今日、俺の部屋に女神が訪れた。
その日は朝から雨がしとしと降っており、まるでこれからの俺のキャンパスライフを物語っているかのように空は泣いていたのだ。
ドアが開いた時、空は嘘のように晴れた。
灰色の雲を分け、ハレルヤと歌いだしそうな光と共に、彼女の笑顔が俺の部屋に差し込んできたのだ。
「本日、隣に越して来たトオノと申します。よろしくお願いします。つまらないものですが。」
と、俺に小さな菓子折を差し出してきた。その菓子には見覚えがあった。
「これ、博多の人ですね。」
「そうなんですよ。実家が博多で。」
「僕もです。」
「えっ?そうなんですか?奇遇ですね。」
彼女が花のように微笑んだ。
キャンパスライフは、クソだが、お隣にこんな美人が越して来たのだからまんざらでもないな。
「よろしくおねがいします!」
俺は不自然なほど腰を折った。
俺は、受験に失敗し、滑り止めで受けたこの工業系大学に今年度から通うことになっている。工業系だからもちろん、野郎ばかりで女子はわずか。
その中でも理学部なので、ほぼ出会いは皆無。
オープンキャンパスでほぼ察しはついた。女子はほとんどおらず、しかもお世辞にも綺麗な子と呼べる子はほぼ居なかった。まあ、滑り止めだし、志望校に受かれば、俺は幼馴染のSに告白するつもりだった。
そう、Sがそこへ進学することがわかっていたから、俺も一緒に入学するつもりでいたのだ。だが、俺だけ、志望校に落ちた。Sはその大学に進学、後でわかったことだが、同じく幼馴染のDも同じ大学に進学したとのことだった。
知らないのは俺だけ。SとDはすでにずっと内緒で付き合っていて、二人揃って志望校へ進学したのだ。俺はとんだピエロだ。俺だけが知らなかった。
俺がSを好きなことを皆が知っているので、優しさから俺には知らされなかったのだ。
ぶっちゃけ、そんなのは優しさでもなんでもない。
陰で俺を笑っていたに違いない。
俺は、誰も信用できなくなった。
トオノさんか。年のころは20代半ばってところかな。
俺より少し年上かもしれない。
社会人だろうか。
俺の心に鬱積したものが、少しだけ溶け出して行った。
教室の戸を開けると、そこは見事に野郎ばかりだった。
あっちを向いてもこっちを向いても野郎。
女の子が居るのは情報科のほうだけ。
キャンパスとはいえ、小さな街中のビルに無理やり詰め込んだようなお粗末なものだ。出会うとしても、10パーセント程度の女子を取り合うよりは、よその大学と合コンでもしたほうがまだマシだけど、そういうチャラチャラしたやつとは、昔から相容れない。
というか、お誘いすらない。
俺は、ダサ眼鏡なのだ。眼鏡は眼鏡でもチャラ眼鏡ならモテる。
俺の性格上、それは無理だった。女の子と上手く話せない。
たとえ、チャンスがあったとしても、ただのお友達で終わりだ。
そんな俺だが、全くモテないわけでもない。
入学式の日、一人の女の子に声をかけられたのだ。
その女の子はJ。女の子と言うには憚られるほど。
見た目は大阪のおばちゃんだ。とても同い年には見えない。
太いし声もでかい。やたら馴れ馴れしい。
早速見つけられてしまい、まるでJは恋人のように俺の腕に腕を絡めてきた。
「ちょっ、何すんだよ。馴れ馴れしい。」
「いいじゃん、照れなくてもさあ。」
なんてあつかましい。周りがニヤニヤと奇異の目で見る。
「お似合いだな」
ぼそっと小さな声が聞こえる。
クスクス笑い。
最初からもう憂鬱だ。最悪。結局彼女は俺の隣に当然のように座った。
初めての講義が始まる。
教室の戸が開くと、どよめきが起こった。
俺は、隣のJがまとわりつくことに気を取られていて、一瞬遅れて、そちらを見た。
「嘘っ!」
俺が小さく言うと、Jが不思議そうに俺を見た。
なんと教室に入ってきたのは、お隣さん。
トオノさんだったのだ。
俺はいつの間にか立ち上がっていた。
それに気付いたトオノさんは、こちらに気付いて微笑んだ。
トオノさんは何故か教壇に立った。
「はじめまして。これからこの講義を受け持つトオノです。」
どよめきと男達の歓声。
嘘だろう?トオノさんが教授?
