彼女は今、自分を苦しみから解き放とうと、己の喉に
容赦なく食い込んでくる、細い何かを取り除こうと、必死に掻き毟っている。
細く白い首から、彼女自身の爪による傷で血が滲んできた。
後ろからすごい力で締め上げられている。
誰?いったい。
暗闇で襲われたので、彼女にはその悪魔が誰なのかわからない。
このまま何もわけもわからずに、命を絶たれるのなんていやだ。
助からないのなら、せめて。
彼女は渾身の力をこめて、手を後ろに回して、何かを掴み取ったのだ。
そして、もう彼女は思考することもできずに、その場に崩れることしかできなかった。
悔しい。
彼女が最期に思ったことだ。
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昨日、僕の彼女が何者かに殺された。
どうやら、彼女は帰宅時に何者かに押し入られて、殺されたようだ。
僕は今、パニックになっている。
あまりに突然の彼女の死。
僕には受け入れがたい現実。その日、僕は残業で、遅くに帰宅した。
彼女に帰宅するとメールを入れても、何も反応が無かったので、
僕は心配になったけど、夜遅いから、寝てしまったのだと思ったのだ。
よもや、僕がメールした時間には、彼女が冷たくなっているなどとは、
夢にも思わなかった。僕は、それからしばらくは、ショックで何も考えられなかった。
幾度も幾度も後悔した。
あの日残業をしなければ。あの日彼女に会いに行っていれば。
こんなことにならずに済んだかもしれない。
それよりも、誰がこんな惨いことを。
彼女は検死の結果、どうやら乱暴はされた痕跡はないらしい。
ただ、彼女がバッグに入れていた現金は無くなっていた。
強盗殺人ということで、捜査がはじまった。
早く犯人を捕まえて欲しいが、もう彼女は戻ってこないのだ。
僕は絶望の日々を送った。
結局、彼女を殺した犯人は、1ヶ月経った今も見つからない。
僕は最初、彼女の元彼の同僚を疑った。
結果的に、彼から僕が、彼女を奪ったような形になったからだ。
確かに誘惑したが、僕を選んだのは彼女だ。
いまだに、僕と彼とはギクシャクした関係だが、彼にはアリバイがあった。
それは、彼は大阪に出張に行っていたからだ。時間的にも無理がある。
次に疑ったのは、彼女を勝手にライバル視していた彼女の同僚だ。
その女性は彼女に何かと張り合った。ヒステリーで気が荒く、彼女ならもしかして
逆恨みで何かするのでは、と考えたが、殺すまでの動機になるだろうか?
それにその女性は部長の愛人らしく、その夜、友人がホテル街で彼女と部長を
見かけているので、たぶん違う。
結局、怨恨の線は消え、捜査は難航していた。
せめて犯人が見つかって欲しかったが、彼女が戻ってくるわけではない。
僕は抜け殻になった。
何のために生きているのか、わからなくなったのだ。
死のうか。
何度も脳裏をよぎる。
今僕は、会社の屋上の柵をまたぎ、際に立っている。
君のところへ行きたいよ。君の居ない世界は僕には辛すぎる。
「何やってんの!」
僕はその言葉に振り向いた。
手を強く引っ張られて、柵越しに内側にこけた。
受身が取れずに顔を擦りむいた。
そこには、先輩女史が立っていた。
「そんなことして、彼女が喜ぶとでも思うの?」
先輩女史は泣いていた。僕は呆然と立ち尽くしていたが、堰を切ったように
涙が溢れてきたのだ。
僕のために、泣いてくれるの?
その日から、先輩女史は、僕のことを何かと世話を焼くようになった。
危なっかしくて見ていられないというのだ。
確かに、僕はあの日から抜け殻になり、きっと他の人にかなり気遣わせていたのだろう。
周りの人は、かける言葉も見つからずに、僕のことをたぶん心配していた。
こんなにも多くの人に僕は気遣われていると思わなかった。
辛いけど、生きなくては。
僕と先輩女史は日に日に、仲が良くなり、先輩女史は僕にとって無くてはならない存在になった。
死んだ彼女の捜査は、相変わらず進展しなかった。
彼女のことは忘れられないけど、いつまでも死んだ人を思っていても仕方がない。
僕と先輩女史は結婚した。
彼女は二つ上の姉さん女房で、気が利いていて、何でも先回りして
僕のしてほしいことを、すぐに理解してくれて、僕には過ぎた女房だった。
だいぶ暖かくなってきて、今、彼女が冬物を整理している。
「あ、このブラウス、お気に入りだったのに。ボタンが取れてるわ。
同じボタン、捜さなくちゃ。」
何気なく、僕がそのブラウスを見ると、花の飾りボタンで
結構珍しいものだった。
「結構凝ってるね。捜すの、難しそうだね。」
「大丈夫よ。大型手芸店に行ったら、たぶん見つかると思うから。」
彼女は手先も器用で、手芸が趣味なのだ。
僕は幸せな毎日を送っていた。
そんな僕をさらに幸せにする出来事が起きた。
彼女が妊娠したのだ。
出産の日、僕は立ち会った。
僕は生命の誕生に感動した。
女の子だった。生まれてすぐに僕は、この手に娘を抱いた。
小さな小さな手は、ぐっと握られて柔らかい。
僕はその小さな手に触れた。
すると、女の子はぐっと握った手を開いた。
その開いた手の中に握られた物を見て、僕は驚いたのだ。
小さな花飾りのボタン。
どうして?
手の中にあるはずのない、彼女のブラウスのボタン。
僕は、そのボタンをつまみあげた。
僕はそのボタンを妻に見せながら
ありがとう、ではなく「どうして?」と呟いた。
彼女は驚きを隠せないでいたが、やがて遠くを見るような目で言った。
「あの時、あの子が私のブラウスを掴んできたの。
ボタンが一つ取れてたわ。私は必死で探したけど見つからなかったの。
あなたが、どうしても、欲しかったの。
欲しかったものが、たまたま、人の物だっただけよ。」
作者よもつひらさか