俺には4つ年上の姉がいる。名前は玖埜霧御影(クノギリミカゲ)。およそ珍しい苗字であり、名前のほうもまた変わっているため、「本当に本名なの?」と聞かれることも多い名前だが、本当に本名である。市役所にもその名前で登録してあるし。
今でこそさして珍しいことではないかもしれないが、姉さんはオカルトに通じている。オカルトに通じていると言うか____まあ、俗に言う「視える」側の人間だ。視えるし、祓える。但し、本格的な祈祷が行なえるとかお経を唱えるなどといった形式的な祓い方ではないし、本業の人から見れば、手順を踏まずに横着的だ、何という乱雑なやり方だと言われそうなオリジナルティ溢れる祓い方ではあるのだが。やり方云々はともかく、姉さんは本物である。
ただ。幾ら本物とはいえ、人助けとして霊を祓うなんてことは滅多ににしない。霊的な現象についてのアドバイスや、忠告くらいは最低限の礼儀として説明することはあっても。霊障に悩んでいる人を進んで助けるとか、御祓いをすることはない。あの人は基本的に人を助けるということを嫌うのだ。人というか____家族以外の他人に対しては、弟の俺からしてもちょっと異常だと思うくらいに。
他人に対しては爪の垢ほども愛想が良くない割に、家族に対する愛情は度を越えて以上である。異常である。パパやママの言うことには絶対に従うし、口答えや反抗など決してしない。年頃で多感期の高校生にしては珍しく、両親に対して忠義的であり、尊敬してやまない人達だと常日頃から言っているし。パパやママもそんな姉さんが可愛くて仕方ないようで、まるっきり猫可愛がりしている。
両親に対してはそれでいいのかもしれない。しかし、弟の俺に対する愛情というものは、ここのところ度外視出来ない有様になりつつある。
○○○
女性というものは、ファッションについてのこだわりが半端ではない。私服に至っては勿論、学生ならば制服の着こなしや、ОLさんならばスーツの着こなし。夏になれば浴衣を素敵に着こなし、成人式ともなれば色とりどりの艶やかな着物を着こなす。そりゃ男だってオシャレくらい気を遣うものだけれど、流石に女性ほどではない。そこまでこだわらないし、妥協もするし。
色白が美人の条件だと重要視されていた平安時代、顔に鉛を元に製造された白粉を塗ってたくらいだし。だが、鉛は人体には有害物質であり、皮膚から吸収された鉛はやがて全身を巡り、精神障害を引き起こしたり、病気になったりしたようだ。気が狂おうが病気になろうが、それでも顔に鉛で製造された白粉を塗りたくって生活していたのだから、女性は本当にオシャレに対する情念が凄まじい。
そして。何も目に見える部分だけのオシャレだけに気を配っているだけではない。普段、目につかないところもオシャレであろうとするのだから、脱帽である。目につかない部分とは____有体に言って、その、下着だ。ランジェリー。
うちの姉さんは、外観に関してそこまでオシャレだというわけではない。オシャレに無関心だとか、そういうわけではないが、どちらかといえば肌を露出しない、動きやすくてボーイッシュな恰好を好む。だが、そんな姉さんでも下着にはこだわるようだ。休日になるとお寝坊さんなことが多い姉さんだが、時たま早起きして外出することがある。出掛ける先は色々だが、下着を買いに専門店まで行くこともある。
弟の俺を連れて。
弟の俺を連れて。
弟の俺を連れて。
大事なことなので3回も言ってしまったが。ともあれ、弟の俺を連れて下着の専門店まで行き、あろうことか選べと言われた。
「どれがいいと思う?」
「あ、あのあのあの・・・・・・」
「赤?青?白?紫?水色?柄物?」
「わ、分かんない・・・・・・」
真っ赤になって俯く。いや、本当に目のやり場に困る。今日日、今時の女性はオープンで、付き合っている彼氏を引き連れて下着を買いに来る人もいる。現に、ここの店内にも選ぶのを手伝わされているであろう数名の男性陣がいるが、やはり居辛そうだ。選ぶのを手伝わされたとはいえ、じろじろ物色するなんて気が引けるし、自分の特殊な趣味が露呈するかもしれないし。
