※これは、以前書いた作品をリメイクしたものです。
俺には4つ年上の姉がいる。名前を玖埜霧御影という。御影はともかく、苗字の玖埜霧についてはそこここで見たことがない漢字だから読めない、と御叱りを受けることが多々あるので、読み仮名を記しておくが、クノギリである。因みに名前のほうも一応読み仮名を記すとミカゲ。
実はこれ、姉さんの本名ではない。苗字にしろ名前にしろ、偽名であり仮名であるのだ。どういうことかと紐解けば、話は至って単純明快。姉さんは玖埜霧夫妻___つまり、俺の両親にあたる人達の養子だからだ。当然、そこに血の繋がりはない。両親とも弟の俺とも、養子として玖埜霧家に入るまでは赤の他人だったのだ。今でこそ仲の良い家族として成り立ってはいるけれど、そこに至るまでには色々とあった。
本当に色々___あったのだ。特に姉さんの生い立ちに関しては。
そこで冒頭の話に戻るのだけれど。姉さんの本名は玖埜霧御影ではない。玖埜霧という苗字は、当然だが玖埜霧夫妻の養子に入ったからであり、元の苗字から玖埜霧へと変わったとしても、何ら不自然ではない。たが、幾ら養子に入ったとはいえ、名前まで変える必要性はそこにあるのだろうか。そうまでして元の名前を消し去りたかったのか____そこら辺の事情については両親も、そして姉さんもあまり言いたがらないので、こちらから詳しく聞いたことはないけれど。
以前、母親からちらと聞いた話なのだが。御影という名前には「神霊」の意味が込められているのだそうだ。神霊とは、ざっくばらんに言ってしまえば、霊魂司る高貴な神様のこと。また、他の呼び名としてミエイとも読まれる。
姉さんの生まれ持っての名前を、御影という名前に改正させたのは玖埜霧夫人____つまり母親であるらしかった。養子として迎え入れてすぐ、名前を御影として改めるよう姉さんに話して聞かせたという。自分の娘となるべく少女に神様の意味を持つ名前を与えるというのは、何とも信心深いと言うか信仰深いというか。だが、母親にそう伝えたところ、彼女は真顔で首を振った。
「神霊という意味を込めて、私はあの子に御影と名付けたんじゃない」
では、どうして御影という名前を付けたのかと問うと、彼女は重々しく告げた。
「あの子の名前には、影という文字がどうしても必要だったから」
連れて行かれないために。憑れて逝かれないために。
○○○
「俺と写真を撮るとさぁ、必ず変なモンが写り込むんだよ」
「・・・・・・」
にやにやと。実に軽薄そうに笑う遥兄の顔を、何とも言えない目付きで見る。
それはあるうららかな日曜日のこと。惰眠を貪っていた俺は、玄関の呼び鈴の音で目を覚ました。生粋の仕事人間である両親は、例え日曜であっても自主的に出勤するくらいの仕事人間だ。当然、既に出勤している。家にいるのは、俺と同じく自室で惰眠を貪っている姉さんだけだ。
誰だよ、こんな朝っぱらから。新聞の勧誘なら断ろうと思い、眠たい目を擦りながら階段を下りる。その間にも呼び鈴は2度3度と鳴り続け、煩いことこの上ない。俺は舌打ちしながら「今、開けますよ」と不機嫌に呟き、玄関のドアを開けた。
「おー、欧介か。久し振りだな。元気にしてたか」
「・・・、遥兄?」
俺は目の前にいる長身の人物をまじまじと見つめる。派手な金髪に、耳にはごろごろと重たそうなピアス。黒地に髑髏のマークが入ったロングTシャツ。だぼっとした緩いジーンズを腰で履いている。如何にも遊び人といった風情のその人は、何を隠そう従兄の鮫島遥だった。この春、大学を中退し、元気にフリーター業をこなす21歳。見掛けに反さず、遊び人である。
小さい頃はよく遊んで貰っており、当時の呼び名が遥兄だったので、今でも変わらずそう呼んでいる。最近はお正月やお盆にお祖父ちゃんの家で顔を合わせるくらいで、こうして訪ねてくること自体が物珍しい。
