私は、幼いころ、両効きでした。
右と同じくらい左手も使え、
絵を描くときは、どちらにもクレヨンや色鉛筆を持ち、
どちらの手も同時に動かし、全く別のものを書いたり、大きく1つの絵を描いたりしていました。
作文なども、右手で書くのに疲れたら、左手に鉛筆を持ち替え、続きを違和感なく書き続ける…、
友達は皆、
「良いな良いな」と羨ましがって、私のその姿を良く見に来ていました。
しかし、私は今、右手でしか、字を書かなくなり、お箸を持つのも右手です。
生活のあらゆる事を、右手でこなし、左手は補佐のような動きにしか使っていないと思います。
私の両利きは、小学四年生の頃、
ばあちゃんによって矯正されました。
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私が4年生になった春、妹が1年生で入学してきました。
私は、それから毎日、いたずらの過ぎる妹を連れ、
小学校に登校する事になりました。
毎日毎日、玄関を出る前にまず何かイタズラをやらかし、
母や父に怒られながら、家を出ます。
集合場所に行くまでに、あちらこちらで寄り道をし、
中々、前に進まない妹にイライラしながら、
何とか妹の手を、無理やり引っ張るような形で集合場所に連れて行くと、
今度は、来るのが遅いと上級生の女の子に怒られます。
ごめんなさいと謝るのはいつも私で、妹は、
「あっかんべー」と舌を出し、自分の同級生たちの輪に入って話を始め、その姿を見た上級生達が怒るのを、
私はまた「ごめんなさい。」と謝り…、
最後は上級生の女の子達も、
「にゃにゃみが悪いわけじゃないんだけどね。」と、
どうしょうもないね、といった感じになり、
何とか収まるのですが、
毎日がその繰り返しなので、
だんだん、私が
「ごめんなさい。」と言っても、
中々、許してもらえないようになっていました。
とはいえ、妹には全く、謝る素振りすら見ることはできず、
次第に上級生の女の子達は、私に
「あんたの妹に謝らせなさいよ!」と怒るようになってきました。
私は何度か、妹に、きちんと謝るように言いましたが、
聞くわけもなく、
結局、また、私が
「ごめんなさい。」と、謝る…、
そんな毎日でした。
同級生の友達は、
「気にすることないよ。」と言ってくれたし、
妹を良く知る友達などは、
「外に出ると、とても止められない。」と言ってくれたし、
私もあまり気にせずに居てたはずなのですが、
上半身の左半分に帯状疱疹ができ、
ランドセルのベルトで疱疹が潰れてしまうので、
しばらく手提げカバンで通学しなければならなくなりました。
お医者さんには、
「明らかなストレス性のものだ。」と言われ、
当時、今ほどストレスという言葉は聞き慣れたものでなく、認識としては、
ストレスとは、大人の、とても忙しく、責任の重いお仕事についている人が抱えるもの、といった感じで、
子供がストレスだなんて…、
先生も大げさな…、
私も両親も、そう感じていました。
私が、ストレス性の帯状疱疹…と診断され、手提げカバンで通学するようになったある日、
上級生の男の子が、
「何でお前、手提げで来てるの?」と聞いてきました。
私の帯状疱疹は、腕や足などには出なかった為、
怪我をしてるわけでもないのに、何でランドセルではないのか、その男の子は少し怒っているようでした。
女の子達は皆、なぜか知っていて、
「にゃにゃみちゃん、お腹や背中に、ブツブツできて、水ぶくれだから潰れちゃうんだって。」と、
言ってくれたのですが、
男の子は、
「本当かよ?」と
疑っているようでした。
本当だよ?
そう言って、母が連絡帳に書いてくれた、帯状疱疹の事を、その男の子に見せようと、私がしゃがんで、手提げカバンの中をゴソゴソしたその時、
ガバッと、私の服が腰元から捲り上げられ、
「見て?お姉ちゃん、ブツブツなんだよ?
これ、ぜぇんぶブツブツ!