「欧ちゃんはサイドが紐のほうが好み?」
・・・・・・姉の特殊な趣味が露呈されそうだった。
「うん」とも「ううん」とも言えずに押し黙る。顔から火が出そうだ。今なら顔面で目玉焼きが焼けるかもしれない。カチコチに固まっている俺に対し、姉さんは「やっぱりこっちがいいか」と言って、どんな日に身に着けるのかよく分からないようなデザインの下着をチョイスした。
「ほら、最近、欧ちゃんと姉弟の触れ合いをしてないなあって思って」
姉さんはにこにこしながらそう言った。
「今日は欧ちゃんが選んでくれた下着を欧ちゃんに付けて貰おう」
「いやいやいや。ホックの付け外しなんてしたことないし」
「大丈夫。私が教えてあげるから」
弟にホックの付け外しを教えようとしている姉が既に大丈夫ではない。俺は半泣きで断ろうとするが、姉さんは聞く耳持たずしてすたすたとレジのほうに歩いて行った。ちらりと値札を見たのだが、結構な額だった。女の人っていつも下着にこんなにお金を掛けるのかなあ、などと思っていると、会計を済ませた姉さんが戻ってきた。手には先程購入した下着が入っている、これまたオシャレなピンク色の可愛らしい袋を抱えていた。
「さ、帰ろう。帰って久し振りに一緒にお風呂に入ろう」
「な、何か今日はやけにご機嫌だねえ・・・・・・」
「だって、」
姉さんは少し拗ねたように唇を尖らせた。
「最近の欧ちゃん、あんまり私と遊んでくれないんだもん」
____「あの子」と行動を共にするようになってからは特に。
○○○
学校の七不思議といえば、どこの小学校或いは中学校にも存在するものである。音楽室に飾ってある音楽家の肖像画の目が動くとか、理科室の人体模型が走るとか。標本室の骸骨が笑うとか、夜になると真っ赤に染まるプールの水とか。今言ったはほんの一例であり、定番とも言える七不思議だ。だが、それぞれの学校独自の七不思議というか怪談話も存在する。
俺が通う公立第一星中学校にも、独自の怪談話というものがあった。いや、もしかしたら他の学校でも語り継がれているのかもしれないが。
誰が言い出したのかは分からない。だが、結構昔から第一星中学校に伝わる怪談話であり、今尚その噂は生徒の間を駆け巡っている。その内容というのが階段に纏わる怪談だ。オーソドックスな「13階段」ではなく、「ケンケン様」という呼び名で知られている。
北校舎の二階にある踊り場。踊り場の隅には、いつからか花が供えられているのだ。花と言っても花束のようにきちんとしたものではなく、空の空き缶に数本小さな花が活けられてあるだけの簡易的なものなのだが。実はこれ、事故現場で見る献花のような物であるらしい。
今から20年ほど前。この第一星中学校に在籍していた男子生徒が1人、北校舎二階の階段から転落し、事故死したらしい。彼は生まれつき左足が悪く、普段から松葉杖をつき、片足飛び____つまりケンケンで移動していた。その彼がつい誤って階段から足を踏み外し、踊り場に落下。当たり所が悪く、死亡したのだそうだ。
それ以来、1人で北校舎2階の階段をケンケンで下りると、死んだ男子生徒がケンケンしながら現れるといった噂が流れ、拡散された。そしてその男子生徒の霊がケンケン様と呼ばれるようになった___というのが事のあらまし。
何しろ20年も前のことなので、本当に事故死した生徒がいたのかは分からない。先生達に聞いてみても「自分は最近赴任してきたばかりだから知らない」「そんな話は聞いたことがない」と口を揃えて言うばかりだし、確証もない。ただ、献花はずっと続いている。誰が活けているのかも不明だが、献花の花は定期的に取り換えられ、水も新しく入れ替えているようだ。時節、花の種類や本数が変わっているので、誰かが人知れず手入れしていることは間違いない。