人懐っこい笑みを浮かべ、遥兄は「ちょっくら上がらせて貰うなー」と、靴を脱いでずかずか上がり込んだ。俺は慌てて後を追い、少し遅れてリビングに入る。遥兄はソファーにどっかり座り込むと、喉が渇いただの、お茶を寄越せだの無遠慮にも程があるだろと言いたくなるような態度。アポなしで来ておいてそれかいと思ったが、一応年上なので文句は言うまい。俺はお茶を淹れると、遥兄に渡す。
「腹減った。何でもいいから食い物も出して」
「食い物って・・・・・・。お菓子でいい?」
「あー、何でもいいよ」
「・・・・・・」
ありがとうとかお願いしますくらい、言えって。戸棚から適当にスナック菓子を選び、袋のまま渡す。遥兄はぽりぽりとそれをつまみつつ、お茶を飲み、俺はその間に着替えたり顔を洗ったりして身支度を整えた。そして再びソファーへと腰を下ろし、遥兄と向き合う。遥兄はスナック菓子1袋をぺろりと平らげたところで、ようやく腹も膨れたのか「サンキューな」と感謝の言葉を口にした。
「で、どうしたの。遥兄が家に来るなんて珍しいじゃん」
「あー、そうだよな。うん、まあ、別に欧介に用があって来たんじゃねーんだ」
さいですか。
「お父さんとお母さんなら仕事でいないよ。今日は休日出勤なんだって」
「違う違う。叔父さんや叔母さんに用があって来たわけでもねーよ」
「ん?じゃあ、本当に何しに来たの」
「お前の姉貴、御祓いが出来るってマジなのか?」
身を乗り出してそう切り出した遥兄に、俺はうっと言葉に詰まる。姉さんのオカルト通は親戚中にも蔓延しており、御祓いをしてほしいとか、来年厄年だから祈祷を上げてほしいとか、そんなことを言ってくる人達がいるので、姉さんは大いに迷惑している。そもそも姉さんは人見知りかつ人嫌いな一面があるため、両親と俺を除く人間に対しては愛想が宜しくない。それは親戚に至っても同じことだ。
何と答えたらいいか迷っていると、遥兄は「それがマジならすげーよな」と、感嘆とも小馬鹿にしたとも取れる、どっちつかずな言葉を口にした。
「お前の両親、よくあんなの引き取ろうとなんて思ったよな」
あんなの、というのは姉さんのことだろうか。幾ら従兄でも言っていいことと悪いことはあるだろうに。身内の悪口を聞かされるのは、やはりいい気分がしない。そう思い、いささかムッとすると。そんな俺などお構いなしに遥兄は続ける。
「あいつ、すげえ一族の出身なんだっつうじゃん。ほら、首がない・・・・・・何て名前の神様だっけ。名前までは覚えてないけどさ。首のない、変な神様を拝んで信仰してる一族の跡取りがあいつなんだろ」
「?そうなの?その辺の事情はよく知らない・・・・・・」
「はあ?何言ってんだよ。お前の両親があいつを引き取ることにした年の春休みに、祖父ちゃんちに親戚一同が集まってその話聞いたじゃねーか。ん、いや待てよ。そういやお前とあいつだけは違う部屋に行ってろって言われて席外してだんだっけか」
言われて俺は回想する。両親が姉さんを引き取ることになった年の春休み____嗚呼、そういえば。微かだが、記憶がある。お祖父ちゃんの家に行くことになり、着いたら大広間に親戚が集まっていた。その中に確か遥兄の姿もあったように思う。お正月でもないのに、こんなに人が集まるだなんて珍しいと子どもながらに不思議に思ったものだ。
だが、俺と姉さんは両親から違う部屋で遊んでいなさいと命じられ、お祖母ちゃんの部屋で過ごしていた。その頃は俺達は仲が良くなかったから、それぞれに別なことをして過ごしていたような・・・・・・記憶にあるのは、これくらいだ。
「お前らが違う部屋に行ってる時、親族であいつの生い立ちについて聞いたんだ。あいつの一族、マジでヤバイ連中だぜ」
「ヤバイって、何が」