水ぶくれだよ?
凄いでしょ?」
妹が、私の服を捲り上げ、男の子に見えるように、首元までグッと、服を引っ張り上げていました。
「うわッ!」
男の子は驚きの声をあげ、周りにいた子も、
「うわッ!」「スゲッ!えぐッ!」「こわいッ!」と、
様々に声をあげました。
私の友人が慌てて走ってきて、妹の手を掴み、
「そんな事、しちゃダメッ!」と言いながら、
私の服を直してくれました。
「うつらないの?」
そう聞く男の子に、
私の友人は、
「うつったりしない!そんな病気なら、学校に来るわけないじゃない!ひどいこと、言わないでッ!」と、
大きな声で怒っていましたが、
私は、動けずに、固まったままでした。
体全身が冷たく感じて、
本当に、
しゃがんで、カバンに手を突っ込んだままの姿で、
動けずにいました。
コソコソと、私の背中に出来た疱疹を見た子が、
「ウソォ、うつるよね、あれ。」
「やだぁ、すごかったよ、ブツブツ。」
「本当に大丈夫なの?」と言ってる声が、
聞こえてきました。
「平気だよ!うつったりしない!」
友人は、その子達に向かってきつく言い返してくれていましたが、
「わかんないよねぇ、だって、あんなにグチャグチャなんだよ?見た?あの背中。
あの水ぶくれ、ぽろっと取れて、穴ぼこ開いたみたいになるんだよ?
変な病気だよね?」
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振り向かずとも、それが誰の声なのかはわかっていましたが、
ゆっくり振り向くと、そこには、
顔を歪めて私を見る妹がいました。
「何で、そんなこと言うの!うつったりしないって、おばさん言ってたじゃない!」
友人は大きな声で、妹に言って聞かせるように言いましたが、
妹は、
「えー。わかんないよ。」と言い、
自分の同級生達にあっちに行こうと言って、離れて行きました。
ぐるりと私を見る他の子達は、
みんな少し、不安げな、困った顔をして私を見ていましたが、
上級生の女の子の1人が、
「にゃにゃみ、大丈夫?学校に行ける?」と
言ってくれたのを機に、
「痛くないの?」
「薬、効くといいね。」と声をかけてくれて、
私は、何とか、
うん、ありがとう、と返しながら、学校に向いて歩き出したのですが、
体はすごく冷たく感じて、
口の中はカラカラになり、
みんなの列から離れて1番後ろを歩き、
ただ、妹から目が離せなくなっていました…。
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その日、クラスはおろか、学校中が、私の背中に出来た疱疹の事で、ざわついた1日となりました。
もともと、人数の少ない村の小学校、登校する班が違っても、噂はすぐに回り、
普段、あまり話したりもしない子までが、私の近くに来て、
「何ができてるの?どうしてできたの?」と、
聞いてきました。
私は、本を読んでるフリをして顔を上げずに休み時間を過ごし、
先生が騒動に気づいて、簡単に帯状疱疹についての説明を各クラスでしてくれたのは、お昼休みになったころでした。
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私はその日1日を何とか過ごし、
家に帰ると部屋にこもって泣いていました。
泣きながら、自分の日記に、
今日あったことを書き散らし、事の発端が妹である事、思えばストレスというものも、妹と登校するようになってからだということ、全ての元凶が妹であるといった内容の文章を、感情のままに書いていました。
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次の日からは、誰も私に何かを言いに来たり、チラチラ見たりする子はいなくなり、
いつも通りの学校に戻ってはいましたが、
私は、口数少なく、頭の半分くらいは妹が憎らしいと思って過ごしていました。
騒動から少し経ったある日、私が家で宿題をしていると、
妹の泣き声が家の外から聞こえ、
どうやら泣きながら家に帰ってきてるようでした。
玄関までばあちゃんが出て行くと、近所のおばさんと妹がいて、
妹は、おばさんの家の大型犬に、太ももとふくらはぎを、噛まれたようでした。