ケンケン様が実在したとしても、単なる噂話に過ぎなかったにしても。生徒達は別にそこまで怖がることもなく、かといって献花に悪戯するようなこともなく、北校舎の階段を使用する際、ちらほらケンケン様の話をする子が数人出てくるといった程度だ。完全に信じている子のほうが少ないと思う。何しろ、噂として根付いてはいるものの、誰もケンケン様に遭ったことはないのだから。
たまにふざけてケンケン様を試す生徒はいたようだが、残念ながらお目に掛かることはなかったようだ。噂話など、所詮はその程度である。嘘か本当か分からないから怪談なのだろうし、嘘とも本当とも言い切れないから語り継がれていくのだろう。
きっと、それくらいがいいのだ。嘘か本当か分からないくらいが丁度いい。眠っている猫にちょっかいを出せば引っ掻かれるように、怪談話はヘタに暴かないほうがいい。触らぬ猫に祟りなしだ。
だが。眠っている猫にちょっかいを出そうとする人間は、案外俺の近くにいたらしい。
○○○
「ケンケン様を退治しよう」
そんな突飛な発言をかましたのは、クラスメートのショコラだった。ショコラというのは彼女の愛称で、本名は日野祥子という。成績も品行も教師受けも良く、人懐っこく明るい性格なため、友達も多い。猫のような吊り上がった黒目が特徴的で、チョコレート類のお菓子が大好物。本名の祥子と、チョコレート菓子からもじって、ショコラと呼ばれている。
彼女がこうして突飛な発言をかますことは珍しいことではない。どういうわけか知らないが、ショコラはちょいちょい俺に対して変な相談事を持ち掛けてくる。大抵がオカルトに通じている噂話や都市伝説で、その解明をしようと誘ってくることが多い。そしてその度に変なことが起こり、変なモノに出遭い、大変な目に遭う。言わば厄介さんだ。トラブルメーカーと言ってもいいくらい。
「実は私、旅行って好きじゃないんだよね。枕変わると眠れないから」
「トラベルじゃなく、トラブルだよ。いや、それよりも・・・・・・」
「欧ちゃんなんていいよね。だって、毎晩お姉さんに膝枕して貰って寝てるんだから。旅行に行っても枕が変わる心配がなくていいじゃない」
「俺は毎晩姉さんに膝枕なんてして貰ってねえし、旅行先でもして貰わねえよ。あのさ、ショコラ・・・・・・」
「それよりケンケン様の退治だよ。黍団子あげるからついてきて」
「鬼が島の鬼退治に行く桃太郎かお前は。黍団子はいらないから、それよか・・・・・・」
「因みに桃太郎は桃から生まれてきたっていう設定になっているけれど、あれは後付けらしいよ。本当は川に洗濯をしに行ったおばあさんが大きな桃を拾ってきて、それを家に持ち帰って食べたら、2人も若返ったの。そしてその晩、若返った2人は激しく愛し合い____で、生まれてきたのが桃太郎なんだって」
「へえ。後にも先にも役に立たなそうな知識をありがとう。でさ、頼みたいんだけど・・・・・・」
「どうして桃から生まれてきたという設定にしたのかは、子どもに聞かせる時に色々困るからなんだって。赤ちゃんはどうやって生まれるの、とか、赤ちゃんはどこから来るの、とかね。若返った2人が激しく愛し合うだなんて、流石に子どもには言えないもんね」
「うんうん。分かった分かった。分かったよ、ショコラ。だからさあ・・・・・・」
「おっと。話が大幅に逸れちゃった。欧ちゃんが桃太郎なんてワード出すから乗っかっちゃったじゃない。そんなことよりもケンケン様だよケンケン様。退治するのは鬼ヶ島の鬼共じゃなく、北校舎のケンケン様だってば。これもしいて言えば人助けだよね。ね、付き合ってくれるでしょ」
「付き合うよ。付き合います。喜んでお付き合い致しますから。だからお願いだよショコラ」
俺はもぞもぞしながら呟く。さっきから我慢しているのだが、そろそろ限界だった。
「・・・・・・外で待っててくんない?」
だってここ、男子トイレだしさ。
○○○
禹歩という技法がある。陰陽道に通じる技法で、印を順番に踏むことで悪霊を退治するというものであるらしい。その昔、天皇や貴人が外出する際、道中に悪霊と出くわさぬよう、また無事に帰宅出来るようにと禹歩を行っていたという。そもそもは中国から伝わってきたものであるらしいが、詳細はよく分からない。
