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その日、俺がその女の存在に気が付いたのは、毎朝利用する駅のホームだった。
季節はすっかり春めいて、風に乗ってどこからか、桜の花びらがヒラヒラと線路の上を舞っていた。
ぼんやり電車待ちをしている最中、俺は目に映る景色にふと違和感を覚えて、その正体を探すとその先に彼女がいた。
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女は白いワンピース姿で、俺の向かいのホームでこちらに背を向け、ややうつむいて立っていた。
そのため、長いと思われる黒髪は首筋で二つに分かたれ、前半身に向かって流れている。
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その時は通勤時間帯で、ホームには大勢の人間が電車待ちをしていた。
彼女が例えばホームの奥にいれば、なにも感じなかっただろう。
しかし彼女はホームの手前、電車待ちの人々の列の先頭で、こちらに背を向けて立っていた。
そして、向かい合っている2番手以降の人間と話をしているような様子もない。
俺に背を向けるために、後ろを向いているような――、
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その光景に、俺は奇妙な違和感を感じたのだった。
まるで観賞中の名画に、蛾が一匹停まっているのを見つけた時のような。
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やがて向かいのホームに電車が入ってきた。
しばらくして電車が去ったあと、女の姿はそこになかった。
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それから何日か後。
仕事で外回りに出ていた俺は、横断歩道で信号待ちをしていた。
ふと手にした携帯から顔を上げると、向かいの歩道にあの女が立っていた。
白いワンピース姿で、やはりこちらに背を向けて。
ややうつむき加減で、髪を前半身に垂らしながら。
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俺はなぜか息を飲んだ。
そして向かいの歩道から目を離せなくなっていた。
女の横には小学生のグループがはしゃいでいたが、特に女を気にするでもない。
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信号が変わった。
小学生たちが弾かれたようにこちらに走ってくる。
女は動かない。
その場にじっと立ちつくしている。
俺もなぜか動けない。
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そのうちに信号が赤に変わった。
目の前の道路を何台もの車が通る。
ひときわ大きなトラックがやってきて、轟音を響かせながら俺の目の前を通過した。
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トラックが通りすぎた後、女は相変わらずそこにいた。
うつむいたまま、俺に背を向けたまま。
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なぜだろう。俺は道を変えることにして踵を返した。
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それからまた何日か後、仕事の合間にオフィスの給湯室でコーヒーを飲んでいると、後輩の男が話しかけてきた。
「先輩、こないだの花見の写真見てくださいよ。Tの奴が酔って馬鹿やったのバッチリ撮れてたんで」
そう言って、自分の携帯を俺に近づけてくる。
「どれどれ」
俺はそれを受け取れると画面を眺める。
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後輩の同期のTが、経理部のコニシキとあだ名される古株の女性にバックドロップを決めようとしているが、その重量ゆえにピクリとも動かず顔を赤くしている。されているコニシキ女史も実に微妙な表情をしている。馬鹿な写真だ。そしてその背後に、
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「ねー、馬鹿でしょー。――あれ?先輩どうしたんです、顔が白いっすよ?飲みすぎました?」
俺は後輩に携帯を返すと何も言わずにその場を去った。
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俺の見間違えでなければ、花見の写真の奥に小さく、あの女が立っていた。
後ろ向きで。
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その日、納期の厳しい仕事のせいで終電近くになって帰路についた。
最寄りの駅から自宅のアパートまでは20分。
晩飯もまだだった俺は途中のコンビニで食い物と酒を買って帰ることにした。
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適当に弁当とビールと菓子をカゴに入れ、レジに向かう。
俺の前に先客がいた。
それは白いワンピースを着た女で、ややうつむき加減で俺の前に立っていた。
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「2点で378円になります。……1,000円からでよろしいですかー?」
レジの店員がテーブルの上のヨーグルトとミネラルウォーターのペットボトルをビニール袋に詰めながら声をかける。
お釣りが細かくなるから端数出せよ、というプレッシャーを感じさせる間と声の感じだった。
しかし女は袋を受け取ると、後はじっと動かない。
「……622円のお返しになります。ありがとうございましたー」