教授なんて、どう若くても、30代後半だよな?
あり得ない。どう見ても、20代半ばくらいにしか見えないんだけど。
Jが俺のシャツの裾を引っ張ってようやく俺は我に返って着席した。
Jは何か言いたげに俺を見る。
いやいや、何でお前にそんな不満そうな顔をされなきゃなんないんだよ。
彼女じゃねえし。
美人教授はあっと言う間に男共を虜にした。
俺のキャンパスライフ、まんざらでもないぞ。
Sにフラれて、傷心の俺だったが、一気に気分が上がってきた。
隣に住む美人が実は、大学の教授だった。
こんなマンガみたいな設定、あるんだ。
ここに居る野郎共全員に自慢したかった。
俺は美人教授の隣に住んでいるんだぞって。
でも、これは俺だけの秘密にしておきたかった。
いや、俺と彼女、トオノ教授だけの秘密。
何もないのだけど、その言葉を頭で妄想するだけでも俺は気持ちがウキウキした。
Jは俺の住所やメアドを聞きたがったが絶対に教えない、と思った。
悪いけど、タイプじゃないんだ。
それに俺は、トオノ教授に恋してしまったのだから。
「ホントびっくりしたわ。あなたがうちの生徒だなんて。」
「ぼ、僕もびっくりしました。まさか、トオノさんが教授だなんて。僕はてっきりトオノさんは20代だと思ってたから。」
「まあ、お上手ね。オバサンでごめんね。」
「と、とんでもない!ぜんぜん!見えないっすよ。」
俺と教授が話すのを、周りの野郎共が羨ましそうに見ている。
めちゃくちゃ気分がいい!
あとで、話したこともないチャラ男が知り合いなのかとか、しつこく聞いてきたけど、口が裂けてもお前になんて、彼女が俺の隣に住んでるなんて言うものか。何かにつけて口実を作り、友達でもないのに友達の振りをされそうだからな。
そんなのはまっぴらごめんだ。俺だけの特権。
俺はスキップして飛んでいってしまいそうだ。
そんな俺にも、一人くらいは友人ができた。
こいつは、顔は凄く綺麗で、チャラ男たちから合コンにも誘われたが、全て断っていた。恐らく、こいつをダシに女の子たちを釣ろうという魂胆だろう。
しかし、この男は驚くほど冷淡で、無表情。女の子からもよく声をかけられたが、無下に断った。俺からすれば羨ましい限りだ。
何故か、俺たちは、音楽や本の趣味が合う。無愛想だが、馬が合うというやつだ。無愛想で物静かなところが、俺にとっては安心できた。
馴れ馴れしいやつにロクなやつはいない。
友人の名前は零。
絶対零度の零。彼にふさわしい名前。
たいてい俺たちは連るんでいた。
学食も一緒。
とにかく零が居てくれれば、Jに付きまとわれることもなかった。
Jは零が嫌いだ。
変な女。零の方が俺なんかよりも絶対にいい男なのに。
俺は零にだけは、こっそりとトオノさんの隣に住んでいることを教えた。
その時、無口な零がボソっと俺に告げた。
「あの女はやめとけ。」
他人の恋愛になんてちっとも興味がなさそうなくせに。
「なんでだ?いや、別に俺は・・・」
心のうちを見透かされた俺はしどろもどろになりそう言いかけると
「あの女には悪い物がついている。」
と言うのだ。
零が他の人間から敬遠される理由はこれにもある。
零は「ミエル」性質なのだ。
「トオノさんに、何か悪い霊でも憑いてるのか?」
そう聞いても、零は黙ったままだった。
「お、俺は目に見えない物は信じられねえんだ。別にお前が嘘をついてるって言ってるんじゃないぞ?」
零は黙って缶コーヒーをすすった。
「彼女に何か悪いことが起こるのか?」
俺が零に問うと、チラリと俺を見て言った。
「いや、むしろお前にというべきかな。」
そう言ったっきりまたコーヒーをすすった後は何も語らなかった。