「ケンケン様ってのはつまり、階段から落ちて死んだ生徒の霊でしょ。突然の事故死で自分でも死んでいることに気付いていないのか、この世に未練を残して成仏出来ないでいるかは知らんけど、学校に霊がいるってだけでいい印象はないよね」
そう言いながら、ショコラは小さなメモ用紙に1枚ずつ数字を書き込んでいる。禹歩を行う上で印を踏むという手順が重要なのだが、その順番を記しているらしい。俺はそんなショコラの隣で、ぼんやりと目の前にある怪談を見上げていた。場所は北校舎2階の踊り場。時は放課後。帰宅前にと立ち寄った男子トイレの中でショコラのお誘いを受け、またしてもなし崩し的に引き受けることになってしまった俺は、こうしてのこのことこの場にいる始末である。
「でもさあ、ショコラ。ケンケン様による実際の被害は今のところないんだろ。だったら別に退治する必要なんてなくないか」
「悪の芽は摘んでおけって話だよ。今は何の被害がなくとも、これからどうなるか分からないじゃない。ケンケン様と同じように、階段から落ちて死んじゃう子が出たら困るでしょ」
「そら困るどころの話じゃないけどさ。だけど・・・・・・」
退治する理由がないというか。悪の芽を摘んでおくと言えば恰好いい台詞に聞こえるかもしれないけれど、芽どころか発芽していない状態で摘むも何もあったものじゃないと思う。せいぜいが耕した土に種が撒かれているといったくらい。種が必ずしも発芽するとは限らないじゃないか。だって、被害がないもん。被害がないということは当然、被害者がいないわけで。
ケンケン様退治をして、得する人間はいないということだ。まあ、出来るかどうかさえ危ぶまれているが、実際に退治したところで損もないと思うが。損得なしだ。
だが、ショコラは「欧ちゃんはそれだから甘いんだよ」と、したり顔で呟く。
「ケンケン様を退治したって言いふらせば、私達、一躍学校のヒーロじゃない!」
全て自分の得心のためだった。損得なしというか、尊徳なしだった。
「中には本当にケンケン様を怖がってって、未だにここの階段使えない子とかいるみたいだよー。遠回りしてでも使いたくないっていう子もいるみたいだし、ここは私達心霊研究会の部員が何とかしてあげるというのが筋ってもんでしょうよ」
「いつの間にそんな研究会出来たんだよ」
初耳だ。それにそんな研究会の一員になった覚えもない。なって溜るかい。
「と、に、か、く!」
ショコラは書き終わったメモを1つずつ丁寧に踊り場の床へ並べていく。
9 2 7
4 5 6
3 8 1
どうやらこの1~9までの数字の順番に印を踏めばいいということらしい。結構複雑な形だな、と思いつつ眺めていると、ショコラが俺の肩をぽんと叩いた。そしてにへらーっと笑う。
「さあ、跳んで!あ、跳ぶ時は片足でね」
「跳んでって・・・・・・俺が?」
「何言ってんの。欧ちゃん以外に誰が跳ぶというの」
「お前が跳べ」
言い出しっぺはお前だろ。しばらくお互いの肘を小突き合っていたが、ショコラは頑として「私はやらないー!」と捲し立てる。最後は取っ組み合いの喧嘩になろうというところで、渋々俺が折れた。心も折れたが、まあ、仕方がない。自分でやろうと言い出した割に、ショコラは一徹して禹歩を拒んだ。
「やらないっていうか出来ないんだよねー」
「?出来ないんじゃなくてやらないの?」
「莫ッ迦だねえ、欧ちゃんは。女の子には運動出来ない日が月1でやってくるって保健の授業で習わなかった?」
「嗚呼・・・・・・ごめん」
デリカシーのない発言だった。そうだった。女の子にはそういう日もあるんだった。体の構造についてはとやかくは言えまい。俺は肩を竦めると、【1】の場所に立つ。一応、ショコラが数字を書き込んだメモは踏まないようにしていたが、「別に踏んだっていいよ」と言われた。
「メモは順番を書いただけだしねー。あ、でも順番は間違えないでよ。効果なくなっちゃうし」
「分かったよ。で、何回跳ぶんだ」
「んー、どうだろ。とりあえずキリいいとこで10回くらいでよさげじゃない?」