遥兄はもったいつけるようにお茶を一口啜ると、声を顰めて語った。
「あいつの一族はな、外部との接触を一切絶ってるんだと。穢れを招くってんで、一族以外の人間を毛嫌いしてて寄せ付けねーんだ。広大な土地を所有してて、自給自足で野菜や米作って生計を立ててるらしい。婚礼も昔っから一族の間だけで繰り返し、子どもをもうけてるみてーだぜ。で、首のない変な神様を祀って、一族の繁栄と未来永劫の幸福を祈願してるって話だ」
「一族の間で婚礼を繰り返してって・・・・・・だって、血縁者同士で子どもなんて作ったらいけないんじゃないの。法律で決まってなかったっけ」
「知らねーよ。変な宗教に心酔しきってるイカれた連中の考えることなんか。一族以外の人間は穢れた奴らだって思ってるみたいだし、あいつらに法律がどうとか言っても通じねーんだろ」
「ふうん・・・・・・」
「ま、あいつは何でか知らねーが、一族から縁を切られたって話だぜ。どんな理由があって絶縁されたのかは、お前の両親も話さなかったけどな。もしかしたら知らねーだけかもしれないけどよ。あいつの親戚連中もこぞって引き取るのを拒否ったらしくて、施設に預けるって話に落ち着きかけてたところを、お前の両親が待ったを掛けて自分達で引き取るって申し出たらしいぜ。そこいらも聞いてねえの?」
「うーん・・・・・・」
聞く機会がなかったと言えば嘘になるが。姉さんの生い立ちに纏わる1件について、何かしらの事情を挟んでいるということには察しがついていたが、未だに詳しい話は聞けていない。姉さんには流石に聞けないが、両親に頼めば教えてくれるかもしれない。だが、土足で踏み込んでいいような話とは言い難い。自分から話してくれるのであれば幾らでも聞くのだが、こちらから聞いていいものかどうかは微妙だ。というよりアウトな気がする。
両親は遥兄を含む親戚筋の人には姉さんの生い立ちに纏わるあれこれを話したようだが、恐らく理解を得るためだろう。養子として姉さんを引き取る以上、否応なしに姉さんは親族の1人となる。どうして姉さんが養子となったのか、その理由を明確に話して伝えることで、親戚筋の人にも姉さんを受け入れるための覚悟をしてほしいと思ったからではないだろうか。
「で、さっきの質問に戻るんだけどさ。あいつって本当に御祓いとか出来んのか?俺も半信半疑だけど、仮にも神様を信仰してる一族の人間なんだし、一応跡取りだったんだろ。絶縁されているとはいえ、そういう血筋ってことはそれなりの力があるってことじゃねえのか」
「まあ、それに至っては否定しないけど・・・・・・」
血筋の話はともかく、御祓いが出来るというのは本当だ。本人曰く、神社やお寺で行うような大業なものではなく、あくまで簡易的なものらしいけれど。俺が曖昧ながらも肯定すると、遥兄はガッツポーズを見せた。そして唐突に言った。
「俺と写真を撮るとさぁ、必ず変なモンが写り込むんだよ」
○○○
「遥兄、何言ってんの。変なモンって・・・・・・心霊写真ってこと?」
そう返すと、遥兄は「あー、そういうことになるのかな」と首を傾げる。
今度は俺が首を傾げる番だった。遥兄と写真を撮ると、必ず変なモノが写り込む。その変なモノというのは、つまり怪異か。この場合は幽霊の類だと考えれば1番分かりやすいかもしれない。しかし、遥兄は怪異とか幽霊を信じるクチではなかったと思う。
それに。話の腰を折るようで申し訳ないが、一口に心霊写真と言っても、多くの場合は偽物が多いそうだけれど。シミュラクラ現象____人間というものは、無意識にだが、視野に捉えた目的物を人の顔として見てしまう。