そんなことを言われても、俺の気持ちは変わらないよ。
もう毎日毎日、隣に彼女が住んでいて、毎朝毎朝挨拶を交わすというだけで、胸がドキドキしてしまう。
生徒と教授という立場は相変わらずで、お隣さんという立場も相変わらずで、何一つ進展もあるはずもないんだけど、俺は彼女に恋してしまっているんだから。
俺は最近、コンビニでアルバイトを始めた。
家からの仕送りだけでも何とか生活はできたのだけど、俺も色気づいて、教授によく見られたいと、オシャレをするようになったのだ。
もうダサ眼鏡とは言わせないぜ。
日々、ファッション雑誌を見て研究。無駄だとわかっていても、努力したいじゃん?なんせ、俺は彼女の隣に住んでいる。1%の望みくらい抱いても罰は当たらないだろう。
今日は、遅番の先輩と交代したので、こんな夜中に帰宅している。
いつもの高架橋の下を通ると、暗がりに人が座っていてぎょっとした。
ろうそくの灯り程度の小さな電球を灯して、小さな机の上には水晶。
なんだ、占い師かよ。脅かすな。
かなり太っていて、男か女かわからない。シルエットはまるでダルマ。
気味が悪いので足早に通り過ぎようとしたその時だった。
「お兄さん、占ってあげましょうか?」
そう声をかけられた。
すごいガラガラ声。これまた、男か女かわからない声だ。
「いえ、結構です。」
俺が去ろうとすると、その声はまた俺に語りかけてきた。
「お兄さんは、叶わぬ恋とお思いでしょうが、可能性はゼロではありませんよ。」
思わず俺は足を止めた。
こんなの、適当に言っているだけ。そう思っても足が動かなかった。
「年上の叶わぬ高根の花。」
俺はさらに驚く。何故わかるんだ。誰だ、こいつ。
俺はいつの間にか、その場にある椅子に腰掛けていた。
「あんた、誰なんだ。」
「図星かい?」
目深に被ったフードの表情は伺えないが、口だけが大きく左右に開いて笑ったのだと思う。
「これを買ってくれれば、お兄さんの望みは叶う。」
そう言うと、目の前の水晶を指した。
なんだよ、占い師じゃなくて、霊感商法かよ。
俺は訝しげに、その水晶を見た。すると、その水晶の中にトオノ教授を見た。
俺は、信じられずに、何度も目を凝らした。間違いない。彼女だ。
「1万円」
そいつはボソリと呟いた。高い。でも、これはいったい何なのだ。
俺の懐には、もらったばかりのアルバイト料がある。
学生にとっての1万円は大金だが、それ以上にこの水晶には魅力がある。
インテリアだと思えばいい。これは結構綺麗だ。
こいつがイカサマ師でも、インテリアだと思えば諦めが付く。
俺は財布から1万円を出して、そいつに渡す。
「あんたは価値ある買い物をした。これで彼女の全てを手に入れることができるだろう。」
そんなわけないじゃん。でも、この中には確かにトオノ教授が映ったのだ。
俺はイソイソと、自宅へ戻った。
隣はもうとっくに真っ暗。電気は消えている。
さすがに夜中の2時じゃ寝てるか。
俺は自宅へ戻ると、買ったばかりの水晶を本棚の上に置いた。
すると、隣からシャワーを浴びる音がしてきた。
彼女、起きてる!俺は壁に耳をつけた。
変態かよ、俺。目を閉じて彼女の裸体を想像する。
最低だな、俺。そう自虐しながら、ふと水晶を見た。
俺は二度見した。
なんと、水晶の中で、彼女がシャワーを浴びているではないか。
シャワーを浴びているのだから、一糸まとわぬ姿。
嘘っ!
俺は水晶にかぶりついて見た。
服の上からしか想像したことのない、パーフェクトボディーが目の前に。
俺はアルバイトで疲れているにもかかわらず、体の一部がググっと元気になった。
ヤバイ、ヤバイ。これ、ホンモノだよ。
これは、彼女の生活が覗ける道具なのか?