「おっけい」
【1】から【2】へ。【2】から【3】へ。【3】から【4】へ・・・。ショコラから言われた通り、片足飛びで、ケンケンの要領で跳ぶ。間隔的にそれほど遠くなかったことが幸いした。しかし、片足で移動するのって意外としんどいな。俺は右足が軸足なので左足を浮かせて跳んでいるのだが、着地した時に全体重が右足に掛かるので、右足が辛い。足の裏がじいんと痺れたように痛い。それでも何とか10回跳び終え、荒い息をついてその場に座り込んだ。
「右足いてえー」
「はい、お疲れさん」
労いの言葉もそこそこ、ショコラは右手を額の辺りで水平にし、窺うように階段を見る。つられて俺もそちらに目をやるが、特に変わった様子はない。
「で、退治できたのか?ケンケン様とやらは」
「さあ、どうだろ。私、霊感ないし分からない」
おいおいおいおい。しれっと答えるなよ。人にここまでさせておいて。じろりと恨みがましい視線を送ると、ショコラはにへにへ笑いながら俺の頭を撫でた。飼い主が愛犬を褒める時のように。
「とりあえずは大丈夫なんじゃない?禹歩ってかなり強力な技法らしいし。何だって陰陽道に通じているみたいだしね」
「陰陽道ねえ・・・・・・。それこそ阿部清明じゃないが、陰陽師とか霊力のある人がやるならまだしも、俺なんて一介の中学生だぞ。強力な技法っつっても、素人がやっても効果はあるのかね」
「信じる者は救われる。鰯の頭も信心から、って言うでしょ。こういうのは行うこと自体に意味があるの」
「結果が出ないんじゃどうしようもねーじゃん」
苦労が水の泡になるだけだ。努力したけれど無駄でしたってオチならいらない。
「大丈夫だよ。見てた限りじゃあ、欧ちゃんは何もミスってないし。きちんと順番通りに印を踏めたようだし、効果がまるっきりないってわけじゃないと思う。ま、そこら辺はこのショコラちゃんが保証するよ」
ショコラは最後にぽんと俺の頭を叩き、「んじゃ、私は習い事があるから」とさっさと行ってしまった。俺はしばらく階段をじっと見つめていたが、やはりショコラ同様、霊感のない俺には何も見えない。禹歩によってケンケン様が退治出来たのか、それとも何の効果もなかったかも分からない。ただ1つ分かることは、いつまでもこうして階段を見つめていても仕方がないということだ。
下校時刻を告げる放送が流れる。部活に入っている生徒ならばともかく、俺は帰宅部所属だ。帰宅部の人間が下校時間を迎えるまで校舎内をうろうろしている理由などない。鞄は教室に置きっ放しにしてきてしまったし、取りに行かなくては。そう思い、階段に背を向けたその時だ。
かつ・・・
硬い物が床に擦れる音がした。それは階段のほうから聞こえてくる。
かつ・・・
意味もないのにぞくりとうなじの毛が逆立つ。誰か他の生徒が階段を下りてくるのかとも思ったが。
かつ・・・
___違う。どう聞いても、靴音が擦れる音ではなかったし、もっと硬い何かだ。
かつ・・・
ゆっくりとしたペースだったが、あきらかに音が近付いてきている。ゆっくり、ゆっくり、1段ずつ。時間を掛けて階段を下りてきている。振り向いて確認しようにも振り返れない。逃げようにも足が竦んでしまう。ごくり、と自分が唾を飲み込む音がする。
かつ・・・
かつ・・・
かつ・・・
階段の段差の数は確か12段。ということは、あと5段ほどで下りてきてしまう。
かつ・・・
あと4段。小刻みに震えながら、首を無理矢理動かし、そっと背後を向く。俺は小さく息を呑んだ。松葉杖。松葉杖がひとりでに動いている。どう考えたって、松葉杖がひとりでに動くなんていう現象は物理的にあり得ない。しかし、物理的にあり得ないことをあり得てしまうのが、また怪異なのだ。
俺には見えないが、誰かがいるのだ。松葉杖をつく、誰かが。ゆっくりと階段を下りてきている。
かつ・・・。
あと3段しかない。その時、タイミング良く携帯がブルったので、その場で飛び上がった。さっきあれほど禹歩をして跳んだというのに、また更に飛んでしまった。ついでに心臓も跳ね上がった。