テレビの心霊番組を思い出してほしい。心霊写真のコーナーにあるだろう?木や岩や空の一部、或いは被写体の背後に人の顔のようなものが写り込んでおり、司会者が大袈裟にこれぞ心霊写真だと騒ぎ立てる。ゲストとして呼ばれた人間も、本当に信じているのか、はたまた仕事の一環だからか悲鳴を上げて怖がる。確かに人の顔に見えるし、不気味ではあるけれど。木や岩などに浮かび上がる顔はただの模様で、空や人の背後に写り込んだ顔も逆光の加減やカメラの損傷などによるものが多いらしい。まあ、中には本物の心霊写真もあるようだが。
「ちげーって。シミ何とか現象とかいうんじゃねーよ。本当の本当にマジでヤバイんだ」
遥兄はそう言うものの、へらへら笑っているため、いまいち緊張感がない。というより、話そのものが疑わしく思えてくる。変なことを言って俺を怖がらせようと企んでいるんじゃないだろうかと危惧していると、そんな俺の心境に気付いたのか「カメラ持って来いよ」と命じてきた。
「証拠見せてやるからさ」
完全に信用したわけではなかったが、とりあえずデジカメを持ってきた。遥兄は何を思ったか俺の横に来ると、肩を組んで自分達を自撮りした。
「はい、ピース!」
男2人で写真なんて撮るもんじゃないよなあ、と思いつつ。遥兄からデジカメを受け取り、今しがた撮ったばかりの写真を確認する。だが、そこをどう見てもおかしな部分はない。へらへらした遥兄と、露骨に迷惑そうな顔をした俺が仲良く顔を並べているだけ。変なモノが写り込んでいるようには見えない。
「現像しなきゃダメなんだ。撮った直後にデジカメで見ても何も写ってねーけど、いざ写真屋に行って現像してみると、変なモンが写り込んでてよ。最初は偶然とか気のせいだと思ってたんだけど、どーも気のせいじゃねーんだ。カメラは勿論、友達に撮って貰ったビデオカメラや彼女と撮ったプリクラにまで写り込むんだぜ。流石に気味悪くてさ。だから、お前の姉貴に何とかして貰おうと思ったってわけ。御祓いが出来るんだら頼みてーんだ」
格安で頼むよ、と両手を合わせて拝んでくる遥兄。姉さんは別に御祓い料をふっかけてくるようなことはしないので、そこら辺は安心してほしいのだが。しかし、1番肝心なのは姉さんが引き受けてくれるかどうかということだ。
「え?あいつ、もしかして気分で御祓い引き受けてんの?今日は調子がいいから引き受けますとか、今日は不調だからお受けできません、ってか。陶芸家みてーな奴だな」
「そうじゃなくて・・・・・・分かった分かった。とりあえず聞いてみるけど、ダメだったとしても怨まないでね」
「おー。任せたぜー」
はあ、と溜息をついて立ち上がり、リビングを出て行く。姉さんの寝起きは天下一品に悪い。まだ起きてこないところを見ると、ぐっすり寝ている最中だろうし、寝た子を起こすようなことはしたくないのだが。それに加え、遥兄が家に来ているなんて知ったら、どう反応するだろう。ただでさえ人見知りで人嫌いの姉さんに、遥兄だ。水と油の例もあるけれど、あの2人は相性がとことん悪い。ま、姉さんのほうが一方的に嫌っているんだけれど。
階段を上がり切り、自室をノックする。だが、返答はない。何度かノックするが、やはり応答がないので、悪いと思ったがドアノブに手を掛けた。鍵は掛かってないらしく、容易く開いた。部屋の中は薄暗く、カーテンも引きっ放しになっている。やはりまだ寝ていたようだ。
「姉さん、起きて。ちょっと頼み事があって・・・・・・」
布団に潜り混んでいる姉さんをゆさゆさ揺さぶる。姉さんは「うー」と不機嫌そうに唸ると、目を擦りながら上半身を起こした。
「何なの、朝っぱらから。・・・・・・何、添い寝しに来てくれたの?」
「違う違う。そうじゃなくって」
「添い寝じゃないなら夜這いに来たの?」
「違う違う!話を聞いて!」
「夜這いじゃないなら、貞操を奪いに____」
「ちーがーうー!!」
