遅くなってしまった。
ついつい、納会で二次会、三次会、と付き合ったら午前様どころか、時計は真夜中の二時を指していた。
母には遅くなると一応メールをしておいたが、まさかこんなに遅くなるとは思っていなかっただろう。
明日の朝、めっちゃ怒られそう。
タクシーで、自宅前まで乗り合いで送ってもらい、エレベーターの前に立つ。
最近、エレベーターで痴漢騒動があったので、はっきり言って怖い。
私は周りを見回して、誰も居ないことを確認して、エレベーターに乗り込んだ。
どうか、誰も乗り込んで来ません様に。
そんなことを考えていたら、ボタンを押すのを忘れていた。
「行き先ボタンを押してください。」
エレベーターの音声案内に、ボタンを押すのに気付き、自宅の四階のボタンを押した。
しばらくしてまた音声が響いた。
「行き先ボタンを押してください。」
押してるっちゅうに。意味はないけど、少し強めにもう一度四階のボタンを押した。
「行き先ボタンを押してください。」
もう、またあ?これは壊れてるな。そう思い、「開」のボタンを押し、階段で移動しようとした。
だが、「開」のボタンを押しても開かない。
私はじわりと冷や汗が出た。
閉じ込められた?
「行き先ボタンを押してください。」
「ヒッ!」
突然のアナウンスに私は飛び上がった。
「行き先ボタン、押してるジャン!」
誰も居ないのにヒステリックに叫んでしまった。
「行き先ボタンを押してください。」
私は仕方なく、非常ボタンを押した。
あれ?ベルが鳴らない。なんで?
普通なら、非常ボタンを押すと、ベルが鳴るはずだ。子供がよく悪戯をしているので知っている。
「行き先ボタンを押してください。」
私は怖くなり、携帯電話を取り出し、家に助けを求めようとした。
突然バチバチっという音と共に火花が散り、エレベーターの中とエントランスが真っ暗になった。
「キャッ」
私は震える手で、もう一度携帯を開き、登録している母の電話番号を押す。
「おかけになった電話は現在、電波の届かないところにあるか、電源を切られているためかかりません。」
そんな、バカな。
私は片っ端から電話帳に登録している番号にかけたが、同じメッセージが続いた。
なんでなんで?みんなが一斉に電源を切ってるわけない。
「行き先ボタンを押してください。」
「キャア!」
真っ暗闇の中、突然アナウンスが響き、私は携帯を取り落としてしまった。
ヤバイ、携帯どこ?私は、エレベーター内の床を手探りでようやく携帯を探り当てた。
そうだ、メールすればいいんだ。
そう思い再び携帯を開くと、携帯の電源が落ちた。
嘘!充電は十分されてるはず。
私は、とうとう真っ暗なこの密室に閉じ込められてしまった。
「助けて!助けてくださーい!」
真夜中でも、これだけ騒げば誰かが気付いてくれるはず。
「行き先ボタンを押してください。」
なんで電気が落ちてるのに、アナウンスだけは落ちないのよ!
そう思って、ふと見上げると、ぼんやりとボタンに灯りが点いている。
何階か確認すると、そこには見たこともない文字が浮かんでいた。
なにこれ。
このボタンを押しては鳴らないという警告が頭の中で鳴り響いている。
「助けて!助けて!」
私はエレベーターの中で、声の限り叫び、ドアを叩いた。
「行き先ボタンを押してください。」
なおもアナウンスは続く。夜中とはいえ、何でこれだけ騒いでも誰も来てくれないの?
私は、このボタンを押すしかないのか。
私は震える手で、ボタンを押した。
「上へ参ります。」
アナウンスがそう告げると、私は床に体を押し付けられた。
どうやらすごいスピードで上昇しているらしい。
このままのスピードで上昇して止まれば、私の体は天井に叩きつけられるだろう。
そう思った瞬間、急に速度が緩やかになり、私は立ち上がることができた。
そして、エレベーターは止まり、電気が点いた。
「四階です。」
しかし、ドアが開かない。
「助けて!誰かー!ここから出して!」
私は叫びながら、無駄とは思いながらももう一度、非常ベルを押した。ベルが鳴った!
