は心配しないでくれ、この家は俺がしっかりと守るからな!」
チリーン チリーン チリーン
夕食に戻ろうと仏壇に背を向けた時、懐かしいマモルの声が聞こえた。
「だからそれが余計なお世話なんだよ…フガ…でもまぁありがとなロビン…さよなら…フガガ… ガガ」
「………!!! 」
俺の涙腺は完全に決壊し、何事かと駆け寄ってきた母親と妹の前で、恥ずかし気も無く号泣してしまった。
マモル。
俺はお前を一生忘れない。
沢山の思い出をありがとう。
さようなら
マモル…
【了】
作者ロビンⓂ︎
今回はお笑い抜きのお話です。そろそろネタ切れなんで、麗子と幽霊タクシー頑張ります…ひひ…(因みに画像は鏡姐のリクエストです)