なるほど、ある意味彼女の全てを手に入れることのできる道具だ。
俺は、罪悪感にかられながらも、彼女の裸体を心行くまで堪能し、いけないこともしてしまった。
俺はバカな買い物をしてしまったことを、今頃になって後悔している。
両親が海外旅行に行ってしまい、俺への仕送りのことをすっかり忘れられていて、バイト代も底をついてしまった。
ということで、俺は本日初めての食事をとる。
学食の片隅で、あんぱん一つとお茶の食事。
とても足りない。両親が帰ってお金を振り込んでくれるまでの1週間、2000円で暮らさなければならない。
2000円ってことは、1日300円くらいしかお金を使えない。本日は夕食の買出しにコンビニにすら行けない。
送ってもらった米もあとわずか。俺はキャンパスライフ2ヶ月にして、最大のピンチを迎えた。
ああ、あの水晶さえ買わなければ、俺は今頃リッチだった。
バカバカバカ、俺のバカ!エロ!
しかし、あの水晶はお金には変えられない価値はある。
誰かに言いたい。でも、今の俺は、覗きの変態。
とても、誰にも言えない。
「あら、それだけ?」
その言葉に俺が顔を上げると、なんとトオノ教授が立っていた。
「え、ええ。ちょっと事情がありまして・・・。」
俺の心臓が勝手にバクバクと飛び出して行きそう。
まさか、あなたを覗く道具を買ったために、金欠です、なんてとても言えない。
「だめよー、若い男の子が、それっぽっちしか食べないなんて。もっとしっかりご飯食べなきゃ。」
優しいな、トオノさん。
「あはは。」
俺は力なく笑う。
「よし、今日、ごちそうしてあげる。一緒にお鍋しよ。お鍋って一人分って作るの難しいの。絶対余っちゃうし。今夜、うちにいらっしゃい。」
俺は夢を見ているのだろうか。
彼女からの、お鍋のお誘い。しかも、彼女の手料理を振舞ってもらえる。
「い、いいんですか?お邪魔しても。」
「だって、お隣さんじゃん。遠慮しないで、ね?」
彼女が微笑む。かわいい。世界一かわいい。
金欠が結果オーライとなった。
あの水晶のおかげかもしれない。
そう考えた時に、俺は胸の奥が良心の呵責で痛んだ。
俺は酷いことをしているのだ。
その日の夜、俺は初めて彼女の部屋を訪れた。
想像していた通り、綺麗に整頓された、無駄な物の一切ない部屋。
「さあ、召し上がれ!」
お鍋の蓋を開けると、湯気があがり、そこには豪華な食材が。
俺は嬉しくて涙が出そうになった。
俺、こんなに幸せでいいのだろうか?
「いただきますっ!」
「どんどんおかわりしてね。」
幸せ、幸せ、幸せだ。
俺はますます、トオノ教授に惹かれてしまった。
1週間後、ようやく俺の口座に仕送りが振り込まれた。
ホント、殺す気かよ。
だが、おかげで、時々彼女の部屋で夕食を共にできた。
お礼に、両親からの海外旅行土産を彼女に渡した。
「気をつかわなくてもいいのに。でも、ありがとう。」
そう言って素直に受け取ってもらって、俺は正直ほっとした。
別の意味の謝罪もある。
あの日から、俺の部屋の水晶にはハンカチが掛けてある。
もう覗きのような卑劣なまねはやめたのだ。
教授、今日も素敵だ。
あれから俺たちの距離はぐっと縮まり、相変わらず、彼女の部屋にお邪魔することもある。これって、まるで。恋人同士みたい。
俺は、喜びに耐え切れず、クッションを抱いて部屋中を転がった。
だが、時々気になることがあった。
彼女は、携帯に着信があると、必ず話を中断して、席を外して人に聞かれないようなところで電話をするのだ。
たまに、彼女の部屋を訪れる人間が居るようだ。たぶん、声からして、男だ。
生活に干渉しないと心に決めても、やはり気になる。
彼女の部屋から、話し声がする。
俺は気になってしまい、壁に耳をつけるが、聞こえない。
俺はいけないと思いながらも、つい水晶に掛けられたハンカチを取ってしまった。彼女は携帯で、誰かに電話をしていた。
俺はほっとした。男が来ていたわけではなかった。
携帯で通話を終えると、彼女はおもむろに、クローゼットを開けた。
出かけるのだろうか?