着信だ。それも姉さんからだ。この時ほど、姉さんからの電話が嬉しかったことはない。「もっ、もひもひっ、姉ひゃん?」と、恐怖のあまり声が震えて変な発音になってしまったが、そんなことはどうだって良かった。電話口ではやや機嫌の悪そうな姉さんの声がする。
「お前、また懲りずに変なことしでかしやがったでしょ」
「け、ケンケン様を退治するって・・・・・・う、禹歩して・・・・・・片足でケンケンして・・・・・・松葉杖が・・・・・・」
途切れ途切れの上、我ながら要領の得ない説明である。だが、姉さんはそんな俺を責めることなく、冷静な口調で言った。
「で、今どこにいるの」
「き、北校舎の2階・・・・・・踊り場ぁ・・・・・・」
「禹歩、もう1度やってみ。但し、今度は片足じゃなく両足で跳んで」
「で、でぇもぉ・・・・・・」
「早く!」
かつん・・・
かなり近くで音がした。ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。何段まで下りてきたのか、怖くて数えていなかったけれど。既に階段を下り切っているんじゃないだろうか。
「・・・・・・ええい、もう!」
幸い、メモはまだ片付けていない。片付けていなくとも、10回も同じように跳んだので、順番は覚えている。目を開けていると、またしても松葉杖が目に入りそうだったので、少々危険だが俺は目を瞑った。
【1】から【2】へ。【2】から【3】へ。【3】から【4】へ・・・。さっきと同じように順番に跳ぶ。1つだけ違うのは、片足で跳ぶのではなく、両足を揃えて跳んだ。姉さんからは何回跳べとは言われていなかったが、とりあえず10回跳んだ。片手が塞がっているとバランスが悪いので、携帯は通話中のまま、ズボンのポケットに入れた。
跳び終わり、それでもすぐに目を開けられず、じっとしていた。耳を澄ますが、あの音は聞こえない。消えてくれたのだろうか。或いは既に階段を下り切っていて、すぐ後ろに立っているのだろうか。ぎゅっと目を瞑ったまま、しばらくそうしていると。ぽんと肩を叩かれ、またしても飛び上った。
「ぎょえ!」
「すまんすまん、驚かしちゃったかな」
振り返ると、そこには手科先生が立っていた。1年3組の担任で、数学専門の女性教師だ。目を見開いている俺を見、彼女は目を丸くした。
「そ、そこまで驚かれるとこちらとしても反応に困るな。君は一体ここで何をしていたんだ」
「あー・・・、いえ、あのう・・・・・・」
まさかケンケン様を退治に来ていました、なんて言えない。口ごもる俺に対し、彼女はくすっと笑った。
「まさか、ケンケン様の噂を確かめに来たんではあるまいね」
「・・・・・・」
そのまさかだった。噂を確かめるというよりは退治に来たのだが、そこら辺はどうでもいい。俺の反応を見て、彼女は図星だと思ったらしく、くすくす笑った。莫迦にされるのだろうな、と思ったが、彼女は俺の横を通り過ぎ、踊り場の隅にしゃがんだ。
「私な、ここの卒業生なんだよ」
「・・・はあ、先生が?」
「うん。もう20年前の話だがね。去年退職された遠藤先生は知っているね。当時の担任が遠藤先生だったんだよ。あの頃の遠藤先生は新任で、私達のクラスを初めて請け負ったんだ」
「へー・・・・・・。そうなんですか」
「うちのクラスにね、足の悪い子がいたんだよ」
その言葉にドキリとする。手科先生は俺のほうを向いてニヤリと笑い、手招きした。恐る恐る近くまでいくと、彼女の手元が見えた。名の知らない小さな白い花。それを彼女は手にしていた。そういえば、踊り場の隅には誰かが欠かさず花を活けていくのだ。どうやら、花を活けていたのは手科先生ということらしい。
「いやいや。去年までは遠藤先生が花を活けていたんだけれどね。去年、退職された時に言われたんだよ。自分の代わりに花を活けてほしいって」
「遠藤先生が?」
「そう。確かにここで1人の生徒が亡くなっている。さっきも話したが、足の悪い男の子だ。彼はいつも松葉杖をついていたな。その子が誤って階段から落ちたんだよ。で、首の骨を折って死んだ」
