彼杵さん
「誰でも心残りな事ってあるんですよ。
私もそれを持って行くんですかね?」
病床で彼杵さんがぽつりと言っていたこと、それが私の心に、疼きのように残っていて、やり切れない気分になる。
その数日後、彼杵さんは静かに息を引き取った。
穏やかな死に顔であった。
彼杵さんとは数年前に仕事場で知り合い、かなり気の合う友人となった。その心残りとはなにであったか、今となっては知る由もない。
私は本当 に友人であったのか?友たり得たのか?そう自問する。
自答…言葉が浮かばない。
彼杵さんと出会った頃には、既に彼は肝炎を悪化させていて、肝硬変の手前であったらしい。そして数年の間に、いよいよ体調が悪化して、職場で倒れ 、退職することとなった。
暫くは家で休養していたが、入院することになった。
懸念していた肝臓癌、徹底した医者嫌いの結果、
発見が遅れ、あちこちに転移した末期癌であった。
彼杵さんが入社してきた頃には、彼は離婚している。そのことは彼杵さん自身は言わなかったが、正月に元旦から初詣でに誘われたりして、家族の存在が感じられず、それとなく聞いてみると、はたしてそうであった。
私は彼杵さんが心残りと言っていたのは、この事だったと思っていた。
肝硬変、そして肝臓癌、病院を訪れる度に痩せ細り、変わり果てた姿を見るのは辛かった。
彼杵さんの告別式は誠に寂しいものであった。
お子さんが二人いて、そして別居、奥さんが親権者、霊前には奥さんは居ず、二人の子供、大学生のお姉さんと高校生の弟さん、喪主は弟さんが勤めていた。
鈍色の風景、鈍色の空から降ってくる雪、祭壇が設えられた集会場には、会葬者は僅かである。
指先がかじかむ寒さの中、焼香を済ませた私は出棺の時を待った。
あれやこれや、彼杵さんの事を考えていると、後ろからポンと肩を叩かれた。で振り返ると私の後ろにも横にも誰もいなかった。私は他の会葬者とは少し離れた所の塀際に立っていた。なんとなく私は、あゝ、彼杵さんか?と思った。
いよいよ出棺の時、急に雪が止み、雲間から日の光が一条、霊柩車に運び込まれる彼杵さんの柩の上を照らした。
そうか、彼杵さんは良い所に行くんだ。そう思ったとき、私の後ろから、声が響いた。
「冗談じゃない……」
「彼杵さん?」
「そうですよ、私ですよ。私ね、早期退職したんですよ。
そしたら女房の奴、待ってましたとばかりに離婚を迫りましてね。
子供と退職金一切合切持って行っちゃったんですよ。
でね、深夜勤する羽目になりましたよ。あいつ随分前から男まで作っちゃっていました。
だから、私ね、今から女房の家に住み着くんですよ。
息子が大学出て就職し、娘が無事結婚したら、女房と男は取り殺しますよ。
それまでは、大人しくしてますよ。気取られないようにね」
私が何か言おうとすると、
「これは内緒ですよ。もし、あんたが何か言ってお祓いされるようなことがあったらね」
私は生唾を飲み込んだ。
「あんた、死ぬよ」
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バッカ馬鹿しい!誰が言うもんか。外道三匹地獄に堕ちやがれ!
作者純賢庵
親しい友人との別れ