小さな唇がさよならと告げた。
俺は突然の彼女からの別れを受け入れられないでいた。
横たわるベッドに放り出された携帯の画面に、彼女の笑顔。
まだまだ、俺の中で消せない彼女。
着信を告げるも、彼女ではない。
「おい、まだくよくよしてんのか?マユちゃんだけが女じゃないぜ。
女は星の数。今、いつものBARに居るんだ。出てこいよ。
女の子もいっしょだぜ。紹介するよ。」
親友のタクヤからだった。
ご丁寧にも、写メまで。
上気してすっかりできあがってるタクヤの周りに、ケバい女が数名、口の横でピースサインをしてアヒル口で、上目遣いで写っている、最近の女は、自分がかわいく見える角度を常に計算している。
俺はメールを無視した。
LINEはやらない。既読無視だとかくだらない人間関係に悩まされないための知恵だ。
もちろんマユともLINEはしなかった。そんなことをしなくても、俺とマユは信頼関係で結ばれているから心配ないと思っていたのだ。だが、それは俺の独りよがりだった。
女というものは、実に強かだ。マユはちゃっかりLINEで人間関係を管理していて、LINEをしない俺と付き合うことは好都合だったのだ。マユはしっかり、誰と付き合うことが自分にとって有利かを知っていた。
それでも、俺にとっては、たった一人の天使だった。
腹が減ったな。もうこんな時間か。時計は夜の8時を指している。そういえば、今朝から何も食べてなかった。
最近はショックで、こういう日が続いている。生きねば。
俺は、ノロノロと体を起こし、ふらつく足取りで家を出た。
玄関の鍵をかけていると、一人の女がこちらに歩いてきた。
うちのアパートに女なんて、いたっけ?
「こんばんは。」
女は挨拶をしてきた。
「こんばんは。」
俺も返す。近くで見ると、凄い美人だ。俺はドキドキしてしまった。
「昨日越して来た、ナナミと申します。ご挨拶が送れてすみません。」
丁寧にも、頭を下げてきた。今時珍しい。こういう独り者向けのアパート、挨拶などされたことはなかった。
「あ、どうも。よろしくお願いします。」
俺も釣られて腰を折る。
「それでは、失礼します。」
そう言うと、隣の部屋に入っていった。お隣さんか。
最近はショックで朦朧としていたから、お隣の空き室に誰かが引っ越してきたのすら気付かなかった。
ていうか、人が住んでいなかった時と同じくらい静かだったけど?
俺はその足でコンビニに向かい、食料を仕入れ、自宅に帰った。
珍しく、久しぶりに食欲がわいて、まともに飯を食うことができた。
ナナミさん。もちろん、苗字だよな。
人間など現金なものだな。俺は、彼女を意識している自分が復活していることに苦笑いした。
翌朝、久しぶりにサボっていた大学へと足が向かった。
鍵をかけながら、チラリと隣の表札を見る。
「名波」
やはり苗字か。下の名前まで入れると、女の一人暮らしがバレて物騒だもんな。
下の名前、知りたいな。俺の中から、すっかりマユのことが抜け落ちていた。
俺はようやく、スマホの待ちうけのマユを消し、そして、アドレスからマユを消すことができた。
俺の大学へ行きたくない理由は、マユと出会うかもしれないということと、このクソ教授の講義を受けなければならないこと。そう、マユは俺より、自分の便宜のため教授を選んだのだ。
キモっ。俺はこいつとブラザーなわけだ。言っておくが、マユは、俺のお古だ。お前が後だからな?