「じゃあ、遠藤先生はその子のために花を活け続けていたってことですか」
「そうだよ。亡くなった教え子のために、人知れず献花を続ける教師____いや、まるでそう言うと美談のように聞こえるがね。美談でも何でもないよ。ただの懺悔であり、罪滅ぼしだ」
手科先生は空き缶から枯れ掛けた数本の花を引き抜き、新しく持ってきた白い花を活ける。彼女が一体どんな表情をしていたのかは、ここからでは見えないが、口調は淡々としていた。
「ある日の放課後。クラスメート達8人で鬼ごっこをしたんだよ。その中に足の悪い男の子も加わっていた。そしてその子が鬼役をやらされた」
「鬼ごっこって・・・・・・おかしくないですか。その子、足が悪かったんですよね?鬼ごっこ、しかも鬼役なんて無理じゃないですか」
「そう。無理だよ____無理を承知で、クラスメート達は鬼ごっこに加わらせ、鬼役を押し付けた。その子から松葉杖を取り上げてね」
どきり。また心臓が高鳴った。その話が本当だとすれば____足の悪い生徒に鬼ごっこをやらせて、鬼役を押し付けた。そして松葉杖を取り上げた。これは「苛め」だ。それもとても陰湿な。
「松葉杖がなくとも、何とか壁に手をついて歩くことは出来た。だが、そもそも歩行もままならないその子に、鬼ごっこの鬼役なんて酷な話だ。だが、鬼役になって他の7人全員を捕まえるまで、松葉杖を返さないと言ったんだ。それでその子は必死になって追い掛けた。壁を伝いながら、おぼつかない足取りでな。でも、捕まるわけがない。皆、面白がっていたよ。わざと階段を下りたりしてな」
普段から松葉杖を利用している人間が、松葉杖なしで階段を下りることは、並大抵のことではないだろう。クラスメートの7人はそれを理解していた上でけしかけたのだ。弱き者を数人がかりでいたぶる。痛めつける。それはどこの学校でも問題視されていることだ。
だが。こうして実際に自分が通う中学校で起きた苛めの話を聞くと、やはりいい気分はしない。
手科先生は続ける。
「その子から松葉杖を奪い取った男子が階段を下りて踊り場で挑発した。悔しかったら階段を下りてみろ、とね。その子も返してほしい一心だったのか、はたまた意地だったのかは分からない。壁を伝いながら階段を下りようとして____足が縺れて、そのまま落下した。そのままぴくりとも動かない。怖くなった7人の生徒は、慌てて職員室に行き、担任の遠藤先生を呼んだんだ」
俺は何も言わずにじっと聞いていた。手科先生はちらと顔をこちらに向け、表情のない表情を浮かべ、「遠藤先生も流石に慌てて駆けつけたよ」と呟く。だが、ぴくりとも動かないその子が死んでいるのは誰の目にも明らかだった。首と、左足が変な方向へと折れ曲がっているし、呼び掛けにも応じない。口元に手を翳さなくとも、胸元に耳を押し当てなくとも、死んでいることは分かったそうだ。
「遠藤先生はそれを見て、7人の生徒に何て言ったと思う?」
手科先生の問い掛けに、俺は答えることが出来なかった。黙っていると、手科先生のほうから答えを教えてくれた。聞きたくなかったその答えを。
『ここで見たことは、僕達だけの秘密にしよう』
決して口外してはいけないときつく言われたらしい。7人の生徒達は、自分達がしでかしたことを目の当たりにして顔面蒼白だったようだが、遠藤先生に「これは事故死だ」と何度も言われているうちに、罪悪感が薄れてきた。鬼ごっこをしていたこと、足の悪い生徒に鬼役をやらせた上に松葉杖を取り上げたことは一切伏せるように言い、7人は帰らされた。
翌日、急遽全校集会が開かれた。校長先生によると、足の悪い生徒が階段を下りようとして松葉杖を落としてしまい、バランスを崩して階段から落ちたのだという。それ以上の説明はなかったし、遠藤先生も7人の生徒達も何も言わなかった。真実は闇に葬られ、2度と日の光を浴びることなく消え去ったのだ。
「・・・・・・どうして遠藤先生は、7人のことを公言しなかったんですか」