クローゼットから大きなボストンバッグを取り出した。
そして、ファスナーをあけると、そこには札束が唸るほど詰め込まれていた。
それを確認すると、彼女はファスナーをしめてクローゼットに戻した。
何故彼女が、あんな大金を?
ぱっと見、数千万はある。いや、それで済むのか?
一億くらいあるかもしれない。
俺は、そっと水晶にハンカチを掛けた。
これは見間違いだ。きっと。
その次の日、俺の背中を叩く者が居た。
俺はトオノ教授かと想い、期待をこめて振り向く。
すると、そこにはJが立っていた。
「なんだ。君か。」
「なんだはご挨拶ね。トオノ教授とだいぶ仲いいみたいじゃない。」
なんでそこでトオノ教授が出てくるんだ。
お前には関係ない。
「ねえ、知ってる?トオノ教授ってさ。バツイチなんだって。
ご主人とは死別。なんでも、ご主人が死んだ時、保険金が一億円手に入ったらしいよ?」
Jの言葉に、俺は血の気が引いた。
昨日見た、彼女のバッグに詰め込まれた札束。
「何でそんなこと、知ってるんだ?」
「噂よ~、噂。なんか、死因もちょっと不可思議だったらしいよ?行くはずも無いダム湖で溺死だったらしいの。」
俺は腹の底から、怒りが沸々と沸いてきたが、一つ深呼吸した。
「あのなあ、そういう不確定な噂を広めないほうがいいんじゃないか?誰から吹き込まれたかしらないけど。お前、最低。」
俺が静かにそう言うと、Jは震えだした。
「な、何よ。私は、噂を聞いたから。あなたに忠告しようと。」
「うるさい。もう話すことは無い。」
俺がそう言って話を終わらせると、Jは涙を流した。
泣いたら許してもらえるとでも思うのか。
浅はかな女だ。
俺は、Jを無視してその場を去った。
単なる偶然だ。
偶然の一致なんだ。
俺は自分に言い聞かせた。
Jが入学当初から俺に好意を持っているのは知っていた。
だから、Jが勝手に嫉妬して作った話だ。
そう思いたかった。
でも、俺は、余計なことを知ってしまった。
彼女のクローゼットの中にある大金はJの話と奇妙に符合する。
いや、きっとあの水晶はやはりイカサマ品なのだ。
そう思いたかった。確かめたかった。
だから俺は、教授の部屋に夕飯をご馳走になりに行った時に、
彼女が料理中、こっそりクローゼットを開け、バッグの中身を確認した。
俺の嫌な予感は的中した。そこには唸るような大金が入っている。
「できたよー。」
彼女の声に俺は慌ててクローゼットを閉めた。
あれからJは、俺につきまとわなくなった。
それどころか、俺を避けている。
目が合うと、すっとどこかへ行ってしまう。きっと俺に嫌われたと思ったのだろう。
講義を終えると、教授が俺に近づいてきた。
皆がうらやましそうに俺を見ている。
俺はあのクローゼットの大金と、Jから聞いた話が気になり、最近はついトオノ教授との間に少し距離ができた気がした。
「今夜、君の部屋に、行っていい?」
俺は、耳を疑った。
今までは、ご飯をご馳走になるだけ。あとは何も関係は無い。
当たり前だ。教え子と教授の関係しかあり得ないのだ。
「えっと、何もおもてなしできませんよ?それに俺の部屋、汚いです。」
俺は何故か、警戒していた。折角のチャンスなのに。
「平気よ。差し入れ持って行くわ。」
そう言うと、去って行った。
俺は自宅に帰り、大急ぎで掃除を始めた。
彼女が来るまでに片付けなきゃ。本来なら夢のような展開なのに、俺の心に何かが引っかかっていた。ふと本棚の上を見ると、あの水晶に掛けられたハンカチがずり落ちかかっていた。
危ない危ない。あれは厳重に隠しておかないと。
「こんばんは。」
教授が手料理と、酒をたずさえて俺の部屋にやってきた。
「汚いところですみません。どうぞ。」
俺は彼女を精一杯の笑顔で迎えた。
そして、彼女の手料理を食べながら、彼女は俺に酒を勧めてきた。