抱き付いた。照れるあまりに姉さんに抱き付いた。そしたら勢い余った姉さんに唇を奪われそうになったので、慌てて身を離した。危ない危ない。朝から18禁の展開に発展させてしまうところだったせ。
「そうじゃないったら。あのね、今、遥兄が来てるんだよ。姉さんに御祓いして貰いに来たんだって」
「遥・・・・・・」
途端に姉さんの顔が曇る。いらんことしいだったかと思ったが、ここまで来てやっぱり止めておくのも何なので、これまでの経緯をこざっぱりと話す。姉さんは聞いているのか聞いていないのか、はたまた聞き流しているのかは知らないが、無言でベットから下りて着替えを始める。
パジャマを上下とも脱ぎ、惜し気もなくなく素肌を晒す。未だにカーテンが閉じられた部屋の中で、姉さんの白い肌が浮かび上がり、何だか生々しい。お出掛けの時のようなお洒落なそれではなく、家着として使っているグレーのパーカーに袖を通し、ジーンズに足を通す。ショートヘアをかきあげ、姉さんは眉を顰めた。
「臭い・・・・・・」
「えっ、何か臭うの」
「臭うよ。遥の臭いだ」
言われて思い出したが、そういえば遥兄は香水を付けていたようだ。それもたっぷり振り掛けてきたらしく、リビング中香水の匂いが漂っている。まさか2階にまで匂いがしてくるとは思わなかったけれど。
「香水じゃない。死臭がするってこと」
姉さんはそう呟くと、自室を出て階段を下りていく。どうやら話だけでも聞いてくれるようだ。俺は良かったと胸を撫で下ろし、姉さんの後についてリビングに入る。遥兄といえば、俺が姉さんを呼びに行っている間に勝手にテレビを付けていたようで、あははと大笑いしていた。俺達がリビングに入ってくるのを見て、「遅かったなー」と言い、テレビを消して片手を上げる。
「よ。久し振りじゃん。元気にしてた?」
姉さんは遥兄に一瞥くれると、黙って向かいに腰を下ろす。お茶でも淹れ直してこようかと思ったが、相性の悪い2人をリビングに残していくことも躊躇われ、姉さんの隣に座った。遥兄が何かを言い掛けようとした瞬間、遮るように姉さんが口を挟む。
「水子」
『は?』
俺と遥兄は同時に声を上げ、お互いの顔を見つめる。水子って確か、赤ん坊とか子どもの霊のことか?
姉さんは遥兄を鋭く睨みながら続ける。
「お前、今まで女を2人孕ませたでしょ」
「は、孕ませたってどういう意味だよ」
「妊娠させたってことだよ」
俺は目を丸くして遥兄を見た。確かに昔から女癖が悪く、1度に数人の女の子と付き合ったりはしていたみたいだけれど。まさか、妊娠させていたとは・・・・・・。だが、遥兄は独身だ。結婚はしていないはず。つまり、女の子を妊娠はさせたが、責任を取って結婚するという選択肢は選ばなかったということになる。それも2回もだ。
どうやらそれは真実のようで、遥兄は否定はしなかった。強張った面持ちで姉さんを見つめている。真実を言い当てられて動揺しているのだろうし、見透かされているようで落ち着かないのだろう。その気持ちは分からないでもない。
人の恋愛観とか興味ないからどうでもいいんだけれど、と。そう前置きをしておいて姉さんは言う。とてつもなく冷めた口調で。
「2人の女の人生狂わせといて、被害者面してんなよって話。妊娠の1件は男女両方に責任があるから、自分達でどうにかするしかないんだろうけどさ。生む生まないは本人達の意思と都合と事情に任せればいいとは思うよ。思うけど・・・・・・」
____お前、よく言えたね。面倒臭いから堕ろせ、ってさ。
「それは・・・・・・こっちにも都合ってモンがあって、」
しどろもどろになりながら遥兄が答える。ふむ。姉さんの話と遥兄の反応から察するに、彼女に堕胎を申し出たのは遥兄のほうだったんだろう。2人いた彼女のうち、どちらもすんなりと合意したのか或いはごねたのを何とか説得させたのかは分からないが・・・・・・どちらにせよ、堕胎という行為は女性の体に著しく負担が掛かるらしい。