見ると噛み付かれできた傷から、だらだらと血が流れていました。
おばさんは、病院に連れて行くと言ってくれて、目の端に、
ばあちゃんが保険証を準備しているのがわかりましたが、
私は、妹の泣いてる顔と傷から、目が離せませんでした。
それからしばらくした土曜のお昼に、
妹は、沸かしたばかりのお湯を入れたカップラーメンをこぼし、手のひらにやけどを負いました。
その時も私は、
ばあちゃんが慌てて水で流し冷やしているのを目の端に、
妹が大泣きしている顔と真っ赤になった手を、ジッと見ていました。
そしてまた、しばらくたった日曜日、妹は私達と遊んでいる中、乗り慣れない自転車でこけて、前歯を2本、折ったのです。
泣いてる妹の手を引き、家に連れて帰る道々、私はずっと、
泣き叫ぶその顔と、口から流れ落ちる真っ赤な血を見ながら歩いていたのを覚えています…。
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夕方、私が部屋で日記を書いていると、
ばあちゃんが入ってきました。
「にゃにゃみ」
そう言われ、手を握られ、左手で日記を書いていたことに初めて気付きました。
ばあちゃんを見ると、
「左手は、もう、使ってはダメ。」
ばあちゃんは、私の目の、真ん中を見ているような、
力のある目で私に言いました。
「あれのしたことは、本当に悪いことだし、
にゃにゃみが悲しくて悔しかったのは分かるけど、
でも、もう、左手は使ってはいけない。」
そう言われました。
「あれが泣いてる時、痛がってる時、
あんた、ばあちゃんが何してたか、全部覚えてるでしょ?
それは、あれに振り回されてる時のあんたのようじゃなかった?
どんなにして返しても、同じだけ辛いということはないし、同じだけ痛いということはない、
同じだけ、して返したということは
憎たらしい、にはないんだよ?して返すという事は、何でもあったもの以上になってしまうんだよ?」
というと、ばあちゃんはもう一度、私の左手を握り、
「この手で、もう、字は書いてはならない。」と、ゆっくり、小さな声で言いました。
私はなんだか、フワッと頭の中が動いたような感覚になり、目の見え方もスッと元に戻ったような感覚になり、
あの騒動の日から、
何だか頭の中はいつも少し実際の私とずれたところにあったような…、
目の見え方も、極端に表現すると、魚眼レンズのような見え方に近かったような…、
そんな事にも、その時初めて気付きました…。
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ばあちゃんに、
「左手を使わない。」
と言われた日から、
私は意識することもなく、左手を使うことはなくなり、
1年もすると、右手だけが利き手、という状態になっていました。
私が、左手を使い、書いていた日記の内容は、
「あの子も泣けばいい。」
「あの子もみんなの前で恥ずかしい思いをすれば良い。」
「あの子も、痛い思いをすれば良い。」
そのような内容のものでした。
あの日、止められた日記は、
「まだ…」
というところで終わっていて、
続きを書くこともなく、ばあちゃんに連れて行ってもらった神社で、お焚き上げをしてもらいました…。
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私の左手が、本当に妹の立て続けに起きた怪我に、
関わっていたのかはわかりませんが、
今でも憎たらしいし、はっきり言って好きではない妹ではありますが、
直接と言わずとも、
あれ以上、手を下すような事にならなくて本当に良かったと、
止めてくれたばあちゃん、気づいてくれたばあちゃんに感謝しています。
すっかり利き手でなくなり、今では、何かしようと思うと、絶対、鈍臭い事になる私の左手…。
たまに、
鈍臭すぎるよ、昔はあんなに器用だったのに…、と
思い出すこともありますが、
…、これくらいで、良いんだわ、と
左手を撫でて、
右手の補佐役として頑張ってよと、
鈍臭い左手を励ましたりするのです…。
作者にゃにゃみ
何てことなく両利きだった私と、
何てことなく右利きの私…。
意識することなく、器用に使えてた左手は、
少し変わっていたようです…。