「もしもし、どうされました?」
インターホンから、応答があった。
「エレベーターに!閉じ込められたんです!助けてください!」
「わかりました、すぐ参ります。」
しばらくすると、管理人と思われる男性がエレベーターのドアを開けてくれた。
助かった。
「ありがとうございます。ありがとうとざいます。」
私は何度もお礼を言った。
「怖かったでしょう?夜も遅いし、物騒だから。早くお帰りなさい。」
そう優しく微笑んだ。
エレベーター前でやりとりしていると、人影が見えた。
どうやら女性らしい。女性はこちらに気付くと、はっとした顔をして踵を返した。
すると、管理人さんが素早くその女性の腕を掴み、尻のポケットからナイフを取り出し、女性の喉に突き立てた。
私はあまりのことに、パニックになった。足がガクガクと震え、歩けない。
「ひ、人殺し!」
私がようやくそう叫ぶと、管理人の男性はキョトンとした。
「人殺しだって?これは人じゃないよ。アンタ、ヒトモドキと人の区別もつかないのかい?」
そういえばナイフを突き立てているのに、血の一滴も出ていない。まるで魂を抜かれて、人形のようだ。
「こいつらが増えすぎると、無駄に人口密度が高くなるからこうやって処理しなければね。」
そう言うと、その場でザクザクと女性の形のヒトモドキを分解し、持っていた袋に詰めた。
重くはないのか、その塊を詰めた袋をひょいと肩にかついだ。
「早く帰りなさい。このエレベーター、痴漢でたから、気をつけないとね。」
そう言って、手を振り、管理人は管理人室に帰って行った。
悪い夢を見ている?私は頬をつねってみたが、やはり痛い。
私はわけがわからず、とりあえず自宅へ帰ることにした。
ドアを鍵で開けて、我が家がいつも通りの景色でほっとした。
履いていたヒールを脱いで玄関を上がると、母が鬼の形相で立っていた。
「何時だと思ってんの?こんな時間まで、女の子が飲み歩いちゃって。痴漢にあったらどうするの!」
お母さんだ。いつもの。私はほっとしたら涙が出てきた。
「な、何も泣くことないじゃない。ほら、お風呂入っちゃいなさい。」
「明日の朝にする。」
「もー、この娘は。だらしないんだから。」
エレベーターの出来事や、先ほど見た衝撃的なシーンは何だったんだろうと考えた。母はいつも通りの母だし、家の中も何も変わったことは無い。私、おかしくなっちゃったのかな。
一晩寝れば、大丈夫。きっと、いつも通りよ。私は深い眠りについた。
あくる日目覚めると、もうお昼近くだった。若干、頭が痛い。二日酔いだ。昨日はたぶん酔っ払って幻覚を見たんだわ。そう思うことにした。
シャワーを浴びて、髪の毛を拭きながら、何か冷たい飲み物はないかと冷蔵庫を開けた。
手があった。
白くて細い、女性の手。
「キャーーー!」
私が叫ぶと、母が飛んで来た。
「どうしたの?ゴキブリ?」
腰を抜かした私を母が覗き込んだ。
震える手で、冷蔵庫の中を指差した。
「あー、あれ?管理人さんからおすそ分け。昨日、ヒトモドキを捕まえたからって。今日は、あれを使って鍋にするわよ~、楽しみにしてて!」
母が笑った。
これは母ではない。
ココハドコダ?
私ははだしで走り出した。
「どこ行くの~?」
母の声だろうか。
エレベーターのボタンを押す。
「ドアが閉まります。行き先ボタンを押してください。」
「わっ、私を!元の世界に返して~~~~!」
そう叫びながら、ボタンを連打した。
体がエレベーターの壁面にドンと押し付けられた。
どうやら、右方向に凄い速さで移動しているらしい。
「四階です」
ようやく、エレベーターのドアが開いた。
今度こそ。
私は、家のドアの前に立つと、ゆっくりと鍵を回す。
やはり母が鬼の形相で立っていた。
「何時だと思ってんの?こんな時間まで、女の子が飲み歩いちゃって。痴漢にあったらどうするの!」
「やっと帰ってこれた」
「何言ってんの?さっさとシャワー浴びて寝なさい!」
次の朝、目覚めると、何故か管理人さんが我が家の食卓について朝食をとっていた。
「管理人さん?」
私がそう呟くと、母は
「何言ってんの?寝ぼけてる?お父さんじゃない。」
どうやらここも違うらしい。
私はフラフラと、玄関に歩いた。
「ご飯、食べないの?」
母ではない母が私を心配する。
「いらない。」
そう一言告げて、ドアをしめた。
私はエレベーターの前に立つ。
乗り込むとすぐにそれは告げる。
「行き先ボタンを押してください。」
その声色は嬉々とした悪意を帯びていた。
作者よもつひらさか
実話
ではありません。