道徳の授業か、或いは保健の授業だったかは忘れたが。堕胎というものはかなりの大事だ。当然、手術になるし費用も掛かる。健康な体にメスを入れなければならず、傷も残る。体にも、そして心にも。1度自分に宿った命を殺してしまうのだから。術後はしばらく痛み、歩けないほどに痛みを訴える人もいるという。2人の彼女も、きっとそうした辛い思いをしたはずだ。
確かに姉さんが言う通り、妊娠したのは男女共に責任がある。子どもを授かりたいと思ったから、というならば話は別だが。どう考えても、この場合は成り行きだろう。生む生まないはそれぞれの事情によって異なってくると思うが、それにしたって「面倒臭いから堕ろせ」というのはどうだろう。あまりにも非人道的な言い方だ。責任の一環は遥兄にもあるのに、まるで人事のような発言だ。
「都合・・・・・・ね。面倒臭いという都合が合理的かと言われれば頷けないけれどね。まあ、いいけど。何であれ、お前はお前がしでかしたことの責任を取るまでだ。お前の左肩____水子がしがみついているよ。それも2体いる」
姉さんは顎で示した。遥兄はギョッとして自分の左肩付近を見る。だが、そこには何もいない。肉眼では見えない赤ん坊が2体、今もしがみついているのかもしれないが。
姉さんは立ち上がり、メモ帳とボールペンを持ってきて、さらさらと何かを書いた。そしてそのメモをぐいと遥兄に差し出した。
「悪いが水子は専門外だ。水子専門の供養を取り計らってくれる寺の住所を書いたから、行って事情を説明して御祓いして貰いな。それから____」
「・・・・・・もう2度とここには来るな」
怒気を孕んだ口調でそう言うと、姉さんは立ち上がり、リビングを出て行こうとする。その背中に遥兄は「ちょっ、ちょっと待てよ」と震える声で呼び止めた。
「なあ、何で俺なんだよ。確かに堕ろせとは言ったけど・・・・・・。女にだって責任はあるって、お前言ったじゃん。こういう場合は、女のほうを怨むんじゃねーのか。結局、女が堕ろすんだから。だから、取り憑くなら女のほうに取り憑くのが筋だろ」
姉さんはちらと振り返り、肩を竦めた。
「さあね。女のほうは生む気があったからじゃないの」
「・・・・・・」
その一言に、遥兄も沈黙する。姉さんは今度こそ後ろを振り返らず、リビングを出て行った。きっと2度寝を貪る気だと思う。あとには呆然とした遥兄と、俺だけがリビングに残された。
「は、遥兄・・・・・・」
「は、ははっ、何が水子だよ、くっだらねー」
明らかに無理して笑いつつ、遥兄はメモをくしゃりと握り潰した。それを無造作にポケットに突っ込む。捨てないところを見ると、一応姉さんの話を信用したようである。
「わりい、そろそろ帰るわ」
「う、うん・・・・・・」
こうして。遥兄は多くを語らず、帰っていった。
○○○
それから遥兄がどうなったかを少しだけ記しておこう。あの一悶着あった日曜日から、遥兄が我が家に来ることはなかった。姉さんに出入りを禁じられたからというのもあるのだろうが、遥兄のほうも2度と行きたいとは思わないのだろう。
ただ。俺は遥兄がその後、ちゃんとお寺に行って水子供養をして貰ったのかが気掛かりだった。メルアドや携帯番号を知らないので、連絡の取りようがない。無論、遥兄の家にも電話を入れたが、何度掛けても繋がらないのだ。こうなったら直接会って様子を確かめようと思い、1週間後の日曜日に俺は遥兄の家を訪ねた。
呼び鈴を鳴らすと、やつれた顔の叔母さんが顔を出した。遥兄の母親だ。彼女は俺を一目見ると、こちらがまだ何も言っていないのに、「遥はダメよ」と言った。それこそ挨拶の1つもない。それに気分を害しながらも、どうしてダメなのかを問うと、病気で療養中とのことだった。