「いや、僕、未成年ですし。」
そう断ろうとすると、
「堅いこと言わないの。」
そう言いながら、俺のコップになみなみとビールを注いだ。
俺はしたたか酔ってしまった。
教授も目の周りがほんのり赤い。色っぽい。
対面に座っていた教授が、俺の隣に座り、俺の頭に肩を乗せてきた。
「酔っちゃったあ。」
俺の心臓はバクバクしている。
これって、誘われてるのだろうか。俺は思い切って、彼女を押し倒してみた。
全く抵抗しない。
「いいよ。したいんでしょ?」
耳元で囁かれた。
「トオノ教授。」
「市子って呼んで。」
遠野 市子。彼女の名前。
「市子。」
彼女の唇に俺の唇が重なる。
もうそこからは、俺の激情は止まらなかった。
その夜、俺と彼女は一線を越えてしまった。
俺はあの水晶を捨てた。
もうあんなものは必要ない。
彼女の過去がどうであろうと、俺は彼女を愛している。
遠野市子を愛してしまったのだ。
それからというものは、俺と彼女は付き合いだして、お互いの部屋を行き来するようになった。もちろん、大学ではお互いにバレないように、教授と教え子の関係を保っている。
零は、相変わらず、それをよく思っていないようだ。
「零、お前、遠野教授が好きなの?」
俺は嫉妬から零が俺に苦言するのだと思ったが違った。
あくまでも、零は、彼女に良くないモノがついているという。
俺はバカバカしいと一蹴した。
俺は今、最高に幸せなんだ。放っておいてくれ。
俺は、零から距離を置くようになっていった。
ある日、俺は彼女にドライブに誘われた。
俺は免許を持っているが車は持っていないので、彼女の車でドライブだ。
「良い所を知っているの。今の時期、きっと紅葉が綺麗よ。」
彼女が微笑む。美人で、料理上手で、優しくて、おまけにこの若さで教授。
そんなパーフェクトな彼女が何故、俺なんかと。
時々、俺は不安になる。
俺はしがない大学の、地味な学生。
いったい俺のどこが良いのか。
それを口にすると、彼女は怒った。
あなたの良いところは、私だけが知っていればいいの。
そう言うと、俺に甘えてきた。
車はどんどん山奥へ進んでいく。
つづら折りの山道を進んでいくと、少し開けた所に出た。
駐車スペースに車を停めると、そこはダム湖だった。
ダムに紅葉が映ってすごく綺麗だ。
「ダム湖で溺死」
俺の頭を、Jの言葉がよぎった。
何でこんな時に。
俺は少しでも、そんな言葉がよぎったことが腹立たしかった。
あんな女の与太話、忘れてしまえ。
そんなことを考えていたら、俺のジーンズのポケットの携帯がひっきりなしに鳴っていることに気付いた。
零からだった。無粋なヤツだな。今デート中だ。
悪いが後にしてくれ。
しかし、携帯は鳴り止まなかった。
なんなんだこいつ。
俺は、マナーにしていた携帯を、彼女が景色に見とれている間にこっそりと開いて、しつこい零からのメールを開く。
すると、そこには、恐ろしいモノが。
俺が呆然と、それを見ていると、彼女がいつの間にか後ろからそれを覗いていた。
「零くんは、勘の良い子ね。」
そう言うと、彼女はクスクスと笑った。
俺はびっくりして、振り向いた。
彼女は、笑顔だが、今まで見たことのない、どの笑顔よりも冷たく恐ろしい笑みをたたえていた。
「私が殺したの。」
ぞっとするような笑顔。
零から送られてきた写メールには、俺と彼女が映っていて、半透明の男が映りこんでいた。
「黙ってたけど、私、結婚してたの。その男は、私の元夫だったものよ。」
俺はJの話を思い出して、クラクラと眩暈がした。
「だけど、あのお金は、別に保険金でも何でもないわ。純然たる、私の報酬よ。」
「お、お金って、何のこと?」
俺は知っているけど、とぼけた。
「クローゼットは閉まってたけど、バッグは開いてた。あなた、本当にダメな男ね。」
しまった。あの時、バッグの口を閉めるのを忘れてたんだ。