睨みつけながらも、俺はしっかりと講義を受けた。
「なあ、今日、O女子大と合コンなんだよ。お前、来るだろ?」
なんで来る前提なんだよ。タクヤのフットワークの軽さには参る。
「お前、元気な。昨日も合コンだったじゃん。」
「あれは、違うよ~。ただのサークルの飲み会~。お前、バカだなあ。うちのサークルでお前に気がある女の子がいたから、紹介しようって思ったのに、ガン無視決めるんだものなあ。」
ああ、あの写メの頭の軽そうな女達か。どれ一つとっても、俺のタイプじゃない。
「行かない。」
俺が拒否すると、タクヤは馴れ馴れしく俺の肩を揉んで来た。
「なーんだよ。まだマユちゃんのこと、吹っ切れないのかあ?」
「そんなわけじゃないよ。」
「だったらぁ~。」
「しつこい!今そんな気分になれねえの。」
「やっぱ引きずってる~。」
タクヤがホッペをつんつんしてきたので、手で追い払う。
違う。そんなんじゃない。
俺は早く家に帰りたいんだ。
もしかしたら、またバッタリと。
そこまで考えて、俺は顔が熱くなるのを感じた。
夕方、自宅に戻ると、俺は隣を意識してちらりと横目で見た。
すごくいい匂いがする。懐かしいような。そうだ、これはお袋が作ってくれてた煮物の匂い。
すると、隣のドアが突然開いて、俺は何故か慌てた。
「こんばんは。丁度良いところに帰ってこられましたね。実は、煮物、作りすぎちゃって。お口に合うかどうかわかりませんが、もらっていただけませんか?」
名波さんは、にっこりと微笑んだ。
「え?いいんですか?喜んでいただきます。」
コンビニ弁当の袋をぶら下げていたにも関わらず、俺は即行返事をした。
「ちょっと待っててね。」
そう言うと名波さんは、部屋に引き返し、タッパにつめた出来立てのホカホカの料理を手渡してきた。
「ご挨拶に伺えなかったので、ご挨拶代わりに。それじゃあ。」
そう言うと、小さく手を振り、部屋に帰っていった。
タッパをあけると、肉じゃがだった。手作りの肉じゃがなんて何年ぶりだろう。
マユは料理をしなかったので、いつも二人でコンビニ通いだった。
うまい。なんてうまいんだ、これ。ぶっちゃけお袋のよりうまいかもしれない。
名波さん。美人の上に、料理上手なんだ。俺はますます名波さんのことが気になって仕方なくなった。
俺は、いきなり意識している女性から手料理のプレゼントをもらったことにより舞い上がってもいたが、なにより、この容器を返す機会を俺にくれたことへの喜びにも舞い上がっていた。
これで彼女との接点ができた。今日は図々しいけど、下の名前、聞いてみようか。俺は綺麗に洗ったタッパを持って、彼女の部屋の前に立ち、お礼の練習をブツブツと口の中でつぶやき、チャイムをならした。だが、反応は無かった。
留守かな。朝だから、まだ寝てるのかも。仕方ないのでそのタッパをカバンにしまい、大学へとでかけた。
夕方自宅に帰ると、もう一度隣のチャイムを鳴らす。
「はぁい。」
彼女の返事に、心臓がドキリと跳ね上がる。中学生かよ、俺。
エプロン姿。かわいい。またもや、良い匂いがする。
「あ、あのっ。ご馳走様でした。す、すげーうまかったです。肉じゃが!」
「お口に合いました?」
名波さんは、タッパを受け取りながら俺に問う。
「めちゃくちゃ美味かったです。俺のお袋のより美味い。」
名波さんがクスリと笑った。
「お上手ね。」
「いや、お世辞じゃないっす。マジっす!」
俺が興奮気味にそう答えると、名波さんが俺を上目遣いに見てきた。
「ありがとう。あの、もし良かったら、今日も作りすぎちゃったので、食べてもらえません?実家では家族のご飯を作ってて、どうも一人の分量ってのがまだ把握できてなくて。作りすぎちゃうんですよね。鍋なんですけど。よろしかったら、一緒にいかがですか?」
いきなりの急展開!
それは、俺を部屋に招き入れる、ってことだよね?
いいのか?マジで?俺はあまりの嬉しさに即答できずに呆然としていた。
「あ、もしかして、彼女さんとかいたら、怒られちゃうのかな?」
「ま、まさか!いません、いませんよ、彼女なんて。いいんですか?お邪魔して。」
俺は慌てて否定する。
「いいですよ。だって、ご飯って一人で食べるより、誰かと食べる方がおいしいでしょ?」
俺は名波さんの部屋に招かれ、食事をご馳走になった。
思った通りに綺麗に整頓された、女の子らしい部屋だった。
久しぶりの女の子の匂い。俺は夢でも見ているのだろうか?