「遥は体調を崩して部屋で横になってるから、会えないの。悪いけど帰って」
「そ、そうですか。病気って・・・・・・大丈夫なんですか」
「大したことないわよ。いいから、ほっておいて。早く帰って」
叔母さんは苛々しながら言う。帰ってと言われてしまった以上、帰るしかない。今まで大病になど掛かったことのない遥兄が病気と聞いて心配だったが、叔母さんがこの調子では取りつく島がなさそうだ。せめて顔を見たいと思ったが、叔母さんが迷惑そうにしているので、俺は帰ろうと踵を返して____
____ぁぁぁぁぁー、ううううぁぁぁぁぁぁー、おゎぁぁぁ、あああぁぁぁー、おわぁぁぁ・・・・・・
猫が盛っているような声が響いた。いや、違う。これは赤ん坊の泣き声だ。
ううううぁぁぁぁぁぁー、うあー、ううううううううぁぁぁー、ぁぁぁー、・・・・・・
遥兄は1人っこのはずだ。最近になって、年の離れた弟か妹が生まれたんだろうか。それとも、赤ん坊を連れたお客さんでも来ているのかな。ふと、そんなことを思っていると、廊下の奥から誰かがよたよたと歩いてくる。そのあまりの風貌に、俺はあっと声を漏らした。
頭髪はあらかた抜け落ち、頭皮がところどころ見えている。落ち窪んだ目は虚ろで、生気をまるで感じさせない。肌は土気色でカサカサしており、皺だらけ。痩せこけて骨ばった手足など棒のようで、見ていて痛々しい。かぱっと開いた口からは、赤ん坊の泣き声がする。両手でたるんだ両頬をがりがりと引っ掻きながら、火の付いた赤子の如く、泣き騒いでいた。
うあー、ぅぅぅぅぅぅああああああー、ぅああ、うああああ、うおう、おおぉぉお、あぁぁぁ・・・・
「遥っ、止めなさい!出てきちゃダメ!」
叔母さんが血相を変えて、老人のような何者かに縋りつく。聞き慣れたその名前にドキリとした。
「は、遥兄・・・・・・?」
この____老人が遥兄なのか?あまりにも変わり果てたその姿に、俺はしばらく何も言えないでいた。1週間前に家に来た時は、こんな風ではなかった。こんな____老人みたいな風貌はしていなかった。一体、何があってここまで変わったというのだろう。病気を患っているとは聞いていたが、そのせいだとは思えない。
「見ないでよっ!早く、早く出て行って!早くして!見ないで!」
よたよたとこちらに向かって歩いてくる遥兄を必死に押し留め、叔母さんが金切り声で捲し立てた。
「遥を見ないで!出て行って」
はっと我に返った俺は、慌てて踵を返し、飛び出した。バタンと扉が閉まるのと同時に、中からガチャリと施錠の音がした。多分、叔母さんが鍵を掛けたのだろう。信じ難い光景を目の当たりにした俺は、振り返る。未だに赤ん坊みたいな泣き声と、必死に宥める叔母さんの声が聞こえてくる。しばらくそうしていたが、やがて俺は遥兄の家を後にした。
あの様子では・・・・・・気の毒だが、もう正気には返らないだろう。どうして短期間のうちにあそこまで変貌を遂げたかというのは、何となくだが察しは付いた。もうどうしようもない。俺には何も出来ない。姉さんに相談すれば、まだ解決の道は残されているのかもしれなかったが。どちらにせよ、姉さんはもう遥兄とは関わりを持たないだろう。
自分の責任は自分で取れ。そういうことなのかもしれなかった。
○○○
後日。俺はデジカメをカメラ屋に持っていき、現像を頼んだ。無論、遥兄と肩を並べて撮ったツーショット写真を現像するためである。1枚だけだったので、ものの10分くらいで現像して貰い、家に帰って確かめてみた。
姉さんは遥兄の左肩に水子が2体しがみついていると言っていたけれど。幾ら目を凝らしてみても、別に変なモノは写っていない。ごくごくありふれた野郎2人のツーショットだ。
・・・・・・ただ。
「俺の顔、半分欠けてんじゃん」
作者まめのすけ。