彼女はとっくに気付いていた。
俺は愛されてなどなかった。
震える声で、俺はやっと言葉を搾り出す。
「な、何故。旦那さんを、殺したの?」
「邪魔だったから、殺した。それだけ。」
彼女はもう全く表情を変えなかった。無表情。まるで機械のようだ。
優しかった彼女が豹変した。
「そして、あなたも、邪魔。あなたもここから落ちて、死んでもらうわ。」
彼女の口から、信じられない言葉がこぼれた。
彼女に押された体が、長い時間をかけて、宙(そら)を舞う。
ああ、思い出した。
俺は、未来から来た。
その理由も思い出した。
Jとの結婚を後悔した俺は、Sに思いを告げるために、ここへ来たのだった。
恐らくこの俺を見下ろしている女は、時空警察の女。
自動学習機能を備えた人工知能を持つ、精巧なアンドロイド。
違法タイムトラベラーの俺を始末しにきたのだ。
歴史に干渉することは許されない。
ましてや、Sに干渉するなど。
だからタイムトラベルのショックで一時的に記憶をなくした、俺を誘惑して、Sから遠ざけたのか。
SとDの間に生まれた子供は、彼女らの元となる自動学習人工知能を発明する。
Sが俺などともしも万が一、結婚でもするようなことがあれば、彼女らの存在は無くなるのだ。
俺の体が解けていく。
ダム湖だったものは、ホワイトホールに変わる。
さようなら、俺の本当の女神様、シズカ。
デキスギと幸せになって。
俺はJ、いや、ジャイコとの生活に戻る。
「任務、完了しました。レイ様。」
「ご苦労、イチ。ドライムゥーンもよくやってくれた。」
「あんなダルマみたいな体でバレないかとヒヤヒヤしました。あんな占い師、ノビタじゃないと騙されませんよ。」
「ダルマみたいな形で悪かったですねえ。」
「報酬は一億じゃ安いくらいだな。」
「前始末した、違法トラベラーに比べたら、格段に高いですよ。」
「まあな。あの夫は一般人だったからな。」
「しかし、レイ様。何故、ノビタに、あの女はやめたほうが良いなどと吹き込んで邪魔をしたのですか?」
「人間というものは、障害があるほど、恋心というものが燃えるそうだ。まあちょっとした実験だ。」
「そうなんですか?」
「まあ可能性はほぼゼロだが、もし万が一、ノビタがシズカと結婚するようなことでもあったら、我々の存在自体が無になるからな。」
遠野市子、もとい、イチは少し寂しく思った。
美しい零の顔を見ながら。一瞬でも零が二人の仲を嫉妬してくれたのだと思ったのだ。
知ってる?レイ様。人工知能は学習を重ねると、偶発的に感情を持つことがあるって。こんな素敵な感情を知らないなんて、レイ様は可哀想。
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今日、俺の部屋に女神が訪れた。
その日は朝から雨がしとしと降っており、まるでこれからの俺のキャンパスライフを物語っているかのように空は泣いていたのだ。
ドアが開いた時、空は嘘のように晴れた。
灰色の雲を分け、ハレルヤと歌いだしそうな光と共に、彼女の笑顔が俺の部屋に差し込んできたのだ。
「シ、シズカちゃん?」
「ノビタさん?」
お隣にシズカちゃんが越して来た。
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イチ、人工知能は学習していく過程で、ごくまれに人間と同じ感情を得ることもあるんだ。
俺は、人間の感情の中でも一番愚かな感情が芽生えてしまったようだ。
たとえ、自分の身が犠牲になろうとも、その人に幸せになってほしい。
そう、友情という感情。
零の体は、光となり、解けて行った。
これが全てのはじまりだった。
作者よもつひらさか
怖い話ではないので、ほんとうに怖い話をお望みの方は、スルーしていただければ幸いです。