彼女の名前は、名波 碧(あおい)。彼女にふさわしい美しい名前だ。
その日から毎晩、俺は彼女の部屋で夕飯をごちそうになった。
悪いので、食費を渡そうとすると、彼女は頑なに拒んだ。
「どうせ食材が余ったら捨てちゃうんだから。同じことだから気にしないで。」
そう言われてしまうと、俺は引き下がるしかない。でも、彼女のために何かしてあげたい。
俺は出来る限りのことをした。ゴミだし、電球の取替え。男としてできる限りのこと。
なんか、これってもう。夫婦みたいじゃん?
俺は一人、自室で枕を抱いて嬉しさに身悶えた。
思い切って、告白してみようか。ああ、でも、まだ出会って間もないし。
軽い男だと思われるだろうか?いやいや、彼女の方から俺を招き入れてくれたんだから。
決して俺を嫌ってはいないはず。俺は思い切ってその夜、告白をした。
彼女は顔を赤らめた。
「私も、実は、一目見た時から、あなたのことが。」
嘘っ、マジか!もうこうなったら、俺の気持ちは止められない。
俺は彼女を抱きしめ、キスをした。すげー細い。華奢だとは思っていたのだけど。
俺がブラウスの胸元から手を入れると、彼女が一瞬拒んだ。
「イヤ?」
俺はわざと耳元で囁くと、彼女の呼吸が荒くなった。感じてる。
「イヤ・・じゃないけど。恥ずかしい。」
「なんで?」
軽く耳たぶを噛むと、彼女が震えた。
「だ、だって。私、胸、無いんだもの。」
「そんなの関係ない。」
俺は一気に、ブラウスをはだけて、ブラジャーを外した。
するりと胸に手を滑らせると、そこにあるべきものがない。
えっ?
俺はマジマジとそこを見た。
本当だ。すげーペチャパイ。まるで男みたい。
そう思った瞬間、俺の太ももに、何か固いものが当たった。
えっ?えっ?
なにこれ?えーっと、これは?俺は自分のズボンの股間を見る。
彼女の股間と見比べる。
俺と、同じ形状ではないか?これ?
えっ?えっ?えっ?どういうこと?
俺のパニックを悟ってか、口を半開きにして喘いでいた彼女の呼吸も元に戻った。
「どうしたの?男だから、びっくりした?」
俺は信じたくない事実を彼女から突きつけられ戸惑った。
「ご、ごめ、ごめん。」
俺は慌てて外したズボンのボタンを閉め、おたおたとズボンをずり上げた。
信じられない。名波 碧は男!
俺が立ち上がろうとすると、凄い力で腕を引っ張られて、押し倒された。
「逃げようったって、そうはいかない!」
突然、彼女(?)から、男のような野太い声が出た。
男の声も出るんだ。俺の息子はすっかりとしょぼくれていた。
「や、やめて・・・。」
今度は俺が力なく、女のようなか細い声を絞り出す。
俺に馬乗りになった名波は、俺のシャツをはだけて首筋を舐めた。
「ひぃっ!」
俺が情けない声を出すと、急に女の声に戻った。
「ちょっとだけ、チクっとしますよぉ?我慢してねえ?」
そう言って笑い、口を大きく開けると、二本の牙がにゅーっと伸びてきた。
え?
なにそれ。
男だけでも、びっくりなのに。
バンパイヤなのぉ~?
俺の首筋にチクリと痛みが走った。
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「なんで大学こねえんだよ。何かあった?」
タクヤから電話だ。
「ああ、ちょっとワケあってな。昼間は出られねえんだ。」
灰になるからな。
「昼間は出られねえって、なにそれ。お前、アパートにいなかったじゃん。俺心配して行ったんだぜ?」
「えっとわけあって。今別の場所に居るんだ。」
ウフフフ。
携帯の耳元で名波がわざと笑う。
「あーーーっ、今女の声した!なんだよ、女んとこ、しけこんでんのかよ!もう新しい彼女できたのかよ。今度紹介しろよな!」
そう言ってタクヤの電話は切れてしまった。
紹介なんて、できるわけねえだろ。
碧が、俺の体を撫で回す。
さて、そろそろ夜の帳に獲物を探しに行かなくては。
作者よもつひらさか