俺はようやくそれだけ言った。手科先生は立ち上がり、スカートの裾を直した。そして肩を竦め、笑う。ぎこちない笑い方だった。
「生徒のためというよりは、自身の保身のためだろうね。新任1年目で自分が受け持つクラスの生徒が1人亡くなったっていうだけでも大事だろう。確かに事故死には変わりないんだろうが、その原因を作ったのが7人の生徒達だっていうことは、火を見るよりも明らかだ。生徒の不始末は担任教師の不始末でもある。他の教員からも、亡くなった生徒の親からも、バッシングを受けるだろう。それを彼は恐れたんだ」
せめてもの懺悔だろうね、と。手科先生は呟いた。遠藤先生が古くからこの中学校にいるとは聞いていた。つまり、彼は20年もの間、献花を欠かさなかったのだ。彼は一体どういう想いで、花を活け続けていたのだろう。退職しても尚、その役を手科先生に任せるほどのこだわりようだ。
懺悔というよりは____脅迫観念に近いような気がした。あくまで個人的な感想だが。
「何で、遠藤先生は・・・・・・」
「ん?」
「退職した自分の代わりに、手科先生に花を活けるように頼んだんですか」
「言っただろう。私もこの中学校の卒業生だって」
それは。俺も答えを聞く前から何となく予想はしていた。もう1つ聞いてみたいことがあったが、流石に止めておいた。それは流石に____聞けなかった。
何てね、と。それまでの重苦しい雰囲気を払拭するかのように手科先生が笑った。
「ジョークだよジョーク。確かにこの階段で1人の生徒が落下したことは事実だよ。でも、足が悪いとか松葉杖をついていたわけじゃない。至って普通の子だ。遅刻して急いでいて、階段から落ちたんだよ。それに死んだわけじゃない。打撲と、軽い捻挫で済んだだけ。君があんまり真剣に話を聞くもんだから、少しからかってやろうと思ったのさ」
早く帰れよ、と。最後に先生らしい口調でそう言うと、手科先生は階段を上がって行った。
何故かケンケン跳びで。
○○○
あの後、通話状態のままポケットに入れていた携帯電話から、物凄い大音量で俺の名前を呼ぶ姉さんの声がしたので、慌てて電話に出た。うわ、もう20分近くも放置していた。
「何してんの。早く電話に出ろっつうの。心配したじゃん」
「ご、ごめんなさい・・・・・・」
とりあえず、助かったらしいということを今更ながらに確認した。もう松葉杖はどこにも見えないし、音もしない。夕暮れ色に染まる階段は、しんとしていた。俺は簡単に姉さんにこれまでの経緯を話し、姉さんにぐちぐちと文句を言われた。家に帰ってきたら、また長いお説教が始まるのだろうなあと思うと、肩がずんと重くなる。
「嗚呼、そういえば。禹歩をやったのは全然効果なかったみたいなんだけど」
話を逸らすつもりで、そう言ってみた。姉さんはお小言を言うのを一旦切り、「禹歩っていうのはさあ」と説明口調で話し始める。
「確かに陰陽道に通じているし、昔から魔物除けの効果があるとされてきた強力な技法だよ。ただ、もう1つ違う意味を持っていることと、欧ちゃんのやり方がまずかったね」
「?」
「禹歩っていうのは、古来の中国の王様___禹王が国土経営のために国中を歩き回った。無理に無理を重ねたために歩行が困難になったっていう逸話がある。つまり、禹歩っていうのは」
____足の不自由な人のことを意味する場合があるんだよ。
それを聞いて合点がいった。ショコラから禹歩をやろうと持ち掛けられた時、俺は片足で印を踏んだ。ケンケンをした。禹歩が足の不自由な人を意味すること、そして俺が片足で印を踏んだことが呼び水になり、引き寄せてしまったんではないだろうか。
階段から松葉杖がひとりでに下りてきた時。姉さんに両足で禹歩をしろと言われてその通りにした。今度は呼び水ではなく、普通に悪霊を祓う意味合いとして効能を発揮したのかもしれない。その通りだったのかもしれないし、全ては恐怖のあまりに見えた幻覚だったのかもしれない。だが、どちらにせよもう禹歩はこりごりだ。
○○○
北校舎の2階にある踊り場。そこには未だに花が活けられている。
作者まめのすけ。