俺には過去がない。
そう言うのが今の状況にふさわしい。
所謂、記憶喪失というやつだ。
ベッドで目覚めた時には、名前や年齢、どこに住んでいたか、また、
家族と言っている連中とも面識がなかった。
父と母、そして妹と思われる人達は、俺が目を覚ますと、良かったと泣いた。
「すみません、あなた方は誰ですか?」
と言った時にはさすがに、その場の空気が凍りついた。
しかし、家族にとっては不幸中の幸いということで、生きているだけでも良かったとのことで、
俺は今日めでたく退院の運びとなった。
なんでも、家族が言うには、俺が突然行方不明になり、1ヶ月後に玄関前に倒れていたとのことだった。家族は慌てて救急車を呼び、俺は病院に運ばれたが、衰弱していただけで、命に別状はなかった。何故行方不明になったのかも、まったくわからないし、どうして記憶が失われたかもわからない。外傷も何もなかったのだ。
それにしても、これは本当に俺の家族なのだろうか。
記憶がまるっと抜けているから仕方のないことなのだろうけど。
例えば、食事にしても、退院祝いだと母が作ってくれた、俺の好物だという煮物も口に合わなかった。
少し箸をつけて、食べなかった俺を見て母は怪訝な顔をしてもういいの?とたずねた。あまり食欲がないからと言いながら、空腹を白米で補った。自分の部屋にしても、カーテンの色、部屋に置かれたインテリアの数々、本棚の本にしても、まったく自分の趣味ではないような気がしてならないのだ。
記憶喪失だから仕方ないとか、嗜好が変わったとか、そういう次元の話ではない気がした。
俺は突然、この世にこの姿で放り出された。
そう表現するのが正しいような気がした。幼児期も小学生の頃も、中学生の頃、高校生の頃。
大学は行ったのだろうか?俺は何も持たずにこの世に送り出されたのだ。
そしてある日、家族は俺の寝ている間に忽然と居なくなってしまった。
俺は正直焦った。俺に何も告げずに消えたのだ。俺は言いようのない不安に襲われた。
何も記憶を持たない、何もできない俺は、これからどうして暮らしていけばいい?
いつまで、こうして家族の庇護を受けながら暮らさなければならないのだろう。
就職しようにも、履歴書に何を書けばいい?
俺には過去がない。
俺は言いようのない不安に押しつぶされそうになり、一人残されたリビングで膝をかかえていた。
そうしているうちに、俺は眠ってしまったようだ。すると、家族が帰ってくる気配がした。
良かった。俺は安堵した。泣いていた顔を見られるのがいやだったので、俺は顔を伏せて狸寝入りをした。
「お兄ちゃん、寝ちゃってるよ、こんなところで。風邪引くよぉ?」
妹に起こされそうになって慌てた。こんな顔を見られてたまるかよ。
俺は寝返りをうつふりをして、顔を背けた。
「もーしょうがないわねえ。」
母が毛布をかけてくれた。
過去がどうであれ、俺はこの家族と過ごしていれば幸せなんじゃないかな?
「ほんとうに帰ってきたんだねえ。」
母の声がしみじみと言う。
「あれからもう何年経つのかな。」
父の声。
「あの時は、本当にこんな日がくるなんて思わなかったわ。突然あの子が死ぬなんて。」
母は何を言ってるんだ?
「戸籍上、死んでないよ。」
「まあね。死亡届出してないしね。確実に還って来るってわかってたもの。おしら様のおかげだねえ。」
「お兄ちゃんの皮が痛んでなかったのが救いだね。外傷が全くない綺麗な死体だったもの。すぐに保存の処置をしたのが良かった。」
「そうね。エンバーミングの技術が進歩したおかげだね。」
「外見はお兄ちゃんだけど、やっぱ中身は違うね。好きな食べ物とか。」
「お母さん、お兄ちゃんの中身って、なんなんだろうね?」
「さあ?でも、お兄ちゃんの姿で還ってきたからいいじゃない。」
「それもそうね。お兄ちゃんもあの世できっと喜んでくれてると思うよ。」
「そうだね。」
「そうだね。」
「そうだね。」
俺は背中が震えるのを堪えた。
俺は何?
作者よもつひらさか