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俺は思わずうつむき、その場から動けなくなった。
女の白い靴が俺の視界からゆっくりと外れていく。
「次のお客様ー」
店員の苛立った声に、顔を上げる。そして慌ててカゴをレジのテーブルに載せた。
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「580円が1点、180円が1点……」
店員のいい加減な読み上げを聞きながら、俺は視線を店の入り口に向ける。
入退店を告げる甲高い電子音を鳴らしながら、女が店の外に消えるところだった。
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……
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……
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春の宵は生暖かく、空の月はぼんやりとかすんで見えた。
俺はトボトボと家路を辿り、アパートの自分の部屋の前まで帰りついた。
鍵を開け、真っ暗な部屋の中、手探りで壁の照明スイッチを点ける。
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明るくなった部屋の、窓際の隅に白いワンピースの女が立っていた。
後ろ向きで。うつむいたまま、髪は前半身に垂らしたまま。
手には先ほどのコンビニの買い物袋を握っている。
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俺は思わず大声を上げた。
そして、慌てて部屋の外に出ると鍵をかけて近所の呑み屋に走った。
閉じ込めたいものが部屋の中にいるのに、外から鍵をかけても意味がないということに、その時の俺は気が付きもしなかった。
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俺はその呑み屋で浴びるほど酒を呑んだ。
そして、店員の「もう閉めるよ」という声に意識を取り戻すまで、カウンターで突っ伏して寝ていた。
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俺は千鳥足で家路についた。
視界がグラグラと揺れる。
足元を見ると、俺の足は無意識に前に進んでいく。
空を見上げると、月はちょうど頭の上で、薄い雲をまといながら煌々と照っていた。
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アパートの自分の部屋の前まで来ると、俺は鍵を開け、服を脱ぎ散らかしながら、電気もつけずにベッドに倒れ伏した。
眠りはすぐに訪れた。
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夜中、俺は激しいのどの渇きを覚えて目を覚ました。
右手がビリビリとしびれている。どうやら自分の右手を枕代わりにして横向きに寝ていたようだ。
左手で辺りを探ると、枕元に冷たい感触があった。どうやらミネラルウォーターのペットボトルのようだ。
俺は横になったまま、その中身をゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。酔い覚めの水ほど旨いものはない。
ふう、と息をついてから、俺は寝がえり打った。
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俺の目の前に、見慣れた背中があった。
あの女が俺の横で、そしてどうやら裸で寝ていた。
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俺の心臓がひときわ大きく鼓動を打った。
俺は目の前の光景から目を離せなかった。
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女の細い首筋から肩までのラインが、カーテンの隙間から差し込む月光を受けて青白く光り、背後の闇を滑らかに切り取っている。
薄暗いカンバスのような背中に、肩甲骨の膨らみが、ひっそりとより深い陰影を落としていた。
それは目の前にあるのに、ずっと遠くの光景のような気がした。
手が届かないほど遠くのものを、望遠鏡ごしに覗いているかのような。
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その時、俺は思った。
この女は月のようなものなのかもしれない。
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中学の頃の理科の時間に、教師が言っていた。
我々が見る月は、いつも同じ面を向けている、と。
難しいことは覚えていないが、月は自転と公転が地球と同期しているために、地球から見ると常に一定の、「月の表」と呼ばれる面が見えるのだそうだ。
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俺とこの女にとって、今見えているこの背中こそが、「月の表」なのだろう。
俺がどんなに位置を変えようが、彼女もきっと、それに合わせて向きを変える。
俺がこの女の正面を見ることは、おそらくこの先ずっとない。
俺から見えるのは、常に背中だけなのだ。
この艶やかな背中だけ。
そう思うと、俺は無性にいとおしくなった。
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俺は右手を女の背中に伸ばした。
そして、五本の指でガリリと深く爪を立てる。
後には五本の疵(きず)が残った。
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――綺麗だ。
俺は暗闇の中で一人、そう思った。
作者綿貫一
こんな噺を。